第九十四話 遊戯と帰還の知らせ
遊戯盤は、自室の机の上に置かれたままになっていた。
夕方の商談室から持ち帰った時には、ただ珍しい品として眺めるつもりだった。磨かれた木枠、七種類の駒、手に取った時の滑らかな感触。グリードという男のことを考える材料として置いたはずだった。
だが翌日には、少し事情が変わっていた。
レティシアとダリアが、思った以上に遊戯盤へ食いついたからだ。
最初はレティシアが、片づけ終わりに駒を手に取っただけだった。商談室で一度見ていたせいか、形の違う木片を枠へ置く手つきは迷いが少ない。そこへダリアが興味を示し、ギルが許すと、二人はすぐに向かい合って座った。
軽い暇つぶし。
その程度のつもりだった。
だが、木片が盤の中で小さく鳴るたび、二人の目つきが少しずつ変わっていった。
「では、こちらをお願いいたします」
レティシアが駒を渡す。
ダリアは受け取った形を一瞬見て、盤の左下へ置いた。
「そこですか」
「はい。こちらを残した方が、次に困らないと思いましたので」
「では、これはどうでしょう」
レティシアが次に渡した駒は、曲がった形のものだった。ダリアの指が一瞬止まる。けれどすぐに角度を変え、先ほど空けておいた隙間へ滑り込ませた。
「危なかったです」
「入りましたね」
「はい。でも、レティシア様は今、少し意地悪でした」
「遊戯ですから」
レティシアは涼しい顔で言った。
その顔が、少し楽しそうだった。
ギルは椅子に身体を預けながら眺めていた。最初の数回は、単純にレティシアの方が強かった。彼女は盤面を見るのが早い。相手がどこへ置きたがるかを読んで、その後に困りそうな駒を渡す。普段から部屋全体を見て動く癖があるせいか、木枠の中に残る空間を整えるのも上手かった。
ダリアも弱くはない。
むしろ飲み込みは早い。
ただ、最初は自分ならどう置くかを考えすぎるせいで、相手へ渡す駒の選び方が少し甘かった。だが数回負けると、その癖も変わってきた。レティシアが角を使いたがること、細長い駒を早めに処理したがること、最後に狭い空間を残さないようにすることを覚え始める。
ただの木片遊びではない。
けっこうお互いの性格が出る。
レティシアは丁寧に追い詰める。
ダリアは一度掴むと、一気に嫌な場所を突く。
それを見ているだけでも、ギルは少し面白かった。
そして、そこへレアがやって来た。
白い綿毛は、大人しく羽繕いをしていただけだった。だが、木片が鳴る音に興味を引かれたのか、机の端から首を伸ばし、丸い目で盤面を眺めている。
「レア、邪魔するなよ」
ギルが言うと、レアは首を傾げた。
分かっていない顔だった。
だが、絶対に分かっている。
レティシアが駒を置いた。
盤の中央近く、次の形を受けるための大事な位置だった。
その瞬間、レアの嘴が伸びた。
こつ。
駒が少しずれた。
「こら!」
レティシアの声が飛んだ。
珍しい。
ギルは少し目を丸くした。レティシアは普段、レアにはかなり甘い。書類をつつこうとしても、軽く止める程度だ。だが今の声は、明らかに叱っていた。
レアはきょとんとしている。
自分が何をしたのか分かっていない、という顔をしている。
だが絶対に分かっている。
ダリアが盤面をのぞき込み、にんまりと笑った。
「この位置ですよね?」
「いえ、これはレアがつついたからです。わたくしが置いたのはこちらです」
レティシアは駒を元へ戻そうとする。
しかしダリアは、新しい駒を手に取った。
「その駒はすでに終わっていますよ。はい、次です」
「ですが」
「駒から手を離されていました」
「レアがつついたからです」
「それでも、盤面は盤面です」
ダリアの声は柔らかい。
だが、譲る気はまったくなかった。
レティシアが困ったように眉を寄せる。普段ならそこで引きそうなものだが、今日は違った。彼女は盤面とダリアの顔を交互に見ている。納得していないのが分かる。
ギルは苦笑した。
「まあ、レティシアは駒を置いていたからな」
レティシアがこちらを見た。
その視線が、わずかに鋭い。
「若様まで」
「いや、遊戯だしな」
「レアがつついたのです」
「そうだな。悪いのはレアだ」
ギルは机の端で首を傾げているレアを指差した。
「お前、レティシアたちの邪魔をすると焼かれるぞ」
レアはさらに首を傾げた。
まったく危機感がない。
レティシアは「もう」と小さく呟き、しかし駒を戻すのは諦めた。ダリアは少し楽しそうに次の駒を渡す。その後、レティシアは数手粘ったが、最後は狭い隙間が残ってしまった。
「ダリアの勝ちだな」
「ありがとうございます」
ダリアは満足そうに笑った。
レティシアは盤面を見つめ、少しだけ唇を引き結んでいる。怒っているわけではない。だが、納得しきれていない。
ギルはその顔を見て、少し意外に思った。
レティシアって、結構負けず嫌いなんだな。
普段は何でも柔らかく受け止める。若様付きとして、感情を大きく出すことも少ない。だが、遊戯となると違うらしい。勝負の形になった瞬間、きちんと負けたくなくなるのだろう。
新しい発見だった。
その後も、二人は何度か勝負を続けた。
レティシアはレアの動きに気を配るようになり、ダリアはその隙を狙って駒を渡す。ひどい戦いだ。だが、二人ともどこか楽しそうだった。
夕食後、遊戯盤はまた机の上に広げられた。
今度はリエリエールとノエルも加わっている。
リエリエールは最初、控えめに微笑んで見ているだけだった。だがレティシアが誘い、ダリアが駒を渡し、ギルが「やってみろ」と言うと、少し戸惑いながらも席についた。ノエルは主人の後ろに控えようとしたが、リエリエールが振り返って「あなたも」と言ったため、結局参加することになった。
結果から言えば、リエリエールは弱かった。
かなり弱い。
理由はすぐに分かった。
「では、こちらを」
リエリエールが差し出す駒は、どう見ても置きやすい形だった。
相手が困る駒ではない。
相手が喜びそうな駒だ。
しかも、本人はそれを悪いとは思っていない。レティシアがきれいに置くと、嬉しそうに微笑む。
「お上手ですね、レティシア様」
「ありがとうございます。ですが、リエリエール様、今の駒はかなり置きやすい形でした」
「そうなのですか?」
「はい。相手を困らせるなら、こちらの方が」
レティシアが別の駒を指す。
リエリエールはそれを見て、少し困ったように笑った。
「ですが、それでは置きにくそうで」
「相手が置きにくくするのが遊戯です」
「……難しいのですね」
真面目に言っている。
ギルは思わず口元を押さえた。
リエリエールらしい。
彼女は相手が困る形を渡すより、相手がきれいに置ける形を渡してしまう。貴族女性として人を気遣う癖なのか、単に勝負事への向き合い方が優しすぎるのか。たぶん両方だろう。
負けても楽しそうなのがまた困る。
ダリアに負け、レティシアに負け、ノエルにまで負けても、リエリエールは「皆様、お上手ですね」と穏やかに微笑んでいた。
逆に、ノエルは案外強かった。
最初はそう見えなかった。
ノエルは序盤、置きやすい駒ばかり渡してくる。相手は順調に盤面を埋める。リエリエールなどは「まあ、優しいのね」と言いたげに微笑んでいた。
だが、中盤を過ぎると様子が変わる。
盤面の端に妙な隙間が残る。
そこへ入る駒が来ない。
代わりに、曲がったもの、段差のあるもの、長すぎるものが続く。
「……ノエル?」
ダリアが駒を持ったまま眉を寄せる。
「はい」
「これは、置きにくいですね」
「そうでしょうか」
ノエルは真顔だった。
真顔で次の駒を差し出す。
さらに置きにくい。
ギルは椅子に座ったまま腹を抱えそうになった。
「お前、結構性格悪いな?」
ノエルは丁寧に頭を下げた。
「恐れ入ります」
「褒めてないぞ」
「はい」
それでも表情は変わらない。
レティシアが珍しく目を細めて盤面を見ている。ダリアは悔しそうに唇を引き結び、リエリエールは自分の専属使用人が妙な強さを発揮しているのを、少し驚いたように見ていた。
「ノエル、あなた……」
「申し訳ございません、リエリエール様」
「いいえ、謝ることではないのだけれど」
リエリエールは困っている。
たぶん、ノエルの強さをどう受け止めればいいのか分からないのだろう。
ギルはその光景を見ながら、かなり満足していた。
これは思ったより良い。
女性陣がここまで遊戯に夢中になるとは思っていなかった。レティシアとダリアは性格を読み合い、リエリエールは弱いなりに楽しみ、ノエルは無表情で中盤から相手を追い詰める。見ていて飽きない。
ただ、少し問題があった。
ギルが暇になる。
四人が遊戯盤を囲んでしまうと、こちらの入る隙間が少ない。ギルも参加してもいいのだが、今は見ている方が面白かった。仕方なく椅子へ身体を預け、指先に寄ってきたレアを軽くつつく。
レアは反撃するように嘴を伸ばす。
「お前は本当に俺だけつつくな」
白い雛鳥は何も知らない顔で首を傾げた。
その横で、盤面の上ではまた木片が鳴る。
遊戯盤、もういくつか追加した方がいいかもしれんな。
ギルはそんなことを考えた。
この世界にも遊戯はある。
ないわけではない。
将棋やチェスに似たものもある。駒を動かし、相手の王を倒すという点ではかなり近い。ただ、この世界のものは盤面に地形を置く。川や山、森や砦。駒ごとに進める地形が違い、川を越えられる駒は山を越えられず、山中に入ると動きが変わる。ほとんど戦争の再現だ。
武官や貴族男子は好む。
騎士たちも嫌いではない。
だが、女性がやっている姿はあまり見たことがない。
理由も何となく分かる。
戦争遊戯なのだ。
駒を潰し、囲み、王を追い詰める。加えて、女駒とでも言うべき特殊な駒まである。その駒を置くと、周囲の駒が一ます引き寄せられる。戦術としては面白いのだが、女性から見ると微妙なのかもしれない。少なくとも、レティシアやリエリエールが喜んで使う姿は想像しにくい。
サイコロを使う遊戯もある。
出目を当てる。
偶数か奇数かを予想する。
出目で特定の役を作る。
だが、あれはほとんど博打だ。酒場や兵舎では盛り上がるが、貴族女性の部屋で広げるものではない。女性が賭け事をしないわけではないだろうが、少なくとも表立って広めるような空気はない。
女性たちの遊びといえば、刺繍、編み物、裁縫、詩、楽器。
この世界では、その印象が強い。
だが、今目の前の四人を見る限り、女性が遊戯を嫌いなわけではない。
単に、向いている遊戯が少ないだけなのではないか。
ギルはレアの嘴を指先で避けながら、机の上の盤面を眺めた。
木製で。
手元で遊べて。
見た目が良くて。
刺繍や裁縫とも相性がいいものか。
木彫りの動物人形などはどうだろう。
熊。
兎。
狐。
犬。
小さな木彫りで、手足が少し動くようにする。そこへ服を着せる。衣装は買ってもいいし、自分で作ってもいい。刺繍を施し、リボンをつけ、季節ごとに着替えさせる。
人形本体はグリードに作らせる。
服は女性たちが作る。
案外、流行るかもしれない。
ギルは少し真面目に考え始めた。
人形より服の方が売れ続けるかもしれない。布の端切れも使える。刺繍の練習にもなる。少女向けにもなるし、貴族女性の間でも小さな競い合いになるかもしれない。誰の人形が一番可愛いか。誰の衣装が一番洒落ているか。戦争遊戯よりよほど平和だ。
もっと複雑な遊戯も作れるだろう。
舞踏会や縁談を題材にしたもの。
評判や家柄や持参金を使い、誰が最も良い縁を得るかを競うようなもの。
ただ、それは少し面倒だ。
ルールを整える必要がある。下手をすると本物の家格や縁談を連想して角が立つ。貴族女性の遊びとしては面白そうだが、今すぐ作らせるには面倒だ。
まずは動物人形だな。
グリードなら作れるだろう。
腕試しにもなる。
それに、転生者かどうかなどとは関係なく、あの男は腕のいい大工だ。面白いものを作れるなら、少し援助してやる価値はある。木材を融通するか、試作品を作らせて買い上げるか。クレインの姉夫婦を通して仕事を渡せば、いきなり重くなりすぎることもない。
面白そうだ。
かなり面白そうだ。
「若様」
レティシアの声で、ギルは考えから戻った。
「ん?」
「今、何か悪いことを考えていませんでしたか」
「悪いことではない」
「では、何を?」
「木彫りの動物人形を作らせたら、お前たちは服を作るか?」
その場にいた女性たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。
思ったより反応が早かった。
ギルは少し驚く。
「動物人形、でございますか?」
リエリエールが聞く。
「ああ。熊や兎の小さな人形だ。手足が少し動いて、服を着せられる。服は別に作る。刺繍もできる」
レティシアは少し考え、ダリアはすぐに目を細めた。
「それは……可愛いかもしれませんね」
「端切れも使えますし、細かな刺繍の練習にもなります」
ダリアが続ける。
ノエルは黙っていたが、リエリエールの表情を見ている。主人が興味を持っているかどうかを確かめているのだろう。
リエリエールは柔らかく微笑んだ。
「小さな兎に季節の服を着せるのは、楽しそうですね」
よし。
これはいける。
ギルは内心で頷いた。
「では、今度グリードに試させるか」
その名前を出すと、レティシアだけが少しだけこちらを見る。何も言わない。だが、今の案がただの思いつきではなく、グリードを使う理由作りでもあることに気づいたのかもしれない。
さすがだ。
ただ、今はそれでいい。
遊戯盤の勝負はまだ続いた。
リエリエールが相手へ置きやすい駒を渡し、ノエルが静かに相手の逃げ道を塞ぎ、レティシアとダリアが互いの癖を読み合う。レアは時々机の端へ近づき、そのたびにレティシアに牽制されていた。
夜の自室は、普段より少し賑やかだった。
それが悪くなかった。
むしろ、かなり良かった。
その時、扉が軽く叩かれた。
レティシアが立ち上がろうとする。ダリアも顔を上げた。ノエルも自然に動こうとする。
ギルは片手を上げて制した。
「俺が出る」
「若様?」
「近いからな」
実際、扉に近い位置に座っていたし、夢中になっているレティシアたちは面白いからな。冷めさせたくない。
ギルが扉を開けると、外に立っていた使用人が目を丸くした。若様本人が出てくると思っていなかったのだろう。すぐに姿勢を正し、深く頭を下げる。
「ギルバート様、失礼いたします」
「どうした?」
「お館様より急報が届きました」
空気が変わった。
遊戯盤の木片を置く音が止まる。
「父上からか」
「はい。お館様は順調に領内へ入られたとのことです」
使用人は丁寧に続けた。
「明日には、マバール城へ到着される予定でございます」
ギルはゆっくり息を吐いた。
ようやくか。
王都外交。
善良王。
帝国の新皇帝。
北方の和平。
父上が城を離れている間にも色々あった。ありすぎた。だが、それもようやく一段落する。
安心した。
それは確かだ。
同時に、胸の奥で別のものが少し動く。
皇帝の長男のこと。
リエリエールのこと。
グリードのこと。
遊戯盤のこと。
父上に話すべきこと、話さなくていいこと、話せないこと。
いくつもある。
だが、今考えても仕方ない。
父上は明日帰ってくる。
なら、明日考えればいい。
「分かった。知らせご苦労」
「はっ」
使用人が下がる。
扉を閉めると、部屋の中では全員がこちらを見ていた。
レティシアは静かに。
ダリアは少しだけ緊張を含んで。
リエリエールは、ほんのわずかに不安そうに。
ノエルは表情を抑えて。
ギルは軽く笑った。
「父上が明日帰るそうだ」
「お館様が」
レティシアが小さく頷く。
「では、城内も忙しくなりますね」
「ああ」
ギルは窓の外へ視線を向けた。
夜の城下には灯りが点々と浮かんでいる。その向こうの街道を、父上がこちらへ向かっている。
頼れる当主が帰ってくる。
それは安心だった。
だが同時に、少しだけ背筋が伸びる。
ギルは机の上の遊戯盤を見た。
木枠の中には、まだ途中の盤面が残っている。レティシアとダリアの勝負も、リエリエールとノエルの妙な強さも、グリードへの新しい思いつきも、全部この盤から始まっている。
父上が帰れば、また城の空気が変わる。
だが、その前に。
「続きをやるか」
ギルが言うと、リエリエールが少しだけ表情を緩めた。
レティシアも茶器を脇へ寄せ、ダリアが駒を整える。ノエルは静かに次の駒を手に取った。
レアが机の端から盤面を狙っている。
「お前は駄目だ」
ギルがそう言うと、白い雛鳥は何も知らない顔で首を傾げた。
明日、父上が帰ってくる。
その事実を胸の奥に置いたまま、ギルはもう一度、木片の鳴る音を聞いた。




