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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第六十四話 湯の宿場


 山間の街道は、日が傾くにつれて石の色を濃くしていった。


 道は細く、馬を並べて進むには少し気を遣う幅だった。片側には斜面が迫り、もう片側は谷へ落ちている。谷底を流れる水音は見た目より遠く、風が向きを変えた時だけ、石に当たる硬い響きが薄く届いた。馬の蹄は乾いた土ではなく、ところどころ湿った石を踏み、かつり、かつりと冷えた音を鳴らしている。


 数日前に城を出た時、ギルはもっと早く着くと思っていた。


 夕方に出発した時点で、翌日に着くはずがない。


 そんなことは少し考えれば分かる。分かるのだが、あの時は温泉という言葉が頭の中で妙に強かった。城を出る理由も、国境を越えないことも、騒ぎを起こさないことも、父上へ相談したことも、きちんと押さえていたはずなのに、距離の感覚だけが少し雑になっていた。


 温泉。


 その響きだけで、前世の記憶が無駄に働く。


 ただ、この世界の温泉宿が前世のものと同じであるはずはない。道中でセバスチャンから聞いた話でも、ここは山越えの街道沿いに湯が湧いた場所で、平民や騎士が休む宿が集まるようになった場所らしい。華やかな遊び場というより、疲れた体を休め、馬を替え、荷を整えるための場所だと考えた方が近いのだろう。まあ、前世の温泉も元々はそんな感じだったような気がするが。


 それでも、温泉は温泉だ。


 それだけで十分だった。


「思ったよりかかったなぁ」


 ギルが馬上で漏らすと、隣を進んでいたセバスチャンが、待っていたように口の端を吊り上げた。


「なんで翌日着くと思ったんですかい?」


 腹立つ声だ。


 ギルは前を向いたまま答える。


「なんとなく」


「アホですな」


「黙れ、クソじじい」


「へいへい」


 セバスチャンはまったく堪えた様子もなく笑った。年寄りのくせに、山道を数日進んでも背筋が崩れない。馬上の揺れにも慣れきっている。騎士として戦場を歩いてきた男なのだから当然なのだろうが、こういう時だけは本当に腹が立つ。


 背後から、静かな溜息が聞こえた。


 振り返らなくてもレティシアだと分かる。怒っているというより、いつものように呆れているのだろう。だが、ギルが少しだけ肩越しに見ると、レティシアは手綱を持ったまま、涼しい顔でこちらを見ていた。顔立ちは整い、旅装でも乱れはない。長い移動の後だというのに、彼女の姿勢はいつも通りだった。


 その横で、ダリアもこちらを見ていた。


 褐色の肌に灰色の髪。馬に揺られても体の軸が大きく崩れない。彼女はまだこの一行に完全に馴染んだとは言えないが、少なくとも旅の間に無駄な緊張を表へ出すことはかなり減った。今も、表情は薄い。だが、目だけが少し冷静すぎる。


 たぶん、二人とも呆れている。


 うむ。


 まあ、分かる。


 だが温泉なのだから仕方ない。


 ギルは咳払いして前へ向き直った。


 道の先で、白い湯気が見えていた。


 煙ではない。火の煙ならもっと重く、風に流されても形が残る。今見えているものはもっと薄く、山の冷えた空気の中へ広がったそばから崩れていく。斜面の窪みや、石積みの建物の隙間から、いくつもの白い筋が立ち上っていた。


 近づくにつれて、匂いも強くなる。


 卵を少し腐らせたような、鼻の奥に引っかかる匂い。木の匂いや馬の汗、濡れた革紐、荷に染みた油の匂いを押し退けるほどではないが、確かにそこにある。山道の匂いではない。水場の匂いとも違う。


 これ、硫黄の匂いじゃないか?


 いや、前世なら温泉の匂いと呼んでいたものだ。


 街道はやがて緩い坂を下り、谷間の開けた場所へ近づいた。


 そこには宿が並んでいた。


 ただし、ギルがぼんやり期待していたような木の宿ではなかった。山肌を削り、石を積み上げ、その上に重い土壁を乗せた建物が多い。柱や扉には木も使われているが、建物全体はずっしりしていて、湿気と風に耐えるためのものに見えた。壁の下部は黒ずみ、湯気に晒されているせいか、ところどころ白く乾いた筋が残っている。


 屋根は低く、石板や硬い板を重ねて押さえている。軒は深い。入口は広く、馬を引いたまま荷を下ろせるようになっていた。宿の前には太い鉄輪が埋め込まれ、そこへ馬を繋げる。道の端には石で縁取られた浅い溝があり、温かそうな水が白く湯気を立てながら流れていた。


 湯の宿場。


 こちらではそう呼ぶらしいが、しっくりきた。


 宿場であり、湯場でもある。


 この世界らしい重さがある。


「ほう」


 ギルは思わず声を漏らした。


「なかなか風情があるな」


 前世の温泉宿も良かったが、これはこれでいい感じだ。


 レティシアが馬を少し寄せてきた。


「若様、何か匂いますね」


「ああ。湯の匂いだろう」


「湯の匂い、でございますか」


 レティシアは鼻先へ意識を向け、白く流れる湯気を見た。嫌がっているようには見えない。だが、好ましい匂いとして受け取っているわけでもなさそうだ。彼女の周囲は普段から整えられた部屋、清潔な布、茶や香草の匂いが多い。山の湯が持つこの独特の匂いは、少し異質なのだろう。


 ダリアも同じだった。


 彼女は湯気の上がる溝を見て、それからギルへ視線を戻す。


「あの、ギル様」


「何だ」


「匂うお湯に入ると、臭くなるのではありませんか?」


 真面目な声だった。


 からかいではない。


 ギルは少し詰まった。


「ん? んん?」


 言われてみれば、そうだ。


 匂う湯に入れば、体にも匂いが移るのではないか。前世ではそれを温泉らしさとして受け入れていた気がするが、この世界の女にいきなりそう言って通じるかは怪しい。そもそも温泉に浸かる文化がこの土地にあるから宿が並んでいるのだろうが、ダリアがそれを知っているとは限らない。


「いや、それが温泉なんだろ?」


「そうなのですか?」


「たぶん」


「たぶん、でございますか」


 ダリアの目が少しだけ細くなった。


 まずい。


 ギルは視線を逸らした。


 温泉には入りたい。だが、温泉について正確に語れるほど詳しいわけではない。肌にいいとか、体が温まるとか、疲れが取れるとか、その程度なら言える。だが、それがこの世界でどう理解されているのかまでは知らない。


 余計なことは言わない方がいいかな。


 そう思ったところで、セバスチャンが横から口を挟んだ。


「なんでも、あの匂う湯が肌にいいらしいですぜ」


 空気が少し変わった。


 ギルには分かった。


 レティシアの視線が湯気へ戻る。ダリアも同じように、白い湯を見た。二人とも大きく表情を変えたわけではない。だが、肌にいい、という言葉はちゃんと届いたらしい。


 強いな、その言葉。


 ギルは少し感心した。


 レティシアは普段から美しい。旅の途中でも髪や衣服が乱れすぎることはなく、肌も荒れているようには見えない。ダリアも褐色の肌に張りがあり、帝国からの長旅を経ても、旅慣れした女特有の強さが残っていた。それでも、肌にいいものへの反応は別らしい。


 前世でも泥を塗る美容法みたいなものがあった気がする。顔に泥を塗って、しばらくして洗い流す。最初に見た時は汚しているのかと思ったが、あれも肌にいいとか言っていた。


「泥も肌にいいとか聞いた事あるな」


「おや、アホなのによく知ってますな、若様」


「はっはっはっ、黙れ!」


「笑いながら怒鳴るもんじゃありやせんぜ」


「黙れと言っている」


「へいへい」


 セバスチャンは肩を揺らした。


 腹立たしい。


 だが、少し気分は軽くなった。


 一行は宿場の中へ入っていった。


 近づくほど、建物の造りがよく見える。どの宿も、道側に開いた広い入口を持っていた。荷を積んだ馬や小型の荷車を受け入れるためだろう。石床には溝が刻まれ、湯気を含んだ水が端へ流れるようになっている。壁の高い位置には小さな窓があり、木の板で内側から閉められるようになっていた。


 武装した旅人を前提にしている。


 そう感じた。


 馬を繋ぐ鉄輪は頑丈で、入口の扉も厚い。宿の並びは道へ向けて完全に開いているわけではなく、ところどころに石壁が張り出し、外から奥が見えにくい。温泉街というより、山道の休憩拠点だ。魔物がいる世界なのだから、それが自然なのだろう。


 だが、人が少ない。


 宿はある。


 湯気も上がっている。


 石床には多くの蹄跡が残っている。


 使われてきた場所なのは分かる。


 それなのに、歩いている者が少なかった。荷を下ろす男が二人、ギルたちを見ると会話をやめた。奥の建物の窓から子どもらしき影が覗いたが、すぐに見えなくなる。開いているはずの入口のいくつかには、内側から閂を落としたような重い沈黙があった。


 ギルは最初、それを悪いことだとは思わなかった。


「なんだ、思ったより空いてるじゃないか」


 空いているならいい。


 湯に入る時、他の男の目が少ないのは大事だ。いや、かなり大事だ。レティシアとダリアを連れている以上、余計な視線は不要である。従業員にも男がいるだろうが、その辺りは後で考えればいい。


 ギルがそんなことを考えていると、セバスチャンが宿場の奥を見ながら目を細めた。


「妙ですな」


「何がだ」


「ここは平民の間じゃそれなりに知られてやす。騎士も訪れるらしいですぜ。それにしちゃ、人が少なすぎる」


「そうなのか」


「ええ。湯が湧くだけなら、こんな宿をいくつも維持できやせん。街道を使う者が休み、馬を休ませ、金を落とすから成り立つ場所でさぁ」


 セバスチャンの言葉に、ギルは改めて周囲を見る。


 確かに、建物の数に対して人の気配が薄い。宿の造りは使われることを前提にしている。馬を繋ぐ場所も、荷を下ろす空間もある。だが、今はその空間が余っていた。


 温泉を独占できるかもしれないという期待より、少しだけ別の感覚が混じる。


 何かを避けている。


 そんな静けさだ。


 セバスチャンが嫌な笑みを浮かべた。


「まさか、若様が来るからみんな逃げたんじゃ?」


「なんでだ!」


「いやあ、魔物より怖いって噂でも」


「あるわけないだろうが」


「分かりやせんぜ」


「分かるわ!」


 声が少し大きくなった。


 近くの入口の奥で、誰かがびくりと動いた気配がした。ギルは咳払いし、声を落とす。


 いかん。


 余計に怖がらせるところだった。


 背後でレティシアの空気が少しだけ冷えた気がする。振り返らなくても分かる。若様、と静かに呼ばれる前の気配だ。


「宿を取るぞ」


「へい」


 セバスチャンはまだ少し笑っていた。


 選んだ宿は、宿場の中でも大きい方だった。


 道に面した入口は広いが、奥へ進むほど石壁が厚くなる。下部は石積みで、上は土壁と木材が混ざっている。扉には鉄の補強があり、馬を繋ぐ鉄輪も新しいものと古いものが混じっていた。壁の一部にも湯気で白く乾いた跡が残り、近くの溝からは温かい湯が流れている。


 宿の者が出てきた。


 年は三十を越えたくらいに見える男だった。宿の主人なのかは分からない。服は質素だが、汚れすぎてはいない。ギルたちの馬、武装、外套、荷の整え方を順に見て、男は一瞬だけ喉を動かした。


 こちらを警戒している。


 まぁ、当然だろう。


 ギルたちは普通の旅人には見えない。武装しているだけでなく、馬も荷も整っている。セバスチャンは騎士に見えるだろうし、レティシアの所作も平民の旅女とは違う。ダリアもただの連れではなく、周囲を見る目が鋭い。成人はしていても大人とは言いがたいギルが中心にいることも、余計に分かりにくくしているのだろう。


 こういう場では、セバスチャンの方が早い。


 セバスチャンは馬から降り、男へ近づいた。身分を名乗らず、余計な威圧もせず、懐から硬貨を見せる。手つきは雑に見えて、相手の逃げ場を潰しすぎない程度に収まっていた。


「四人だ。馬も頼む。部屋は上等なのを用意してくれや」


 男の顔が少し変わった。


 硬貨の力は分かりやすい。


 それに、セバスチャンの出し方が慣れている。払える客だと示す。だが、金で黙らせようとしているほど乱暴ではない。男は硬貨を受け取ると、ひとまず頭を下げた。


「かしこまりました。部屋はご用意できます。ただ……」


 男はそこで言葉を切った。


 セバスチャンの目がわずかに細くなる。


「何でい」


「お泊まりはできます。ですが、湯場へは近づかれない方がよろしいかと」


 ギルは男を見た。


 湯場へ近づくな。


 湯の宿場で、それを言うのか。


「どういうことだ」


 ギルが尋ねると、男は一瞬迷ったようだった。ギルの背丈を見て、どこまで答えるべきか考えたのかもしれない。だが、セバスチャンが隣にいる。レティシアとダリアも控えている。男はすぐに姿勢を直した。


「最近、この辺りで魔物が出ております。湯場の近くや、山道の上の方で人が襲われたという話がありまして。宿で休まれるだけならまだしも、夜に湯へ向かわれるのはお勧めできません」


 温泉に入るために来たのに、温泉へ近づくな。


 ギルは少しだけ黙った。


 男が嘘をついているようには見えない。商売としては、客に湯を使わせたいはずだ。湯で疲れを抜けるからこそ、この宿場には価値がある。それを止めるのは、宿側にとっても面白い話ではないだろう。


 人が少ない理由が見えた。


 魔物。


 温泉。


 山道。


 客足の減り。


 ギルが視線をセバスチャンへ向けるより早く、セバスチャンが低く呟いた。


「ここいら近くに迷宮でも発生したかもしれませんな」


 ギルは反射的にセバスチャンを見た。


「迷宮なんて発生するのか?」


 迷宮は、そこに存在しているものだと思っていた。


 マバール領の迷宮は、たいていは入口に石造りの管理建物があり、兵がいて、探索者が出入りし、魔石や素材が換金される場所だった。内部には森があり、小川があり、魔物が出る。古い迷宮ほど広く深くなり、魔物も強くなる。そういうものとして見ていた。


 だが、新しく発生する。


 それは少し違う。


 宿の男は口を挟まない。迷宮に詳しくないのか、あるいは騎士らしき者たちの会話に入るべきではないと思ったのかもしれない。セバスチャンは宿の入口と周囲を一度見て、声を低くした。


「ごく稀ですがね。たいていは小さな迷宮です。最初から大きなものが出るわけじゃありやせん」


「自然にか?」


「自然に、という言い方が正しいかは分かりやせんが、そういう話はありやす」


 ギルは眉を寄せた。


「迷宮は、迷宮が最後に生み出す大魔獣の死体からしか発生しないと思ってた」


「ああ、それもありやす。というより、そっちの方がずっと多いですな」


 セバスチャンは顎に指をやり、少しだけ考える顔になった。


 その顔を見て、ギルは余計に気になった。


 この男は戦場経験が豊富で、魔物や迷宮についてもギルよりずっと現地の知識を持っている。もちろん、学者のように全てを知っているわけではない。だが、騎士として、実際に見聞きした危険については軽く扱わない。


 そのセバスチャンが、珍しいと言う。


「あっしが知る限り、迷宮が自然発生するのは……百年ぶりぐらいじゃないですかね」


 言葉が落ちた瞬間、セバスチャンの顔がわずかに歪んだ。


 しまった。


 そう思った顔だった。


 ギルはじっとセバスチャンを見た。


 百年ぶり。


 自然発生。


 小さな迷宮。


 湯場の近くに出る魔物。


 山間の宿場から消えた客。


 それらが頭の中で一つずつ並んでいく。


 迷宮は貴族にとっては資源地だ。


 魔石が出る。


 魔物が出る。


 古くなれば広がり、深くなり、魔物も強くなる。


 なら、出来たばかりの自然迷宮とやらはどうなっている。


 どれほど小さいのか。


 中は洞窟なのか、森なのか、それともまったく別の環境なのか。


 その迷宮から魔物が外へ出ているのか。


 それとも、迷宮周辺で魔物が湧くのか。


 そもそも、自然発生とは何だ。


 前世の知識で説明できるはずがない。この世界特有の現象だ。現地の騎士ですら百年ぶりと言うほど珍しいなら、見られる機会などまずない。


 面白い。


 非常に面白い。


 ギルはゆっくり息を吐いた。


 宿の入口には、湯気を含んだ湿った空気が流れている。石壁は冷たいのに、足元の溝を流れる湯だけが白く煙っていた。山の上へ続く道は宿場の奥へ伸び、夕方の薄い光を受けて灰色に沈んでいる。


 その先に何かがあるのかもしれない。


 レティシアが一歩近づいた。


 まだ何も言わない。


 だが、その気配だけで分かる。


 若様、と呼ぶ前の空気だ。ギルが余計なことに興味を持った時、彼女は必ずこの空気になる。背筋はまっすぐで、顔は静か。だが、目だけが少し厳しい。


 ダリアもこちらを見ていた。


 彼女はレティシアほど長くギルを知っているわけではない。それでも、今の変化には気づいたらしい。褐色の顔に大きな表情はないが、口元が少し固くなっている。


 セバスチャンは天を仰ぐように一瞬だけ目を上げた。


 自分の失言を後悔しているようだった。


 ギルは口元が緩みそうになるのを抑えた。


 温泉へ来た。


 普通に温泉に入るつもりだった。


 騒ぎは起こさない約束だった。


 だが、湯気の向こうに百年ぶりかもしれない迷宮の気配がある。


 まだ何もしていない。


 ただ、興味を持っただけだ。


 興味を持つだけなら罪ではない。


 たぶん。


「……ほう」


 小さく漏れた声に、レティシアの眉がわずかに動いた。


 ダリアが静かに息を吸う。


 セバスチャンが、やっちまった、という顔でこちらを見た。


 ギルは宿場の奥へ視線を向ける。


 白い湯気の先で、石の山道がさらに上へ続いていた。


 その先に何があるのか、まだ誰も教えてくれない。


 だからこそ、余計に気になった。

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