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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第六十五話 赤布


「……ほう」


 自分の口から漏れた声を、ギルは聞いていた。


 宿場の入口に立つ男は、こちらの空気が変わったことまでは分からなかったらしい。いや、分かっていたとしても、何が変わったのかまでは分からないのだろう。彼は硬貨を握ったまま、セバスチャンとギルを交互に見て、それから控えているレティシアとダリアへ視線を流した。


 白い湯気が足元の溝から立っている。


 石壁は夕方の冷えを抱いているのに、湯気だけが妙に生き物じみて揺れ、宿の入口へ流れ込んでくる。匂いも濃い。山の風が止まると、湯の匂いが鼻の奥に残り、呼吸のたびに胸の中へ入り込んでくる。


 温泉へ来た。


 そのはずだった。


 騒ぎを起こさず、国境も越えず、ただ見聞を広めるために城を出た。父上にもそう話した。レティシアとダリアも連れてきた。セバスチャンもいる。数日かけて山道を進み、ようやく湯の宿場に着いたのだ。


 なのに、湯場の近くに魔物が出る。


 セバスチャンは迷宮かもしれないと言った。


 しかも、自然発生。


 百年ぶり。


 ギルは、視線だけを宿場の奥へ向けた。


 石の山道が湯気の向こうへ伸びている。夕方の光で灰色に沈み、先は見えない。別に、その先に迷宮の入口が見えているわけではない。魔物の気配があるわけでもない。ギルは感知魔法を使っていないし、仮に使ったとしても、今この位置から何が分かるかは分からない。


 それでも、気になる。


 気になってしまった。


「若様」


 静かな声がすぐ横から落ちた。


 レティシアだった。


 その一言だけで、ギルの背筋に少しだけ冷たいものが走る。怒鳴られたわけではない。声も荒れていない。むしろいつも通り丁寧で、柔らかい。それなのに、そこには確かな制止があった。


「騒ぎを起こさない約束です」


 うむ。


 早い。


 さすがレティシアだ。


 ギルがまだ何も言っていないうちから、彼女はもう釘を刺してきた。前世の言葉で言えば、出鼻をくじく、というやつだろう。いや、出鼻も何も、まだ足すら出していない。少しだけ面白そうだと思っただけである。


 たぶん。


「ギル様とは関係ない事です」


 今度はダリアだった。


 彼女はレティシアの少し後ろに立っている。馬から降りたばかりで、外套の裾には山道の湿り気がついていた。褐色の顔に大きな表情はない。だが、口元が少し固い。


 ダリアまで察している。


 どうやら俺は、かなり分かりやすい顔をしたらしい。


「分かっている」


 ギルは落ち着いた声で答えた。


 宿の男の前だ。ここで余計な話を続けるのはまずい。自分たちが何者か、どこから来たのか、どういう立場なのか、どこまで知られるか分からない。領外の宿場で、マバール家の三男が迷宮らしきものに興味を持ったなどと広まれば、面倒なことになる。


 それは分かっている。


 分かってはいる。


 だが、自然発生迷宮である。


 百年ぶりである。


 しかも領外だ。


 つまり、アル兄さんの管理外。


 そこが大事だ。


 マバール領の迷宮なら、アル兄さんが担当している。ギルが勝手に暴れれば、迷宮管理に影響が出る。迷宮を壊せば当然迷惑がかかるし、探索者や素材の流れにも問題が出る。父上に怒られるどころではない。アル兄さんにも迷惑がかかる。


 しかし、ここは領外。


 ギルはそこまで考えて、口元が動きそうになるのを抑えた。


 いや、まだだ。


 ここで笑ってはいけない。


 レティシアに見られている。


 ダリアにも見られている。


 セバスチャンにも、たぶん見られている。


 ギルは宿の男へ視線を戻した。


「とりあえず部屋を用意してくれ」


「は、はい。すぐに」


 男は少しほっとしたように頭を下げた。客が湯へ行くと言い張らなかったからかもしれない。あるいは、武装した一団が入口で長々と話し込む空気が途切れたからかもしれない。


 宿の中へ案内される。


 入口をくぐると、外よりも湯の匂いが濃かった。床は石で、濡れても滑りにくいように浅く刻みが入っている。壁は下半分が石積みで、上は土壁だった。梁や扉には木が使われているが、どれも太く、湿気に負けないよう油を染み込ませているのか、鈍い艶がある。低い天井の端には小さな通気の隙間があり、そこから白い湯気が細く逃げていた。


 前世の温泉宿とは違う。


 けれど、悪くない。


 旅人や騎士が使う場所という感じがする。入口近くには荷を置く空間があり、奥へ行くほど部屋が分かれている。外から見た時と同じく、全体に重い。人を楽しませるというより、山の湿気と寒さと危険から人と馬を守るための建物だ。


 案内の男は足早だった。


 余計な話はしない。


 こちらの顔色をうかがってはいるが、会話へ割り込む気配はない。ギルたちが何者かまでは分からなくても、普通の客ではないと見たのだろう。金払いのよい武装した客。宿側としては丁寧に扱うが、深く関わりたくはない。そんな態度に見えた。


 案内された部屋は二つだった。


 一つは奥まった場所にある広い部屋。石壁の内側に厚い布が掛けられ、床には乾いた敷物が敷かれている。窓は小さく、外からは湯気を含んだ白い気配が見えた。寝台は複数あり、荷を置ける台もある。部屋の隅には湯を運ぶためなのか、空の桶が伏せられていた。


 もう一つは隣の個室で、そちらはセバスチャン用だという。


 ギルは大部屋の中を見回した。


 広さは十分だ。


 レティシアとダリアも入るなら、この方が都合がいい。セバスチャンを隣に置けるのも悪くない。問題が起きればすぐ呼べる。まぁ、呼ばなくても勝手に来るだろうが。


「ここでいい」


 ギルが言うと、男は深く頭を下げた。


「ご用がございましたら入口の者へお申しつけください。ただ、先ほど申し上げました通り、湯場へは」


「分かっている」


「はい」


 男はそれ以上食い下がらなかった。


 部屋の外へ出て、扉が閉まる。


 足音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。


 ギルは外套を外し、荷の上へ置く。石壁の冷えはあるが、部屋全体は思ったより寒くない。湯気が近いからかもしれない。空気は湿っているが、不快というほどではなかった。


 扉の外で、足音が完全に消えた。


 その瞬間、セバスチャンが隣の個室へ行く気配もなく、当然のように大部屋へ入ってきた。


「お前の部屋は隣だろう」


「今は護衛の時間でさぁ」


「都合のいい時だけ護衛になるな」


「都合が悪い時にも護衛してやすぜ」


 セバスチャンはにやりと笑い、壁際に立った。


 座らないだけましか。


 そう思っていると、レティシアがギルの前に立った。身長差のせいで、ギルは少し見上げる形になる。旅装のままでも、彼女の姿勢は崩れない。背筋がまっすぐで、目が静かに厳しい。


「若様」


「分かっている」


「まだ何も申し上げておりません」


「言わなくても分かる」


「では、何を申し上げようとしていたかお答えください」


 うむ。


 面倒な流れだ。


 ギルは視線を少し逸らした。


「騒ぎを起こすな、だろう」


「はい」


 即答だった。


 レティシアは一歩も引かない。


「ここはマバール領ではございません。若様が動く理由はありません」


 正論だ。


 完全に正論である。


 ギルは頷いた。


「そうだな」


 ダリアも続く。


「ギル様、ここは大人しく帰るべきです」


「着いたばかりだぞ」


「温泉に入れないなら、留まる理由は薄いかと」


「いや、温泉には入る」


「先ほど、湯場の近くに魔物が出ると聞きました」


「聞いたな」


「では、入らない方がよろしいのではありませんか」


 ダリアの声は落ち着いている。


 だが、言葉は容赦がない。


 温泉へ来て、温泉に入るな。


 ひどい話だ。


 いや、宿の男も同じことを言っていた。ダリアはそれを現実的に繰り返しているだけだ。彼女は余計な情緒で判断しない。そこが良いところでもあり、今は少し腹立たしいところでもある。


 セバスチャンが壁際から低く言った。


「若様が動く話じゃありやせん」


「まだ動くとは言っていない」


「顔が動くと言ってやしたぜ」


「俺の顔は喋らん」


「若様の顔は分かりやすい時がありやす」


「黙れ、クソじじい」


 セバスチャンは肩をすくめた。


 ギルは椅子へ腰を下ろした。石壁に囲まれた部屋の中で、湯の匂いがかすかに漂っている。窓の向こうは湯気で白く、宿場の奥は見えない。白いものが揺れるたび、山道の先が隠れたり、ぼんやり浮かんだりする。


 自然発生迷宮。


 百年ぶり。


 小さな迷宮。


 魔物。


 温泉。


 頭の中で、同じ単語が並び替わる。


 自然発生した迷宮は、どの時点で迷宮と分かるのか。入口があるのか。魔物が外へ出て初めて気づくのか。マバール領の迷宮のように管理建物があるはずはない。誰が見つけたのか。宿場の者は魔物が出たと言っているだけで、迷宮とは断定していない。


 なら、まだ確定ではない。


 ただし、セバスチャンがそう見た。


 それだけで十分気になる。


 もし本当に迷宮なら、魔物が吐き出されているのか。迷宮の入口が湯場近くにあるのか。出来たばかりの迷宮なら、内部はどの程度広いのか。資源は採れるのか。魔物は弱いのか。古い迷宮の浅い層とどう違うのか。


 そして、ここはアル兄さんの管理外だ。


 これが一番大きい。


 アル兄さんに迷惑がかからないなら、試せることがあるかもしれない。


 いや、試すとは言っていない。


 見に行くだけでもいい。


 いや、それも動くことになる。


 レティシアに睨まれる。


 ギルは指で椅子の肘掛けを軽く叩きかけ、途中で止めた。


 レティシアが見ている。


 危ない。


「若様」


 案の定、レティシアが声をかけてきた。


「聞いておられますか」


「聞いているぞ。一応は」


「一応ですかい」


 セバスチャンが即座に突っ込んだ。


「聞いている」


「今、一応って言いやしたぜ」


「言っただけだ」


「言ったんでしょうが」


「黙れ」


 セバスチャンは笑ったが、目は笑いきっていない。


 この男も、本気で止めるべきだと考えているのだろう。冗談のように言っているが、立場ははっきりしている。若様が領外で問題を起こすべきではない。そこはセバスチャンもレティシアもダリアも同じだ。


 ギルは背もたれへ少し体を預けた。


「そういえば」


 三人の視線が集まる。


「ここは厄介な場所だと言っていたな。迷宮のことじゃないんだろ。何が厄介なんだ?」


 レティシアが少しだけ目を細めた。


 話を逸らしたと思ったのかもしれない。実際、半分はそうだ。だが、知りたいのも本当だった。ここがただの領外なら、動かない理由は分かりやすい。明確な領主がいて、その領主の支配下なら、ギルが勝手に動けば完全な越権になる。


 だが、セバスチャンは以前ここを厄介だと言った。


 迷宮が理由ではないなら、別の問題があるはずだ。


 レティシアは少し考え、言葉を選ぶように口を開いた。


「この辺りは、領地の所有が曖昧なのです」


「曖昧?」


「はい。元は山越えの細い街道と、いくつかの宿がある程度の場所だったと聞いております。価値の低い土地だったため、どこまでがどの家の領地か、厳密には扱われていなかったようです」


 ギルは頷いた。


 確かに、湯が湧く前ならそこまで価値はなかったのかもしれない。街道として最低限使われていたとしても、広い農地があるわけではない。大きな街でもない。防衛上の要衝でなければ、小領主たちが細かく争うほどの場所ではなかったのだろう。


「ですが、湯が見つかり、宿が増えました。平民や騎士が休むようになり、金が落ちるようになると、話が変わります」


「なるほど」


 分かりやすい。


 価値が低い時は曖昧でもいい。


 価値が出た瞬間、急に自分のものだと言い出す。


 前世でも見覚えのある構造だ。


 この世界でも変わらないらしい。


 レティシアは続けた。


「麓側の小領主、山向こうの小領主、街道沿いに権利を持つ小領主、それぞれが自家の領分だと主張しているようです。ただ、どの家も強く争いきれません」


「なぜだ」


「ここが廃れれば、得るものがなくなるからです」


 そこへセバスチャンが口を挟んだ。


「どこの家も、ここを完全に潰したいわけじゃありやせん。湯が出て、客が来て、金が落ちる。だから欲しい。けど、争って客が寄りつかなくなりゃ、ただの山道に戻りやす。うまみが消えちまう」


「ふむ」


「互いに主張はする。だが、本気で兵を出せば損をする。小領主同士でにらみ合って、宿場の連中もどこに顔を立てるかで頭を悩ませる。そういう場所なんでさぁ」


 セバスチャンの言葉は荒いが、よく分かる。


 ギルは頭の中で整理した。


 明確な領主がいない。


 複数の小領主が主張している。


 だが、温泉宿場としての価値を失いたくないため、本格的な争いは避けている。


 その結果、責任の所在も曖昧になる。


 今回のように魔物が出ても、どの家が処理するのか揉める可能性がある。兵を出せば、自分の領地だと認めさせる一手にもなるが、他家を刺激する。放置すれば客が減る。だが、他家に手柄を取られるのも面白くない。


 うーむ。


 確かに面倒な場所だ。


 だが。


「つまり、ここの明確な領主はおらず、いたとしても小領主しかいないのか」


 ギルがそう言うと、部屋の空気が変わった。


 レティシアの目が鋭くなる。


 セバスチャンがわずかに顔をしかめる。


 ダリアが一歩近づいた。


 三人とも、同じものを見たのだろう。


 ギルの顔である。


 たぶん、少し笑っていた。


「いけやせん!」


 セバスチャンが即座に言った。


「まだ何も言っていない」


「言う前から分かりやす」


「ひどいな」


「若様、顔が悪いですぜ」


「顔は悪くないだろう」


 これでも城の使用人たちからは、天使のようだ、と言われた事が……無いな。そういえば。だが、決して顔は悪くないはずだ。


「そういう意味じゃありやせん」


 レティシアも畳みかけるように言った。


「おやめください」


「だから、まだ何もしていない」


「考えておられます」


「考えるだけなら自由だ」


「若様の場合、考えるだけで終わらないことがございます」


 痛いところを突かれた。


 ギルは少しだけ視線を逸らした。


 ダリアも静かに言う。


「落ち着いてください、ギル様」


「俺は落ち着いている」


「そうは見えません」


「お前まで言うのか」


「はい」


 即答だった。


 この女、最近遠慮が減ってきた気がする。


 いや、悪いことではない。ダリアが必要なことを言えるようになったのは良いことだ。ギルの近くに置くなら、黙って従うだけでは困る。レティシアのように察して止める役は貴重である。


 ただし、今止められる側になると少し困ってしまう。


 ギルは椅子から立ち上がり、窓へ近づいた。小さな窓の外には白い湯気が流れている。宿場の奥までは見えない。だが、山道の方向だけは分かる。湯場がどこにあるのか、魔物がどこに出たのか、迷宮があるのか、何一つ確定していない。


 確定していない。


 だからこそ、確認する価値がある。


 いや、確認しなければならないのではないか。


 無辜な民が苦しんでいる。


 湯宿の客足は減り、宿の者たちは困り、山道を行く平民や騎士が襲われているかもしれない。領主たちは責任を押しつけ合い、小領主同士で様子見している。そこへ通りかかった力ある貴族が、見て見ぬふりをしてよいのか。


 うむ。


 かなり立派な理由だ。


 ギルはゆっくり振り返った。


「無辜な民が苦しむのを見捨てるのは忍びないな」


 沈黙。


 三人の視線が突き刺さった。


 最初に口を開いたのはセバスチャンだった。


「顔がニヤついてます」


「そんなことはない」


「あります」


「ない」


「今の顔で善人ぶるのは無理がありますぜ」


 レティシアも冷静に続ける。


「大義名分にしないでください」


「人聞きが悪いな。俺は本当に宿場の者たちを心配している」


「若様」


「少しは」


「少し、でございますか」


「かなり」


「今、言い直されましたね」


 レティシアの目がさらに冷える。


 ギルは咳払いした。


 ダリアは額に指を当てた。


「ギル様が動くと騒ぎになります」


「騒ぎにならないように動けばいい」


「その時点で動く前提です」


「言葉の綾だ」


「今の流れで、それは無理があります」


 ダリアまで容赦がない。


 ギルは少しだけ不満だった。


 だが、三人が止める理由も分かる。


 ここは領外だ。


 小領主たちが絡んでいる。


 魔物が出ているとしても、ギルが勝手に動けば問題になる。まして、マバール家の三男であることが知られれば、話はさらに面倒になる。王国の大貴族が領外の曖昧地帯で魔物退治をした。聞こえはいいが、小領主たちからすれば、自分たちの問題へ大貴族が勝手に手を突っ込んだ形にもなる。


 その上、迷宮が本当にあった場合。


 迷宮は資源だ。


 魔石が採れる。


 魔物素材が出る。


 小さくとも、誰のものかで争いになる。


 ギルが先に見つけ、何かをすれば、それだけで火種になる。


 分かる。


 分かってはいる。


 だが、面白そうなんだよな。


 未知の迷宮。


 小領主たちのにらみ合い。


 宿場を襲う魔物。


 領外。


 アル兄さんの管理外。


 条件が揃いすぎている。


「若様」


 セバスチャンの声が低くなった。


 ふざけた調子が少し薄れる。


「ここで若様が動けば、お館様の耳にも入りやすぜ」


「父上には、騒ぎを起こさないと話した」


「なら、なおさら動いちゃいけやせん」


「騒ぎを起こさなければいい」


「魔物が出る場所に首を突っ込んで、騒ぎを起こさず済むと思ってるんですかい」


「やり方次第だろう」


「その顔で言われても説得力がありやせん」


 ギルは少し黙った。


 セバスチャンは本気だ。


 この男は、ギルの好奇心そのものを否定しているわけではない。危険な場所へ行くなとも、魔物を恐れろとも言っていない。問題にしているのは、場所と立場だ。


 領外。


 小領主。


 温泉宿場。


 迷宮の可能性。


 それらが絡んでいるから止めている。


 レティシアも同じだった。


「若様が何かをなされば、宿場の者たちは喜ぶかもしれません。ですが、その後で誰が責任を取るのか、どの家が面子を潰されたと受け取るのか、分かりません」


「うむ」


「若様はお強いです。ですが、強いからこそ、動く意味が大きくなります」


 その言葉は、ギルの胸に少しだけ残った。


 強いからこそ、動く意味が大きくなる。


 それは確かにそうだ。


 平民の旅人が魔物を見に行くのとは違う。下級騎士が調査するのとも違う。辺境伯家の三男で、規格外の魔力を持つギルが動けば、それだけで周囲は意味を探す。


 ただの好奇心では済まなくなる。


 それでも、ギルは窓の外を見た。


 湯気の向こうに山道がある。


 その先に、何かがあるかもしれない。


 ダリアが静かに言った。


「ギル様、ここは帰ってからお館様にご相談なさるべきです」


「帰ってからでは遅いかもしれない」


「何がでしょうか」


「魔物が増えるかもしれない」


「それは、この土地の領主たちが考えることです」


「領主が曖昧なんだろう」


「だからこそ、ギル様が触れるべきではありません」


 正しい。


 本当に正しい。


 困るほど正しい。


 ギルは小さく息を吐いた。


 このまま正論で囲まれると、かなり不利だ。


 なら、少し視点を変える必要がある。


「セバスチャン」


「何でですかい」


「もし本当に迷宮が自然発生していたとして、放置するとどうなる」


 セバスチャンは眉を寄せた。


「規模によりますな」


「小さいなら?」


「小さいまま潰せる可能性もありやす。ただ、誰がどう潰すかは別の話で」


「大きくなる可能性は?」


「迷宮なら、ありやす」


「魔物は?」


「出てくるなら、増えるかもしれやせん」


 答えた瞬間、セバスチャンが少し嫌そうな顔をした。


 ギルは頷いた。


「なるほど」


「若様、今のは無しで」


「聞いた」


「余計なことを聞くんじゃありやせん」


「答えたのはお前だ」


「ちっ」


「舌打ちするな」


 セバスチャンは苦い顔をした。


 レティシアが少しだけ困ったようにセバスチャンを見る。ダリアも、今の返答がギルの材料になったことに気づいたようだった。


 そう。


 これは大義名分になる。


 小さな迷宮なら、早めに確認した方がいい。


 魔物が増えるなら、放置は危険。


 領主が曖昧で責任の所在が定まらないなら、なおさら対応が遅れる。


 無辜な民。


 温泉宿場。


 魔物。


 自然発生迷宮。


 よし。


 条件がかなり整ってきた。


「若様」


 レティシアの声が低い。


「そのお顔は本当におやめください」


「どんな顔だ」


「大変悪いお顔です」


「ひどいな」


「大義名分が整った、というお顔です」


 当たっている。


 かなり当たっている。


 ギルは少しだけ視線を逸らした。


「いや、俺はただ、状況を整理しているだけで」


「整理された結果、動こうとなさっています」


「まだ決めていない」


「では、動かないとお約束ください」


 ギルは黙って視線を逸らした。


 レティシアの目がさらに厳しくなる。


 ダリアが小さく息を吐く。


 セバスチャンが、ああこれは駄目だ、という顔をした。


「若様」


「……約束は慎重にするべきだ」


「そういう時だけ慎重にならないでくださいませ」


「できない約束はしない方がいい」


「できるようになさってください」


 正論だ。


 また正論で殴られている。


 ギルは少しだけ笑いそうになった。


 レティシアは本当に優秀だ。ギルを理解している。だから、逃げ道を潰すのが早い。ダリアもそれに続く。セバスチャンは文句を言いながらも、要所では情報を出してしまう。三人に囲まれると、思ったより動きにくい。


 だが、手がないわけではない。


 ギルは懐へ手を入れた。


 その瞬間、三人の視線がさらに鋭くなった。


「若様?」


 レティシアの声。


「何を出す気でさぁ」


 セバスチャンの声。


「ギル様」


 ダリアの声。


 三つの制止が重なる。


 ギルはにやりと笑った。


「一応持ってきてよかった」


 懐から取り出したのは、折り畳んだ赤い布だった。


 部屋の空気が止まる。


 赤布。


 帝国で山賊もどきとして動いた時に使ったもの。あの時は、顔や身元を隠し、貴族としてではなく、上品な山賊として動くための印だった。もちろん、ここで同じことをするとは言っていない。


 まだ言っていない。


 だが、赤布は便利だ。


 身分を隠す。


 素性をぼかす。


 マバール家の三男としてではなく、どこの誰とも知れぬ武装者として動く。


 少なくとも、顔を晒して堂々と魔物退治をするよりはましだろう。


 たぶん。


 セバスチャンが天井を見た。


「持ってきてやがった……」


「念のためだ」


「その念が余計なんでさぁ」


 レティシアは額へ手を当てた。


「若様……」


「まだ何もしていない」


「赤布を出した時点で、かなりなさっています」


「布を出しただけだ」


「その布に意味がありすぎます」


 ダリアは本気で頭を抱えた。


「ギル様、どうして持ってきているのですか」


「何があるか分からないからだ」


「普通は持ってこないものです」


「そうか?」


「はい」


 即答だった。


 ギルは赤布を指先で広げた。


 湿った部屋の空気の中で、赤い布が揺れる。外の湯気は白く、石壁は灰色で、土壁はくすんだ色をしている。その中で、赤だけが妙にはっきり見えた。


 セバスチャンが低く唸る。


 レティシアは黙ったまま、ギルを見ている。


 ダリアも顔を上げた。


 三人とも、止める気だ。


 それは分かる。


 だが、ギルは赤布を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 温泉へ来たはずだった。


 だが、湯の宿場には人が少なく、魔物が出て、百年ぶりかもしれない自然発生迷宮がある。


 無辜な民が苦しんでいる。


 領主は曖昧。


 小領主たちは動きにくい。


 アル兄さんの管理外。


 父上との約束は、騒ぎを起こさないこと。


 なら、騒ぎにならない形で動けばいい。


 少なくとも、そう考える余地はある。


 ギルは赤布を広げたまま、窓の外へ視線を向けた。


 白い湯気の向こうで、山道が薄く沈んでいる。


 その先に何があるのか、まだ分からない。


 分からないからこそ、確かめたくなる。


「さて」


 ギルが小さく呟くと、三人が同時に身構えた。


 それが少し面白かった。


 赤布が、ギルの手の中で静かに揺れた。

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