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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第七十九話 託された居場所


 エレオノーラとの本題が一段落しても、部屋の中から緊張が消えたわけではなかった。


 ただ、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだのは確かだった。茶器から立ち上る湯気は細く、灯火に照らされた白い縁をなぞるように揺れている。厚い窓布の向こうには夜があり、館の外を流れる冷えた空気は直接入ってこない。それでも、先ほどまで言葉の刃を交わしていたせいか、ギルの喉の奥にはまだ乾いた感覚が残っていた。


 帝国から逃亡して来たメガレア家の長男。帝国の後継争い。アバルディア家の立場。そしてマバール家がどこまで受け、どこから知らぬ顔をするか。どれも一つ間違えれば面倒な火種になる話だった。だからこそ、少し息を抜ける空気になった途端、ギルはようやく部屋そのものを見る余裕を取り戻した。


 改めて眺めると、良い部屋だった。


 壁に掛けられた布は落ち着いた色合いで、机も椅子も上質だが押しつけがましさがない。灯火の置き方も考えられていて、顔を明るく照らしすぎず、かといって陰気にもさせない。磨かれた木の艶、茶器の並び、壁際に置かれた低い棚の影、そのどれもが人を威圧するためではなく、少しずつ相手の警戒を解くために整えられているように見えた。


 マバール城とは、ずいぶん趣きが違う。


 あちらは重い。厚い石壁、広い床、無駄を削った調度。美しさより堅牢さが先に立つ。ギルにとっては慣れた場所で、あの重さがあるからこそ落ち着くのだが、こうして別の館に座ると、城というものにも性格があるのだと感じる。


「素晴らしい館ですね」


 茶器を置きながら言うと、向かいのエレオノーラがわずかに目を細めた。


「光栄ですわ」


 その微笑みは、先ほどまでの会談で見せていたものより少しだけ柔らかかった。もちろん、油断した顔ではない。彼女がこの場で気を抜き切るはずがないし、ギルもそんなものは期待していない。それでも、館を褒められたこと自体は素直に嬉しかったのだろう。指先が茶器の取っ手へ触れ、音を立てないまま少し位置を直した。


 ギルも軽く笑う。


「どうもマバール領では、このような柔らかな建物は少なくて」


「あら、マバール領は質実剛健で私は好きですよ」


 返答に不自然な間はなかった。お世辞だけなら、もう少し整った言葉になったかもしれない。だが今のエレオノーラの声には、あの武骨な石の城を思い出しているような響きがあった。


「そう言っていただけるなら、領民も喜ぶかもしれません」


「ええ。あの石壁を見ると、国境を預かる家なのだとよく分かりますもの。飾るための美しさではなく、耐えるための美しさですわ」


 耐えるための美しさ。


 ギルは内心でその言葉を転がした。マバール城を美しいと思ったことはあるが、それは見慣れた場所への愛着に近かった。だが、外から来たエレオノーラがそう言うと、あの城の重さにも別の光が当たる。国境を守る家にとって、壊れにくいこと、敵を通さないこと、長く立ち続けることは、それだけで価値になる。前世風に表現するのなら用の美といったところか。


 穏やかな会話は続いている。


 だが、ギルは感知魔法を切っていなかった。


 自分を中心に展開した感覚の中で、館内の魔力持ちが点のように反応している。目の前のエレオノーラ。彼女の後ろに控える騎士。こちら側にいるセバスチャン。そして、館の奥から少しずつ移動しているもう一つの貴族反応。


 こちらへ向かっている。


 急いではいない。逃げる者や、慌てて駆ける者の速度ではない。案内され、決められた手順に従って歩いているような動きだった。感知魔法で分かるのは魔力だけだ。姿も衣装も表情も、足音さえ分からない。それでも、来るべき者が来ているのだと理解するには十分だった。


 そろそろ顔合わせか。


 ギルは茶器に指を添えたまま、内心でそう思った。


 もちろん、気付いているのは自分だけではないだろう。エレオノーラは自分の館で待っている側だ。背後の騎士も、セバスチャンも、この程度の反応を見落とすとは思えない。それでも誰も口にしない。今はまだ、館の話を続ける時間だった。


 やがて、扉が軽く叩かれた。


 音は控えめだったが、部屋の空気を変えるには十分だった。エレオノーラの視線が静かに扉へ向き、背後の騎士の姿勢がごくわずかに整う。セバスチャンは目立って動かない。だが、ただ立っているだけではない気配が横にある。


「お嬢様、お連れ様をご案内いたしました」


 扉の向こうから使用人らしい声が届く。


 エレオノーラは微笑みを崩さず答えた。


「ええ、入ってください」


 扉が開くと、廊下側の灯りが床へ細く伸びた。


 その灯りを踏むように、一人の女性が静かに部屋へ入ってくる。足音は小さく、歩幅は乱れない。俯きすぎず、かといってこちらを無遠慮に見もしない。自分が見られていることを理解し、その上で崩れない歩き方だった。


 ギルはその女性を見て、内心で小さく唸った。


 なるほど、これは美しいな。


 白に近い金髪が灯火を受けて淡く光っている。金と言うには冷たく、銀と言うには柔らかい。透き通るような碧眼は、相手を射抜くというより、静かな水面のように落ち着いていた。やや下がり気味の目尻と細い輪郭のせいで、どこか儚げな印象がある。強い風の中へ出せば、そのまま薄く消えてしまいそうな線の細さだった。


 だが、身体は違う。


 上品な衣服は露骨に肌を見せるものではない。それでも胸元から腰へ落ちる線には、若い娘にはない成熟した重みがあった。細いのに薄くない。頼りなげな顔立ちの下に、柔らかな女としての存在感がある。ギルは視線を長く置きすぎないようにしながら、二十代後半か、もしかしたら三十代かもしれないな、と見当をつけた。


 感知魔法で拾う反応も、間違いなく貴族のものだった。


「リエリエールですわ」


 エレオノーラが紹介する。


 女性は一歩進み、静かに礼をした。


「リエリエールです。よろしくお願いします」


 落ち着いた声だった。


 震えはない。無理に明るく振る舞う響きもない。だが怯えているようにも見えない。自分が何のために呼ばれ、誰の前へ立っているのかを理解した声だった。


 ギルは椅子から立ち上がり、貴族として礼を返す。


「ギルバートです。はじめまして」


 よろしくお願いします、か。


 挨拶としては自然だ。だが、この場でその言葉を選ぶ意味は軽くない。助けてくださいでも、恐れ入りますでもない。これから先の関係を前提にしている。少なくとも、何も知らずに連れてこられたわけではないのだろう。


 三人が席に着くと、リエリエールはエレオノーラの横に座った。近すぎず、離れすぎず、紹介される者として自然な位置だ。背筋は伸び、膝の上に重ねた手は動かない。エレオノーラはそんな彼女を一度だけ横目で見てから、ギルへ視線を戻した。


「彼女は知り合いととても親しくしているんです」


「なるほど、そうなのですか」


 ギルは頷いた。


 とても親しく。


 つまり側室かな。


 貴族女性が、ある相手と長く親しくしている。しかもエレオノーラがこの場でわざわざそれを説明する。単なる友人関係の話ではない。だが、誰の女だったのか、どの程度の立場だったのかを明言する必要はない。ここで名を出せば、リエリエールの過去が必要以上に重くなる。


 リエリエールは黙っていた。


 否定もしない。肯定もしない。ただ静かに微笑んでいる。恥じるようでもなく、開き直るでもない。自分の過去がこの場でどう扱われるかを理解し、エレオノーラへ任せているように見えた。余計な口を挟まない女は、こういう場では強い。


 エレオノーラは続けた。


「彼女のご実家はメガレア家に連なる名門なのですが、少し前に家人を失いまして」


「それはまた、大変でしたね」


 ギルは声を沈めすぎず、軽くもしすぎずに答えた。


 家人を失った、という表現は便利だった。誰が、どれだけ、どのように、までは言わない。だが貴族の家にとっては十分に重い。血筋は残っている。けれど、後ろ盾として機能する家の形は崩れている。名門の価値はあるが、受け入れたあとに厄介な実家が口を出してくる可能性は低い。そういう意味を含んでいる。


 血統確かな名門出身だよ。でも面倒な実家はいないから安心したね、ということだよな。


 ギルは内心でそう理解した。


 エレオノーラは本当に丁寧に紹介している。リエリエールの価値を下げず、受け入れる側の不安を減らし、こちらが頷きやすいように言葉を置いている。家柄、過去の関係、今の立場。それらを直接言いすぎず、しかし聞き逃せない形で並べてくる。


「私より少しお姉様なのですが、知り合いと長く親しくしていたんですよ」


「なるほど」


 ギルは小さく頷いた。


 エレオノーラ殿より歳上で、長く親しくしていた。つまり、若いだけの娘ではなく、男の扱いや貴族の場の空気もある程度分かっている。ちゃんと色々仕込まれているという意味かな。


 そこまで考えて、ギルは危うく苦笑しそうになった。


 なんかエレオノーラ殿が女衒みたいだな。


 もちろん顔には出さない。出したら全て台無しだ。エレオノーラは真剣で、リエリエールは自分の今後をかけてここに座っている。そこで変な笑みを浮かべれば、ただの失礼な男になる。ギルは茶器へ指を添え、表情を穏やかなまま保った。


 リエリエールは終始静かだった。


 その静けさは、何も考えていない者のものではない。今は自分が話す場面ではないと分かっている者の沈黙だ。エレオノーラが自分をどう説明し、ギルがどう受け取るかを見ている。そう見えた。


 ギルはリエリエールへ向き直った。


 ここで待たせる必要はない。エレオノーラの説明は十分だった。リエリエール本人も覚悟している。なら、こちらが曖昧に引き延ばす方が悪い。


「私が必ずお力になりましょう。ご安心ください」


 声は穏やかに、けれど曖昧にはしなかった。


 できるだけ、とか、状況次第で、とは言わない。具体的な扱いはマバール城へ戻ってから整える必要がある。それでも、この場で必要なのは、受け取るという意思だった。ここで逃げ道のある言い方をすれば、リエリエールも不安になるだろう。俺は美人には優しいのだ。


 リエリエールの睫毛がわずかに揺れた。


 大きく表情を崩すことはない。けれど肩に入っていた力が、ほんの少し抜けたように見えた。ギルにはそう見えた。断定はできない。だが、張り詰めた糸が緩む瞬間は、目の前に座っていれば感じることもある。


「はい。末永くよろしくお願いします」


 静かな返答だった。


 末永く。


 その言葉には重みがある。一時的に匿われるだけではない。逃げ場が見つかるまで置かれるだけでもない。マバール家へ渡り、そこで長く生きることを前提にした返事だ。逆らいません。大人しく従います。だから見捨てないでほしい。ずっと可愛がってください。ギルには、そういう意味に聞こえた。


 エレオノーラの表情も少しだけ緩んだように見える。


 ギルがリエリエールを受け入れたことを理解して安心したのだろう。彼女が実際に何を思っているのかは分からないが、少なくともこの会談で欲しかったものの一つを得た顔だった。


 そこからの会話は、重いものではなかった。


 館の話に戻り、夜の移動について触れ、マバール領の建物や国境の空気について言葉を交わす。リエリエールも必要なところで短く言葉を挟んだ。声は落ち着いていて、会話の邪魔をしない。エレオノーラが主導し、ギルが返し、リエリエールが控えめにそこへ入る。そういう形が自然にできていた。


 ギルはその間も、リエリエールの所作を見ていた。


 茶器を持つ指の動き、言葉へ頷く間、視線を下げる角度。どれも急ごしらえではない。名門の女としてきちんと教育を受けて育ったことが分かる。しかも、若い娘のように緊張だけで固まっているわけではない。男と長く親しくしていた、というエレオノーラの言葉にも納得できる落ち着きがある。


 やがて、ギルは頃合いを見た。


 長く座りすぎれば、別れが重くなる。話すべきことは話した。リエリエールも受け入れた。これ以上は、館の中で同じ空気をなぞるだけになる。


「これ以上長居してもご迷惑ですね」


 ギルが立ち上がると、エレオノーラは少し名残惜しそうに微笑んだ。


「楽しくて時間が経つのを忘れてしまいましたわ」


 社交辞令としてはありふれた言葉だが、今の彼女が言うと別の意味も乗る。


 満足しました。ありがとうございます。


 ギルにはそう聞こえた。なら、こちらも十分だ。


 ギルはリエリエールへ向き直る。


「よろしければ我が家を案内させていただけませんか?」


 リエリエールは迷わなかった。


「ありがとうございます。ぜひお願いします」


 すぐに答えた。


 その返答で、ギルは改めて理解する。


 我が家を案内する。表面だけ聞けばただの招待だ。だが、この場での意味は違う。マバール家として保護する。こちらの家へ連れて行く。身柄を受け取る。そういうことだ。リエリエールが礼を言って頼むということは、やはり帝国内に残る場所はないのだろう。


 部屋を出ると、廊下はさらに夜の気配を濃くしていた。


 灯火はあるが、昼のような明るさではない。石床に落ちる影は長く、壁に掛けられた布の色も深く沈んでいる。使用人たちは静かに動き、余計な声を立てない。リエリエールはエレオノーラの横ではなく、少し前を歩いた。もう送り出される側として動いている。ギルはその背を見ながら、場の流れが完全に変わったことを感じた。


 館の外へ出ると、夜気が頬を撫でた。


 室内にあった茶と香の匂いが薄れ、代わりに馬と土と石の匂いが鼻へ入る。館の窓から漏れる灯りが石畳へ落ち、使用人たちの足元を淡く照らしていた。厩舎の方では馬が鼻を鳴らし、馬具の金具が小さく鳴っている。夜の空は暗く、雲の薄い部分から月明かりが滲んでいた。


 ギルとセバスチャンは預けていた馬を受け取った。


 手綱を握ると、馬が小さく首を振る。長く待たされた不満というほどではないが、夜気の中で少し落ち着かない様子はある。ギルは首筋を軽く撫で、馬具を確認した。急ぎすぎる必要はない。だが、のんびりもしていられない。マバール城へ戻れば、また面倒な報告と調整が待っている。


 少し離れた場所には、小型の馬車が用意されていた。


 大きすぎず、目立ちすぎず、それでも中の者を守るには十分な作りだ。窓布は厚く、外から内側の様子は見えにくい。逃亡のための粗末な馬車ではないが、貴族が堂々と移動するための華やかさもない。今のリエリエールには、ちょうどいい形なのだろう。


 リエリエールは使用人に促されるまでもなく、静かに馬車へ向かった。


 その御者席には、一人の女性が座っている。年齢はリエリエールと近い。使用人服を着ているが、旅支度に合わせて袖や裾を整えており、手綱を取る姿勢にも慣れがあった。顔立ちは整っているが、貴族ではない。感知魔法にも反応はない。平民だ。だが、馬車の位置、荷の積み方、リエリエールへの気遣いを見る限り、ただの付き添いではない。


 リエリエール付きの専属使用人だろう。


 ギルはそう判断した。


 長く仕えてきたのかもしれない。リエリエールが馬車へ乗る時、その女性はほんの少し身体を傾け、足元を見やすいよう灯りの角度を調整していた。言葉はない。けれど慣れた動きだった。主人の動きの癖を知っている者の動きだ。リエリエールが何も言わずに乗り込めたのも、その信頼があるからだろう。


 エレオノーラが見送りに出てくる。


 夜の灯火を受けた彼女の顔は、館の中で見るより少し疲れているようにも見えた。だが姿勢は崩れない。アバルディア家の女として、最後まで見送るつもりなのだろう。


 エレオノーラはまずリエリエールへ向かった。


「ギルバート様にお任せすれば大丈夫ですからご安心ください」


「はい。ありがとうございます、エレオノーラ様」


 リエリエールは深く頭を下げた。


 その声は落ち着いていたが、部屋の中より少し柔らかい。安心したのかもしれない。あるいは、もう戻れない場所への礼だったのかもしれない。ギルには分からない。ただ、夜の灯火の中で頭を下げる彼女の姿は、儚げでありながら、どこか芯が残っているように見えた。


 次にエレオノーラがギルへ向き直る。


「ギルバート様ありがとうございます。感謝いたします」


 ギルは真正面からその言葉を受けた。


 軽く流す場面ではない。エレオノーラが言っているのは、リエリエールだけのことではないだろう。メガレア家長男の件。帝国内部の火種。アバルディア家の立場。そして、今ここで託す女。いくつもの意味を短い礼に押し込めている。


「ええ、お任せください」


 ギルは自信を込めて答えた。


 大丈夫だ。長男も、リエリエール殿も引き受けたよ。


 その内心は口に出さない。周囲には使用人がいる。彼らが意味を理解するかどうかは別として、余計な言葉は残さない方がいい。ギルは笑みだけで返した。エレオノーラはその笑みを見て、小さく頷く。


 やがて、馬車が動き出した。


 車輪が石畳を踏み、夜の中へ鈍い音を響かせる。ギルとセバスチャンはそれぞれ馬へ乗り、馬車の速度に合わせて進み始めた。館の灯りが背後へ遠ざかる。門を抜け、街道へ入ると、夜の空気はいっそう濃くなった。


 馬車に合わせた速度は速くない。


 だが急がせるつもりはなかった。リエリエールを受け取った以上、まずは無事にマバール城へ連れて帰ることが最優先だ。夜道で馬車を無理に走らせれば、揺れも大きい。御者席の女性にも負担がかかる。今は整えて戻るべき場面だった。


 しばらく進んだところで、隣のセバスチャンが笑った。


「なかなかいい取引でしたな」


 ギルは即座に横目で睨む。


「取引とか言うな、クソじじい」


 さっきまで被っていた外交用の猫は、その一言でどこかへ消えた。


 セバスチャンは愉快そうに肩を揺らした。


「おや、違いやすか。血筋の良い貴族女性を預かり、あちらは面倒を一つ減らす。形だけ見りゃ、立派な取引でしょうが」


「だから言い方の問題だと言ってるんだ」


「若様がそれを気にしやすか」


「俺はいい。お前が言うな」


「へいへい」


 セバスチャンは少しも反省していない声で返す。


 そのやり取りを聞いた御者席の女性が、ほんの少し肩を揺らした。驚いたのだろう。無理もない。つい先ほどまで館の中で貴族らしく振る舞っていた男が、老騎士相手にクソじじいと言っているのだ。しかも老騎士の方も怒らない。普通の主従関係には見えない。


 まあ驚くよな。


 ギルは内心で苦笑した。


 ただ、悪いことではない。あまり硬くなりすぎても困る。リエリエールとその専属使用人がこれからマバール家へ入るなら、ギルの周囲の空気を少しでも早く知った方がいい。もちろん、セバスチャンとの距離感を標準だと思われると、それはそれで非常に困る。このクソじじいは特別枠である。


 馬車の中で、リエリエールがわずかに身じろぎした気配があった。


 会話は聞こえているはずだ。どう受け取ったかは分からない。呆れたかもしれないし、少し緊張が緩んだかもしれない。少なくとも、館の中で見た貴族としてのギルだけがすべてではないと分かっただろう。


 ギルは馬車の横を進みながら、改めて考える。


 名門出身で、血統も確か。それだけで十分に価値がある。貴族社会では、女の価値をそういう言葉で測る場面がある。前世の感覚ならかなりひどい話だが、この世界では血統と魔力持ちの子を残すことが家の存続に直結する。正妻や側室の価値は、顔の美しさだけで決まるものではない。どこの家に連なるか、どの程度の魔力を持つか、どんな後ろ盾があるか。それらは全部、現実の価値になる。


 それに、美人でナイスバディだ。


 うん。大事なことだな。


 ギルは真面目にそう思った。


 自分は聖人君子ではない。綺麗な女が嫌いなわけがない。むしろ好きだ。かなり好きだ。しかもリエリエールは儚げな顔立ちに、熟れた身体という組み合わせである。血統や家の事情を抜きにしても、男として普通に魅力を感じる。そこをなかったことにするほど、ギルは自分を高潔な人間だとは思っていなかった。


 ただし、それを今ここで口に出すほど馬鹿でもない。


 ギルは視線を御者席へ向けた。


 リエリエールだけでなく、あの女性もまとめて受け入れる必要がある。平民で魔力はないが、リエリエールに長く仕えてきた専属使用人なら切り離す理由がない。むしろ、知らない城へ入るリエリエールにとって、身近な者が一人いるだけで負担はかなり違うだろう。レティシアやダリアに任せる事もあるだろうが、何もかも奪う必要はない。


「安心しろ」


 ギルは御者席へ声を掛けた。


 女性が振り向く。


 夜道で表情ははっきりしない。だが、こちらの言葉を聞き逃さないよう、背筋が少し伸びたのは分かった。


「お前もまとめて面倒は見る」


 御者の手が、手綱の上でほんの一瞬だけ止まった。


 すぐに馬車の動きへ支障が出ないよう整え直す。その手際は悪くない。それから彼女は、前を向いたまま深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 声は小さかった。


 だが、確かに届いた。


 馬車の中でも、衣擦れの気配がわずかに動く。リエリエールにも聞こえたのだろう。ギルはそれ以上言葉を重ねなかった。守ると言った。面倒を見ると言った。それ以上をこの夜道で説明しても薄くなるだけだ。


 セバスチャンが横で小さく笑った。


「若様は、そういうところだけ妙に面倒見がいいですな」


「だけとは何だ。だけとは」


「他はだいたい面倒臭がりでしょうが」


「否定はしないが、お前に言われると腹が立つ」


「そりゃ失礼しやした」


 どう聞いても失礼と思っていない声だった。


 ギルはため息を吐きかけ、途中でやめた。夜気が肺に入る。冷たすぎず、だが館の中よりはずっと澄んでいる。馬の背が静かに揺れ、車輪の音が一定の間隔で続く。


 感知魔法は薄く維持している。


 周囲に強い反応はない。隣にセバスチャン。馬車の中にリエリエール。背後の館は少しずつ遠ざかる。御者席の女は感知できないから、時折目で確認する。感知魔法は便利だが万能ではない。平民は拾えないし、表情も分からない。だから目で見る。耳で聞く。夜道ではそれを怠れない。


 マバール城へ戻れば、また説明が必要になる。


 父上は王都方面へ行っている。なら、城内で誰へどこまで伝えるか。リエリエールの部屋はどうするか。専属使用人は誰の下へ置くか。レティシアとダリアへどう話すか。考えることは多い。かなり多い。面倒事が増えたと言えば、その通りだった。


 だが悪くない。


 ギルは馬車の方をちらりと見た。


 儚げな美貌。成熟した身体。名門の血統。居場所を失った貴族女性。そして、その女に付き従う専属使用人。エレオノーラから託されたものは軽くない。メガレア家の長男も、リエリエールも、ただ抱え込めばいいという話ではない。動かし方を間違えれば、ギルの立場にも響く。けれど、価値のない面倒事ではなかった。


 月明かりが雲の薄いところからこぼれ、街道の先をぼんやり照らしている。


 馬車の車輪が夜の道を刻む音を聞きながら、ギルは手綱を握り直した。


 マバール城への帰路は、まだ始まったばかりだった。

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六月よりは毎日二回投稿ではなく、毎日投稿に変更させていただきます。

投稿時刻は未定です。

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― 新着の感想 ―
女をもらうのはいいけど妊娠していないかを確実にしておかないとかなり面倒では?
魔力血統の母体というのがリエリエールの価値の重いところなんだろうけど、 読み取れる世界観だと中世-近世だから、三十代くらいの女性にそういう価値があるとはあまり言われないですよね。 さらに中世-近世の…
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