第九十三話 夢に見た遊戯
商談室へ向かう廊下には、夕方の光が細く入り込んでいた。
窓布の隙間から差す赤みがかった光が、石壁に長い筋を作っている。昼間の熱が抜け始めた城内は少し冷たく、廊下の奥からは使用人たちが夕食の支度へ向かう足音が聞こえていた。
ギルは歩きながら、軽く感知魔法を拡げていた。
警戒というほど大げさなものではない。だが、今日会う相手がただの遊戯職人で終わるとは限らない。前世を思い出させる遊戯を作った者。偶然か、知恵か、それとも別の何かか。考えすぎかもしれない。だが、考えなさすぎるよりはいい。
隣にはレティシアがいる。
彼女は何も尋ねなかった。商談室へ向かう途中で、余計な言葉を挟まない。こちらが考え込んでいる時の距離を、レティシアはよく分かっている。
「若様」
扉の前で控えていた兵が頭を下げる。
「クレイン殿の姉君ご夫妻と、遊戯の考案者が中でお待ちです」
「ああ」
ギルは頷き、扉へ手をかける前に、感知の範囲を少しだけ絞った。
近くにある魔力反応は、レティシアのものだけだ。
それ以外には近くには魔力反応はない。
予想通り平民か。
扉が開けた。
商談室の中には、既に三人が立っていた。
クレインの姉夫婦は以前よりいくらか落ち着いている。とはいえ、城内の商談室で若様を待つ緊張までは消せないらしく、姉は背筋を伸ばし、夫は手を揃えて立っていた。
その隣に、痩せた男がいる。
三十歳ほどだろうか。
頬は少しこけているが、不健康というほどではない。肩幅は広すぎず、腕も騎士のような太さではない。ただ、指が目についた。細いが節がしっかりしている。物を作る者の手だ。爪は短く整えられ、衣服も平民としてはかなり清潔だった。
男はギルを見ると、落ち着いた所作で頭を下げた。
「お初にお目にかかります。グリードと申します」
声は低すぎず、高すぎず、よく通った。
必要以上に震えていない。
それだけで、ギルは内心で少し目を細めた。
普通なら、もう少し緊張する。
平民が辺境伯家三男の前へ出され、しかも自分が考えた遊戯について聞かれるのだ。怯えろとは言わないが、硬くなるのが自然だ。クレインの姉夫婦でさえ、いまだにこちらの顔色を窺う気配がある。
だが、グリードにはそれが薄い。
礼儀は外していない。
油断しているわけでもない。
ただ、落ち着いている。
「ギルバートだ。座れ」
「恐れ入ります」
三人が席につく。ギルも向かいに座った。レティシアは静かに後ろへ回り、茶器の準備を始める。茶葉の香りが商談室の空気に混ざっていった。
「まず聞こう。お前が例の遊戯を考えた者で間違いないな」
「はい」
グリードは迷わず頷いた。
「城下で大工をしております。大した者ではございませんが、木の扱いだけは少しばかり慣れております」
「妻子はいるのか?」
「はい。妻と、子が二人おります。最初は子どもたちの遊び道具として作ったものでございました」
答えは滑らかだった。
用意していたようにも聞こえる。
だが、嘘をついているようには見えない。少なくとも、表情や声だけでは分からない。
クレインの姉が、持参していた包みを机の上に置いた。
「若様、こちらが遊戯盤でございます。グリード殿の作ったものの中でも、出来の良いものを持ってまいりました」
「ほう」
包みが解かれる。
中から出てきたのは、磨き込まれた木枠だった。
手に取ると、思ったより軽い。だが安っぽくはない。枠の角はきちんと丸められ、表面には薄い光沢がある。指先で撫でると、引っかかりがほとんどない。遊戯として使うだけでなく、置いておくだけでも少し見栄えがする。
続いて、七種類の駒が並べられた。
長いもの。
曲がったもの。
四角くまとまったもの。
奇妙な段差を持つもの。
形はそれぞれ異なるが、厚みは揃えられている。盤の中へはめ込むための寸法も正確だ。木片の角も丁寧に落とされ、手に持つと滑らかに収まった。
ギルは思わず笑った。
「なかなかの出来だな」
グリードは静かに頭を下げる。
「恐れ入ります」
その横で、クレインの姉夫婦は少しだけ表情を緩めた。自分たちが持ってきたものを褒められた安堵だろう。夫の方は、盤を見ながら口を開いた。
「私どもも、城下で売られているものを一つ購入して試してみました」
「どうだった」
ギルが尋ねると、夫は少し困ったように笑った。
「妻にまったく勝てませんでした」
「そうなのか」
「はい。私は考えすぎるようでして、駒を置く前に次を考えようとして手が止まります。妻は迷いなく置くのです」
クレインの姉は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「夫が考え込むので、その間に置き易い駒が見えてしまいまして」
「それは強そうだ」
ギルが笑うと、夫婦の緊張が少し緩んだ。
会話は和やかだった。
だが、ギルの意識はグリードから離れない。
グリードは必要以上に口を挟まない。姉夫婦が遊戯の話をする間、静かに聞いている。レティシアが茶を置くと、丁寧に礼を言い、茶器を扱う手つきも慌てていない。
平民としては落ち着きすぎている。
いや、腕のいい職人なら、貴族相手でも落ち着いている者はいるのかもしれない。だが、それにしても目が揺れない。こちらを見すぎるわけでも、避けすぎるわけでもない。
見ている。
観察している。
たぶん、俺がグリードを見ているのと同じように。
ギルは茶を一口飲み、遊戯盤へ視線を落とした。
「ふむ。俺もやってみるか」
クレインの姉がすぐに姿勢を正した。
「よろしければ、私がお相手いたします」
気遣いだろう。
平民である考案者や夫より若様を直接競わせるより、同じ平民でも自分が相手をした方が場が丸い。ギルが負けても笑いにできるし、勝っても問題ない。姉はそこまで考えているように見えた。
だが、今日の目的はそれではない。
「いや、せっかくだ。考案者に相手をしてもらおう」
空気が、ほんの少し硬くなった。
クレインの姉夫婦が同時にグリードを見る。夫の喉がわずかに動いた。グリードが無礼を働くのではないか。若様の機嫌を損なうのではないか。そんな不安が顔に出ている。
グリードは静かに頭を下げた。
「光栄でございます」
「手加減無用だ」
「承知いたしました」
その返事に、ギルは少しだけ笑った。
いい度胸だ。
遊戯盤が机の中央に置かれる。まずはグリードが駒を渡し、ギルが並べることになった。攻守を交代し、どちらがより早く、より隙間なく盤を埋められるかを競う。単純だが、説明を聞くだけで面白さは分かった。
グリードが最初の駒を持ち上げる。
渡す速度はゆっくりだ。
初心者への配慮か、それとも反応を見るためか。
ギルは受け取った瞬間、形を確認し、盤の隅へ置いた。次が来る。細長い駒。次は段差のある駒。頭の中で盤面の空白を追い、隙間を潰していく。
落ちてはこないし、もちろん消えもしない。
だが、駒を渡された瞬間に置き場所を判断する感覚は、やはり近い。
前世の記憶が勝手に指先へ出る。
ギルは駒を回し、滑らせ、時に一度置きかけてから角度を変えた。レティシアが後ろで静かに見ている気配がする。姉夫婦は思ったよりギルが迷わないことに驚いているようだった。
グリードは表情を変えずに次の駒を渡す。
「そういえば」
駒が手渡される。
「城下で最近流行っておりますハンバーガーは、ギルバート様がお考えになったとか」
静かな声だった。
ギルは盤面から目を離さなかった。
「暇つぶしに作っただけだ」
駒を置く。
空いた隙間へ次を入れる。
「あのような発想は、どこから?」
問いは柔らかい。
だが、ただの雑談ではない。
ギルは駒を受け取り、少しだけ間を置いた。考えているように見せてもいい。考えすぎているように見せてはいけない。
「作っている内に自然とな」
「それでは、私と同じでございますね」
ギルは顔を上げた。
グリードが微笑んでいる。
穏やかで、礼を失わない微笑み。
だが、目はこちらを真っ直ぐ見ていた。
探っているのか。
それとも、確認しているのか。
ギルはすぐに視線を盤面へ戻した。
「職人は大体そういうものだろう。作っている内に思いつく」
「仰る通りでございます」
グリードはそう返し、次の駒を渡してきた。
その後はしばらく、駒の音だけが響いた。
木が木に触れる軽い音。茶器の湯気。夕方の光。商談室の中で、ただの遊戯とは思えない緊張が薄く張っている。少なくともギルにはそう感じられた。
最後の駒を置く。
完全ではない。
だが、かなり埋まった。
ギルは盤面を見て、少しだけ満足した。
初めてにしては悪くない。
いや、初めてではない。前世の感覚が少し混じっている。
「素晴らしい」
グリードが静かに言った。
「初めてとは思えぬ腕前です」
「たまたまだ」
ギルは軽く流した。
姉夫婦は驚いた顔で盤面を見ている。レティシアは何も言わないが、ギルが妙に真剣になっていたことには気づいているだろう。
攻守が交代する。
今度はギルが駒を渡し、グリードが並べる。
ギルは最初の駒を選んだ。
単純な形ではない。
それでもグリードは受け取るとすぐに置いた。迷わない。置く場所に無駄がない。次を渡す。さらに次。ギルは少し意地の悪い順番を混ぜた。狭い隙間を先に作らせるような形。置きにくい曲がった駒。だがグリードは焦らなかった。
「このような遊戯を、よく考えたな」
ギルが言うと、グリードは盤面から目を離さずに答えた。
「たまたまでございます」
「たまたまにしては、よく考えられている」
「ありがとうございます」
駒が置かれる。
隙間が埋まる。
ギルは次の駒を手に取りながら、声を少しだけ軽くした。
「何か元になった遊戯はあるのか?」
グリードの手が、ほんのわずかに止まった。
一瞬。
本当に一瞬だった。
姉夫婦は気づかなかっただろう。レティシアはどうか。気づいただろうか?
グリードはすぐに駒を置いた。
「ええ。幼い頃、夢に見た遊戯を思い出しまして」
夢。
ギルはその言葉を頭の中で転がした。
夢に見た遊戯。
「ほう。面白い夢だな」
「はい。面白い夢でした」
グリードの声は揺れない。
表情も変わらない。
ただ、目だけが一度ギルを見た。
そこに何があったのか、ギルには断定できない。警戒か。期待か。探りか。あるいは、こちらがどう反応するかを見ているだけか。
盤面は、グリードの方が綺麗だった。
ギルが渡す駒の順番は決して甘くない。だが、グリードは無駄を抑え、空白を小さく整え、最後にはギルよりも隙間の少ない盤面を作り上げた。
終わった瞬間、クレインの姉夫婦が固まった。
平民が若様に勝った。
ただの遊戯とはいえ、場の空気が一瞬止まる。狭量な貴族なら不機嫌になってもおかしくない。夫婦がそれを恐れているのは、表情を見れば分かった。
ギルはあえて笑った。
「ふむ。俺の負けだな」
グリードは頭を下げた。
「恐れ入ります」
「さすが考案者だ。見事だ」
その言葉で、夫婦の肩から少し力が抜けた。
グリードは礼を保ったまま答える。
「いえ、ギルバート様も初めてとは思えぬ腕前でした」
またそれか。
ギルは内心で目を細めた。
褒め言葉だ。
同時に、確認でもある。
お前は本当に初めてなのか、と。
ギルは笑みを崩さなかった。
「楽しかった。今日はご苦労だったな。感謝する」
「もったいないお言葉でございます」
「下がっていい」
三人が立ち上がる。
クレインの姉夫婦は深く頭を下げた。グリードも同じように礼をする。違いはわずかだ。姉夫婦の礼には安堵が混じっている。グリードの礼は、最後まで整っていた。
扉へ向かう直前、グリードが一瞬だけこちらを見た。
短い視線だった。
だが、ただの礼ではない。
ギルは何も返さなかった。
扉が閉まり、商談室に静けさが戻る。
レティシアが片づけに入る前に、ギルは遊戯盤へ手を伸ばした。
「これは持って帰る」
「はい」
レティシアの声は落ち着いていた。
「若様」
「なんだ」
「面白い方でしたね」
「ああ」
ギルは遊戯盤を包み直しながら答えた。
「かなりな」
自室へ戻る頃には、夕方の光はさらに深くなっていた。
窓の外の城下には灯りが増え始めている。自室ではダリアが待っていた。ギルが遊戯盤を机に置くと、彼女はすぐに興味を示した。
「これが例の遊戯ですか?」
「ああ。やってみるか」
ダリアの目が少しだけ明るくなる。
レティシアも静かに袖を整えた。
「わたくしも、よろしいでしょうか」
「もちろんだ」
ギルは盤を広げ、駒を並べた。
まずはレティシアとダリアが試すことになった。レティシアは商談室で一度見ている分、飲み込みが早い。ダリアは最初こそ駒の形を確かめる時間が長かったが、二度、三度と置くうちにすぐに要領を掴み始めた。
木片が盤の中で軽く鳴る。
レティシアは迷いが少ない。置く前に形を見て、盤面の空白を整える。ダリアは少し慎重だが、一度読めば無駄がない。二人とも性格が出る。見ているだけでも面白かった。
だが、ギルの頭は別のところにあった。
グリード。
魔力反応はない。
平民。
三十歳ほどの大工。
妻子持ち。
子どものためにたまたま遊戯を考えた。
それがたまたま城下で流行った。
そこだけ見れば、何もおかしくない。
だが、あの態度。
ハンバーガーへの質問。
「私と同じ」という言葉。
「夢に見た遊戯」という言葉。
そして、初めてとは思えないとこちらを褒めた目。
ほぼ間違いない。
少なくとも、グリードは何かを知っている。
互いに言葉を避けたまま、盤面と駒の上で探り合っただけだ。
それで十分だった。
グリードは頭が切れる。
平民としての立場を守り、貴族であるギルの機嫌を損なわない範囲で、こちらを探ってきた。危険を理解している。自分の言葉一つで首が飛ぶ可能性を分かっている。それでも、必要な確認はしてきた。
敵対する意思は、今のところ見えない。
レティシアの駒が、盤の隅へ滑り込む。
「そこは上手いな」
「先ほど、グリード殿が似た置き方をしておりましたので」
やはり見ていたか。
ギルは少し笑った。
ダリアが悔しそうに次の駒を選ぶ。
「これは難しいですね。置けないと思ったところに、次が入りました」
「それが面白いんだろうな」
「ギル様は、これを見て何か考えておられますね」
ダリアが盤面から目を上げた。
鋭い。
レティシアもこちらを見ている。
ギルは少しだけ肩をすくめた。
「面白い遊戯だと思ってな」
「それだけでしょうか」
レティシアの声は静かだった。
責めているわけではない。
「考案者もなかなか面白いな」
二人はそれ以上聞かなかった。
ありがたい。
グリードをどう扱うか。
また呼び出すか。
しばらく城下で様子を見るか。
遊戯盤を売る手を広げさせるか。
木材や道具を少し融通してやるか。
選択肢はいくつもある。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。
あの男は、ただの平民として見下ろしていい相手ではない。
前世を思い出させる遊戯を作り、貴族を前にしても崩れず、こちらを探るだけの度胸がある。しかも妻子を持ち、大工としての腕もあり、城下で正当に居場所を作っている。
なら、多少の援助はしてみるか。
面白そうだしな。
もちろん、目は離さん。
レティシアが最後の駒を置いた。
盤面には少しだけ隙間が残ったが、初めてにしてはかなり綺麗だった。
「すごいですね」
「運が良かっただけです」
レティシアはそう言ったが、目は少し楽しそうだった。
ギルは二人の盤面を見ながら、もう一度グリードの視線を思い出した。
退出前にこちらを見た、あの一瞬。
何かを期待しているようにも見えた。
何かを恐れているようにも見えた。
あるいは、こちらの出方を待っているだけかもしれない。
さて。
どうするか。
ギルは遊戯盤の木枠を指先で軽く叩いた。
小さな音が、自室の中に乾いて響いた。




