第九十一話 見覚えのある遊戯
ひと月ほど、城の中には穏やかな忙しさが戻っていた。
完全に平和というわけではない。国境の報告は変わらず届くし、王都からの書状も途切れない。父上がまだ王都にいるせいで、上層部の顔は時々渋くなる。善良王の話題になると、老文官も老武官も笑っていいのか怒っていいのか分からない顔をするし、帝国の新皇帝に関する報告が来れば、会議室の空気は自然と重くなる。
それでも、俺の周りだけを見れば、かなり良い日々だった。
朝はレティシアの茶で目を覚まし、昼は書類や生産拠点の報告を片づけ、夜はレティシア、ダリア、リエリエールの誰かと過ごす。三人とも違う。違うから良い。レティシアはもう完全に馴染んでいるどころか、最近は時々こちらの予想を越えてくる。ダリアもほとんど遠慮がなくなり、帝国出身の平民である事を気にする顔は、ふとした瞬間にしか見えなくなった。リエリエールはまだ少し初々しい部分が残っていて、それがまた危険だった。
俺は体調も良い。
かなり良い。
良すぎて少し怖いくらいだ。
ダリアとリエリエールも、俺の紋章を受け入れてくれた。
ダリアの時は、平民であることや専属使用人としての立場もあって、レティシアとはまた違う重さがあった。リエリエールの時は、さらに別の難しさがあった。彼女は以前、皇帝の長男の側にいた女だ。当然、すでに別の紋章を刻まれていた。
それをどうするかで、少し悩んだ。
レティシアへそれとなく聞いたところ、多くの場合は上から新たな紋章を重ねるらしい。古い紋章を完全に消すだけの治癒魔法が使えないことが多いからだそうだ。
なら、俺は消せばいい。
そう思った。
もちろん、簡単ではなかった。女の肌に刻まれたものを消すというのは、紙の汚れを拭うのとは違う。治癒魔法で乱暴に触れれば、傷になるかもしれない。痛みを与えるかもしれない。リエリエールは静かに受け入れてくれたが、俺の方が妙に緊張した。
それでも、古い紋章をきっちり消し去ってから、俺の紋章を刻ませてもらった。
相変わらず野蛮な風習だと思う。
愛する女の身体に所有の証を刻むなど、前世の感覚なら完全におかしい。だが、その一方で、相手が完全に自分のものになる感覚は、正直、素晴らしかった。
所詮、俺もこの世界の貴族らしく野蛮になってきているのかもしれない。
いや、元からか。
そんなことを考えながらも、レティシア、ダリア、リエリエールが三人で自然に言葉を交わしているところを見ると、胸の奥が落ち着いた。レティシアは若様付きとして部屋の中心を整え、ダリアは実務の細かな穴を埋め、リエリエールはまだ控えめながらも、貴族女性らしい柔らかな間合いで二人の会話に入る。そこへノエルが付き、時々レアが白い綿毛を揺らして邪魔をする。
悪くない。
いや、かなり良い。
数日前には、王都にいる父上から書状も届いた。
ようやく王都での外交が終わり、こちらへ戻るという内容だった。相変わらず無駄の少ない書状で、王都の空気、善良王の動き、国境側への注意、帰還予定が簡潔に書かれていた。
リエリエールについては、特に触れられていなかった。
俺はそれを、問題ないという意味だと受け取ることにした。
悩んでも仕方ない。
父上が帰ってきたら、何か言われるかもしれない。言われないかもしれない。どちらにせよ、その時に考えればいい。
なお、レアは少し成長した。
見た目はまだ白い綿毛の雛鳥寄りだが、足取りはしっかりしてきたし、嘴でつつく力も強くなっている。相変わらず俺しかつつかない。レティシアやダリアだけじゃなく、リエリエールやノエルにまでも可愛らしく寄っていくのに、俺には足先を狙ってくる。
今朝も靴の先を何度もつつかれた。
「お前、絶対に分かってやってるだろ」
そう言うと、レアは丸い目で見上げ、何も知らない顔で首を傾げた。
いや、分かってんだろ、おまえ。
そんな平和な日々の中で、俺はクレインの姉夫婦を城へ呼んだ。
会ったのは、城の中でも重すぎない商談用の部屋だった。正式な謁見室ではないが、平民を雑に扱うような場所でもない。厚い机があり、椅子は質素だが座り心地は悪くない。窓からは城下の一部が見え、昼の光が床に長く落ちている。
レティシアは俺の後ろに控え、茶器の用意をしていた。
クレインの姉夫婦は、最初に会った時より少しだけ落ち着いて見えた。それでも城内へ呼ばれた緊張は消えていない。姉の方は背筋を伸ばし、夫の方は膝の上で手を揃えている。平民が貴族家の若様と向かい合って座るのだ。慣れろと言う方が無理だろう。
「今日は咎めるために呼んだわけではない」
まずそう言うと、二人の肩がわずかに下がった。
「頼みたいことがある」
「私どもに、でございますか」
クレインの姉が慎重に答える。
「ああ。南部諸国と交易している商人を探してほしい」
二人は顔を見合わせた。
南部諸国。
王国から見れば遠い。帝国の南に存在する国々で、マバール領から直接どうこうする相手ではない。だが帝国へ入る商人の中には、南部諸国の品を扱う者がいる。俺が欲しいのは、その道だ。
「何か、お探しの品があるのでしょうか」
夫の方が尋ねた。
声は少し硬い。
だが、聞くべきことは聞いてきた。
良い。
「これだ」
俺は机の上に小さな容器を置いた。
蓋を開けると、独特の香りがふわりと広がる。豆を発酵させたような、塩気と深みのある匂い。帝都で手に入れた、前世の味噌や醤油に似た豆調味料だ。
クレインの姉が少し身を乗り出し、夫も目を細めた。二人とも香りを確かめるだけで、勝手に触れようとはしない。
「調味料……でしょうか」
「ああ。帝都で手に入れた。生産拠点の職人や城の調理人にも見せたが、同じものを作るのは難しいらしい」
正確には、似たものなら作れそうだが、安定させるには時間がかかる、という話だった。豆、塩、水、発酵。言葉にすれば単純でも、実際には簡単ではない。前世知識があっても、細かな菌だの温度だのまでは俺には全然分からない。
なら、今は仕入れる方が早い。
「どの程度ご入用なのでしょうか」
夫が聞いた。
その問いに、俺は少しだけ目を細める。
良い質問だ。
どこで売っているか分かりません、ではなく、量を確認してきた。探す難易度、運ぶ手間、商人への話の通し方、値段。その辺りを考え始めているのだろう。
「可能なら、ある程度の量を定期的に欲しい」
「つまり、切れる前に次が入ればよい、ということでしょうか」
「うむ。毎日大量に使うわけではない。だが、調理人にも試させたいし、生産拠点でも保存や使い方を調べたい。あまり少量だけでは困る」
「分かりました」
夫は一度だけ姉の方を見た。
姉も静かに頷く。
「必ずとはお約束できません。ですが、南部諸国の品を扱う商人を探し、可能な限り手配いたします」
「ああ。期待している」
俺は素直にそう答えた。
この夫、なかなか優秀だ。
完全な平民だ。しかも、相手は辺境伯家の若様。下手なことを聞けば不興を買うかもしれない。そう考えれば、一つ質問するのも命懸けに近いはずだ。それでも必要なら聞く。聞かずに失敗する方が問題だと分かっている。
気に入った。
クレインの姉も悪くない。夫が質問する時、止めずに隣で支えている。どちらか一人だけが強いわけではなく、夫婦として噛み合っている感じがした。
用件が一段落すると、レティシアが茶を淹れた。
夫婦は恐縮しながら茶器を受け取る。特に夫の方は、飲んでいいのか、置いておくべきなのか、わずかに迷っているようだった。
「飲め。毒は入ってない」
そう言うと、夫の顔が少し引きつった。
「若様」
レティシアが静かに呼ぶ。
「冗談だ」
「平民には刺激が強すぎます」
「すまん」
俺が軽く謝ると、夫婦はさらに困った顔をした。貴族に謝られるのも、それはそれで対応に困るらしい。
まあ、そうだよな。
俺は茶を一口飲み、話題を変えることにした。
「城下で何か面白い話はあるか?」
夫婦は少しだけ顔を見合わせた。
今度は姉の方ではなく、夫が先に口を開いた。
「面白い話、でございますか」
「噂でいい。商人や職人の耳に入るような話だ」
「そうですねえ……」
夫は茶器を置き、少し考えた。
「ああ、領外の話で恐縮ですが」
「構わん」
「少し離れた温泉地に、謎の貴族らしき若者が美女数人を伴って訪れた、という話が流れております」
口の中の茶が、一瞬止まった。
「ほ、ほう」
視線が泳ぎそうになるのを、なんとか抑える。
だが、完全には無理だったかもしれない。
レティシアの気配が、後ろでほんの少しだけ動いた。
動いただけだ。
何も言わない。
だが、視線がこちらへ来たのは分かった。
「まあ、貴族が温泉へ行くことくらいあるだろう」
「はい。それだけなら珍しくはないのですが、夜に山中で大きな音がしたそうで」
夫は真面目な顔で続ける。
「翌日には山の形が少し変わったとも聞きました。何かあったのではないか、という噂です」
「そうか」
俺は茶器を置いた。
ゆっくりと。
静かに。
何もしていない顔で。
何もしていないわけではないが。
レティシアの視線がまだ刺さっている気がする。いや、刺さってはいない。たぶん静かに見ているだけだ。だが、その静かさが一番怖い。
「領外の話だし、あまり関係ないな」
俺はあえて軽く言った。
「それより、他に城下の話はあるか」
夫婦は温泉の話が俺に関係あるとは思っていない。だから、話題を逸らしたことにも深い意味は感じなかったようだ。だが、レティシアは違う。後ろで茶器を整える音が、いつもより少しだけ丁寧になった。
後で何か言われるかもしれない。
いや、言われないかもしれない。
言われない方が怖い。
そんなことを考えていると、クレインの姉が「あ」と小さく声を漏らした。
「そういえば、最近城下で新しい遊戯が流行っております」
「遊戯?」
少し興味が出た。
「どんなものだ?」
「木の枠を使うものです」
姉は言葉を選びながら説明し始めた。夫も隣で補足する。
木で作られた四角い枠がある。
そこへ、いくつかの決まった形をした木片をはめていく。
ただし、木片は自分で選べない。相手が無秩序に渡してくる。受け取った側は、その形を見て素早く置き場所を決め、隙間ができないように組み合わせる。早く枠を埋められた方が勝ちになる。
交互に攻守を入れ替え、どちらが上手く組めるかを競うらしい。
最初は子どもの遊びに近かったが、最近では職人や若い商人たちまで熱くなっているという。形の種類が増えると難しくなり、渡す側が意地悪な順番で出すと、受ける側はかなり頭を使うそうだ。
俺は黙って聞いていた。
茶の香りが遠くなる。
木枠。
決まった形の部品。
相手から無秩序に渡される。
素早く配置し、隙間なく組み合わせる。
列が揃って消えるわけではない。落下もしない。だが、発想の根っこが妙に引っかかる。
落ちゲー。
前世でそう呼ばれていたものを思い出した。
もちろん、同じではない。木製の枠と木片だけで成立するように変わっている。落下する仕組みもないし、列を消す概念もない。だが、特定の形を次々に処理し、空間を埋める遊びという部分が、やけに近いように感じる。
偶然か?
簡単な発想ではある。
木片遊びから自然に生まれても不思議ではない。職人が端材で作った可能性もある。商人が暇つぶしに考えたのかもしれない。子どもの遊びが発展しただけかもしれない。
だが、引っかかる。
かなり引っかかる。
「ほう」
俺はできるだけ軽い声を出した。
「なかなか面白そうだな。俺もやってみたい」
夫婦の顔が少し明るくなる。
「では、次に城へ伺う際にお持ちいたします」
「ああ。代価は払う。良い出来のものを頼む」
「承知いたしました」
俺は茶器へ指を添えたまま、何気ないふりで続けた。
「その遊戯を考えた者は?」
夫婦は揃って首を傾げた。
「さあ……いつの間にか城下で流行っておりましたので」
「最初にどこで見た?」
「職人通りの方だったと思います。ただ、商人の子どもたちも遊んでおりましたし、今ではあちこちで似たものを見かけます」
「なるほど」
広がりが早い。
それだけ単純で面白いのだろう。
あるいは、広め方が上手い者がいる。
俺は笑みを作った。
「ついでに、その遊戯を考えた者も探しておいてくれ」
「考えた者、でございますか」
「ああ。知恵者なら会ってみたい」
あくまで軽く言う。
重く聞こえないように。
若様が面白い遊戯に興味を持っただけ。
そう聞こえるように。
夫婦は特に疑う様子もなく、深く頭を下げた。
「承知いたしました。遊戯と併せて調べてまいります」
「頼む」
それで商談は終わった。
豆調味料の話。
南部諸国の商人。
温泉の噂。
そして、木枠の遊戯。
夫婦を下がらせると、部屋の中に静かな空気が残った。レティシアが茶器を片づける音だけが響く。ギルはしばらく窓の外を見ていた。
「若様」
「なんだ」
「温泉地の噂は、ずいぶん面白いお話でしたね」
声は穏やかだった。
非常に穏やかだった。
「あれは領外の話だ」
「はい」
「関係ない」
「そうでございますね」
レティシアは微笑んでいた。
怒ってはいない。
たぶん。
ギルはそれ以上何も言わず、立ち上がった。
自室へ戻る廊下は、いつもと同じはずだった。だが、頭の中では木枠と木片が何度も組み上がっては崩れていた。温泉の噂も少し痛いが、それよりも遊戯の方が気になる。
自室に戻ると、レアが窓辺で羽繕いをしていた。こちらを見るなり、白い綿毛がぴょこぴょこと近づいてくる。そして俺の足先を一度つついた。
「今はやめろ」
レアはもう一度つついた。
こいつは本当に遠慮がない。
ギルは椅子に座り、机に肘をついた。
木枠。
木片。
無秩序に渡される形。
隙間なく組む遊び。
偶然かもしれない。
この世界の誰かが普通に思いついただけかもしれない。
だが、胸の奥がざわつく。
前世の記憶を持つ俺だから引っかかるのか。
それとも、本当に引っかかるべき何かがあるのか。
ギルは指先で机を軽く叩いた。
まさか。
まさか、俺以外にも存在するのか?
その疑問は、しばらく消えなかった。




