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欠字異聞  作者: わかめ
渡りきれなかった橋

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2/8

第2話『九階から落ちた男』

 防犯映像を確認したあと、千景と律は管理担当者の案内で九階へ向かった。


 昨夜、佐伯と喬本が乗ったものと同じエレベーターだった。


 千景は、開いた扉の中を覗き込む。


「ここに二人で乗ったんだよね」


「ええ。防犯映像ではそうなっています」


 律が答えた。


 千景が先に乗る。


 律と管理担当者が続き、九階のボタンが押された。


 扉が閉まる。


 静かな機械音とともに、箱が上昇を始めた。


「……ねえ」


「何でしょう」


「佐伯さんって、なんでここに来たんだろうね」


「それを調べる必要があります」


「いや、そうなんだけどさ」


 千景は腕を組んだ。


「喬本さんは設備管理の人なんでしょ。ここに来るのは分かるよ。でも佐伯さんは?」


「建物の設備関係で取引のある方だったそうですから、業務上の用事だった可能性はあります」


「夜の八時半過ぎに?」


「そこは確かに気になりますね」


 律は管理担当者へ顔を向けた。


「昨夜、九階で何か作業の予定はありましたか」


「いえ。ありませんでした」


「緊急対応の連絡は?」


「それもありません。設備の異常も報告されていませんでした」


「じゃあ、二人は何をしに来たんでしょうね」


 律の問いに、男性は困ったように眉を寄せた。


「私どもにも、まだ分からないんです」


 千景はエレベーターの階数表示を見た。


 六階。


 七階。


 八階。


 そして、九階。


 扉が開いた。


     ◇


 九階は、下の階とは少し雰囲気が違った。


 廊下の一部は設備管理用の区画になっており、一般の利用者が自由に立ち入る場所ではない。


 管理担当者は鍵を取り出し、廊下の奥にある扉を開けた。


「こちらです」


 その向こうには、外気に直接触れる点検用のテラスがあった。


 広さは、十数人も入れば手狭になる程度。


 床には防水処理が施され、端には安全柵が設けられている。


 空調設備の配管や点検口があり、確かに設備関係者が出入りしそうな場所だった。


 千景は一歩、外へ出た。


「……ああ、なるほど」


 冷たい風が頬を撫でる。


 目の前には、隣の集合住宅があった。


 九階の外廊下。


 手すり。


 等間隔に並ぶ玄関扉。


 そして、その奥にある住居の窓。


 高さも、ほぼ同じだった。


「思ったより近いね」


「そうですね」


 律が隣に並んだ。


 二棟の間隔は、およそ八メートル。


 狭いと言えば狭い。


 だが、人間が飛び越えられるような距離ではない。


 千景は柵の向こうを見下ろした。


 九階という高さは、下から見上げるより、上から見下ろした方がずっと高く感じる。


「……うわ。思ったより高い」


 眼下には、細長い管理用通路がある。


 建物の壁面に挟まれたその場所は、昼間でも日が入りにくい。


 その奥で、佐伯俊一の遺体が発見されている。


 昨夜まで、そこに一人の人間が生きていた。


 今はもういない。


「落ちたら普通に死ぬよね、これ」


「普通でなくても、かなり危険でしょうね」


「何それ。異能があれば助かるかもしれないじゃん」


「その可能性は否定しません。ただ、亡くなった佐伯氏が異能を持っていたという情報はありません」


「分かってるって」


 千景は肩をすくめる。


「……ここから落ちたら、確かにあそこに行くね」


「可能性はあります」


「また可能性?」


「ここから落ちたと決まったわけではありませんので」


「はいはい」


 千景は柵から一歩離れた。


 律が手元の資料を確認する。


「佐伯氏の遺体が発見されたのは、二棟のほぼ中間付近だそうです」


「真下じゃないんだ?」


「正確には、こちらの建物の壁際ではなかった、ということです」


「ふうん」


 千景は再び下を見た。


 確かに、通路の中央付近に何かが落ちたのなら、どちらかの壁から距離があることになる。


「突き落とされたなら、少し離れた場所に落ちることもあるよね」


「ありますね」


「自分で飛び降りても?」


「飛び出す方向や勢いによります」


「じゃあ、結局分かんないじゃん」


「現時点では」


 律はあっさり答えた。


 千景は顔をしかめる。


「なんか、調べに来た意味なくない?」


「いえ。少なくとも、落下した場所だけでは出発地点を特定できないことが確認できました」


「……それ、成果って言っていいの?」


「誤った前提を持たずに済みます」


 律は真面目な顔で言った。


「例えば、遺体が二棟の中間で発見されたからといって、二棟の中間に何かがあったと決めつけるのは早計です」


 千景は、ちらりと律を見た。


「何かって?」


「足場などですね」


「……へえ」


 千景はもう一度、二棟の間を見た。


 八メートル。


 九階の高さ。


 向こうには、集合住宅の外廊下。


 こちらには、点検テラス。


 もし、この二つがつながっていたら。


 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。


 喬本。


 橋本。


 木偏が一つ欠けた名字。


 ただ、それだけで何かを結論づけるわけにはいかない。


「……ねえ、律」


「はい」


「異能だったとしてさ。現場に何も残らないことって、あるよね」


「もちろんあります」


「だよね」


「ただ、何も残らなかったこと自体は、異能が使われた証拠にはなりません」


「分かってるよ。仮定の話」


 律は頷いた。


「ならば、その仮定で何が説明できるか考えることには意味があります」


 千景は少し意外そうに律を見た。


「何。そういうのもありなんだ?」


「推理することと、推理を事実として扱うことは別ですから」


「……なるほど」


 千景はにやりと笑った。


「案外、話が分かるじゃん」


「ありがとうございます」


「褒めてるんだけど、もうちょっと嬉しそうにできない?」


「嬉しく思っていますよ」


「ほんとかなあ」


 千景は笑いながら、再び隣の建物へ目を向けた。


     ◇


「こちらの扉は、普段から施錠されているんですか?」


 律が管理担当者に尋ねた。


「はい。基本的には」


「昨夜も?」


「通常なら施錠されています。ただ、喬本さんは設備管理会社の社員ですから、作業に必要な鍵を扱える立場でした」


「佐伯氏は?」


「佐伯さんには、こちらの鍵をお渡ししていません」


「つまり、佐伯さんがここに来るには、喬本さんの案内が必要だった可能性が高いわけですね」


「そうですね」


 千景は会話を聞きながら、テラスを見回した。


 設備の点検口。


 配管。


 安全柵。


 見たところ、不自然なものはない。


「争った跡とかは?」


「警察も調べていましたが、私の知る限り、大きく壊されたものはありません」


「柵が曲がったり?」


「そうした損傷も見つかっていません」


「ふうん……」


 千景は柵に近づいた。


 手をかけ、軽く揺らしてみる。


 当然ながら、びくともしない。


「丈夫そうだね」


「千景さん」


「分かってる。壊さないって」


「そうではなく、あまり身を乗り出さない方が」


「ああ、大丈夫大丈夫」


 千景は柵から手を離した。


 律の言い方が、少し面白かった。


 この男は、今目の前で異能が使われたとしても冷静に観察しそうなのに、普通の転落事故の危険にはきちんと反応するらしい。


「律って、心配性?」


「危険を避けられるなら、避けた方がよいでしょう」


「そりゃそうだけど」


 千景は少し笑った。


 そして、改めて周囲を見回す。


「……でも、変だよね」


「何がですか」


「佐伯さんがここで落ちたとして、何で柵を越えたんだろう」


 律が顔を上げる。


「自殺だったなら、自分で越えたことになりますね」


「うん。じゃあ事故だったら?」


「事故の状況によります」


「でも、普通に立ってるだけなら落ちないでしょ。柵があるんだから」


「その通りです」


「突き落とされたとしても、柵を越えるほどの力が必要だよね」


 律は少し考えた。


「少なくとも、単純によろけただけでは説明しにくいですね。ただ、事故の経緯を断定できるほどの情報はありません」


「……うん」


 千景は柵の向こうを見た。


 人が一人、九階から落ちている。


 だが、柵が壊れた形跡はない。


 争った痕跡もない。


 そこにいたはずの二人のうち、一人だけが無事に帰っている。


「喬本さん、何も見てないって言ってるの?」


「詳しい経緯を説明していない、というところまでしか分かりません」


「それって、見てないとは言ってないんだよね」


「そうですね」


 千景は腕を組んだ。


「じゃあ、直接聞くしかないか」


「いずれは」


「今から行く?」


「その前に、もう少し現場を確認したいですね」


「まだ何かある?」


 律は、隣の集合住宅を指した。


「向こう側です」


     ◇


 B棟。


 佐伯が死亡した場所を挟んで、A棟の反対側に建つ集合住宅。


 こちらは月成家の関連会社が所有する建物ではない。


 したがって、千景たちが自由に入って調べられるわけでもなかった。


「向こうの管理会社には連絡してあるんですよね?」


 律が尋ねる。


 管理担当者は頷いた。


「はい。今回の件については、警察からも確認が入っているそうです」


「建物の中に入る許可は?」


「今のところ、私どもからお願いできる範囲ではありません。ただ、調査に関する問い合わせはお伝えしてあります」


「分かりました。無理に入る必要はありません」


 千景は、隣の建物を眺めた。


 九階の外廊下には、洗濯物が見える。


 玄関脇に小さな植木鉢を置いている部屋もあった。


 誰かが普通に暮らしている場所だ。


「……こっちは住宅なんだよね」


「そうですね」


「佐伯さんが、ここに来ようとしてた可能性は?」


 律は千景を見た。


「なぜそう思うんですか」


「いや、九階に上がって、わざわざ外に出てるんでしょ」


「ええ」


「設備の仕事でもないなら、隣の建物を見るためだったとか?」


「あり得ますね」


「例えば、誰かに会いに行くつもりだったとか」


「しかし、普通に会いに行くのであれば、B棟の入口から入れば済む話です」


「それもそうか」


 千景は頷きかけて、少し考えた。


「……普通に入れない理由があったら?」


 律の視線が、千景へ向いた。


「例えば?」


「知らないよ。会いたくないって言われてたとか。入館できなかったとか」


「可能性としては考えられます」


「でしょ?」


「ただし、その場合でも、A棟の九階へ上がることが問題の解決になるとは限りません」


「……まあね」


 千景は肩をすくめた。


 確かに、隣の建物へ行きたいからといって、こちらの九階に上がる理由はない。


 道路を回れば済む。


 それでも。


 千景は二つの建物の間を見た。


 八メートル。


 歩いて渡るには、そこに道が必要だ。


 もちろん、道などない。


「……ねえ、律」


「はい」


「橋って、どこからどこまでを橋って呼ぶんだろうね」


 律は一瞬、考えるように目を伏せた。


「一般的には、障害物や空間を越えて、二つの地点をつなぐ構造物でしょうか」


「だよね」


「川に架かるものだけではありません。道路橋も、歩道橋もあります」


「うん」


「ただ、なぜその質問を?」


 千景は笑った。


「ちょっと気になっただけ」


「喬本氏の名字ですか」


「……あ、やっぱ分かる?」


「先ほどから、そちらを意識していらっしゃるようでしたので」


 律は隣の建物へ目を向けた。


「『橋本』の『橋』を補完する欠字だとすれば、二つの地点をつなぐ力を持っている可能性がある。そうお考えですね」


「まあ、そんな感じ」


「興味深い仮説だと思います」


「お、珍しく褒めた」


「ただし、橋を架ける能力といっても、物理的な足場を作るとは限りません」


「うん。それはそう」


「人間関係をつなぐ能力かもしれませんし、通信や移動に関係する力かもしれない」


「……分かってるって」


 千景は少しだけ不満そうに口を尖らせた。


「そこまで私も馬鹿じゃないよ」


「失礼しました」


「絶対思ってないでしょ」


「いえ。千景さんの発想は、僕にはないものですので」


 律は真面目な顔だった。


 千景は思わず口を閉じる。


 こういうところが、少しやりにくい。


 からかっているようにも聞こえるのに、本人はいたって本気らしい。


「……まあ、いいや」


 千景は視線を外した。


「まずは喬本さんの家系を調べてみないとね。本当に欠字なのかも分かんないし」


「ええ。それと、佐伯氏がここへ来た理由も」


 律が続ける。


「仮に喬本氏が橋に関係する異能を持っていたとしても、それだけでは佐伯氏が死亡した理由にはなりません」


 千景は頷いた。


「そうだね」


 たとえ橋を作れたとしても。


 その橋から人が落ちたのなら、なぜ落ちたのか。


 事故だったのか。


 誰かの意思があったのか。


 そこまでは、名字から分からない。


     ◇


 九階の点検テラスを出た後、二人は管理担当者の案内で、一階の管理室へ戻った。


 そこでは、昨夜の設備管理記録を確認させてもらうことになっていた。


 律はパソコンの画面に表示された作業一覧を見つめている。


 千景は隣の椅子に座り、持ってきたペットボトルの水を飲んでいた。


「……うわ。細かい」


 千景が画面を覗き込む。


「毎日こんなの記録してんの?」


「ええ。点検や設備異常の履歴は残しています」


 管理担当者が答えた。


「大変そう」


「仕事ですからね」


「それはそうなんだけど」


 千景は画面を眺めた。


 設備名。


 作業時間。


 担当者。


 点検項目。


 確認結果。


 細かな文字が、画面いっぱいに並んでいる。


 千景は数秒で読む気をなくした。


「律、任せた」


「最初からそのつもりです」


「頼もしいねえ」


 律は淡々と記録を確認していく。


 昨夜、二十時以降の作業。


 なし。


 九階の点検テラスで予定されていた作業。


 なし。


 空調設備の異常報告。


 なし。


 緊急保守の要請。


 なし。


「……やはり、正規の作業予定はありませんね」


 律が呟いた。


「じゃあ、喬本さんは仕事で来たわけじゃない?」


 千景が尋ねる。


「少なくとも、こちらに記録されている仕事ではありません」


「勝手に入ったってこと?」


「入館そのものが無断だったかどうかは別問題です。喬本氏には業務上の出入りが認められていたようですから」


「ふうん」


 律は資料を一枚開いた。


「ただ、佐伯氏と一緒に九階へ上がる理由は、ここからは分かりません」


 千景は椅子の背にもたれた。


「ますます怪しいじゃん」


「そうですね」


「……あれ。今回は否定しないんだ」


「不自然な行動であることは間違いありません」


 律は画面を閉じた。


「しかし、不自然な行動があったことと、殺人があったことは別です」


「はいはい」


 千景は笑った。


「言うと思った」


 律も小さく笑う。


 そのとき、管理担当者が何かを思い出したように口を開いた。


「ああ、そういえば……」


「はい?」


 律が顔を上げる。


「隣のマンションの管理会社から、今朝問い合わせがあったんです」


 千景はペットボトルを机に置いた。


「隣って、B棟?」


「ええ」


「何の問い合わせ?」


「昨夜、九階で外部の点検作業をしていたか、という確認でした」


 千景と律は顔を見合わせた。


「……どうしてそんなことを?」


 律が尋ねる。


「住人の方から、妙な物音がしたという話があったそうで」


「物音?」


「はい。何か作業をしていたんじゃないか、と」


 千景は身を乗り出した。


「いつ?」


「詳しい時刻までは聞いていません。ただ、佐伯さんが亡くなった頃の話だそうです」


 律は手元の資料に目を落とした。


 佐伯が建物へ入ったのは、二十時三十八分。


 その約二十分後には、喬本が一人で出てきている。


 物音がした時間は、その間だった可能性がある。


「どんな音だったんですか?」


 律が尋ねた。


 管理担当者は少し首を傾げた。


「そこまでは、こちらも詳しく聞いていなくて。ただ、足音のようなものだったと」


「……足音?」


 千景が聞き返した。


「ええ。何か、誰かが歩いているような音だったそうです」


 千景は、つい先ほど見てきた九階の景色を思い浮かべた。


 A棟の点検テラス。


 B棟の外廊下。


 二つの建物の間には、およそ八メートルの空間がある。


 もちろん、B棟の外廊下を誰かが歩いていたのなら、足音が聞こえても不思議ではない。


 千景がそう考えていると、律が尋ねた。


「その方は、どちらの建物の足音だとおっしゃっていたんでしょうか」


「それが……」


 男性は困ったように笑った。


「隣のマンションの管理会社も、少し気になっているようでして」


「何がですか?」


「足音がしたのは確からしいんですが、廊下には誰もいなかった、という話なんです」


 千景は目を細めた。


「……へえ」


 律はすぐに質問を続けた。


「それは、ご本人が確認されたんですか?」


「すみません。そこまでは分かりません」


「そうですか」


「必要でしたら、向こうの管理会社におつなぎすることはできますよ」


「お願いします」


 律は即答した。


 千景も頷く。


「その住人の人、直接話を聞けるかな」


「向こうの管理会社を通してお願いすることはできると思います。ただ、応じていただけるかはご本人次第ですね」


「うん。それでいい」


 千景は椅子から立ち上がった。


 律がこちらを見る。


「千景さん?」


「いや、ちょっと気になってさ」


「何がですか」


「足音」


 千景は窓の外を見た。


 管理室からは、隣接する二棟の建物が見える。


「だって、九階でしょ?」


「ええ」


「普通なら、誰かが歩いたって何もおかしくない場所だよね」


「そうですね」


「なのに、わざわざ管理会社に問い合わせるくらい気になったんだ」


 律は少し考えた。


「……確かに、単なる生活音なら問い合わせないかもしれません」


「でしょ?」


「ただ、事件が起きた直後だから気になった可能性もあります」


「うん。それもあると思う」


 千景は頷いた。


 現時点で分かっているのは、九階付近で足音のようなものを聞いたという住人がいること。


 そして、その住人が「廊下には誰もいなかった」と話しているらしいこと。


 どこから聞こえたのか。


 本当に誰もいなかったのか。


 そこはまだ、本人に確認しなければ分からない。


 けれど、その夜には実際に人が一人死んでいる。


 そして、その場には、橋という文字から木偏を失った名字を持つ男がいた。


 千景は口元に小さな笑みを浮かべた。


「……なんか、面白くなってきたね」


 律は、その顔を見た。


「人が亡くなっている事件ですよ」


「分かってるよ」


 千景はすぐに答えた。


「面白いっていうのは、そういう意味じゃない」


「では?」


「分かんないことが、一つずつつながっていく感じ」


 千景は指を一本立てた。


「喬本っていう名字」


 二本目。


「九階の点検テラス」


 三本目。


「二棟の間で死んだ佐伯さん」


 そして、四本目。


「誰もいなかったっていう九階の足音」


 千景は律を見た。


「全部、関係ないかもしれない。でも、関係あるかもしれない」


「そうですね」


「だったら、調べるしかないじゃん」


 律はしばらく千景を見ていた。


 やがて、小さく頷いた。


「ええ。僕も同意見です」


「お。やっと意見が合った」


「先ほどから、意見そのものはそれほど違っていないと思いますが」


「細かいなあ」


 千景は笑った。


 律は管理担当者へ向き直る。


「B棟の管理会社への連絡をお願いできますか。住人の方が了承してくださるなら、直接お話を伺いたいと思います」


「分かりました。確認してみます」


 管理担当者は電話を取った。


 千景は再び、窓の外を見た。


 九階。


 そこには今、二棟をつなぐものは何もない。


「……ねえ、律」


「はい」


「この事件さ」


 千景は、隣り合う二つの建物を見上げた。


「落ちた人のことばっかり考えてたけど、もしかしたら、そこに何があったのかを考えた方がいいのかもね」


 律はすぐには答えなかった。


 やがて、静かに口を開く。


「そうですね。ただ、まずは足音を聞いた方に話を伺いましょう」


「はいはい」


 千景は笑った。


 まだ、何も分かっていない。


 橋があったとも、誰かが渡ったとも言えない。


 けれど、確かめるべきことは増えた。


 そして、その手掛かりを持っているかもしれない人物は、すぐ隣の建物に住んでいる。


 九階の、あの外廊下の向こうに。


 千景は、もう一度だけその場所を見上げた。


 今は誰もいない。


 ただの、静かな集合住宅だった。

お読みいただきありがとうございます。


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