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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第八十九話 近く感じる名


 リエリエールの部屋へ向かう廊下で、俺は自分の足音がいつもより少し硬いことに気づいた。


 石造りの廊下は昼の光を受けて、窓の近くだけが淡く明るい。外からは訓練場の声が遠くに聞こえ、どこかで使用人が布を運ぶ気配もあった。マバール城の中では、誰かが常に動いている。城は眠らない。俺もその中を何度も歩いているはずなのに、今日に限っては妙に落ち着かなかった。


 別に、戦場へ向かうわけではない。


 帝国騎士が待っているわけでもなければ、赤布を巻いて誰かの首を取りに行くわけでもない。ただ、保護している貴族女性の部屋へ行き、茶を飲み、不自由がないか聞くだけだ。何もおかしくない。むしろ、引き受けた者として当然の確認だ。


 そう自分に言い聞かせても、胸の奥は少しだけ騒がしかった。


 何なんだ、これは。


 俺は軽く息を吐き、歩調を整える。


 女一人と話すだけで緊張してどうする。


 いや、ただの女一人ではない。リエリエールだ。白金髪で、碧眼で、名門貴族の気配をまとった、これまで俺の近くにはいなかった種類の美人。しかも、俺が保護している女で、俺が欲しいと思ってしまった女。


 そこまで考えて、余計に落ち着かなくなった。


 駄目だ。


 まずは話すだけだ。


 見るだけでは済まない気がする、などと考えるな。済ませる努力をする。努力は大事だ。そう言ったのは俺だ。


 部屋の前には、控えめに立つ使用人が一人いた。こちらを見ると、すぐに頭を下げる。扉の前で一度足を止めると、中へ声が掛けられた。返ってきたのはノエルの声だった。


 扉が開く。


「ギルバート様」


 ノエルが深く礼をした。帝国から来た専属使用人らしい所作は、まだマバール城の使用人とは少し違う。けれど最初に見た時より、肩の力は抜けているように見えた。ダリアやレティシアがうまく支えてくれているのだろう。


「邪魔する」


「お待ちしておりました」


 ノエルが脇へ下がると、部屋の奥でリエリエールが席を立った。


 その姿を見た瞬間、喉の奥で息が少し止まった。


 派手な装いではない。むしろ、城内で保護されている立場にふさわしい、控えめな衣服だ。だが、淡い色の布は彼女の白金の髪を柔らかく引き立て、窓から入る光が輪郭を静かに縁取っている。碧い目は穏やかで、唇には微笑みがある。儚げに見えるのに、ただ弱いだけではない。立ち上がる姿勢、手の位置、視線の置き方に、名門の女として叩き込まれたものが残っていた。


 やはり、美人だ。


 かなり、まずい。


「お越しくださり、ありがとうございます」


 リエリエールはそう言って、丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ、急に時間を取らせてすまない」


「いいえ。お声を掛けていただけて、嬉しく思っております」


 声も良い。


 落ち着いているのに、冷たくない。柔らかいのに、媚びていない。耳に触れるだけで、こちらの呼吸まで少しゆっくりになるような響きがあった。


 ノエルが茶の用意を整える間、俺は勧められた席へ腰を下ろした。向かいにリエリエールが座る。机を挟んでいるだけなのに、距離が妙に近く感じた。部屋には薄く香が残っている。強すぎない、花とも木ともつかない柔らかな匂い。リエリエール自身の香りなのか、部屋に焚かれたものなのかは分からない。ただ、その空気が彼女の雰囲気に合っていた。


「まず聞いておきたい。不自由はないか?」


 俺は予定していた言葉を口にした。


「部屋や食事、ノエルの扱いも含めてだ。何か困っているなら言ってくれ。全部すぐに何とかできるとは限らんが、聞かないことには分からない」


 リエリエールは少し目を細めた。


 その表情には驚きより、微かな安堵があるように見えた。いや、そう見えただけかもしれない。俺には彼女の心の中までは分からない。ただ、こちらの言葉を雑に受け取っていないことだけは分かった。


「不自由など、ございません」


 リエリエールは静かに言った。


「お部屋も、食事も、過分なほど整えていただいております。ノエルにも細やかにお気遣いいただき、レティシア様やダリア様にも助けていただいております。わたくしの立場を思えば、これ以上を望むのは罰が当たるほどです」


「罰とか言うな。保護すると決めた以上、必要なものを用意するのは当然だ」


「当然と仰ってくださるのですね」


「そうだろう」


 俺が答えると、リエリエールの微笑みが少しだけ深くなった。


 その笑みを見て、俺は内心で少し困った。


 魔力封印を受けている女の顔ではない。


 いや、魔力封印を受けた女の正しい顔など知らない。だが、俺ならもっと怒る。苛立つ。警戒する。力を奪われ、敵国の城に保護という名で囲われている。恨みや不満がにじんでもおかしくない。


 なのに、リエリエールはそれを見せない。


 少なくとも俺の前では。


 むしろ、こちらを気遣っているようにすら見える。


「魔力封印の具合は?」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。


 けれど、聞かないわけにもいかない。俺が施したものだ。苦痛があるなら調整が必要だし、何か異常があれば放置できない。


 リエリエールは自分の胸元へ軽く手を当てた。布越しの仕草は控えめで、指先の動きまで上品だった。


「違和感はあります。ですが、痛みはございません。魔力が遠くなったような感覚は、まだ慣れませんけれど」


「そうか。もし痛みや体調の悪さがあれば、すぐに言ってくれ」


「はい。ありがとうございます、ギルバート様」


 ギルバート様。


 その呼び方に、なぜか少し引っかかった。


 丁寧だ。距離もある。保護されている貴族女性が、辺境伯家三男を呼ぶなら自然な呼び方だろう。だが、自然だからこそ遠い。俺の部屋でレティシアは若様と呼び、ダリアはギル様と呼ぶ。セバスチャンは若様と呼びながらクソみたいな軽口を叩く。距離の近さは呼び名だけで決まらないが、それでも名前には空気が出る。


 リエリエールは俺を丁寧に扱っている。


 その丁寧さが、今は少しだけもどかしかった。


 俺は茶へ視線を落とした。湯気が細く上がっている。口をつけると、香りは穏やかで、苦味は弱い。レティシアの茶とは少し違う。ノエルがリエリエールの好みに合わせているのだろう。


「城には、少しは慣れたか?」


「少しずつ、でしょうか」


 リエリエールは部屋の壁へ視線を移した。


「マバール城は、帝国の館とは空気が違います。石も、音も、人の動きも。最初は、扉の外を誰かが歩くたびに身構えておりました」


「今は?」


「今も、まったく身構えないわけではありません。ただ、ノエルが落ち着いて過ごせる時間が増えました。わたくしも、それを見ていると息がしやすくなります」


「ノエルが先か」


「ええ。あの子が怯えたままでは、わたくしも落ち着けませんから」


 そう言う声は、とても自然だった。


 自分より先に専属使用人のことを言う。立場としては主人だが、ただ使うだけの相手ではないのだろう。ノエルは少し離れた場所で控えていたが、その言葉を聞いてわずかに目を伏せた。表情は大きく動かない。けれど、指先が一瞬だけ重なった布を強く押さえたのが見えた。


 リエリエールは、それを横目で見ていたように思う。


 良い主人だ。


 そう思った。


 いや、良い女だと思ったのかもしれない。


 ノエルへの気遣い。魔力封印を受けても崩れない態度。俺への礼。どれも無理に作っているようには見えない。もちろん、貴族の女なら表情を整えるのは得意だろう。すべてをそのまま信じるのは危険かもしれない。それでも、目の前のリエリエールには、ただ利用価値だけで測るには惜しい柔らかさがあった。


 包み込むような。


 妙な言い方だが、そう感じた。


 レティシアの傍は帰る場所のように温かい。ダリアは現実へ足をつけさせてくれる。リエリエールは、それらとは別の形で、こちらの力を抜かせる。大人の女の余裕なのか、名門貴族としての懐の深さなのか、それとも今の俺が勝手にそう感じているだけなのか。


 居心地が良すぎる。


 それが少し怖い。


「ギルバート様」


「ん?」


「わたくしの方からも、一つ伺ってよろしいでしょうか」


「ああ。答えられることなら」


 リエリエールは茶器に触れず、こちらを見た。


「なぜ、そこまでお気遣いくださるのですか」


「なぜ?」


「はい。わたくしは、貴方様にとって面倒な荷でしかないはずです。帝国の血を引き、魔力封印まで必要で、ノエルも連れております。もっと粗く扱われても、文句は言えない立場です」


 その声に自嘲は薄い。


 事実を並べているだけに聞こえた。だからこそ、少し腹の奥が重くなった。


「粗く扱う理由がない」


「それだけですか?」


「十分だろう」


 リエリエールは数拍黙った。


 俺は続けるべきか少し迷ったが、言葉が出てしまった。


「俺が引き受けた。なら、俺の手元にいる間は雑には扱わない」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。


 何を偉そうに。


 いや、偉そうでいいのか。俺は辺境伯家三男で、彼女を保護した側だ。だが、そういう立場の話ではなく、言葉が少し真っ直ぐすぎた気がした。


 リエリエールは目を伏せた。


 その睫毛が長い。


 白金の髪が頬へかかり、指先でそっと押さえる仕草がやけに綺麗だった。俺は視線を逸らそうとしたが、うまくいかなかった。


「……そういうところなのですね」


「何がだ?」


「いいえ」


 リエリエールは小さく微笑んだ。


 さっきより柔らかい。少しだけ艶があるようにも見えた。部屋の光のせいかもしれない。だが、声まで先ほどより近く響いた気がする。


「エレオノーラ様から、少しだけ伺っておりました」


「何を?」


「貴方様のことです」


 嫌な予感がした。


 エレオノーラが何をどう話したのか分からない。山賊もどきの話か、帝都に攻撃魔法を打ち込んだ件か、俺が貴族たちを殺しまわった話か。どれもあまり上品ではない。リエリエールのような女に聞かせるには、やや物騒すぎる。


「どこまで聞いた」


「内密に、とだけ」


「それは怖いな」


「怖い方には見えません」


 リエリエールはそう言って、静かに俺を見た。


「圧倒的な魔力をお持ちで、多くのことを成し、時に恐ろしいほどの決断もなさる方だと聞きました。ですが、こうしてお話ししていると、わたくしの様子やノエルのことを一つ一つ気にしてくださる。高圧的になるどころか、困らせないように言葉を選んでくださっている」


「そんな大したものじゃない」


「そうでしょうか」


「ただ、面倒なことにならないようにしているだけだ」


「それでも、嬉しいものです」


 その言い方はずるい。


 俺は茶を飲もうとして、まだ少し熱いことに気づき、杯を戻した。落ち着かない。リエリエールの視線が柔らかくなるほど、こちらの内側が騒がしくなる。


 経験がないわけではない。


 レティシアがいる。ダリアがいる。毎晩のように過ごしてきた時間だってある。俺はもう何も知らない子どもではない。ないはずだ。


 なのに、リエリエールの前では、妙に初めてのような緊張がある。


 相手が大人の貴族女性だからか。


 それとも、俺がまだ手を出していないからか。


 分からない。


 ただ、彼女の微笑みを見るたび、こちらの手の置き場に困る。


 リエリエールはそんな俺の様子をどう受け取ったのか、目元を少し緩めた。


「ギルバート様は、不思議な方ですね」


「よく言われる」


「やはり、そうなのですね」


「良い意味か?」


「ええ」


 即答だった。


 その即答に少し救われる。いや、救われるというのも変だ。俺は別に悪く言われたわけではない。だが、彼女に良い意味だと言われると、それだけで胸が軽くなる。


 まずいな。


 これはかなりまずい。


 俺は話題を変えようとした。


「その、ギルバート様という呼び方だが」


「はい」


「ギルで構わない」


 言った瞬間、リエリエールの動きが止まった。


 ノエルも一瞬だけこちらを見た。すぐに目を伏せたが、反応は分かった。


 俺は少しだけ言い訳のように続ける。


「親しい者は皆そう呼ぶ。ギルバート様は少し硬い」


「……親しい者、ですか」


「ああ。嫌ならそのままでいい」


「嫌ではございません」


 リエリエールの声は小さかった。


 だが、はっきりしていた。


 彼女は茶器へ視線を落とし、それからもう一度こちらを見る。その間に、頬の色がほんの少し変わったように見えた。照れているのか、光の加減なのか。俺には断定できない。ただ、さっきまでの落ち着いた微笑みとは違う揺れがあった。


「では、わたくしも……そうお呼びしてよろしいのでしょうか」


「もちろん」


「ギル、さま」


 区切るように呼ばれた。


 その響きが、思ったよりずっと近かった。


 レティシアの若様とは違う。ダリアのギル様とも違う。リエリエールの口から出ると、同じ名なのに、少し柔らかく、少し甘く聞こえた。本人が意識しているのかは分からない。だが、耳に残る。


「その方が、俺も話しやすい」


「そう、ですか」


 リエリエールは微笑んだ。


 その表情に、先ほどとは違う熱が混じった気がした。俺は平静を装って茶へ手を伸ばす。今度は飲める温度になっていた。口に含むと、香りが広がる。だが味は少し遠かった。


 ノエルが、そっと茶器の位置を整えた。


「お茶のおかわりをお持ちいたします」


「ノエル、まだ」


 リエリエールが言いかけると、ノエルは静かに頭を下げた。


「少し冷めておりますので」


 確かに、茶は半分ほど冷めている。


 だが、おかわりが今すぐ必要かと言えば、そうでもない。俺はノエルの顔を見た。彼女は表情を崩していない。使用人として自然な動きに見える。だが、その目は一瞬だけリエリエールへ向き、次に俺へ向いた。


 察したのか。


 何を、とは言いにくい。


 ただ、部屋の空気を読んだのだろう。


 リエリエールもそれに気づいたようだった。ほんのわずかに唇を閉じ、何も言わなかった。


 ノエルは静かに部屋を出ていった。


 扉が閉まる音は小さい。


 それなのに、部屋の空気が変わった。


 窓から差す光は同じだ。茶器も机も椅子も変わらない。だが、控えていた専属使用人がいなくなっただけで、沈黙がずっと近くなる。向かい合う距離が、さっきより短く感じた。


「ノエルは、よく気がつくな」


「ええ。幼い頃から、ずっと傍にいてくれましたから」


「大事なんだな」


「はい」


 リエリエールは迷わず頷いた。


「わたくしがここで息をしていられるのは、ノエルが一緒にいてくれるからです」


「なら、ノエルも含めて守らないとな」


 言ったあとで、また少し真っ直ぐすぎたかと思った。


 リエリエールは答えなかった。


 ただ、こちらを見ていた。


 その視線がやけに優しい。優しいのに、逃げ場がない。責められているわけではない。試されているわけでもない。むしろ、包まれているような感覚がある。


 俺は何か言おうとして、言葉を探した。


 見つからない。


 沈黙が落ちる。


 気まずくはない。気まずくないのが、逆に困る。普通なら何か話題を探すはずだ。部屋のこと。食事のこと。王国と帝国の違い。ノエルの待遇。いくらでもある。


 だが、何も言わずにいられてしまう。


 茶器の湯気は薄くなっていた。机の上に落ちる光が、窓布の揺れに合わせてゆっくり形を変える。遠くで誰かの足音がしたが、この部屋までは届かない。衣擦れの微かな音と、互いの呼吸だけが残る。


 リエリエールの指先が、机の上へ置かれた。


 白い指だった。


 細く、整っている。だが、ただ華奢なだけではない。何度も礼をし、手紙を持ち、誰かの前で己を保ってきた手。そういうものが、動きの端に見える気がした。


 その指が、木目をなぞるように少しずつこちらへ近づいた。


 俺はそれを目で追った。


 止める理由はある。


 ないわけではない。


 俺は保護者側だ。リエリエールは保護されている側だ。魔力封印も受けている。ここで距離を詰めるなら、俺はもっと慎重であるべきだ。そう頭では分かっている。


 だが、目を逸らせなかった。


 やがて、その指先が俺の手の甲に触れた。


 ほんのわずかな接触だった。


 それだけなのに、身体の奥が熱を持つ。


 リエリエールの指はすぐには離れなかった。むしろ、ためらうように止まり、そこからゆっくりと重なる。強く握るわけではない。ただ、触れている。拒まれないか確かめるような、離したくないと伝えるような、曖昧で優しい触れ方だった。


 俺も動かなかった。


 動けなかった、の方が近いかもしれない。


 リエリエールの睫毛が微かに震えた。彼女は俺を見ている。碧い目の奥には、決意のようなものと、戸惑いのようなものが同時に揺れていた。俺にはそれを断定できない。ただ、彼女が何かを越えようとしていることだけは分かった。


「ギルさま」


 今度は、先ほどより自然だった。


 そして、近かった。


「そう、お呼びしてもよろしいのですよね」


「ああ」


 声が少し低くなった。


 リエリエールの手に、わずかに力が入る。


「ギルバート様よりも、その方が……近く感じられます」


 その言葉は、囁きに近かった。


 俺は返事をしようとした。


 だが、何を言えばいいのか分からない。近く感じる。そう言われて、嬉しくないはずがない。むしろ、胸の奥がはっきりと浮き上がった。リエリエールが俺との距離を縮めようとしている。そう感じてしまう。


 勘違いかもしれない。


 いや、手が重なっている時点で、完全な勘違いではないはずだ。


 俺はゆっくりと、重なった手を見た。


 逃げるなら今だ。


 距離を置くなら今だ。


 父上に聞いてから、などと言って退くこともできる。保護している立場だから慎重に、と理屈を並べることもできる。たぶん、それは間違いではない。


 だが、リエリエールの指先は震えていた。


 怖がっているのか、迷っているのか、ただ緊張しているだけなのかは分からない。けれど、自分から伸ばしてきた手だった。俺を拒むための手ではない。


「リエリエール」


 名前を呼ぶと、彼女の目が少しだけ開いた。


「はい」


「嫌なら、すぐに言ってくれ」


 その言葉が出た瞬間、リエリエールの表情が変わった。


 泣きそう、ではない。


 嬉しそう、でも言い切れない。


 ただ、何かがほどけたように、柔らかくなった。


「……はい」


 返事は小さかった。


 それでも、手は離れなかった。


 俺は立ち上がった。椅子が微かに音を立てる。リエリエールも、重ねた手を離さないまま立ち上がる。机を挟んでいた距離が、ゆっくりと消えていく。


 近づくと、香りがはっきりした。


 柔らかい。甘すぎず、重すぎない。けれど、意識すると忘れられない匂いだった。白金の髪が肩の上で静かに揺れ、碧い目が俺を見上げる。いや、見上げるというほど大きな差ではない。ただ、少しだけ顔を伏せる仕草が、やけに胸に残った。


 リエリエールの手は温かかった。


 魔力封印を受けていることなど、その手の温度からは分からない。そこにいるのは、政治的価値でも、血統でも、扱いやすい保護対象でもなく、一人の女だった。


 俺はもう一度だけ、心の中で確認した。


 雑に扱いたいわけじゃない。


 欲しい。


 でも、雑にはしない。


 その二つだけは、どちらも嘘ではなかった。


「ギルさま」


 リエリエールが、もう一度呼んだ。


 その声に引かれるように、俺は一歩近づいた。


 窓の外で風が鳴る。


 誰も振り向かなかった。


 扉の向こうにノエルがいるのか、廊下に人の気配があるのか、それさえ遠くなる。部屋の中には、薄れた茶の香りと、リエリエールの手の温度だけが残っていた。


 言葉はもう、ほとんど必要なかった。


 どちらからともなく、奥の部屋へ足が向いた。


 触れた手は、離れなかった。

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