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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第五十五話 変わった場所


 朝食の静けさは、思っていたよりも後を引いた。


 父上は何も言わなかった。使用人たちも余計な声を立てなかった。皿の音も、茶器の触れ合う音も、いつもより薄かった気がする。誰も俺を責めていない。誰も昨夜のことを口にしていない。それなのに、あの場にいる全員が何かを知っているような気配だけが、食堂の空気に残っていた。


 ギルは自室へ戻る途中、何度か背筋を伸ばし直した。


 廊下はいつも通りだ。石床は磨かれ、壁際には花器が置かれ、窓から入る朝の光が薄く広がっている。使用人たちは距離を取って礼をし、こちらが通り過ぎるまで顔を伏せる。いつものマバール城だった。だが、いつも通りだからこそ、わずかな違いが妙に目につく。


 目を伏せるのが少し早い。


 頬が赤いように見える。


 声が控えめすぎる。


 全部、気のせいかもしれない。


 だが、気のせいだと思い込むには、今朝の俺は少し弱っていた。


 レティシアは後ろに控えている。足音は静かで、歩幅も乱れない。昨日の夜から今朝までのことなど、何もなかったかのような顔をしている。だが、完全に機嫌が直ったわけではない気がした。少なくとも、俺を見る目が普段より少しだけ整いすぎている。


 整いすぎている目というのは怖い。


 柔らかいはずなのに、逃げ場がない。


 ダリアもいる。彼女はいつも通り平静を装っていたが、寝室前で見た赤い顔がギルの記憶に残っている。どこまで聞こえたのかは知らない。知らない。知りたくもない。だが、知らないからこそ、余計に考えてしまう。


 城にいるのが、なんだか居た堪れない。


 ギルは自室に入ってから、立ったまま小さく息を吐いた。


 じっとしているのはよくない。


 このまま部屋にいれば、寝台を見る。寝台を見れば昨夜を思い出す。廊下へ出れば使用人の顔を見る。食堂へ行けば父上の沈黙を思い出す。どこにいても、余計な考えがまとわりついてくる。


 なら、外へ出ればいい。


 逃げるわけではない。


 これは気分転換だ。


「レティシア」


「はい」


 レティシアはすぐに返事をした。


 声は落ち着いている。怒っている声ではない。だが、ほんの少しだけ温度が低い気がする。気のせいかもしれないが、今は気のせいにできるほど強くない。


「生産拠点へ行く」


 レティシアの目がわずかに動いた。


「本日でございますか」


「ああ。城でじっとしていると、余計なことばかり考えそうだからな」


 言ってから、少しだけ本音を出しすぎたかと思った。


 レティシアは俺を見た。責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに見ている。その視線を受けていると、昨夜の謝罪をもう一度した方がいいのではないかという気分になる。


 だが、今ここで蒸し返すのも危険だ。


 ギルは咳払いした。


「それに、ダリアにも街を見せておきたい」


 少し離れて控えていたダリアが顔を上げた。


「私も、でございますか」


「ああ。城の中だけでは、マバール領の空気は分からないだろう」


「承知しました」


 ダリアは素直に頷いた。


 声は静かだが、目に少しだけ興味が浮かんだように見える。城内の廊下や使用人区域は、レティシアに案内されてある程度知ったはずだ。だが、城下はまた違う。人の流れ、店の並び、職人の気配、荷の動き。そういうものは、城の中からではなかなか見えないものだ。


 レティシアは少し考えてから、静かに言った。


「では、馬車をご用意いたします」


「いや、歩いて行く」


「歩いて、でございますか」


「ああ。気分転換だと言っただろう。馬車だと街を見せるにも限りがある」


「護衛は必要でございます」


「そこは分かってる」


 面倒だが、仕方ない。


 俺がどれだけお気楽な三男坊を望んでも、マバール家の人間であることは変わらない。しかも、最近は帝国や迷宮で動きすぎた。城下を歩くだけだとしても、完全に一人でふらふら出るわけにはいかない。


 ただし、目立ちすぎるのは困る。


 街の人間は、基本的に俺の顔を知らない。辺境伯家の三男という存在を聞いたことはあっても、実際に顔まで見分けられる者は限られる。城下で働く者にとって、俺は城の中の人間だ。遠い存在であって、通りで擦れ違えば分かる有名人ではない。


 だから、大げさな護衛を並べる必要はない。


 少し離れて、こちらを見失わない程度についてくればいい。


 そう伝えると、レティシアは小さく頷いた。


「かしこまりました。目立たぬ形で手配いたします」


「頼む」


 その返事が、いつもより少しだけ柔らかかった気がして、ギルは内心で胸を撫で下ろした。


 まだ大丈夫だ。


 完全に許されたかはともかく、話は通じている。


 しばらくして、ギルたちは城を出た。


 馬車はない。歩きだ。


 城門を抜けた瞬間、風の匂いが変わった。城内の磨かれた石と布の匂いではなく、土と馬と煙が混じった匂い。どこかで穀物を焼いている香ばしさがあり、遠くから家畜の声も聞こえる。朝の城下はすでに動いていた。荷車を押す男、籠を抱えた女、店先を掃く老人、布を干す若い娘。声が重なり、足音が流れ、城の中とは違う生きたざわめきが広がっている。


 ギルは少しだけ肩の力を抜いた。


 いいな。


 城の中より、ずっと息がしやすい。


 少し離れて、護衛がついている。粗めの外套を羽織り、普通の通行人に紛れるように歩いているが、歩き方がやはり普通ではない。分かる者が見れば、護衛だと気づくだろう。だが、街の人間が一々気にするほどではない。


 レティシアは左側を歩いている。


 姿勢は綺麗で、足取りも静かだ。だが、ギルとの距離が普段よりほんのわずか遠い気がする。気のせいだと思いたい。思いたいが、たぶん気のせいではない。


 まだ少し拗ねているな。


 今日は慎重にいこう。


 ダリアは反対側で、街を見ていた。大きく首を動かしたりはしない。だが、視線は忙しい。露店の並び、荷車の進路、店先のやり取り、道端の井戸に集まる人の輪。彼女は見慣れないものに驚いているというより、情報として拾っているようだった。


「帝国側とは違うか?」


 ギルが小声で尋ねると、ダリアは少し考えた。


「大きく違うわけではありません。ただ、人の動きが少し落ち着いているように見えます」


「城に近いからな。ここで妙な騒ぎを起こす馬鹿は少ない」


「なるほど」


「あと、税を納める相手が近いと、人の顔つきも変わるんだろう」


 ギルは通りの先へ目を向けた。


 城下の人々は、マバール家に守られ、使われ、時には兵として動員される側だ。だが、常に怯えているわけではない。日々の仕事があり、商売があり、家族があり、城の需要で飯を食っている者もいる。国境に近い土地であっても、暮らしは暮らしだ。


 ダリアは短く頷いた。


「よく見ておきます」


「そうしろ。今後、役に立つかもしれない」


「はい」


 レティシアが隣で少しだけこちらを見た。


 何も言わない。


 だが、ダリアを自然に近くへ置く俺の言葉に、もう驚きはないようだった。城に連れてきた頃から、彼女はダリアを俺の近くへ置く形に慣らしている。俺よりずっと上手く、城内の空気へ馴染ませていた。


 そのまま歩いていると、通りの脇から香ばしい匂いが流れてきた。


 肉だ。


 炭火の上で、串に刺した肉が焼かれている。屋台の男が手際よく串を返すたび、脂が火に落ちて小さく跳ねた。煙に塩と香草の匂いが混じり、朝食を済ませたばかりの腹にも、なかなか強い誘惑をかけてくる。


 ギルは思わず足を緩めた。


「おっ、あれは何だ。なかなか美味そうだぞ」


 指差すと、屋台の男がこちらへ商売用の顔を向けかけた。


 すぐにレティシアの声が飛んでくる。


「若様、先程朝食を済ませたばかりですよ」


「いや、俺が食べたいわけではない」


 ギルは慌てて言った。


「レティシアとダリアにどうかと思ってな」


 ちらりとレティシアを見る。


 まずいか。


 言い訳に聞こえるか。


 半分は言い訳だ。だが、半分は本当にそう思ったのだ。街歩きで何かを買うのは気分転換になる。ダリアに街の味を見せられるし、レティシアの機嫌も少し良くなるかもしれない。


 レティシアは俺を見ていた。


 まだ少しだけ厳しい目だ。


 けれど、やがて口元がほんのわずかに緩んだ。


「大丈夫です」


 ギルは心の中で深く安堵した。


 笑った。


 少しだが、笑った。


 これはかなり大きい。


 レティシアはダリアへ顔を向ける。


「ダリアは食べてみますか?」


 ダリアは屋台を見た。焼けた肉の匂いを確かめるように、ほんの少しだけ目を細める。それから静かに首を横へ振った。


「いえ、私も大丈夫です」


「そうですか」


「はい。ですが、良い匂いですね」


 その声は素直だった。


 ギルは頷いた。


「今度、腹が減っている時に買うか」


「若様が買われるのですか」


 レティシアがすぐにこちらを見た。


「もちろん、誰かに買わせる」


「そうなさってください」


「そこは止めないのか」


「若様が屋台で直接買い物をなさると、別の問題が起こります」


「それはそうだな」


 店の男には悪いが、今日は通り過ぎる。


 ギルは歩き出した。


 串焼きは食べていない。だが、十分に役目は果たした。レティシアの声は朝より柔らかい。ダリアも少し街に興味を示している。城を出たのは正解だった。


 職人街へ近づくにつれ、通りの空気が変わった。


 店先に並ぶ品が、食べ物や布から、木材、革紐、金具、桶、車輪の部品へ移っていく。家の奥から槌の音が響き、板を削る匂いが風に混じる。道は場所によって狭く、荷車が通ると人が脇へ避ける必要があった。大通りほど整ってはいないが、活気はこちらの方が濃い。


 ダリアはまた周囲をよく見ていた。


「職人が多いのですね」


「この辺りはな。城で使う物もあるし、街で売る物もある」


「生産拠点も、この近くに?」


「もう少し先だ。工房というより、小さな職人区画みたいなものだな」


「職人区画、ですか」


「ああ。普通の工房より、かなり広い」


 ギルは少し笑った。


「まあ、俺の趣味に付き合わされている連中の集まりだ」


「趣味……」


 ダリアはその言葉を口の中で転がすように呟いた。


 無理もない。


 辺境伯家の三男が、城下にかなり広い職人区画を持ち、それを趣味と言っているのだ。帝国で見てきた貴族の金の使い方とは、少し違って見えるかもしれない。


 レティシアは何も言わなかった。


 だが、少しだけ目が柔らかかった。


 生産拠点は、職人街の奥にあった。


 高い塀で囲んで威圧するような場所ではない。だが、入口から見える敷地の奥行きだけで、普通の工房ではないと分かる。複数の建物が並び、作業小屋の前には木材や金具、布で覆われた荷、炭を入れた籠が置かれている。奥からは木を削る音、何かを叩く鈍い響き、職人同士の短い掛け声が聞こえた。


 煙は出ている。


 だが、ひどく目に染みるほどではない。風に薄く流れ、木と火の匂いが混じっている。城内の整った空気とはまるで違うが、ギルにはこちらの方が少し懐かしい。前世の工場とは違う。規模も道具も違う。それでも、何かを作っている場所の匂いは、妙に気持ちを落ち着かせる。


 入口近くの男がギルに気づき、目を見開いた。


「若様」


 声を上げかけたところで、慌てて姿勢を正す。


 その動きにつられ、近くの職人たちが次々とこちらを見た。手を止める者、布で指先を拭う者、奥へ声をかける者。城下の通りでは誰も気づかなかったが、ここでは違う。ここにいる者たちは、俺の顔を知っている。


「お久しぶりです、若様」


「おう、久しぶりだな。がんばっているようだな」


 ギルは気安く返した。


 職人たちの顔が少し緩んだ。


 彼らは礼を失っているわけではない。だが、城内の使用人のように隙なく整いきっているわけでもない。俺がここで何度も妙な注文を出し、試作を見て、失敗に首を傾げ、時には一緒に笑ったからだろう。距離の取り方が、他の者たちとは少し違う。


 ダリアはその様子を静かに見ていた。


 ギルは彼女へ視線を向ける。


「ダリア、ここが俺の趣味を実行する場所だ」


「どのような物を作っておられるのですか?」


 問いは自然だった。


 入口から見えるだけでも、作っている物が一つではないことは分かる。糸らしいものを扱う建物があり、木材や金具を並べた作業場があり、奥には炭を扱っているらしい場所もある。初めて見る者なら、何の施設なのか分からないだろう。


「うむ。シルクに、馬車のスプリング、煙が少なく火力の強い炭とか、まあ色々だ」


「シルク……馬車のスプリング……炭……」


 ダリアは一つずつ確かめるように呟いた。


 灰色の目が、敷地の奥へ向く。


 興味はあるようだった。驚きもあるのだろうが、表に大きく出さない。そこがダリアらしい。


「興味があるなら、自由に見ていいぞ」


「よろしいのですか」


「ああ。ただ、触る前には職人に聞け。危ない物もある」


「承知しました」


「レティシア、案内してやってくれ」


 レティシアは静かに頷いた。


「かしこまりました」


 ギルは職人たちへ顔を向ける。


「俺は少し職人たちと話してくる。頼みたい物もあるしな」


「では、こちらへ」


 年嵩の職人がすぐに案内へ立った。


 ギルは作業場の一つへ入る。建物の中は外より少し暗く、窓から入る光が作業台を斜めに照らしていた。木屑が薄く舞い、油と鉄と乾いた木の匂いが混じっている。壁際には部品が並び、作業台の上には馬車の足回りに使う試作品が置かれていた。


「馬車の方はどうだ」


 ギルが尋ねると、職人は渋い顔で部品を見た。


「乗り心地は良くなりますが、どうしても費用がかさみます」


「商人用に広げるには厳しいか」


「はい。貴族向けならともかく、荷運び用へ回すにはまだ高すぎますな」


 ギルは試作品へ目を向けた。


 金属のスプリングと木材を組み合わせた足回りは、以前見たものより形が整っている。実際、試作段階の馬車にも何度か乗ったが、揺れ方はかなり違った。石畳を越えた時の突き上げが減り、長く乗った時の腰の重さも少し違う。


 前世で見た車の滑らかさには程遠い。


 だが、この世界の馬車としては十分に意味がある。


「まあ、最初は貴族向けでいい」


 ギルは部品を軽く指で叩いた。


「高い物は高い物として売れる。そこから少しずつ改良すればいい」


「見た目も整えませんとな」


「そこは任せる。俺は腰が痛くならなければいい」


「若様らしいですな」


 職人たちが笑った。


「一応、見た目も大事だとは思っているぞ」


「一応、でございますか」


「貴族相手なら大事だ。俺個人としては、座った時に楽な方が大事だが」


「では、見た目はこちらで何とかいたします」


「頼む」


 こういう話は楽しい。


 帝国の内乱や迷宮の危険とは違う。目の前に物があり、問題があり、少しずつ直していく。失敗しても、そこには理由がある。理由があれば次を試せる。もちろん金も時間もかかるし、職人たちには迷惑もかけているが、それでも形になっていく面白さがあった。


 次に、糸を扱う建物へ向かった。


 中には細い糸が並び、光を受けて滑らかに艶めいていた。シルク。ギルがそう呼んでいるものだ。蜘蛛に魔力を与えて作らせた高品質な糸。何度見ても不思議な光沢がある。


「質はどうだ」


「安定してきました。ただ、量を増やすとなると、蜘蛛の管理が難しくなります」


「無理に増やすな。質が落ちる方が困る」


「はい」


「職人の方は?」


「慣れてきた者は増えましたが、細かい作業ですので、長く続けると目が疲れるようです」


「なら、交代を増やせ。目を悪くして作れなくなったら困るだろう」


 若い職人が少し驚いたように顔を上げた。


「若様は、そのようなことまで気になさるのですか」


「職人が潰れたら困るからな」


「ああ、なるほど」


「そこはもう少し感動してもいいんだぞ」


 近くで小さな笑いが起きた。


 ギルは少し不満だったが、悪い気分ではない。


 窓の外を見ると、レティシアとダリアが別の職人に案内されていた。レティシアは布片を手に取り、光にかざしている。ダリアはその隣で、糸の束と職人の手元をじっと見ていた。距離は保っている。勝手に触りはしない。だが、目は興味深げに動いている。


 ダリアは、見ている。


 ただ美しいと感じているだけではないのだろう。値段、扱い、出所、用途。そういうものまで考えているように見える。


 ギルはそれを少し面白く思った。


 次に炭の置き場へ向かった。


 積まれた炭は黒く締まり、以前見た試作品より形も揃っていた。職人が一つ手に取り、軽く叩いても簡単には崩れないところを見せる。割れた断面には鈍い光があり、表面も粉っぽさが少ない。


「前より煙は減りました。火力も悪くありません」


「割れはどうだ」


「まだ少し多いですな。強く焼こうとすると、どうしても脆くなります」


 ギルは炭の断面を眺めた。


 前世で見た備長炭みたいな物が作れれば理想なのだが、さすがにそう簡単ではない。そもそも作り方を細かく知っているわけでもない。何となく硬くて火持ちがよく、煙が少ない炭という印象があるだけだ。


 専門外は無理をしない。


 この世界に来てから、嫌というほど学んだことだ。


「まあ、今でもかなり良くなってる」


「料理場の方では評判が良いです」


「なら、その辺りを基準に詰めるか。火力、煙、割れにくさだな」


「承知しました」


「鍛冶の方にも試せるか?」


「火力はありますが、用途によっては癖が出るかもしれません」


「なら、いきなり広げるな。料理場とここの作業用で使って、問題を出してくれ」


「分かりました」


 職人は真面目に頷いた。


 炭一つでも、思ったより奥が深い。前世で当たり前に使われていた物は、こちらで作ろうとすると妙に難しい。だが、だからこそ面白い。何となくの知識を投げるだけでは駄目で、現地の職人が試して、失敗して、また形を変える必要がある。


 ギルは炭を戻し、手についた黒い粉を軽く払った。


 その時、外からレティシアの声が聞こえた。


「これは、まだ試作段階のものです」


「触っても?」


「職人に確認してからにしましょう」


「はい」


 ダリアの声は素直だった。


 ギルはそちらへ向かった。


 外では、レティシアとダリアが糸の見本を見ていた。職人の女が布片を広げ、レティシアがそれを指先で確かめている。ダリアは横から覗き込み、光沢に目を留めていた。


「どうだ、ダリア」


 ギルが声をかけると、ダリアは顔を上げた。


「綺麗です。帝国でも高値がつくと思います」


「いきなり商売の話か」


「申し訳ありません」


「いや、いい。そういう見方も大事だ」


 ダリアは少しだけ戸惑ったように瞬きをした。


 褒められると思っていなかったのかもしれない。


「ただ、これほど艶があると、出所を隠すのは難しいかもしれません」


「なるほどな」


 ギルは布片を見た。


 確かに、目立つ。


 高値がつくということは、同時に注目も集める。珍しすぎる物は、それだけで噂になる。扱い方を間違えれば、余計な相手の目も引くだろう。


「レティシア」


「はい」


「この辺り、後で商人に出す時の扱いを考えた方がいいな」


「かしこまりました」


「ダリアにも意見を聞くかもしれん」


 ダリアの表情がわずかに固まった。


「私に、でございますか」


「ああ。違う目で見られるだろう」


「……承知しました」


 返事までに少し間があった。


 だが、拒まなかった。


 レティシアは隣で小さく微笑んでいる。


「ダリアはよく見ています」


「そうだな。やはり連れてきて正解だった」


 ダリアの表情がさらに少し硬くなった。


 ギルはすぐに言葉を足す。


「生産拠点を見る目として、だぞ」


「はい」


 レティシアの視線が少しだけ刺さった。


 危ない。


 余計な方向へ進むところだった。


 ギルは咳払いした。


「それで、頼みたい物がある」


 職人たちの顔がこちらへ向いた。


 この瞬間の空気が好きだ。


 嫌がっている者もいるかもしれない。面倒なことをまた言い出す、と思っている者もいるだろう。だが、それでも目が動く。次は何を言い出すのかと、少しだけ身構える。その緊張が悪くない。


「まず、炭の小さな形を試したい。持ち運びやすく、火を起こしやすいものだ。野営や迷宮の外で使えるようにしたい」


「小さくすると、火持ちは落ちますな」


「そこは承知の上だ。長く持つ物と、すぐ火がつく物を分けてもいい」


「なるほど」


「それと、保存食を温め直す時に使いやすい形が欲しい」


 職人は少し考え込んだ。


「調理場の者も呼んだ方がよろしいかと」


「そうだな。後でレティシアに繋いでもらう」


「かしこまりました」


 レティシアが静かに頷く。


 こういう時、彼女がいると話が早い。俺が思いつきを言い、職人が現実の問題を出し、レティシアが人と物の流れを整える。俺一人では絶対に回らない。


「あと、馬車の方は座席も見直したい」


「座席でございますか」


「足回りだけ良くしても、座るところが駄目なら結局疲れるだろう」


「確かに」


「柔らかくしすぎると揺れた時に体が沈む。硬すぎると腰が死ぬ。ちょうどいいところを探したい」


「若様は本当に腰を気になさいますな」


「腰は大事だと言っているだろう」


 職人たちがまた笑った。


 ダリアがそのやり取りを見ている。


 何を思っているのかは分からない。だが、さっきから彼女の目はギルと職人たちの間を何度も行き来していた。貴族と職人。命じる者と作る者。その距離が、彼女の予想とは少し違ったのかもしれない。


 しばらくして、ギルは職人たちと作業場の奥へ移った。


 馬車の座席に使えそうな布や詰め物、板の厚みについて話す。細かな技術は職人の領分だ。ギルは座った感覚や、前世で見た椅子の曖昧な記憶を、できるだけ無理のない言葉へ置き換える。言いすぎると伝わらない。足りなすぎても作れない。その加減が難しい。


「つまり、沈み込みすぎず、尻が痛くならん物ですな」


「そうだ」


「簡単に仰いますなぁ」


「簡単ではないから頼んでいる」


「それを言われると断れませんな」


 年嵩の職人が苦笑した。


 ギルも笑う。


 作業場の外では、レティシアがダリアを案内し続けている。ダリアは職人の邪魔にならない距離を守り、時々短く質問していた。質問の内容までは聞こえない。だが、レティシアが落ち着いて答えているのは見える。


 その横顔に、朝の拗ねた気配はほとんど残っていなかった。


 良かった。


 本当に良かった。


 ギルは内心でまた胸を撫で下ろした。


 その後も、話は続いた。


 炭を入れる小さな容器の形。馬車の座席の試作。シルクの保管方法。作業中の目の疲れ。職人の交代。どれも大事件ではない。だが、一つずつ詰めなければ、結局どこかで止まる。


 生産拠点は、そういう小さな面倒の塊だ。


 けれど、嫌な面倒ではない。


 帝国の皇位争いや迷宮の深部とは違う。こちらの面倒には、匂いと感触がある。職人の文句があり、試作品の失敗があり、時々ほんの少し前へ進んだ実感がある。


 ギルが職人たちと話し込んでいる少し後ろで、ダリアがレティシアへ小さく言った。


「変わったお方ですね」


 声は抑えられていた。


 だが、ギルの耳にはかすかに届いた。


 レティシアはダリアを見て、少しだけ笑った。


「すぐに慣れますよ」


 その声は柔らかかった。


 ギルは聞こえなかったふりをした。


 変わっている。


 それは否定しにくい。


 辺境伯家の三男が、職人街の奥で腰が痛くならない座席だの、煙の少ない炭だの、艶のある糸だのに目を輝かせているのだから、たぶん変わっている。少なくとも、ダリアが帝国で見てきた貴族とは違うのだろう。


 だが、レティシアが笑っている。


 それなら、まあいい。


 朝から胸の奥に残っていた居た堪れなさが、ようやく薄れてきた気がした。


 ギルは作業台の上に置かれた部品を手に取り、職人へ向き直った。


「それで、この板の厚みなんだが」


「はい」


「もう一段階だけ薄くした物も試せるか?」


「壊れるかもしれませんぞ」


「壊れるなら、壊れる場所を見たい」


 職人がにやりと笑った。


「若様は本当に面倒なことを仰る」


「面倒なことを頼むための場所だからな、ここは」


 外から差し込む光の中で、木屑がゆっくり舞っていた。


 炭の匂いと油の匂いが混じり、遠くで別の職人が何かを叩く音が響いている。レティシアとダリアの低い声が、作業場の外でかすかに重なった。


 ギルは部品を作業台へ戻し、職人たちの顔を見た。


 もう少し、この場所で話していたかった。

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