第九十九話 小さな魔力
…………つまり、これって。
その考えが形になりかけた瞬間、俺は反射的に椅子から腰を浮かせていた。
机の端でレアが紙をつつく音がしたが、そちらを見る余裕はなかった。感知魔法で掴んだ淡い反応が、まだ指先の奥に残っている。ダリアの下腹部。あまりにも弱く、気を抜けば魔力の揺らぎに紛れてしまいそうなほど細い気配。それでも、確かにそこにあった。
「動くな、とりあえずじっとしてろ」
声が少し強くなった。
ダリアは書類を抱えたまま、きょとんと目を瞬かせる。いつもなら俺の言葉の意図を先に読もうとする彼女が、この時ばかりは本当に訳が分からないという顔をした。
「はあ?」
「こっちだ。この椅子を使え」
俺は机の横の椅子を引いた。木の脚が床を擦る音がやけに大きく響く。ダリアは戸惑ったままレティシアへ視線を向けたが、俺の様子が普段と違うせいか、抱えていた書類を机へ置き、素直に椅子へ腰を下ろした。
その動作だけでも、妙に心臓に悪い。
座るくらい何でもない。そんなことは分かっている。分かっているのに、布が揺れ、手が机に触れ、膝が曲がる、その一つ一つを目で追ってしまう。
「若様?」
レティシアの声が近くで聞こえた。
彼女は衣服の整理をしていた手を止め、こちらを見ていた。その表情は落ち着いているが、俺の声と動きでただ事ではないと察したのだろう。すぐに棚から離れ、ダリアのそばへ歩いてくる。
「レティシア、感知魔法を使え」
「はい」
「ダリアの下腹部に集中して使ってみろ。範囲は拡げなくていい。そこだけだ」
レティシアの目が一瞬だけ細くなる。
余計な問いはなかった。彼女はダリアの前に膝をつくほど低くはならず、失礼にならない距離で静かに立つ。白い指先が胸の前でかすかに重なり、呼吸が落ち着いた。感知魔法の気配が、俺のものよりずっと柔らかく室内へ触れる。
レティシアの感知は、俺ほど細かくない。
だが、位置を絞れば話は変わる。どこを見ればいいのか分かっているなら、微かな反応でも拾いやすくなる。彼女の魔力がダリアの周囲に触れ、慎重に下腹部へ向かっていくのを、俺は自分の感知を細く保ったまま見ていた。
レティシアの睫毛が、わずかに揺れた。
「これは……」
その一言で、喉の奥が乾いた。
レティシアが顔を上げる。視線が合う。いつもの落ち着いた瞳の奥に、驚きと、慎重に抑えた喜びのようなものが見えた気がした。
「これって、やっぱりそうだよな」
俺の声は、自分で思ったより低かった。
レティシアはすぐには頷かなかった。もう一度だけ目を伏せ、感知を確かめる。ダリアは椅子に座ったまま、俺とレティシアを交互に見ている。意味が分からないのに、何か重大なことが起きているとは分かっている顔だった。
やがてレティシアが静かに頷いた。
「はい。ほぼ間違いないと思います」
胸の内側で、何かが跳ねた。
喜びと言うには早すぎる。安心と言うには何も確定していない。だが、身体の奥から一気に熱が上がって、頭の中の一部だけが妙に白くなった。
「どうすればいい?」
俺は思わず聞いていた。
レティシアはすぐ答える。
「念の為に、城の治癒魔導師を呼びましょう」
「俺が呼んでくる」
言い終わる前に身体が扉へ向いていた。
だが、レティシアが一歩だけ前に出て、静かに俺を止めた。
「わたくしが呼んでまいります。若様はダリアの側に」
「だが」
「若様」
その声は穏やかだったが、譲らない響きがあった。今、俺が部屋を飛び出せば、ダリアを一人にする。いや、レアはいるが、あれは数に入らない。ダリアはまだ何も分からないまま椅子に座っている。
俺は奥歯を噛んだ。
「……分かった。頼む」
「はい」
レティシアは短く頭を下げ、すぐに部屋を出ていった。扉が閉まる音がした瞬間、室内の空気が妙に薄くなった気がした。
ダリアは椅子に座ったまま、まだ首を傾げている。
そうだ。
落ち着け。
まずダリアを落ち着かせるべきだ。
「とりあえず落ち着け。動かずにじっと座っていろ」
「私は落ち着いております」
ダリアは困ったように微笑んだ。
「ギル様が落ち着いてください」
「う、うむ」
正論だった。
返す言葉がない。
俺は一度椅子の背に手を置き、意味もなく離した。立っているだけでは落ち着かない。座る気にもなれない。机の上ではレアがこちらを見ている。いつもならこの隙に紙をつつくくせに、今は白い綿毛を膨らませたまま大人しくしていた。
ダリアが俺を見上げる。
いつもの柔らかな眼差しだった。だが、その奥には少しずつ別の色が浮かび始めている。俺とレティシアの反応。下腹部へ向けた感知魔法。治癒魔導師を呼ぶという言葉。それだけ並べれば、彼女も何かを察する。
「あの、もしかしたら……?」
「待て」
俺はすぐに遮った。
言葉を続けたら、何かが決まってしまう気がした。
「治癒魔導師が来てからだ」
ダリアは口を閉じた。
少し驚いたようだったが、すぐに目元を和らげる。俺が答えを避けた理由を、ある程度分かってくれたのかもしれない。いや、分かってくれていると思いたかった。
本当にそうなのかは、まだ分からない。
そうでなかった時に、ダリアが気に病むかもしれない。期待させておいて違ったら、俺は自分を殴りたくなるだろう。もしかすると、俺が知らない病かもしれない。平民の下腹部から魔力反応が出る病なんて聞いたことはないが、聞いたことがないだけで存在しないとは限らない。
だから、まだ言えない。
俺は扉を見た。
誰も来ない。
「遅いな」
「先程、呼びに行かれたばかりです」
ダリアが苦笑した。
確かにそうだ。まだ茶が冷めるほどの時間も経っていない。だが、今の俺には廊下の向こうがやたら遠く感じる。治癒魔導師の部屋が城の反対側に移動したのではないかと疑いたくなるくらいだ。
「やはり俺が呼びに行こう」
足が扉へ向かった瞬間、ダリアの声が背中に触れた。
「行き違いになってしまいますよ」
「う、うむ」
俺は止まった。
その通りだ。
扉を開けて走り出し、レティシアたちと別の廊下で行き違いになり、戻ってきたら治癒魔導師だけが部屋にいる。最悪だ。何の役にも立たない。むしろ邪魔だ。
俺は部屋の中を歩いた。
窓の近くまで行き、戻る。机の横を通り、ダリアの椅子の前で止まり、また少し離れる。意味はない。ないが、立ち止まっていると胸の中が騒がしい。レアは机の端で小さく丸まり、こちらの動きを目で追っている。
「お茶をお淹れしますね」
ダリアが立ち上がろうとした。
俺は反射で手を出した。
「やめろ。動くな。座っていろ。何かあったらどうする」
ダリアの手が止まる。
彼女は俺の顔を見て、それから自分の膝へ視線を落とし、ゆっくり座り直した。怒ってはいない。むしろ、困ったような優しい顔をしていた。
「では、ギル様も少し落ち着いてください」
また正論だ。
俺は何も言えず、しばらく口を閉じた。
どうにか歩き回るのはやめた。ダリアの座る椅子の横に立つ。だが、落ち着いたわけではない。視線は扉へ行き、ダリアへ戻り、また扉へ向かう。感知魔法を薄く保ったままなので、ダリアの下腹部の反応はまだそこにあった。弱い。だが消えない。
やがて、廊下から足音が近づいてきた。
複数。
早足だが乱れてはいない。
扉が叩かれる前に、俺はほとんどそちらを向いていた。
「入れ」
扉が開く。
レティシアが戻ってきた。その後ろに、数名の治癒魔導師がいる。年嵩の男が一人、女が二人、若い男が一人。いずれも城内で見たことのある顔だった。マバール城には治癒を専門とする魔力持ちがいる。戦傷も病も、国境の城では珍しくないからだ。
「遅いぞ」
言ってから、少し強すぎたと分かった。
レティシアは驚かなかった。静かに頭を下げる。
「申し訳ありません」
彼女が悪いわけではない。
分かっている。
「うむ」
それ以上、何も言えなかった。
治癒魔導師たちは部屋へ入り、ダリアの前で一礼した。
「失礼します」
年嵩の治癒魔導師が声を掛けると、ダリアは椅子に座ったまま小さく頷いた。普段より背筋が伸びている。落ち着いていると言っていたが、やはり少し緊張しているのだろう。
治癒魔導師たちがダリアの周囲に立つ。
魔力が静かに動いた。
俺は後ろから覗き込むように身を乗り出した。
「おい、魔法は丁寧に使え」
「承知しております」
「ダリア、痛かったらすぐに言え」
「はい」
「大丈夫か?」
「まだ何もされておりません」
ダリアが苦笑する。
治癒魔導師たちも少しやりにくそうだった。年嵩の男が真面目な顔を保っている一方で、若い男の指先がわずかに止まる。俺が邪魔なのは分かっている。分かっているが、離れるのも嫌だった。
「若様、こちらへ」
レティシアがそっと声を掛けた。
強く引くわけではない。ただ、袖に触れるか触れないかの位置で、俺をダリアから少し離す。
「う、うむ」
俺は半歩、いや、一歩だけ下がった。
足りないらしく、レティシアの視線がもう一歩を求める。
仕方なくさらに下がる。
だが、見える位置からは離れない。ダリアの顔も、治癒魔導師たちの手元も、できるだけ見えるように立った。レアは机の上で丸くなったまま、珍しく一度も鳴かない。
治癒魔導師たちが使う感知魔法の気配は、俺ともレティシアとも違う。
体内へ染み込むように動く。それがダリアへ触れていると思うだけで、胸の奥が落ち着かない。だが、治癒魔導師たちの手つきは慎重だった。魔力の流れも荒くない。何度か互いに小さく頷き、確認するように時間をかける。
やがて、年嵩の治癒魔導師が他の者たちへ視線を向けた。
一人が頷く。
もう一人も頷く。
最後に若い男が少し緊張した顔で頷いた。
年嵩の治癒魔導師が、こちらへ向き直る。
「ご懐妊です」
部屋の音が、一瞬で遠くなった。
次の瞬間、腹の底から何かが突き上がってきた。
「よし!」
思わず拳を握っていた。
ガッツポーズというやつだ。
ダリアが目を丸くする。すぐに、その目が潤むように柔らかくなった。唇が震え、それでも笑顔がこぼれる。レティシアは胸元に手を当て、そっと息を吐いた。安堵しているようだった。
よかった。
よかった。
本当に。
治癒魔導師の声が続く。
「まだ極めて初期の段階ですが、間違いないかと」
「本当か」
「はい」
年嵩の治癒魔導師は深く頷いた。
「よくお気付きになられましたな。さすがギルバート様です。この段階で反応を拾われるとは」
「反応は、やはり」
「はい。御子からの魔力反応でございます」
御子。
その言葉で、また胸が詰まった。
ダリアではない。ダリアが魔力を持ったわけではない。ダリアの下腹部に宿った小さな命から、既に微かな魔力反応が出ている。治癒魔導師たちは、そのことを確認したのだ。
「平民の母体に宿りながら、これほど早い段階で魔力反応があるとは、めでたいことです」
別の治癒魔導師が言った。
言葉は落ち着いていたが、その目には驚きがあった。本来なら魔力持ちが生まれる可能性が高くない平民のダリアが、最初から魔力反応を示す子を宿した。その事実を、彼らははっきり価値あるものとして見ている。
俺はダリアを見た。
ダリアは自分の腹へそっと手を当てていた。まだ何も膨らんでいない。外から見れば何も変わっていない。だが、そこにいる。
俺の子が。
そう思った瞬間、今度は喜びとは違う焦りが込み上げてきた。
「それで俺は何をすればいい?」
治癒魔導師が答える前に、俺は思いついた。
「そうだ、とりあえず治癒魔法だな」
手に魔力を集めようとした瞬間、治癒魔導師たちの顔色が変わった。
「おやめください」
年嵩の男が、思ったより強い声で止めた。
「病でも怪我でもありません。今はそっとしておくだけで充分です」
「いや、だが」
「治すものがございません」
言われて、俺は固まった。
治すものがない。
確かにそうだ。
「走ったり飛んだりは避けるべきですが、日常生活に支障はありません」
女の治癒魔導師が穏やかに続けた。
「むしろ、今は普段通りの生活をすべきです。急に動かなくなれば、体調を崩すこともございます」
「そうなのか」
「はい」
年嵩の治癒魔導師が咳払いをした。
「もちろん、閨事はお控えください」
ダリアの耳が赤くなった。
レティシアは表情を崩さない。だが、わずかに目を伏せた。俺は少しだけ気まずくなり、それでも頭に刻み込む。
「分かった」
分かった。
分かったが、何もしないというのは難しい。
何かしたい。
何かすべきだ。
「そうだ。腹を冷やさない方がいいだろう」
俺は部屋を見回した。
「部屋を変えろ。俺の部屋に住め」
「ギル様?」
「いや、腹を何かにぶつけたり、滑って転んだりしてはいかんな。机も椅子も全部撤去しろ。敷物も重ねよう。五十枚くらいあればいいか。生産拠点に作らせるか。うむ、厚くて柔らかいものがいいな」
言いながら、頭の中で部屋の配置を変えていく。
角のある家具は駄目だ。
床も硬い。
窓際は冷える。
扉の近くも人が通るから危ない。
そもそも歩く必要がないようにすればいいのではないか。
「私なら大丈夫です」
ダリアが苦笑した。
大丈夫。
その言葉は信用したい。
だが、信用だけで何かあったらどうする。
「いかん。今日から動くな。ずっと寝てろ」
「それでは逆効果です」
レティシアが苦笑しながら言った。
俺は彼女を見る。
「そ、そうか」
「はい」
「そうなのか」
「そうです」
レティシアの声は優しいが、譲らない。
治癒魔導師たちも頷いている。全員が同じ意見なら、たぶん俺の方が間違っているのだろう。たぶんではなく、だいぶ間違っている気がする。
俺は一度口を閉じた。
落ち着け。
今、俺が暴れればダリアが困る。
それは分かる。
分かるのだが、落ち着けと言われて落ち着けるなら最初から慌てていない。
レティシアは俺から視線を外し、ダリアの前へ歩いた。椅子に座るダリアへ、静かに微笑む。
「よくやりましたね」
その声は、先ほど俺を止めた時よりずっと柔らかかった。
ダリアは少し照れたように目を伏せる。腹に添えた手を、もう片方の手でそっと包んだ。
「はい。ありがとうございます」
部屋の空気が、ようやく緩んだ。
治癒魔導師たちも表情を和らげ、レティシアも安堵したように息を整えている。レアまで、机の上で小さく首を傾げた。何が起きたのかは分かっていないだろうが、先ほどまでの張り詰めた気配が薄れたことは感じ取ったらしい。
俺はダリアの横に立ったまま、もう一度その腹を見た。
まだ何も見えない。
けれど、そこにいる。
小さな魔力が、確かにあった。
嬉しい。
怖い。
守らなければならない。
頭の中に次々と言葉が浮かぶのに、どれもまとまらない。父になる、という実感はまだ遠い。だが、俺の生活の中へ、今までになかった重さが一つ加わったことだけは分かった。
ダリアが俺を見上げる。
その顔には不安もあった。驚きもあった。だが、それ以上に、柔らかな喜びがあった。
俺はようやく、少しだけ息を吐いた。
「……よくやった」
それしか言えなかった。
ダリアは目を細める。
「はい」
その返事を聞きながら、俺はまだ少し震えている自分の指先を握り込んだ。
部屋の外では、いつも通り城の音がしている。
だが、この部屋の中だけは、もうさっきまでと同じではなかった。




