表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/105

第五十四話 少し冷たい朝


 レティシアの寝息も、今夜は静かだった。


 窓の外は暗い。厚い布で閉ざされた寝室には、燭台の火だけが残っている。芯を短くされた炎は小さく揺れ、壁に落ちる影も柔らかかった。昨夜の疲れが体の奥に残っているはずなのに、寝台の中は妙に温かく、肩から力が抜けていく。


 ギルは隣を見た。


 レティシアは眠っている。


 白い肩が寝具から少しだけ覗き、乱れた髪が頬にかかっていた。普段ならすぐに整えそうな一筋も、今はそのままだ。呼吸に合わせて胸元がゆっくり上下し、唇はわずかに力を失っている。顔には少し疲れが見えたが、ぐったりと崩れているわけではない。


 よし。


 今回はセーフだ。


 ギルは心の中で深く頷いた。


 最後の方は、少し蕩けたようになっていた。返事もだいぶ危うかった。何を言っているのか分からない声も混じっていた気がする。だが、ちゃんと意識はあった。俺の呼びかけに反応していたし、手も伸ばしてきた。少なくとも、完全に意識を飛ばしていたわけではない。


 一応セーフだ。


 喋ってたもんな。


 うむ。


 俺も成長した。


 以前は、どう考えてもやりすぎた。あの時は朝になってもレティシアが寝台から起き上がれず、こちらを見る目が静かに厳しかった。怒鳴られたわけではない。むしろ声は柔らかかった。だが、あの柔らかさの中にはある種の圧があった。


 今回は違う。


 たぶん違う。


 レティシアも満足していたように見えたし、俺もきちんと加減した。少なくとも、しようとはした。途中で少し怪しくなったが、踏みとどまったはずだ。いや、踏みとどまったと言い切れるかは微妙だが、以前よりは明らかにましだった。


 ギルは満足して、寝具の中で少しだけ身じろぎした。


 隣の温もりが近い。


 迷宮の森の湿った匂いも、素材の血と土の感触も、城へ戻るまでの慌ただしさも、今は遠い。目の前にあるのは、レティシアの寝顔だけだ。こうして帰ってきて、彼女の隣で眠れるなら、迷宮も悪くはない。いや、できればしばらく行きたくはないが。


 レティシアの睫毛がかすかに揺れた気がして、ギルは息を潜めた。


 起こすのは惜しい。


 もう少し眺めていたい気もするが、さすがに眠い。


 今日はよく動いた。


 よく帰ってきた。


 そして、よく成長した。


 こうやって男は成長していくのだな。


 ギルは心の中でもう一度うむと頷き、隣の寝息を聞きながら目を閉じた。


 次に目を開けた時、部屋には朝の光が入っていた。


 厚い布の隙間から差し込む光は淡く、寝台の端を細く照らしている。燭台の火は消され、空気には夜の熱がわずかに残っていた。城の朝の気配が遠くから届く。廊下を歩く足音、布の擦れる音、どこかで扉が閉まる低い響き。


 ギルはぼんやりと天井を見上げ、それから隣へ視線を向けた。


 いない。


 いや、部屋にはいる。


 レティシアはすでに寝台から離れていた。


 窓際に近い場所で、静かに身支度を整えている。髪はまとめられ、服も着ている。いつものように隙のない姿、とまではいかない。よく見れば、首筋にわずかな赤みがあり、動きも少しだけ慎重だ。だが、立っている。ちゃんと立っているし、着替えも終えている。


 ギルは感動した。


 起きている。


 これは大丈夫だったということだ。


 いつもなら、愛し合った翌朝のレティシアは、少なくとも起き上がるまでに少し時間がかかる。いつもと言ってしまうのもどうかと思うが、実際そうだった。寝台の中で目だけこちらへ向け、静かな声で朝の支度が遅れる理由を告げる姿を、ギルは何度か見ている。


 それが今日は違う。


 ちゃんと起きている。


 きちんと着替えている。


 つまり、俺は成長した。


 ギルは胸の奥に、自信がじわりと広がるのを感じた。


「おはよう、レティシア」


 いつもより少しだけ晴れやかな声が出た。


 レティシアは手を止めた。


 ゆっくりとこちらを見る。


「……おはようございます、若様」


 声は整っていた。


 だが、少し冷たい。


 ギルは寝台の上で固まった。


 あれ。


 何だ。


 機嫌が悪いのか。


 レティシアは礼をしてから、いつものように俺の着替えを用意し始めた。手つきは丁寧だ。乱暴ではない。衣服の扱いも完璧だ。だが、距離がほんの少し遠い。布を広げる音も、紐を整える指先も、普段よりきっちりしているように見える。


 怖い。


 なぜだ。


 ギルは寝台から起き上がりながら、頭の中を急いで巡らせた。


 昨夜は大丈夫だったはずだ。意識はあった。ちゃんと返事もしていた。最後の方は言葉になっていなかったかもしれないが、完全に駄目だったわけではない。たぶん。いや、たぶんという言葉が少し不安だが、それでも以前よりはずっとましだった。


 では、なぜ怒っている。


 着替えを手伝ってもらう間、ギルはちらちらとレティシアの顔をうかがった。


 レティシアは襟を整える。視線は手元に落ちている。指先はいつも通り正確で、衣服の皺を許さない。だが、目が合わない。あえて合わせていないのではないかと思えるほど、淡々としていた。


 これは駄目だ。


 怒っている。


 だが、何に。


 ギルは袖を通しながら考えた。


 まさか、やはり昨夜やりすぎたのか。いや、しかし起きている。起きているということは大丈夫だったはずだ。では逆か。逆なのか。加減しすぎたのか。最後まで意識があったということは、つまり、物足りなかった可能性があるのではないか。


 ギルははっとした。


 そうか。


 そういうことか。


「レティシア」


「はい」


「昨夜は、やり足りなかったのか?」


 部屋の空気が止まった。


 レティシアの指先が、俺の上着の紐を持ったまま固まる。伏せられていた瞳がゆっくり上がり、次の瞬間、顔が見る間に赤くなった。首筋まで染まっていく。怒りなのか羞恥なのか、一瞬では分からない。


「違います!」


 声が跳ねた。


 普段のレティシアからは少し珍しい強さだった。


「昨夜も充分に満足しました!」


 言い切った直後、レティシアは自分の言葉に気づいたように唇を結んだ。頬の赤みがさらに濃くなる。視線が揺れ、手元へ逃げる。だが、逃げた先には俺の上着の紐しかない。結局、彼女はそれを必要以上に丁寧に整え始めた。


 ギルはますます分からなくなった。


 満足した。


 ならばなぜ機嫌が悪い。


「では、何で怒っているんだ?」


「怒ってなどおりません」


「いや、怒っているだろう」


「怒っておりません」


 即答だった。


 だが、明らかに怒っている時の声だった。


 ギルは少し身を屈め、レティシアの顔を覗き込もうとした。レティシアはすっと視線を逸らす。その仕草が、かえって答えを隠しているように見える。


「レティシア、教えてくれ」


 ギルが言うと、レティシアの手が止まった。


 ほんのわずかな間が落ちる。


 窓の外から、城の朝の音がかすかに届いた。廊下のどこかで、使用人の足音が止まり、また遠ざかっていく。部屋の中では、レティシアの呼吸だけが少し乱れていた。


 やがて彼女は、小さく言った。


「……わたくしは、まだ身を清めておりませんでした」


「なんだ、そんな事か」


 言った瞬間、ギルは少しだけ失敗を悟った。


 レティシアの目が、すっと細くなった。


「そんな事ではありません」


 静かな声だった。


 静かだからこそ怖い。


「女にとっては、大事な事でございます」


「あ、ああ。そうだな。大事だ。大事だと思う」


「思っておられませんでした」


「いや、思っている。今思った」


「今でございますか」


 まずい。


 ギルは咳払いした。


「だが、俺は何の問題もないと思ったぞ」


「若様」


「本当に問題はなかった。むしろ、いつもより良い香りがしたぐらいで……」


 言いながら、声が小さくなっていく。


 レティシアが睨んでいた。


 普段の柔らかい目ではない。怒鳴らない。取り乱さない。ただ、じっと見る。その目に射抜かれると、ギルの中の妙な自信がみるみる萎んでいった。


 あ、これは違う。


 これは褒め言葉ではない。


 少なくとも、今言うべき言葉ではなかった。


「もう知りません」


 レティシアはぷいと顔を逸らした。


 完全に拗ねた。


 ギルは慌てた。


「すまん。悪かった。反省している」


「何を反省なさっているのですか」


「身を清める前のレティシアを、その、急かしたことだ」


「急かした、で済ませるのですね」


「違う。済ませない。二度としない」


 レティシアがちらりとこちらを見る。


 ギルはつい、正直な心が口から漏れた。


「たぶん」


「たぶん?」


 声が冷えた。


「違う。今のは言葉のあやだ」


「たぶん、でございますか」


「レティシアが許さない限り、二度としない。誓う」


 ギルはまっすぐ言った。


 言いながら、ほんの少しだけ惜しいと思ってしまった。


 昨夜のあれは、あれでかなり良かった。いや、かなりどころではない。普段と少し違うレティシアの気配は、妙に胸へ残っている。だから完全に二度と、というのは惜しい。だが、それを顔に出せばたぶん死ぬ。


 レティシアはじっとこちらを見ていた。


 俺が何を考えたか、少し察したのかもしれない。


「本当ですよ」


「ああ。本当だ」


「若様は、時々本当に反省なさっているのか分からない時がございます」


「今回はしている」


「今回は?」


「いつもしている」


 レティシアはしばらく黙っていた。


 だが、目の厳しさは少しだけ緩んだ。頬の赤みはまだ残っている。怒りだけではなく、言ってしまったことへの羞恥も混じっているのだろう。彼女は小さく息を吐き、乱れもない襟元をもう一度整えた。


「……お支度を続けます」


「頼む」


 ギルは大人しく立った。


 レティシアの手が、上着の前を整える。さっきより少し近い。機嫌が完全に直ったわけではない。だが、拒まれてはいない。それだけで少し安心した。


 結局、レティシアは俺に甘い。


 ありがたい。


 とてもありがたい。


 同時に、たぶん俺はその甘さに甘えすぎている。


 そう思ったが、口には出さなかった。言えばまた何か余計なことを言いそうだったからだ。


 支度を終えて寝室を出ると、扉の外にダリアが控えていた。


 褐色の肌に、灰色の髪。姿勢はいつも通り整っている。だが、顔が少し赤い。ほんの少しだ。表情は平静を保っているし、目も真面目だ。けれど、耳のあたりに残った赤みまでは隠しきれていないように見えた。


 ギルは一瞬だけ足を止めた。


 ダリアは丁寧に頭を下げる。


「おはようございます」


「うむ、おはよう」


 何も聞かない。


 聞かない方がいい。


 ダリアがなぜ赤いのか、考えてはいけない。寝室の外に控えていたのなら、何か聞こえた可能性はある。だが、どこまで聞こえたかは分からない。分からないなら、分からないままにする。それが平和だ。そうやって平和は維持されるのだ。


 レティシアもダリアへ顔を向けた。


「おはようございます、ダリア」


 声は落ち着いていた。


 だが、頬が赤い。


 ダリアはほんのわずかに視線を揺らした後、もう一度頭を下げた。いつもより少しだけ丁寧だった。


「はい。おはようございます、レティシア様」


 廊下の空気が、妙に繊細だった。


 朝の光は窓から差し込み、石床の上に細い帯を作っている。遠くで使用人たちの足音が重なり、城はすっかり起きていた。だが、この扉の前だけ、何かを言えば割れてしまいそうな静けさがある。


 ギルは咳払いした。


「朝食へ行くか」


「はい」


 レティシアが答え、ダリアが少し後ろへ下がる。


 その動きはもう自然だった。ダリアは使用人区域を走り回るのではなく、俺の近くに控える。その立ち位置に、彼女自身も少しずつ慣れてきているように見える。もちろん、まだ完全ではない。今朝のような状況では、さすがに硬さが出る。


 まあ、俺も少し硬い。


 ギルは廊下を歩きながら、レティシアの横顔をちらりと見た。


 機嫌は直ったのだろうか。


 たぶん、少しは直った。


 だが、完全ではない気もする。身を清める前に、というのは彼女にとって本当に大事なことだったのだろう。俺には正直、問題の中心が少し遅れて届いた。良い香りだった、などと言ったのは完全に失敗だ。


 だが、事実だった。


 いや、今は考えるな。


 また顔に出る。


 朝食の席には、父上がいた。


 久しぶりに父上と同じ朝食だ。


 ガルシア・マバールはいつもの席に座り、普段通りの重さでそこにいた。大きな動きをしているわけではない。ただ座っているだけで、食堂の空気が締まる。皿の置かれる音も、使用人の足運びも、その存在に合わせて整えられているように感じる。


 ギルは席についた。


「おはようございます、父上」


「ああ」


 父上は短く答えた。


 それだけだった。


 いつもなら、迷宮帰りについて何か言われるかもしれない。素材の処理か、アル兄さんへの報告か、セバスチャンたちの分配のことか。少なくとも、何らかの話題が出ると思っていた。だが、父上は肉を切り、静かに口へ運ぶだけだった。


 食堂が静かだ。


 いつもより、ずっと静かだ。


 使用人たちも妙に音を立てない。皿を置く手つきが慎重で、茶を注ぐ女使用人の耳が少し赤いように見えた。別の使用人は、こちらへ目を向けかけてすぐに伏せた。誰も何も言わない。誰も笑わない。だが、何か緊張したような空気が薄く広がっている。


 ギルはパンを手に取った。


 何だ。


 なぜこんなに静かなんだ。


 迷宮帰りだからか。


 いや、違う気がする。


 レティシアは後ろに控えている。いつも通りの姿勢だ。ダリアも少し離れて控えている。二人とも顔を伏せ気味にしており、こちらを助けてくれそうな気配はない。


 父上がふとこちらを見た。


 ギルは背筋を伸ばした。


「何か?」


「いや」


 父上はそれだけ言い、また食事へ戻った。


 何だ、その間は。


 絶対に何かあるだろう。


 ギルは水を飲んだ。


 喉が少し乾いている。


 使用人が茶を注ぎ足す。その手元がわずかに揺れた。ほんの少しだ。普通なら気づかない程度。だが、今のギルは妙に敏感だった。


 もしかして。


 いや、まさか。


 昨夜、そんなに聞こえていたのか。


 いや、貴族の寝室だぞ。壁も扉も厚い。そう簡単に聞こえるはずがない。はずだ。だが、使用人は廊下を通る。控えもいる。どこまで何が漏れたのか、ギルには分からない。


 分からない。


 だから余計に怖い。


 父上は何も言わない。


 それが一番怖い。


 もし父上が笑ったり、軽く茶化したりしたなら、まだ対処できた。だが、この静けさは何だ。まるで皆が、何もなかったことにしようとしている。何もなかったことにしようとしている時点で、何かあったと認めているようなものではないか。


 ギルは口元を引き締め、何事もない顔で朝食を続けた。


 パンはいつも通り美味い。


 肉も悪くない。


 茶もレティシアの淹れるものには及ばないが、十分整っている。


 なのに、味があまり頭に入ってこない。


 視界の端で、女性使用人の頬がまた少し赤く見えた。


 気のせいだ。


 きっと気のせいだ。


 そう思うことにした。


 父上が静かに水を飲む。


 食器の音が小さく響く。


 誰も余計なことを言わない朝食は、妙に長く感じた。


 ギルは正面を向いたまま、心の中で深く息を吐いた。


 今回はセーフだった。


 レティシアは起きていた。


 俺は成長した。


 そのはずなのに。


 どうして、朝になってから別の意味で追い詰められているのだろう。


 食堂の静けさの中で、ギルは少しだけ肩を落としたくなった。


 だが、父上の前でそんな姿は見せられない。


 だから背筋を伸ばし、何も気づいていない顔で茶を口に運んだ。


 後ろから、レティシアの視線が刺さった気がした。


 それはたぶん、気のせいではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ