第九十七話 沈黙する国境
エディオン家の使者がマバール城へ入ったのは、昼前だった。
事前に国境の砦から連絡は届いていた。だから城門で慌てる者はいない。だが、門上の兵が槍を持ち直す音は、いつもより硬かった。陽の光は城壁の石を白く照らし、城下から上がってくる荷車の軋みや職人の槌音も普段通りに聞こえている。それでも、門の内側に立つ者たちの背筋は、わずかに伸びていた。
国境貴族家、エディオン家。
マバール家と同じく帝国との国境を背負う家の一つであり、王国設立以前より続く名門でもある。家格で言えばマバール家には及ばない。だが、決して軽んじてよい家ではない。古く、堅く、長く、血を流し血を繋いできた家だ。
そのエディオン家から来た使者は、形式を崩していなかった。
先頭に立っていた男は、歳の頃なら五十を少し越えたあたりに見えた。背は高く、肩幅も広い。顔には古傷が薄く残り、髪には白いものが混じっている。だが、腰に落ちる剣の位置も、馬から降りた時の足運びも、老いを感じさせない。鎧は飾り立てられていないが、手入れは行き届いていた。使者としての礼を守りながら、身体の奥には戦場で削られた硬さが残っている。
バカルカ。
エディオン家の筆頭騎士。
帝国との国境戦で何度も武功を挙げた名のある騎士だった。ガルシアはその姿を会議室の窓越しに見ると、目を細めた。顔を合わせたことはある。無論、酒を酌み交わすほど近い相手ではないが、名と働きは知っていた。
あれを正使者に立てたか。
軽い用件ではない。
バカルカの後ろには、騎士が二人。さらに数人の平民武官が控えていた。兵の数は多くない。威圧するための一団ではない。だが、弱く見せるための一団でもなかった。礼式を守り、人数を抑えてはいるが、同時にエディオン家の本気を示す。そういう組み方だった。
使者の到着を見届けると、ガルシアは窓から離れた。
既に会議室には上層部が集まっている。文官、武官、諜報に関わる者たち。机の上には、国境の砦から届いた連絡、使者が持参した書状の写し、エディオン家に関する過去の記録が並べられていた。
ギルバートはいない。
呼んでいなかった。
この場で扱う話は、まだ若い三男に聞かせる必要のあるものではない。いや、あの息子なら意味は理解するだろう。理解した上で、時々場に余計な風を入れる。普段ならそれも悪くない。だが、今日の会議に柔らかさはいらなかった。
ガルシアは上座に座り、机の上の書状へ目を落とした。
「読んだな」
短く言うと、老文官が頷いた。
「はい。形式に乱れはございません。エディオン家当主ザイン・エディオン様より、内密の会談を望む旨が記されております。表向きの理由は、アルディス様への縁談の申し込みです」
「正使者はバカルカ」
「はい」
老武官が低く唸った。
「あの男を寄越すとはな。書状だけで済ませる気はないということですな」
誰も否定しない。
エディオン家とマバール家は領地を接している。互いに国境の苦さを知る家同士でもある。だが、だからといって当主同士の会談を望むこと自体が軽くなるわけではない。
王都貴族の目が増えている。
マバール領でも密偵の動きは増えていた。エディオン領で同じことが起きていないと考える方が不自然だ。そんな時期に、領地を接する国境貴族家の当主同士が会う。理由を用意しても、疑いの種は残る。
老文官が書状の端を整えた。
「アルディス様への縁談自体は、理由として成立します。次男であられるアルディス様への申し込みなら、エディオン家の家格から見ても不自然ではございません」
別の文官が静かに続ける。
「ギルバート様の正室となると、エディオン家ではやや不足がございます。王国設立以前より続く名門ではありますが、マバール家と比べれば格は下がります」
ガルシアは頷かない。
ただ聞いていた。
言葉にしなくても、会議室の者たちは分かっている。ギルバートは三男とはいえ、今やただの三男ではない。魔力、実績、領内での存在感、帝国との一連の動き。あの息子へ正室を出すには、相応の家格が求められる。エディオン家は名門だが、その位置には少し届かない。
だからアルディス。
その筋は通っている。
「相手は」
ガルシアが尋ねると、諜報に関わる男が一歩進んだ。
「エディオン家の年長の娘、シルリオーラ殿とされています」
紙が一枚、机の上へ置かれる。
「年齢は二十歳になったばかり。貴族家当主の娘としては適齢期です。魔力は並程度と思われます。性格、振る舞い、家内での評判に大きな問題は確認されておりません。一般的な貴族令嬢と見てよろしいかと」
老文官の視線が紙へ落ちた。
「よく調べたな」
諜報に関わる男は、深く頭を下げただけだった。
誇る言葉はない。
貴族家の女性は基本的に家の内側で過ごす。外へ出る機会は限られ、評判も家の壁に遮られる。それでもここまで情報が揃っている。マバール家の耳が、国境の隣家に深く届いている証でもあった。
ガルシアは紙を一瞥し、指先で机を一度だけ叩いた。
「アルディスの正室としては」
「問題は薄いかと」
老文官が答える。
「家格、年齢、血統、魔力。いずれも不自然ではございません。むしろ、エディオン家としても本気でなければ出しにくい娘です」
「偽装ではない、か」
老武官が口を開いた。
「縁談そのものは本物に見える。ならば、なおさら厄介ですな」
空気が少し重くなった。
表向きの理由を作るためだけなら、もっと曖昧な話でもよかった。だが、シルリオーラと明確な名を出すなら、エディオン家は本当にアルディスへ娘を嫁がせるつもりでいる可能性が高い。
だからこそ、その裏にあるものが濃く見える。
老文官が指を組んだ。
「ただの縁談であれば、王都外交の席で話を出すこともできたはずです」
「そうだ」
ガルシアは短く応じた。
定例の王都外交は終わったばかりだった。国境貴族家同士が顔を合わせ、王都で互いの立場を探る場でもある。縁談だけなら、その席で話題に出すことはできた。少なくとも、そこから正式な使者へ繋げればよい。
それをせず、王都外交の直後に、使者を送り、当主同士の会談を求めてきた。
時期が悪い。
悪すぎる。
そして、悪い時期であることを、ザイン・エディオンが分からないはずがない。
「ザイン殿は、軽い男ではない」
ガルシアが言うと、会議室の視線が集まった。
「この時期に動けばどう見られるか、その程度を読めぬ当主ではない」
「では、読んだ上で動いた」
老文官の声は低かった。
「そう見るべきだろう」
ガルシアは答えた。
沈黙が落ちる。
遠くで扉の外を通る足音が一つ聞こえた。会議室の中には誰も咳をしない。紙の擦れる音すら消え、机の木目まで重く見えた。
若い文官が、慎重に言葉を出した。
「何かを、握られたのでしょうか」
誰もすぐには返さなかった。
その可能性は、考えたくないものだった。だが、考えないで済むものでもない。エディオン家が危険を承知で動く理由。縁談を本気で持ち込み、なおかつ当主同士の会談を求める理由。そこに、王都貴族に何か弱みを握られたという筋は存在する。
「王都貴族か」
老武官が吐き捨てるように言った。
「あるいは、他の何かか」
諜報に関わる男が静かに添える。
「王都貴族の密偵はエディオン領でも増えていると見ております。確証はまだございませんが、マバール領だけが狙われているとは考えにくい状況です」
会議室の空気が、さらに沈む。
王都貴族の密偵が増えている。それは既に報告されていた。マバール領で起きているなら、他の国境貴族家でも同じことが起きている可能性は高い。エディオン家が何かを掴まれたのか、あるいは掴まれる前に動いたのか。
どちらにしても、軽くない。
「それなら見捨てればよい」
声は、老武官のものだった。
会議室が一瞬、冷えた。
乱暴な言葉ではある。だが、国境を守る家の会議なら、誰かが口にしなければならない言葉でもあった。弱みを握られた家を庇えば、こちらまで引きずられる。エディオン家が追い詰められているなら、距離を取るのも選択肢の一つだ。
老文官がゆっくりと顔を上げた。
「見捨ててどうする」
短い声だった。
老武官は返さない。
老文官は続けた。
「エディオン家を切れば、それで終わるのか。次は別の国境貴族家だ。その次はまた別の家。王都貴族が我ら国境貴族を削り始めているなら、最後にこちらへ向く」
「今は我らが最大勢力です」
若い文官が言った。
「今はな」
老文官の言葉は静かだった。
「この先もそうだと誰が言える。税を締められ、密偵を入れられ、縁を切らされ、隣家を一つずつ潰されれば、マバール家だけが無傷で立てると思うか」
誰も答えなかった。
ガルシアも、あえて口を挟まなかった。
国境貴族家は、それぞれに強い。だが、一家ずつ切り離されれば脆くなる。王都貴族は戦場で魔法を放つわけではない。紙で削り、税で縛り、噂で汚し、密偵で穴を探る。正面から来ない相手は、力だけでは倒せない。
「何せ、善良王だからな」
誰かが小さく呟いた。
会議室が、また別の重さに沈んだ。
善良王。
その名を出した者も、侮辱するつもりではなかったのだろう。善良であることは認めている。無意味な悪意で国境を苦しめる王ではない。だが、善良であることと、国境を守れることは違う。
王都貴族の動きを押さえられるのか。
国境貴族家の負担を理解しているのか。
帝国相手に譲らず立てるのか。
北方を見ながら、国境の現実にも目を向けられるのか。
その問いに、会議室の誰も力強く頷けなかった。
「陛下は、悪い方ではない」
老文官が低く言った。
「だが、善良なだけで守れるものは少ない」
その言葉が、机の上に落ちた。
ガルシアは動かなかった。
その通りだ、と言えば不敬に寄りすぎる。違う、と言えば嘘になる。だから、ただ黙って聞いた。会議室にいる者たちも同じだった。王への忠義と、国境の現実。その二つが机の上でぶつかり、誰も簡単に片づけられない。
「ザイン殿は、それを見たのではありませんか」
若い文官の声がした。
「王都外交の席で」
老文官が目を細める。
「王都貴族の動き、善良王の甘さ、北方への恐れ、帝国新皇帝の戴冠。すべてを見た上で、今動かなければならぬと判断した。だから、王都の席ではなく、ここへ使者を送った」
筋は通っている。
ザイン・エディオンが何を見たのかは、まだ分からない。だが、王都外交の直後という時期が偶然でないなら、王都で見た何かが引き金になった可能性は高い。縁談は本物。だからこそ、当主同士の会談にも本気が混じる。
老武官が、声を落とした。
「王国への反乱か」
その言葉が出た瞬間、会議室の空気が凍った。
誰も身じろぎしない。
口にした老武官自身も、続きを急がなかった。その言葉が持つ重さを理解しているからだ。反乱。王国へ弓を引くということ。国境貴族家が、それを議題の中に出すだけで、首が飛びかねない言葉。
別の武官が、すぐに低い声で否定した。
「王国への反乱など、王国と帝国に挟まれてすり潰されるだけです。意味がない」
「単独ならな」
老文官が言った。
空気が、さらに張った。
「マバール家が味方すれば、話は変わる」
誰も息をしないような沈黙だった。
ガルシアは、老文官を見た。老文官は目を伏せない。反乱を勧めているわけではない。危険な言葉を、危険なものとして机の上に置いたのだ。
「辺境伯であるマバール家が動けば、多くの国境貴族家は揺れます。エディオン家だけでは自殺でも、マバール家が加わるなら、国境貴族家の集団行動になる」
「王都が黙っているはずがない」
「黙ってはおりますまい」
老文官は静かに返す。
「ですが、新皇帝の戴冠後ならば、帝国側が動かない可能性がございます」
誰も、帝国の家名を口にしなかった。
だが、会議室の者たちは分かっている。
新皇帝を出す勢力。マバール家と一定の関係を持つ四帝家の一つ。今はまだ、表で語るべきではない名だ。口にした瞬間、会議室の空気はさらに危険な色を帯びる。
「帝国は見て見ぬふりをする、か」
武官が言う。
「場合によっては、内密に支援する可能性もあるのでは」
若い文官の声がかすかに震えた。言葉の内容が、口に出した本人にも重すぎるのだろう。
老武官が机に置いた拳をゆっくり握った。
「それでは、我らが王国と帝国の緩衝地帯として使われるだけだ」
「その危険はある」
「危険どころではない。王国に背き、帝国にも呑まれず、国境貴族家だけで立つなど、どれほどの血が要る」
誰も否定できない。
反乱は、勝って終わりではない。勝った後に何を築くかが必要になる。王国から独立するのか、帝国と結ぶのか、国境貴族家でまとまるのか。そのすべてに多くの血が要る。
別の声が、机の端から落ちた。
「いっそ、帝国貴族となる道もある」
会議室が、今度こそ音を失った。
反乱よりも、さらに口にしにくい言葉だった。
王国の国境貴族家が、帝国へ編入される。王国設立以来、国境を守ってきた家が、反対側へ移る。口にしただけで、不忠の臭いがする。
だが、誰も即座には否定しなかった。
「マバール家ほどの大貴族なら、帝国も無視はできません」
その声は、慎重だった。
「国境貴族家が揃って帝国へ編入するなら、新たな国境線で対峙するのは、小規模な国内貴族家たちです。王都から兵が来るまでの間に、情勢は固められる」
「王国を裏切ることになる」
「王国が国境を守るのなら、その言葉は重いでしょう」
言った者の顔色は悪かった。
それでも、言葉は止まらなかった。
「ですが、王都貴族が国境貴族を削り、善良王がそれを止めぬのならば、国境貴族家は自分たちで生き残る道を探すしかありません」
ガルシアは黙って聞いていた。
部屋の中にいる誰も、今すぐ帝国へ下れと言っているわけではない。王国へ反乱を起こせと言っているわけでもない。だが、可能性として言葉が出てしまった。出てしまった以上、無かったことにはできない。
エディオン家は何を持ってくるのか。
縁談は本物に見える。
だからこそ、会談の本命が別にある可能性が濃くなる。
弱みを握られたのか。
王都で何かを見たのか。
国境貴族家の未来を考えたのか。
あるいは、そのすべてか。
長い沈黙の後、ガルシアは机の上の書状へ視線を落とした。
ザイン・エディオンの名が、そこにある。
長く国境を守ってきた家の当主。その男が、娘の縁談を携え、筆頭騎士を使者に立て、会談を望んでいる。
軽いはずがなかった。
「使者とは会う」
ガルシアが言うと、会議室の全員が顔を上げた。
「縁談の話は縁談として扱え。礼は崩すな。バカルカにも、不審を抱かせるような扱いはするな」
「はっ」
老文官が頭を下げる。
「だが、油断はするな」
ガルシアは続けた。
「ザイン殿が何を持ってくるかは、まだ分からん。こちらが勝手に答えを決めれば、見えるものも見えなくなる」
誰も口を挟まない。
「王都貴族の目は増えている。エディオン家が動いた理由も見えん。縁談は本物に見える。だからこそ、慎重に扱う」
ガルシアは書状から手を離した。
「準備を進めろ。当主同士の会談に応じるかどうかは、使者の口上を聞いてから決める」
老文官が深く頭を下げ、武官たちも姿勢を正した。諜報に関わる男は、既に次に動く場所を考えているのか、目を伏せたまま微動だにしない。
会議は終わりへ向かう。
だが、空気は軽くならなかった。
反乱。
帝国編入。
王都貴族の密偵。
善良王の限界。
エディオン家の縁談。
どれもまだ、答えにはなっていない。だが、すべてが同じ机の上に置かれてしまった。
ガルシアは立ち上がる前に、もう一度だけ書状を見た。
ザイン・エディオン。
その名は、紙の上で静かに沈んでいる。
何を語るつもりだ。
答えはまだ、マバール城には届いていなかった。




