第1話『二人で入り、一人で出た』
男の腕が、何もない空間で止まった。
「……何だ、これは」
月成千景は答えなかった。
目の前の男は、つい先ほどまで女性の部屋に押し入ろうとしていた。
その背後では、竟宮律が女性を助け出そうとしている。
「これ以上、近づかないで」
千景が言うと、男は不思議そうに目を細めた。
そして、何もない空間へもう一度手を伸ばす。
見えない何かが、その指先を遮った。
「……なるほど」
男は、小さく笑った。
「あなたも、こちら側の人間ですか」
◇
二日前。
「……えー。今日?」
月成千景は、スマートフォンの画面を見ながら、露骨に嫌そうな顔をした。
都内の喫茶店。
窓際の席には飲みかけのアイスコーヒーと、半分ほど食べたチーズケーキが置かれている。
千景は休日を満喫していた。
午前中に買い物を済ませ、気になっていた店で昼食を取り、午後は映画でも観ようかと考えていたところだった。
そこへ本家からの呼び出しである。
『至急、来訪されたし』
短い。
説明もない。
「もうちょっとさあ、用件くらい書けないもんかね」
千景はスマートフォンに向かって文句を言った。
当然、返事はない。
月成家。
表向きには、少し珍しい名字を持つ旧家の一つにすぎない。
だが、その名字には、欠けたものがある。
月成の「成」に「土」を補えば、「城」となる。
月城。
読み方は変わらない。どちらも「つきしろ」だ。
欠けるのは字だけで、読みは完成した姓のものが残る。
それは戸籍上の別の名字ではなく、欠けた文字が意味の上で完成した姿だった。
月成家は、代々その欠字と異能に関する知識を受け継いできた一族である。
千景は、その家の生まれである。
そして、一族の中でも数少ない、異能を発現させた者の一人だった。
もっとも、本人に家柄を誇る気はあまりない。
「休みの日くらい自由にさせてほしいんだけど」
スマートフォンが、もう一度震えた。
『返答を』
「あー、はいはい」
千景は観念して返信を打つ。
『一時間くらいで行く』
送信。
すぐに既読がついた。
そして返ってきたのは、たった一言。
『承知』
「ほんっと愛想ないよねえ」
千景はため息をつき、残っていたチーズケーキを口に運んだ。
せめて、これを食べ終わるまでは待ってもらおう。
◇
月成家の本家は、都内でも古くから住宅地として知られる一角にあった。
高い塀に囲まれた敷地。
手入れの行き届いた庭木。
今どき珍しい、重厚な門構え。
いかにも由緒ある家という雰囲気を、これでもかと漂わせている。
千景は門をくぐりながら、いつものように思った。
もうちょっと普通の家にできないものか。
中へ入ると、年配の使用人が出迎えた。
「千景様。お待ちしておりました」
「はいはい。お疲れさま。今日は何?」
「奥のお部屋でお話がございます」
「私、何かやらかした?」
「そのようなお話ではないと伺っております」
「よかった。じゃあ帰っていい?」
「千景様」
「冗談だって」
半分くらいは本気だったが。
千景は靴を脱ぎ、案内に従って廊下を進んだ。
通されたのは、庭に面した和室だった。
すでに二人の男性が座っている。
一人は本家の叔父。
もう一人は――。
「あれ?」
千景は足を止めた。
「律じゃん」
男性が顔を上げた。
整った服装。柔らかな物腰。どこか育ちのよさを感じさせる雰囲気。
千景も、その顔には見覚えがある。
欠字を受け継ぐ主要五家の会合で、何度か会ったことがあった。
「お久しぶりです、千景さん」
竟宮律は、そう言って軽く頭を下げた。
「久しぶり。何してんの、こんなとこで」
「仕事です」
「いや、それは分かるけど」
千景は叔父の方を見た。
「なんで竟宮の人がいるの?」
「今回の件について、協力を依頼した」
「今回の件って?」
「まず座れ」
「はいはい」
千景は律の向かいに腰を下ろした。
叔父は昔からこうだ。
用件があるなら先に説明すればいいのに、礼儀だの順序だのを大切にする。
千景は嫌いではない。
ただ、面倒くさい。
「で、何があったの?」
叔父は一枚の資料を差し出した。
「昨夜、男が一人死亡した」
「……警察に電話した?」
「当然している」
「じゃあ私の出番なくない?」
「場所が問題だ」
千景は資料へ目を落とした。
死亡者の氏名。
佐伯俊一。
四十五歳。
不動産や設備関連の業務に携わっていた男性で、月成家の関連会社とも取引があった人物だという。
死因は転落による外傷とみられている。
現場は、都内にある二棟の建物の間。
「九階?」
千景は顔を上げた。
「そうだ」
「どっちの建物から?」
「分かっていない」
「……は?」
叔父は続けた。
「遺体は二棟の間で発見された。だが、どちらの建物から転落したのか、現時点では明確になっていない」
「飛び降りたんじゃないの?」
「その可能性も含めて調査中だ」
千景はもう一度資料を見る。
現場に面した二棟のうち、一棟は月成家の関連会社が所有している。
現場の管理記録や防犯映像も、会社側で確認できる立場にあった。
「それだけなら、普通の転落事故でしょ」
「そうかもしれん」
「かもしれんって」
「ただし、不自然な点がある」
叔父は別の資料を差し出した。
そこには、防犯カメラから切り出された画像が印刷されていた。
二人の男性が並んで歩いている。
一人は佐伯。
もう一人は、作業服姿の男だった。
「死亡する少し前、佐伯はこの男と一緒に建物へ入っている」
「知り合い?」
「喬本直人。三十九歳。設備管理会社の社員だ。あの建物にも仕事で出入りしている」
「ふうん」
千景は資料に記載された名前へ目を落とした。
喬本。
その漢字が、少し気になった。
だが、今は叔父の話を聞く方が先だ。
「二人は九階へ向かったとみられる。その後、佐伯が転落した」
「で?」
「建物から出てきたのは喬本だけだった」
千景は写真を見つめた。
「……なるほど」
何となく、話が見えてきた。
「つまり、この人が怪しいってこと?」
「警察も事情を聞いている。だが、争った痕跡も、佐伯を突き落とした証拠も見つかっていない」
「それで、異能を疑ってるわけね」
「まだ決まったわけではない」
叔父は静かに答えた。
「だからこそ、調べる必要がある」
千景は小さくため息をついた。
月成家は、表の社会に存在するすべての異能事件を把握しているわけではない。
そもそも、欠字を持つ家系がどれほど存在しているのかさえ、完全には分かっていない。
異能が発現した本人が、その意味を理解していないこともある。
だから、普通の事故に見えるものが異能による事件である可能性は、確かに否定できなかった。
「分かった。調べるのはいいけど」
千景は律へ視線を移した。
「なんで律?」
「竟宮家からの協力者だ」
「それは聞いた。そうじゃなくて」
千景は本人に尋ねた。
「律って、まだ力は発現してないよね?」
「ええ」
律はあっさり頷いた。
竟宮。
概念上の完成形は、鏡宮。
五家の一つであり、欠字や異能に関する膨大な記録を持つ家系だった。
ただし、そこに生まれた人間が全員異能を発現させるわけではない。
律もまた、まだその力を持たない一人だった。
「異能を使えないのに、こういう仕事するんだ?」
「異能を使う必要がある仕事なら、僕は適任ではありません」
「まあ、そうだよね」
「ですが、調査には必ずしも異能が必要とは限りませんので」
律は穏やかに笑った。
「記録の整理や事実関係の確認なら、多少はお役に立てると思います」
「多少、ねえ」
千景は叔父を見た。
「それ、私一人じゃ駄目なの?」
「お前は現場への対応に優れている。だが、調査や記録の整理は得意ではないだろう」
「ひどくない?」
「事実だ」
「否定できないのが悔しい」
律が小さく笑った。
千景はそちらを向く。
「何?」
「いえ。昔から変わらない方だなと思いまして」
「昔って、そんなに話したことあったっけ?」
「ほとんどありません」
「じゃあ何を知ってんのよ」
「会合で、退屈そうにしていらっしゃる姿は何度か」
「……見られてたんだ」
「ええ。途中でお帰りになったこともありましたね」
「あれは用事があったの」
「そうでしたか」
「絶対信じてないでしょ」
「いえ。用事の内容までは存じませんので」
律の口調は終始丁寧だった。
それでいて、なかなか遠慮がない。
千景は少しだけ面白くなった。
名前と顔しか知らなかったが、案外、話していて退屈しない相手かもしれない。
「まあいいや」
千景は資料を閉じた。
「じゃあ、ひとまず現場を見ようか」
「僕も同じ意見です」
「お、気が合った」
「まだ何も意見が対立していませんから」
「……なるほどね」
千景は立ち上がった。
そのとき、律が口を開いた。
「一つ、確認してもよろしいですか」
「ん?」
「今回の調査で、佐伯氏の死に異能が関係していると判明した場合ですが」
律は叔父へ視線を向けた。
「その事実は、どこまで開示する方針でしょうか」
千景は少し眉を上げた。
叔父はすぐには答えなかった。
「状況による」
「承知しました」
律は頷く。
「では、現時点では不用意な開示を避け、まず事実関係の把握を優先します」
あまりにも自然な口調だった。
千景は律の横顔を見る。
異能が関係していれば、普通の警察には扱いきれないこともある。それは千景も理解している。
しかし、律はまだ何も分かっていない段階から、真相を明らかにした後の情報の扱いまで考えていた。
何となく、少しだけ引っかかる。
「律ってさ」
「はい」
「そういうこと、いつも先に考えるの?」
「必要なことだと思いますが」
「まあ、必要っちゃ必要なんだけど」
千景は肩をすくめた。
「先に死んだ人のこと調べようよ」
「もちろんです」
律は微笑んだ。
その顔には、特に悪びれた様子もない。
千景は思った。
この男、案外変な奴かもしれない。
◇
現場となったA棟へ着くと、二人はまず一階の管理室へ向かった。
月成家の関連会社が管理する建物だけあって、所有者側の立場で閲覧できる記録はすでに用意されている。
もちろん、警察にも同じ映像が提供されていた。
ノートパソコンの画面には、昨夜のエントランスが映し出されている。
時刻は二十時三十八分。
二人の男性が自動ドアを通って入ってきた。
先を歩くのが佐伯俊一。
少し後ろを歩く作業服姿の男性が、喬本直人。
千景は画面を覗き込んだ。
「普通だね」
「ええ」
「特に揉めてる感じもない」
「少なくとも、この映像からはそう見えます」
佐伯が何かを話しかける。
喬本は小さく頷いた。
二人はそのままエレベーターホールへ向かっていく。
映像が切り替わった。
エレベーター内のカメラ。
九階のボタンが押される。
佐伯はスマートフォンを操作していた。
喬本は俯き加減で立っている。
「……なんか元気ないね、この人」
千景が言った。
「喬本さんですか」
「うん」
「そう見えるかもしれません。ただ、表情だけでは理由を判断できませんね」
「それもそうか」
映像が進む。
二人は九階で降りた。
そこで一度、記録が途切れる。
九階の外部点検テラスへ続く区画には、監視カメラが設置されていなかったためだ。
次の映像は、二十時五十八分。
エントランスのカメラだった。
喬本直人が、一人で建物から出てくる。
千景は画面を停止した。
「……この間に、佐伯さんが死んだんだ」
「そう考えられています」
「喬本さんは何て?」
「佐伯氏と九階へ行ったことは認めています。ただ、転落の詳しい経緯については明確な説明をしていないようです」
「そりゃ疑われるよね」
「ええ」
律は画面を見たまま頷いた。
「ただ、疑わしいことと、殺害したことは別です」
「分かってるって」
「佐伯氏が自ら落下した可能性も、現時点では排除できません」
「うん」
「仮に喬本氏が何らかの異能を持っていたとしても、それだけで事件との関係を断定することはできません」
千景は律を見た。
「……ずいぶん慎重だね」
「推測と事実は分けておきたいので」
「ふうん」
千景はもう一度、画面へ目を戻す。
二十時三十八分。
二人が並んで入ってきた場面。
佐伯は普通に歩いている。
喬本も、ただその後ろについていく。
どこにでもいそうな、二人の男。
千景は画面の中の喬本と、手元の資料に記載された名前を見比べた。
「……ねえ、律」
「はい」
「この人、喬本っていうんだよね」
「そうですね」
「はしもと、か」
千景は、資料の名字を指でなぞった。
「木偏をつけたら、橋本になるね」
律が資料へ視線を落とす。
「ええ。そうなります」
「いかにも欠字っぽくない?」
「可能性はあります。ただし、珍しい表記の名字がすべて欠字というわけではありません」
「それはそうだけどさ」
千景は画面に目を戻した。
二つの建物の間で起きた転落事故。
その直前まで被害者と一緒にいた、喬本という男。
仮に彼が欠字を持つ者だったとしても、それだけでは何も決まらない。
どんな異能を持つのか。
そもそも本当に発現しているのか。
事件に関係しているのか。
どれも、まだ分からない。
「……ま、名前だけじゃ何とも言えないか」
「そうですね。現場の状況も確認する必要があります」
千景は頷いた。
記録には、男が二人で入って、一人だけ出てきたことしか映っていない。
だが、その映っていない二十分間に、何が起きたのか。
それを知る方法は、きっとある。
「とりあえず、九階だね」
「ええ。現場を確認しましょう」
律が資料をまとめ始める。
千景は椅子の背にもたれ、もう一度だけ喬本の名前を見る。
もし本当に「橋」が完成する名なら。
橋を造る力。
人と人をつなぐ力。
あるいは、まったく違う何かかもしれない。
千景には、まだ分からない。
ただ、奇妙な転落事故に対する興味だけは、先ほどよりもずっと強くなっていた。
◇
九階の窓の向こうには、何もない。
二つの建物の間には、暗い空間が広がっているだけだった。
当然だ。
そこには最初から、道など存在しないのだから。
少なくとも、今は。
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