第九十話 浮かれてはいけない朝
目が覚めた時、柔らかな感触に包み込まれたギルはしばらく動かなかった。
窓布の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。自室の天井ではない。見慣れた石壁でもない。寝台の沈み方も、掛け布の匂いも、いつもの部屋とは少し違っていた。
それなのに、不安はなかった。
すぐ近くで、静かな寝息が聞こえる。
ギルはゆっくりと顔を上げた。
リエリエールが眠っていた。
白金の髪が肩へ流れ、朝の光を受けて淡く光っている。昨夜、あれほど大人びた微笑みを見せていた女が、今は目を閉じ、力の抜けた表情で眠っていた。その横顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた余韻が、ゆっくりと形を持った。
リエリエールは俺の女になった。
その言葉は、思ったより重く、思ったより甘かった。
レティシアとも違う。
ダリアとも違う。
同じ「女」と言っても、触れる空気も、こちらを包む温度も、近くで感じる呼吸も、それぞれまったく違う。レティシアには、帰る場所のような柔らかさがある。ダリアには、しなやかで現実に足をつけた強さがある。リエリエールには、静かに受け止められるような、不思議な深さがあった。
うーん。
俺もそれなりに経験を積んできたつもりだったんだが。
まだまだ修行不足だな。
妙な方向へ思考が転がりかけ、ギルは小さく息を吐いた。真面目に考えることではないのかもしれない。だが、真面目に考えてしまう程度には、昨夜のリエリエールは見事だった。
見事という言葉が合っているのかは分からないが。
ただ、自分が知らなかった扉を開かれたような感覚だけはあった。
寝台の中で身じろぎすると、リエリエールの髪がわずかに揺れた。ギルは動きを止める。起こしたくなかった。彼女は魔力封印を受け、帝国から離れ、マバール城でようやく少し落ち着き始めたばかりだ。昨夜だって、きっと平然としていたわけではない。
彼女には、彼女の過去がある。
帝国での立場。
名門貴族としての時間。
失ったもの。
抱えているもの。
ギルが知らないことは多い。
だが、それを今ここで聞き出す気にはなれなかった。惚れた女の過去を根掘り葉掘り聞くのは、真の漢のとる態度ではない。少なくとも、今の俺がやることではない。
上層部が何か言うかもしれんが。
まあ、それは後で考えよう。
ギルがそんなことを考えていると、リエリエールの睫毛が小さく震えた。
碧い瞳が、ゆっくりと開く。
視線が合った。
リエリエールは一瞬、夢の続きでも見ているような顔をした。それから、昨夜のことを思い出したのだろう。白い頬に、見る間に薄い赤みが差した。
「おはようございます、ギルさま」
声は、まだ少し眠りを含んでいた。
昨夜よりずっと柔らかい。
「おはよう、リエリエール」
自然に名前を呼ぶと、リエリエールの頬がさらに赤くなった。目を伏せ、けれど唇には小さな笑みが浮かぶ。
なんだ、この可愛い生き物は。
年上なのになぁ。
ギルは内心で首を傾げた。昨日までは、大人の貴族女性という印象が強かった。もちろん今もそうだ。だが、名前を呼ばれただけで頬を染める姿は、年齢や立場とは別の場所でこちらを揺らしてくる。
「よく眠れたか?」
「はい。……少し、眠りすぎたかもしれません」
「疲れていたんだろう。今日は休んでいてくれ」
ギルがそう言うと、リエリエールは起き上がろうとしていた手を止めた。
「ですが、ギルさまのお支度を」
「いい。俺は自分でできる」
「けれど」
「朝食も部屋に運ばせる。ノエルにもそう伝える。だから、今日はゆっくりしろ」
リエリエールはしばらくギルを見ていた。
その目には、嬉しさと戸惑いが混じっているように見えた。断定はできない。ただ、拒まれているわけではないことは分かる。
「……ありがとうございます」
静かな声だった。
その声を聞いていると、もう少しここにいたくなる。
危ない。
非常に危ない。
このままでは朝から部屋を出られなくなる。
ギルは意識して寝台から離れ、身支度を整えた。リエリエールは何度か手伝おうとしたが、そのたびに視線だけで止める。彼女は困ったように微笑み、最後には大人しく掛け布を胸元へ寄せて座っていた。
その姿も危険だった。
ギルは見ないようにして、見ないようにしすぎるのも不自然だと思い、結局少し見てしまった。
うん。たわわだな。
駄目だ。
早く出よう。
寝室を出ると、控えていたノエルが静かに頭を下げた。
その表情は崩れていない。だが、目元はすべてを理解しているように見えた。さすが専属使用人だ。主人の変化を見逃すはずがない。
「リエリエールは疲れている。今日は休ませる」
「はい」
「朝食は部屋へ運ばせる。お前の分もだ。あとは頼んだぞ」
ノエルの礼が深くなった。
「お任せくださいませ」
短い返事だった。
けれど、その声には安堵があったように聞こえた。
ギルは軽く頷き、部屋を出た。
廊下へ出た瞬間、朝の冷えた空気が頬に触れる。リエリエールの部屋に残っていた柔らかな匂いが遠ざかり、代わりに石壁と灯火の油の匂いが戻ってきた。
浮かれるな。
ギルは心の中で言い聞かせた。
浮かれてはいけない。
普通に歩け。
いつも通りだ。
ただ少し、朝帰りなだけだ。
いや、貴族家の若様として朝帰りという言葉が適切かは分からない。少なくとも褒められるようなものではない気がする。だが、この城の上層部はたぶん怒らない。むしろ喜ぶ可能性が高い。
問題は、レティシアとダリアだ。
怒らないはずだ。
たぶん。
いや、怒らないとは思う。
思うが、まったく何も感じていないということはないだろう。
ギルは自室の前で一度足を止めた。扉はいつも通り閉まっている。中にいる二人の気配は、音で何となく分かる。茶器の触れる小さな音。布を置く音。どちらも普段通りだ。
普段通りすぎるのが、逆に怖い。
ギルは静かに扉を開けた。
「おはようございます、若様」
レティシアがこちらを見て微笑んだ。
いつも通りだ。
柔らかな声。整った礼。机の上には茶器が置かれ、湯気が細く上がっている。
「ギル様、おはようございます」
ダリアも棚の前から振り返った。手には新しい服がある。すでに今日の支度が整えられていた。
「お、おはよう」
少しだけ声が揺れた。
自分でも分かった。
レティシアは何も言わず、茶を淹れ始めた。ダリアも何も言わず、着替えを椅子の背へ掛ける。二人の動きは自然だった。自然すぎる。昨夜俺がどこで過ごしたかなど、最初から知っていたかのような自然さだった。
いや、知っているのだろう。
たぶん、全部。
ギルは椅子へ座ったが、背中が落ち着かない。レティシアが茶を差し出す。その手つきもいつも通りだ。指先は白く、動きに無駄がない。ダリアは少し離れた位置で、袖や襟元の状態を確かめている。
何も言われない。
だからこそ、居心地が悪い。
「その、だな」
結局、ギルの方から口を開いた。
レティシアの視線が静かに上がる。ダリアも手を止めた。
「リエリエールを……愛した」
言葉にしてから、少し喉が熱くなった。
逃げるような言い方にはしたくなかった。だから、短く言った。昨夜何があったかを細かく言う必要はない。だが、曖昧に誤魔化すのも違う。
「もちろん、レティシアとダリアへの気持ちが変わるわけじゃない」
レティシアはすぐに頷いた。
「はい。分かっております」
ダリアも柔らかく微笑む。
「おめでとうございます、ギル様」
おめでとうございます。
その言葉が、思ったより素直に胸へ入ってこなかった。
ギルは茶器を持ったまま、少しだけ眉を寄せた。
「もう少しくらいは、嫉妬してもいいんだぞ」
言ってから、少し子どもっぽかったかと思った。
だが、もう遅い。
レティシアは微笑みを崩さなかった。
「はい。嫉妬しております」
にっこり。
柔らかく、見事な笑顔だった。
なのに、背筋が伸びる。
ダリアも同じように微笑んだ。
「分かっております、ギル様」
「そ、そうか」
「はい」
レティシアは茶器を置き、静かに続けた。
「少し嫉妬はしております。ですが、リエリエール様とのことは、良いご縁だと思います」
「良いご縁?」
「はい。若様が雑に扱われたのであれば、わたくしは怒ったと思います」
声は穏やかだった。
だが、嘘ではない。
ギルは少しだけ息を止めた。レティシアが本気で怒る姿は、そう多くない。だが、もしリエリエールを軽く扱っていたなら、今のこの静かな目で詰められていたのだろう。
「雑には扱ってない」
「存じております」
即答だった。
その信頼が、少し重く、少し嬉しい。
ダリアも服を整えながら言った。
「ギル様は、リエリエール様を保護した女としてではなく、一人の方として見ていらっしゃったと思います。だから、心配はしておりません」
「よく見てるな」
「部屋におりますので」
当たり前のように言われた。
ギルは茶を飲む。
少し熱い。
けれど、その熱さのおかげで顔の緩みを誤魔化せた気がした。
気がしただけかもしれない。
足元で小さな気配が動いた。
レアだった。
白い綿毛が机の下から出てきて、ギルの足元を回り込む。そして当たり前のように椅子の横へ来ると、足先を狙って嘴を伸ばした。
一度。
二度。
三度。
「いや、お前は関係ないだろう」
レアは丸い目でこちらを見上げ、さらに一度つついた。
いつもの倍くらいしつこい。
何だ。
祝いか。
文句か。
それとも単に生意気なだけか。
ギルが足を引くと、レアはレティシアの方へ歩き出した。レティシアが当然のように小さな頭を撫でる。レアは羽をふくらませ、満足そうにしていた。
やはり生意気だ。
着替えを済ませ、朝食へ向かう準備をしている途中で、ギルはふと思い出した。
「リエリエールとノエルの朝食を部屋へ運ばせてくれ」
「すでに手配済みです」
レティシアの返答は早かった。
早すぎた。
ダリアは横で、少しだけ目を細めて微笑んでいる。
「……そうか」
「はい」
「うん」
ギルは短く頷いた。
敵わん。
本当に敵わん。
この二人には、俺が考えるより先に動かれる。しかも、それがだいたい正しい。若様としての威厳を保つには、少し困る相手だった。
だが、悪くない。
かなり良い。
ギルは二人を連れて、朝食へ向かうことにした。
その頃、城の奥にある小部屋では、数人の上層部が集まっていた。
部屋自体は広くない。大きな会議をする場所ではなく、内々の確認や急ぎの相談に使われる部屋だ。机には書類が広げられているが、その上に置かれた茶器の数がやけに多い。窓から入る朝の光は穏やかで、普段なら固い話をする者たちの顔も、今朝ばかりは少し緩んでいた。
老文官は書類へ目を落としているふりをしていた。
だが、口元が隠しきれていない。
「ギルバート様は、昨夜リエリエール殿の部屋へお泊まりになったそうですな」
その声は、まったく困っていなかった。
むしろ楽しそうだった。
向かいの老武官は、茶を一口飲み、満足げに頷いた。
「うむ。ギルバート様なら、一晩泊まって何もないなどありえんだろう」
「まったくですな」
老文官は書類を一枚めくった。
めくっただけで、読んではいない。
「騎士家の娘、平民の娘、そしてついに貴族女性か」
「少々、帝国の色が濃いがな」
老武官はそう言いながらも、顔は笑っていた。
「なに、すぐに染まるだろうて」
「そうだな。ギルバート様の近くに置けば、嫌でもマバールの空気に慣れる」
「慣れるだけで済めばよいが」
二人はそこで顔を見合わせ、どちらともなく低く笑った。
メイド長は少し離れた席で茶器を置いた。表情は整っているが、目元には呆れがある。
「お二人とも、浮かれすぎでございます」
「浮かれてはおらん」
老文官が即答した。
「浮かれております」
メイド長も即答した。
老武官が咳払いをする。
「いや、これはマバール家にとって重要な話だ。ギルバート様が女を増やされるのは、家にとっても喜ばしい」
「それ自体は否定いたしません」
メイド長は淡々と言う。
「ですが、ギルバート様へ重圧を掛けすぎぬようご注意ください」
「分かっておる」
「分かっておられる顔には見えません」
老文官は少し肩をすくめた。
だが笑顔は消えない。
「しかし、お館様には知らせねばなるまい」
「それは必要でしょうな」
老武官も頷く。
「リエリエール殿は血統も振る舞いも申し分ない。帝国に連なる点は扱いが難しいが、ギルバート様の手元に収まったなら話は変わる」
「子を成すことも期待できる」
老文官の声は明るかった。
メイド長は眉をわずかに寄せた。
「先走りすぎです」
「可能性を考えているだけだ」
「考える顔が楽しそうすぎます」
老武官が茶器を置く。
「いっそのこと、城下にギルバート様の別邸を用意するか」
メイド長の指が止まった。
「早すぎます」
「だが、いずれ必要になるだろう。レティシア、ダリア、リエリエール殿。今後さらに増える可能性もある」
「なぜ増える前提なのですか」
「ギルバート様だからだ」
老文官と老武官が同時に言った。
メイド長は深く息を吐いた。
反論したい。
したいが、完全には否定しきれない。
ギルバート様は、綺麗な女性に弱い。これは城内上層部の共通認識になりつつある。しかも、ただ遊ぶだけではなく、手元に置いた女を意外なほど大切に扱う。だからこそ、周囲も止めにくい。
別邸。
使用人。
護衛。
将来、子が生まれた場合の世話役。
考えるべきことは多い。
メイド長は、先走りすぎだと分かっていながら、頭の中で必要な人員を数え始めている自分に気づいた。
それに気づいて、少しだけ口元が緩む。
「メイド長殿も、笑っておられるではないか」
老武官に指摘され、メイド長はすぐに表情を戻した。
「気のせいです」
「そういうことにしておこう」
老文官は満足そうに頷き、ようやく書類へ目を落とした。
だが、その目はまだ文字を追っていなかった。
若様が健やかに成長している。
それだけで、この部屋の空気は十分に明るかった。
同じ頃、ギルは朝食の席にいた。
皿の上には焼いた肉、柔らかいパン、温かいスープが並んでいる。いつも通りの朝食だ。味も悪くない。むしろ美味い。だが、今日は味よりも、自分の顔が緩んでいないかの方が気になった。
浮かれるな。
ギルはパンを千切りながら、自分に言い聞かせる。
浮かれてはいけない。
昨夜リエリエールを愛した。
朝、彼女の赤くなった顔を見た。
レティシアとダリアに受け入れられた。
それだけだ。
いや、それだけではない。
かなり大きい。
かなり嬉しい。
スープを口へ運ぶ。熱さがちょうどよく、胃に落ちると身体がゆっくり温まった。
向かいではレティシアが静かに控え、ダリアが必要なものを整えている。二人とも何も言わない。だが、分かっている。絶対に分かっている。俺が平静を装っていることも、少し浮かれていることも、たぶん全部見抜いている。
ギルはパンを千切る手を少し引いた。
ギルはため息を吐き、パンを口へ運んだ。
浮かれるな。
そう考えながらも、口元が緩みそうになる。
それを隠すために茶を飲む。
茶器を置いた時、レティシアの目がわずかに笑っていた。
ダリアも、見ていないふりをしながら口元が柔らかい。
ギルは諦めた。
敵わんな。
本当に敵わない。
それでも、悪くない朝だった。
たくさんの方に読んでいただきありがとうございます。
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