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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第五十三話 帰還と揺れる理性


 迷宮から地上へ出た瞬間、風が違った。


 湿った土と苔の匂いが薄れ、乾いた外気が頬を撫でる。洞窟道を抜けた先では、昼の光が石畳へ白く落ちていた。迷宮の中にも明るさはあったが、それは空から降る光ではない。木々の葉を透かし、岩とも土ともつかない天井から滲んでいたあの淡い明かりとは違い、地上の光は真っ直ぐ肌へ届く。


 ギルは思わず目を細めた。


 管理建物の前には荷車が止まり、探索帰りらしい連中が素材袋を抱えて歩いている。角を縄で束ねた男、血の染みた皮を肩に掛けた男、どこかの鑑定を終えたのか酒瓶を振って笑っている連中もいた。迷宮に入る前にも見た騒がしさのはずなのに、戻ってきた後では少し違って見える。


 迷宮前独特の騒がしさだった。


 ギルは肩を軽く回した。


 身体が重いわけではない。むしろ動き足りないくらいだ。だが、迷宮の中は明るさも空気もずっと同じだった。森の匂い、焚き火の煙、湿った薪の音、魔物の気配。眠る時でさえ、その奥に薄い緊張が残っていた気がする。


 地上へ戻った瞬間、その緊張が少しだけ緩む。


 ああ、空があるなぁ。


 そんな当たり前のことを、少しだけありがたく思った。


「若様」


 セバスチャンが顎をしゃくった。


「先に報告だけ済ませちまいやしょう」


「ああ」


 管理建物の入口近くには、槍を持った兵が立っていた。革鎧の上から外套を羽織り、こちらへ気づくとすぐ姿勢を正す。マバール家の兵だ。ギルたちが入った時にも見た顔だったかもしれないが、そこまで細かく覚えてはいない。


「お帰りなさいませ」


「うむ」


 ギルは軽く頷いた。


「浅い辺りを回った。大きな異常は無い。小川を越えた辺りでサーベルタイガーが出た」


 兵の顔が少し引き締まる。


「サーベルタイガー、ですか」


「一頭だけだ。群れではないと思う。奥へは無理に進んでいない」


「承知しました」


 兵はすぐ横の板へ何かを書き込んだ。手つきは早い。余計なことは聞かない。管理する側としては、まず場所と危険度が分かればいいのだろう。詳しい話は必要なら上へ回る。


 ギルはそれ以上話さず、管理建物横の通りへ視線を向けた。


 鑑定所の辺りは人が多い。


 血の匂い。


 乾いた革。


 鉄の擦れる音。


 探索者たちの怒鳴り声。


 酒臭い笑い声。


 迷宮の入口周辺だけで、小さな町のような熱気があった。城下の整った賑わいとは違う。もっと荒く、近く、金と命が同じ机の上に置かれているような空気だ。


「賑わってるな」


「今日は戻りが多いんでしょうな」


 セバスチャンが笑う。


「若様も混ざりますかい?」


「酒臭いのは嫌だ」


「そりゃ残念で」


 セバスチャンは喉の奥で笑った。隣ではクレインが、屋台の方を見ている若い直属騎士の肩を小突いている。


「お前、腹減ってる顔してんな」


「してません」


「してるだろ。さっきから肉ばっか見てるぞ」


「……見てません」


 見ている。


 ギルにも分かった。


 セバスチャンも分かったらしく、鼻で笑った。


「査定が終わったら食えばいいでしょうよ。迷宮帰りの腹には、ああいうのがうめえんで」


「お前らが買うなら俺の分も買え」


 ギルが言うと、若い直属騎士の顔がぱっと明るくなる。


「はい!」


「いや、そんな嬉しそうにするほどか?」


「若様のおごりですか?」


「誰がそう言った」


 若い直属騎士が固まった。


 クレインが噴き出す。


「若様、そこはおごってやりましょうよ」


「クレイン、お前の分は出さない」


「なんでですか!」


「お前はさっき偉そうだったからだ」


「ひでえ」


 くだらないやり取りをしながら、ギルは鑑定所へ向かった。


 鑑定所の中は思ったより広かった。


 木の机がいくつも並び、素材ごとに仕分けがされている。奥では角を測っている男がいて、別の机では皮を広げた女が傷を確かめていた。魔石を灯りへ透かしている鑑定士もいる。忙しそうだが、動きに無駄はない。


 慣れているんだな。


 血と革と油の匂いが混じっている。床には細かな木屑が撒かれ、濡れた跡を吸っていた。探索者の一団が大声で値段に文句を言っていたが、鑑定士は眉一つ動かさず淡々と返している。


 セバスチャンが素材袋を机へ置いた。


「査定頼まあ」


 年配の鑑定士が顔を上げ、セバスチャンを見て、それからギルへ視線を移した。ほんの一瞬だけ背筋が伸びる。


「承りました」


 袋が開かれる。


 フォレストディアの角。


 皮。


 ホーンラビットの素材。


 肉。


 並べられた素材は、鑑定士の手によって次々と分けられていく。質の良いもの、傷のあるもの、すぐに処理へ回すもの、別の机へ渡されるもの。見ているだけでも、迷宮が金を生む場所だという実感が湧いてくる。


 そして最後に、布へ包まれていた魔石が出た。


 サーベルタイガーの魔石だった。


 鑑定士の手が止まる。


「……おお」


 低い声だった。


 近くにいた別の鑑定士まで視線を向ける。机へ置かれた魔石は、昼の光を受けて鈍く光っていた。大きい。透明感も強い。迷宮の中で見た時より綺麗に見える気がした。


 鑑定士は魔石を両手で持ち上げ、窓側へ向ける。


 内部で光が揺れる。


 ただの石ではない。そう思わせる何かがある。宝石と言われても納得する。これを指輪や首飾りにしたら、かなり目立つだろう。


「かなり良いですね」


「高ぇか?」


 セバスチャンが聞く。


 鑑定士は苦笑した。


「ええ。かなり」


「そいつぁ結構」


 セバスチャンの顔がにやけた。


 ギルは横から魔石を眺めていた。


 綺麗な魔石ほど高く売れるとは聞いていた。だが、実物を見ると少し分かる。強さや大きさだけではない。手元へ置きたくなるような光り方をしている。少なくとも、前世の感覚でも充分宝石として通じる。


「若様」


 セバスチャンが振り返る。


「魔石は全て売っぱらっていいですかい?」


「いや、そのディアとそっちのボアの分は残せ」


「へい?」


「レティシアとダリアへの土産にする」


 一瞬、横にいた若い直属騎士の顔が揺れた。


 セバスチャンだけはすぐ吹き出す。


「ははぁ」


「何だ」


「いやぁ、若様らしいなと」


「綺麗なんだから悪くないだろ」


「悪かぁありやせん」


 ギルは少し眉を寄せた。


 実際、悪くないと思うのだ。


 レティシアは喜ぶだろう。あの女は自分から欲しいものをねだらない。だからこそ、こちらから渡した時に見せる小さな変化がいい。驚くか。少し困るか。嬉しそうにするか。そのどれでも見たい。


 ダリアも、嫌いではなさそうだった。


 帝国から連れてきて、マバール城でレティシアに色々教わっている。今頃どうしているだろうか。城には慣れただろうか。レティシアと上手くやれているだろうか。


 そこまで考えて、ギルは少し口元を引き締めた。


 早く帰りたい。


 査定はしばらく続いた。


 最後に、それなりに膨らんだ袋がいくつか机へ並べられる。


 重たい音。


 金属が擦れる音。


 若い直属騎士の一人が、ちらりと袋を見た。


「……すげえな」


「迷宮は儲かるなぁ」


 ギルが素直に呟くと、セバスチャンが肩を揺らした。


「だから皆潜るんで」


「命懸けだがな」


「そりゃそうで」


 若い直属騎士たちは袋から目を離せずにいる。分かりやすい。だが、気持ちは分かる。袋がいくつも並ぶと、狩った魔物の重みが別の形で見えてくる。


 ギルは小さく笑った。


「帰るぞ。屋台に寄るなら早くしろ」


「はい!」


 若い直属騎士の返事が早すぎた。


 クレインがまた笑い、セバスチャンが呆れたように首を振る。迷宮から戻った直後の空気としては、悪くない。緊張がほどけ、腹が減り、金の重みを感じて、少し浮つく。人間らしい。


 帰路は行きより気楽だった。


 宿場へ泊まり、飯を食い、馬を休ませ、また進む。


 迷宮へ向かう時のような張り詰めた空気は薄い。もちろん油断しているわけではないが、荷の中には成果があり、頭の中には帰る場所がある。その違いは大きかった。


 夜の宿場で火を囲んだ時、若い直属騎士たちはまたサーベルタイガーの話をしていた。


「あの牙、近くで見ると本当に長かったですよね」


「お前、ずっと牙の話してるな」


「いや、だって当たったら死にますよ」


「当たらなかっただろ」


「若様たちだからですよ」


 クレインが肉を齧りながら笑う。


「若様、あの時はけっこう無茶でしたぜ」


「仕留められたから別にいいだろ」


「それ、我々がセバスチャンさんに言ったら怒るやつですよ」


「俺はいいんだ」


「ずるい」


「若様ですからなぁ」


 セバスチャンが酒も飲んでいないのに楽しそうな声で言う。


 ギルは干し肉を齧りながら、焚き火越しに連中を見た。火の光で赤く照らされた顔には、迷宮の中では見なかった緩さがある。戦闘中の顔とは違う。素材を担いで歩く時の顔とも違う。


 こういう時間も必要なのだろう。


 訓練だけでは得られないものがある。


 同じ魔物を見て、同じ危険を越え、同じ火を囲む。そういうものが、少しずつ騎士たちの間に残っていく。


 ギルは火の向こうで笑っている若い直属騎士を見ながら、ふと城に残った連中のことを思い出した。


 あいつらにも分けるか。


 迷宮へ同行した者だけが得をする形にすると、妙な空気が残る。訓練していた側も遊んでいたわけではない。ジノにしごかれていたなら、むしろ迷宮よりきつかったかもしれない。


 ギルは少し笑った。


 いや、それはさすがに言い過ぎか。


 数日後、マバール城の石壁が見えた。


 遠くからでも分かる大きな影。


 ギルは馬上で小さく息を吐いた。


 帰ってきた。


 風の匂いも違う気がする。道端の草も、畑の広がりも、兵の目も、すべてが見慣れたものへ戻っていく。


 門を抜け、中へ入る。


 見慣れた兵。


 使用人。


 中庭。


 石壁に反射する声。


 馬の鼻息。


 やはり落ち着く。


「若様、お帰りなさいませ!」


 若い兵が頭を下げる。


「うむ」


 ギルは軽く手を上げた。


 馬を預け、中庭側へ向かう。直属騎士たちも自然と集まってきた。城に残っていた者たちも、迷宮帰りの一団へ興味を隠せない様子で近づいてくる。


 セバスチャンが袋を持ち上げた。


「さて」


 袋が机へ置かれる。


 重たい音が響いた。


「今回の分だ」


 若い直属騎士たちの視線が集まる。


 セバスチャンが袋を軽く叩き、ギルを見る。


 ギルは頷いた。


「迷宮へ行った側だけでなく、城で訓練していた側にも分ける」


 一人が目を丸くした。


「ですが、それは……」


「訓練も仕事だろ」


 ギルが言うと、直属騎士たちは顔を見合わせた。


 迷宮へ同行した側だけで独占すれば、不満は残る。逆に、城側を切り離せば空気が悪くなる。だったら最初から分けた方がいい。


 難しい話ではない。


 騎士も人間だ。


 金は嬉しいし、不公平は気になる。


「次は交代で行けばいい」


 ギルが肩を竦める。


 残っていた若い直属騎士が、少し遅れて頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「若様!」


 妙に声が大きい。


 迷宮帰りの連中も、それを見て笑っている。


 セバスチャンは満足そうに頷いた。


「若様のお考えだ。ありがたく受け取っとけ」


 そのまま解散になる。


 ギルは中庭を抜け、城内廊下へ入った。


 石床へ靴音が響く。


 静かだ。


 いや、城が静かなわけではない。遠くで使用人の声もするし、廊下の向こうでは誰かが荷を運んでいる。だが、迷宮前の騒がしさや宿場のざわめきから戻った直後だと、城の音はずいぶん整って聞こえた。


 レティシア。


 ダリア。


 今頃何をしているだろうか。


 ダリアは城へ慣れただろうか。レティシアと上手くやれているだろうか。レティシアは無理をしていないだろうか。いや、あの女なら無理をしていても顔に出さない可能性がある。


 そして今回は、ちゃんと落ち着こう。


 ギルは歩きながら決意した。


 今回はレティシアに無理をさせない。


 大人の余裕を見せるのだ。


 そういう男になる。


 部屋の前へ着く。


 扉が開いた。


「お帰りなさいませ」


 レティシアとダリアが並んで礼をした。


 ギルは「うむ」と頷き――そのまま視線が下へ落ちた。


 レティシア。


 相変わらず大きい。


 布の上からでも分かる、しっかりとした存在感。


 安心感がすごい。


 そしてダリア。


 うん。


 まあ。


 今後に期待しよう。


 いや、いかん。


 俺は成長したはずだ。


 今回はレティシアに無理をさせないと決めたではないか。


 ギルは内心で姿勢を正した。


 だが、レティシアが近づいてきた瞬間、少し揺らぐ。


 匂いだ。


 城の空気。


 柔らかい香り。


 距離感。


 全部久しぶりすぎる。


 レティシアの指が、ギルの外套へ伸びる。いつも通りの手つきなのに、その近さだけで胸の奥がざわついた。


 気づけば、ふらふらと近づいていた。


「……こほん」


 ダリアが軽く咳払いした。


 ギルははっと止まる。


 危なかった。


 普通に押し倒す流れだった。


「若様?」


 レティシアが首を傾げる。


「いや、何でもない」


 ギルは咳払いし、袋から魔石を取り出した。


「まだ未加工だが」


 レティシアの目が少し丸くなる。


 ダリアも近づいてきた。


 掌へ乗せた魔石は、部屋の灯りでも綺麗だった。迷宮前の鑑定所で見た時ほど強く光っているわけではない。だが、落ち着いた室内の光を受けると、石の奥が静かに揺れているように見える。


「綺麗……」


 レティシアが小さく呟いた。


 声が柔らかい。


 指先でそっと触れている。その触れ方があまりに丁寧で、ギルは少し満足した。


「迷宮内でな」


「ありがとうございます」


 レティシアは両手で受け取る。


 ダリアは横から静かに見ていた。


「良い魔石ですね」


「そうなのか?」


「かなり」


 ダリアの目は真面目だった。


 ギルはもう一つの魔石を差し出す。


「お前にもだ」


 ダリアが一瞬、反応を遅らせた。


「私にも、でございますか」


「ああ。土産だ」


 ダリアは両手で受け取ると、しばらく魔石を見下ろした。褐色の指の上で、魔石の淡い光が揺れる。何を考えているかまでは分からない。ただ、すぐには言葉が出ないらしい。


「ありがとうございます」


 やがて、そう言って頭を下げた。


 声は落ち着いていたが、少しだけ柔らかく聞こえた。


 うむ。


 やはり土産にして正解だった。


 着替えを続ける。


 レティシアの手は相変わらず丁寧だった。外套を外し、上着を整え、袖を抜かせる。迷宮帰りの衣服に残った土や草の匂いに、彼女はわずかに眉を動かしたが、何も言わない。


 その間にダリアが茶を淹れる。


 湯気。


 茶葉の匂い。


 部屋の空気が少し柔らかくなる。


 ギルは椅子へ腰を下ろした。


 一口飲む。


 少しぬるい。


 ちょうどいい。


 熱すぎない。喉へ流し込みやすい温度だった。


「ふむ」


 自然に息が抜ける。


 ダリアは少し緊張しているようにも見えたが、手つきは落ち着いていた。湯を注ぐ高さも、茶器を置く音も悪くない。以前よりずっと自然だ。


「悪くない」


 ギルが言うと、ダリアはわずかに目を伏せた。


「ありがとうございます」


「だいぶ慣れたな」


「レティシア様に教えていただいておりますので」


 ダリアがそう言うと、レティシアが静かに微笑んだ。


「ダリアは覚えが早うございます」


「そうか」


 ギルは二人を見比べた。


 空気が悪くない。


 無理に合わせている感じも薄い。レティシアはいつも通り落ち着いていて、ダリアも以前ほど硬くない。自分がいない間に、二人の間で何かが少し整ったのだろう。


 それが嬉しい。


 夕食を終える頃には、ギルの気分はかなり緩んでいた。


 城の食事はやはりうまい。


 宿場の飯も悪くはなかったが、味の整い方が違う。熱い料理が熱いまま出て、皿が綺麗で、茶の温度まで合っている。こういうものに慣れてしまうと、外の食事は少し雑に感じる。


 食後、ギルはそのまま風呂へ向かった。


 夜の城内は昼より静かだ。


 廊下の窓から入る風は少し冷えていて、火の落とされた通路には足音だけが細く響いている。遠くで使用人たちの動く気配はあるが、昼間ほど騒がしくはない。食事を終えた後の、少し緩んだ空気だった。


 浴場前へ着くと、若いメイドが頭を下げた。


「お手伝い致します」


 ギルは足を止める。


 見慣れない顔だった。


 柔らかい茶色の髪を後ろでまとめ、まだ新しいエプロンを身につけている。姿勢は真面目だが、肩に少し力が入っていた。視線も完全には落ち着いていない。


 年は若い。


 胸は控えめ。


 だが腰つきは悪くない。


 ……いや。


 そこを見るな俺。


 ギルは一瞬で視線を逸らした。


 メイドの背後では、浴場から流れた湯気が白く漂っている。湿った熱気が肌へ触れ、その向こうから石鹸と湯の匂いが薄く混じっていた。


 風呂。


 若い女。


 久しぶりのレティシア。


 駄目だ。


 色々危ない。


 ギルは小さく息を吐き、それから柔らかく首を振った。


「いや、大丈夫だ」


「ですが」


「一人で入りたい」


 強くは言わない。


 この手の断り方は面倒なのだ。


 主側がきつく拒絶すると、使用人側の落ち度として扱われる場合がある。特に新人なら尚更だ。せっかく真面目そうに立っている娘が、後で怒鳴られるのも後味が悪い。


 だから声を少し落とした。


「今日は一人でいい」


 メイドは少し迷った後、小さく頭を下げた。


「承知しました」


 その返事に安堵が混じっていた気がして、ギルは少しだけ気まずくなる。


 そんなに緊張していたのか。


 浴場へ入る。


 扉を閉めた瞬間、熱気が肌へまとわりついた。


 白い湯気。


 石壁。


 床へ流れる湯。


 広い浴槽の水面が灯りを揺らしている。


 ギルは服を脱ぎながら肩を回した。


 迷宮で汚れた感覚はもうほとんど消えているが、それでも湯を見ると身体が緩む。戦闘や移動で張っていた筋肉が、熱を前にすると急に重さを思い出すのだ。


 湯へ入る。


「……っふぅ」


 肩まで沈むと、熱がじわりと身体へ広がった。


 石造りの縁へ腕を乗せ、頭を後ろへ倒す。天井近くでは湯気がゆっくり揺れていた。水音だけが広い浴場へ反響し、外の気配が遠くなる。


 迷宮の焚き火とは違う。


 身体の芯を少しずつ溶かされるような熱だった。


 ギルはぼんやり天井を見上げる。


 まあ、城側の考えも分かるのだ。


 若い貴族男子。


 しかも規格外の魔力持ち。


 なら女を世話される。


 子を増やせ。


 側室を持て。


 そういう話になる。


 父上も似たようなことを普通に言うし、城の上層部も同じ考えだろう。


 この世界では珍しいことではない。


 ギル自身、それを否定するつもりはなかった。


 実際、貴族の男として考えれば当然の話でもある。


 だが。


「……うーん」


 レティシアがいる城で、その同僚メイドを抱く。


 そこを想像すると、妙に落ち着かなかった。


 別にレティシアは怒らない気がする。


 むしろ理解はするだろう。


 彼女は貴族社会を知っている。騎士の娘として育ち、専属使用人として城へ入っている以上、その辺りの理屈を知らないはずがない。


 だが、それでも。


 レティシアの顔が浮かぶ。


 静かな目。


 落ち着いた声。


 少し困った時だけ、ほんの少し寄る眉。


 湯の中でそれを思い出すと、同じ城内のメイドへ手を出す気分にはどうにもなれなかった。


 なんか浮気してるみたいだしなぁ。


 まだまだ俺もこの世界に完全に慣れてないようだ。


 湯から上がる。


 火照った身体へ外気が触れ、肌から湯気が立った。


 脱衣場へ戻ると、先ほどのメイドが控えている。


「失礼します」


 タオルを持つ手が少し硬い。


 やはり緊張している。


 ギルは黙って身体を預けた。


 背中を拭かれる。


 肩。


 腕。


 布越しの手つきは丁寧だが、まだ少しぎこちない。レティシアほど自然に身体へ触れる感じではない。布の動きに、ほんの少し迷いが混じっていた。


 その時。


 メイドの動きが止まる。


 ギルは視線を落とした。


 ……まあ。


 仕方ない。


 久しぶりにレティシアへ会えたのだから。


 風呂へ入って多少落ち着いた気もしていたが、全然駄目だったらしい。


 ギルは軽く視線を逸らした。


 気まずい。


 かなり気まずい。


 そのまま黙っているのも妙な空気だったので、何となくメイドへ視線を向ける。


 そこで余計なものが目に入った。


 胸はそこまでではない。


 だが尻が立派だった。


 腰から下の丸みが妙に目を引く。小柄な上半身との落差のせいで余計に目立っていた。


 ……うん。


 やはり尻はいいな、この子。


 父上ならかなり高評価しそうだな。


 そんな失礼なことを考えていると、メイドと目が合った。


「ひゃ――」


 小さく変な声が漏れる。


 顔がさらに赤くなった。


 ギルは咳払いした。


「ご苦労」


「は、はい」


 声が裏返る。


 やはり新人らしい。


 ギルはそれ以上何も言わず、浴場を後にした。


 廊下を歩く。


 風呂上がりの身体へ夜風が心地いい。


 だが頭の中は全然落ち着いていなかった。


 レティシア。


 あいつ絶対いい匂いするんだよな。


 いや待て。


 今回は無理をさせないと決めたはずだ。


 理性を持て。


 大人になれ。


 ギルは真顔で歩きながら、内心ではかなり必死だった。


 部屋へ戻る。


 扉が開く。


 レティシアがこちらを見た。


 その瞬間、何かが駄目になった。


 距離。


 声。


 匂い。


 全部近い。


 風呂上がりで身体は熱い。そこへいつものレティシアがいる。髪をまとめた姿も、静かな立ち方も、落ち着いた目も、全部見慣れているはずなのに妙に危険だった。


 ギルはぼんやり思う。


 俺は今回はレティシアに無理をさせないつもりのような気がするような気がする。


 駄目だ。


 頭が悪くなっている。


「レティシア」


 気づけば抱きしめていた。


 細い身体が腕の中へ収まる。


 服越しの温もり。


 柔らかい感触。


 髪が頬へ触れ、甘い香りが鼻先をくすぐる。


「いけません、まだわたくしは汚れております」


 レティシアが少し抵抗する。


 確かにまだ風呂へ入っていないのだろう。ギルの帰還後は着替えや夕食の準備を優先していたはずだ。


 そう思うと少し申し訳なくなる。


 だが。


 駄目だった。


「いい匂いだ」


「若様……」


「問題無い」


 そのまま抱き上げる。


「っ」


 レティシアの身体が軽く揺れた。


 少しだけ抵抗する。


 だが本気ではない。


 肩へ触れる手からも、逃げようとする力は強くなかった。むしろ途中から、諦めたように力が抜けていく。


 ダリアが静かに一礼する。


「それではごゆっくり。失礼します」


 扉が静かに閉まった。


 その音を背中で聞きながら、ギルはレティシアを抱えたまま寝室へ入っていった。

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