第九十八話 休日のない世界
俺は、別にこの世界が嫌いなわけではない。
むしろ、かなり気に入っている。
机の上に頬杖をつき、窓布の隙間から差し込む昼の光をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていた。外は穏やかだった。城の中庭からは遠く兵の掛け声が聞こえ、廊下では使用人の足音が一定の間隔で通り過ぎていく。自室の中には茶の香りがまだ薄く残っていて、机の端では白い綿毛がこちらを見上げていた。
レアだ。
こいつは今日も暇そうだった。
いや、たぶん俺も同じくらい暇そうに見えているのだろう。
前世に比べれば、今の俺は相当に恵まれている。有力な貴族家に生まれ、しかも長男でも次男でもない三男だ。家を継ぐ重さを最初から背負わされているわけではなく、かといって軽んじられるほど力がないわけでもない。強い魔力を持ち、領内ではかなり自由に動ける。
面倒事がないわけではない。
むしろ、かなり多い。
帝国、王都、国境、迷宮、生産拠点、女たち、ついでにレア。並べてみると、自分でも少し笑いたくなる。だが、それらには理由がある。守りたいものがあり、欲しいものがあり、やった方が得なことがある。理由がある努力は、そこまで苦痛ではない。
レティシアがいる。
ダリアがいる。
リエリエールもいる。
愛しい女たちに囲まれ、食うに困らず、魔法まで使える。前世の俺が今の俺を見たら、たぶん殴りたくなるくらい羨むだろう。実際、素晴らしい生活だと思う。
ただ、一つだけ不満がある。
この世界には、休日という考えがほとんどない。
いや、休みはある。
倒れたら休む。怪我をしたら休む。熱を出したら休む。旅から戻れば少し身体を落ち着けることもあるし、仕事が薄い日には緩く過ごすこともある。だから、誰も休んでいないわけではない。
だが、そうじゃない。
何日か働いたら休むとか、決まった間隔で一日休むとか、そういう発想がない。仕事があるなら働く。身体が動くなら働く。貴族も平民も、程度の差こそあれ、基本はそれだ。
俺は指先で机を軽く叩いた。
休日が欲しい。
実に欲しい。
前世が恋しいわけではない。戻りたいとも思わない。今の方がいい。ずっといいと確信している。だが、休日という仕組みだけは別だ。あれは素晴らしかった。何もしない日を当然の権利のように迎えられるというのは、なかなか贅沢なことだったらしい。
しかし、社会全体に広めるのは無理だろうな。
俺は天井を見上げた。
領民に何日かに一度は休めと言っても、畑は待ってくれない。家畜も待たない。城の仕事も、迷宮も、国境も、全部が都合よく止まるわけではない。休むなと言いたいのではない。休んでほしい時もある。だが、制度として一斉に回すには、この世界の暮らし方そのものが追いついていない。
せめて俺の周囲だけでも定休を作るか。
そう思ったところで、レティシアとダリアの姿が頭に浮かんだ。
無理だな。
レティシアだけ休む。これはまだ分かる。ダリアだけ休む。それもできるだろう。だが、二人が揃って何もしないでいる姿は、どうにも想像できなかった。レティシアは休めと言っても俺の茶を確認しそうだし、ダリアはダリアで部屋のどこかに乱れを見つけて手を伸ばしそうだ。
みんなで一緒に休む。
良い響きだ。
だが、実現するには俺より先に、あいつらの意識を変えなければならない気がする。
「お前は毎日休みみたいなもんだよな」
机の端にいるレアへ声をかけると、白い雛鳥は首を傾げた。
そして、何の前触れもなく俺の指をつついた。
「痛い」
痛いというほど痛くはない。だが、何となく腹が立つ。俺は反射的に指を弾いた。
レアはひょいと避けた。
むかつく。
「一方的につつかれるばかりではないのだよ」
もう一度、軽く狙う。
今度は羽毛の端にかすった。レアはぴょんと跳ね、机の上の紙束の隙間へ逃げる。最近こいつの動きが鋭くなっている気がする。俺がデコピンで反撃しているせいで、無駄に回避の技術を鍛えてしまったのかもしれない。
失敗したかな。
馬鹿なことをしていると、部屋の中ではレティシアとダリアがいつも通り働いていた。
レティシアは棚から取り出した衣を一枚ずつ確かめ、皺の有無を指先で撫でている。ダリアは机の反対側で、俺が積み重ねた書類を手早く分けていた。完全に読み込むわけではない。だが、急ぎのもの、あとでよいもの、見た目で分かるものを自然に揃えていく。俺が触るよりよほど綺麗になる。
働いてるなぁ。
休み、必要だと思うんだけどなぁ。
俺がだらけている間にも、二人の手は止まらない。部屋が整い、衣が整い、机が整う。俺の生活はかなり二人に支えられている。こういう姿を見ると、定休を作るべきだという気持ちは強くなる。
同時に、別のどうでもいい考えも浮かんできた。
今のクラシカルなメイド服も悪くない。
悪くないどころか、かなり良い。
ただ、もう少し違う形も見てみたい気はする。前世の記憶にある、スカートの短いメイド服。あれはあれで素晴らしかった。とはいえ、この世界の女性は基本的に足を出す習慣がない。肌を見せることそのものへの感覚も前世とは違う。無理に作らせても、レティシアは困った顔をするだろうし、ダリアは笑顔のまま丁寧に断る気がする。
女性用の下着も、一度考えたことがある。
いや、考えただけではない。少し試作もした。
この世界の下着は、下に着けるものに関しては男女で大きな違いがない。前世で言うなら、形としてはトランクスに近い。違いがあるとしても、前が開くかどうか、その程度だ。
もう少し角度のあるものも作らせた。
だが、評価は良くなかった。布の線が出る。動くと食い込む。長く着けると気になる。レティシアでさえ、使えなくはありませんが、と言ったきり、その後はほとんど選ばなかった。あの言い方は駄目な時の言い方だ。
胸に着けるものも試した。
この世界では、一枚の柔らかい布で包み込むように巻き、首や肩へかけて支える形が多い。前世に近いものを再現しようとしたが、金具が大きくなりすぎた。肩紐も食い込みやすい。調整もしにくい。着ける側からすれば、見た目より不便さが先に来るらしい。
結局、既存の布下着はかなり優秀だった。
大きさが違っても調整しやすい。身体に合わせやすい。洗いやすい。壊れにくい。何より、着る側が慣れている。俺の前世知識があれば何でも良くなるというわけではないのだと、あの時は少し学んだ。
まあ、布の下着も好きだけどな。
胸を包む布の下着は、かなり好きだ。
生産拠点で作られる絹は品質が上がっている。レティシアたちには、定期的に上質な絹の下着を贈っていた。肌触りがいい。細かな刺繍も入れられる。実用品でありながら、見た目にも綺麗だ。
俺も嬉しい。
レティシアたちも嬉しい。
まさに悪くない贈り物だ。
そんなくだらないことを考えている間にも、レアは紙束の陰からこちらを狙っていた。俺が視線を向けると、何もしていませんという顔で首を傾げる。お前分かってやってるだろう。
休日の話は、いつの間にか絹の下着へ変わっていた。
実にひどい脱線だ。
だが、こういう時間は嫌いではない。重い会議も、国境の話も、王都の密偵も、今この部屋の中には入ってこない。俺の目の前にはレアがいて、少し離れたところにはレティシアとダリアがいる。窓の外の光は穏やかで、茶はまだ温い。
俺は何となく、魔力を動かした。
感知魔法。
実戦用ではない。暇つぶしと、魔法技術の訓練を兼ねた軽いものだ。感知範囲も室内程度にしか拡げない。壁の向こうまで探る必要はないし、城内で変に魔力を動かしすぎるのも落ち着かない。
水面に指先を差し入れるように、部屋の中へ感覚を拡げる。
レティシアからは、すぐに反応があった。
当然だ。騎士家の娘であり、魔力を持っている。全身に流れる反応は強すぎず、弱すぎず、俺の感知の中で落ち着いた輪郭を作っていた。彼女が衣を畳むたびに、魔力の気配もかすかに揺れる。
その隣。
ダリア。
そこに、ほんの小さな反応があった。
俺は瞬きをした。
ん?
感知魔法を緩く使いすぎたか。
ダリアは平民だ。魔力はない。感知魔法に反応するはずがない。ぼんやり考え事をしながら適当に使ったせいで、何かを拾い間違えたのだろう。
そう思って、一度感知をほどいた。
レアが机の上でこちらを見ている。
俺はレアの額を軽く突いた。今度は避けられなかった。レアが不満そうに羽を震わせる。
「今のは俺の勝ちだ」
そう言いながらも、頭の片隅には先ほどの違和感が残っていた。
もう一度、感知魔法を使う。
今度は少し真面目に。
範囲は変えない。室内だけだ。だが、先ほどより薄く細かく、反応の輪郭を拾うように意識する。
レティシア。
問題ない。
衣棚の近くで動く彼女から、いつも通りの魔力反応がある。
ダリア。
やはり、ある。
弱い。
かなり弱い。
普通なら見落とす。意識して探らなければ、部屋の中の微かな魔力の揺らぎに紛れてしまうほどだ。だが、間違いなくそこにある。
俺は頬杖をやめた。
身体を少し起こす。
ダリアは気づいていない。書類を揃え、角を合わせ、机の端へ静かに置いている。いつも通りだ。顔色も悪くない。動きに違和感もない。レティシアも何も気にしていない。
俺だけが、その小さな反応を見つけていた。
さらに集中する。
感知範囲は拡げない。
深く見る。
レティシアとは違う。
全身から反応しているわけではない。ダリア本人の魔力ではない。手足でも、胸でも、頭でもない。反応はもっと下にある。下半身。いや、より正確には下腹部だ。
そこから、かすかに魔力が返ってくる。
弱い。
本当に弱い。
だが、ある。確実に。
俺は息を止めた。
ダリアは平民だ。魔力を持たない。なら、ダリア本人が突然魔力に目覚めたわけではない。そもそも反応の仕方が違う。全身ではなく、下腹部。そこに、別の小さな反応がある。
机の端で、レアが紙をつついた。
いつもならすぐ止める。
だが、声が出なかった。
頭の中で、散らばっていたものが一つに寄っていく。
魔力。
下腹部。
ダリア。
俺は、ダリアを見た。
彼女は書類を抱え、こちらの視線に気づいたのか、少しだけ首を傾げた。
「若様?」
柔らかな声だった。
いつも通りの声だ。
なのに、俺の胸の内側だけが妙に静かになっていく。
俺は口を開きかけた。
言葉が出ない。
もう一度、感知魔法の反応を確かめる。間違いない。弱い。だが消えない。そこにある。
俺は自分の指先が、机の縁を強く掴んでいることに気づいた。
…………つまり、これって。




