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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第五十二話 迷宮の果て


 迷宮の夜は、夜というには明るすぎた。


 頭上には空がない。岩とも土ともつかない高い天井が、木々の枝のさらに上でぼんやりと白んでいる。雲に覆われた夕方のような光が、葉の裏を淡く照らし、下草の先に薄い影を落としていた。暗くならないくせに、昼ほど明るくもない。その中途半端な光が、いつまでも同じ顔で森へ降り続けている。


 ギルは倒木に腰を下ろし、焚き火の炎を眺めていた。


 火は小さく保たれている。薪の木を割ったものが、ぱちり、ぱちりと湿った音を立てる。地上の薪より青臭さが薄く、乾いた木の匂いの奥に、どこか草を煮詰めたような匂いが混じっていた。昼間に切ってきたばかりの木が、今こうして燃えているというだけでも妙な話だが、その木が明日にはまた伸びているかもしれないと思うと、目の前の火まで少し奇妙なものに見えてくる。


 周囲では、オルドたちが手分けして野営の支度を進めていた。


 荷は一か所へまとめすぎず、すぐ持ち出せるように分けられている。素材を包んだ布袋は火から離され、保存食と水袋は手の届く場所へ置かれていた。見張りに立つ直属騎士は木々の間へ視線を走らせ、クレインは刃の状態を確かめている。誰も大声を出さない。火の音と、遠くの水音と、時折どこかから聞こえる魔物らしき鳴き声だけが、薄明るい森の中に漂っていた。


 ここが地下であることを忘れそうになる。


 だが、ふと視線を上げると空がない。


 星もない。


 月もない。


 風はあるのに、空はない。


 その気持ち悪さが、何度見ても少しだけ腹の奥へ残った。


「……長くいたら、身体おかしくなりそうだな」


 ギルが呟くと、セバスチャンが肉の串を返しながら顔を上げた。


「明るさが変わらねえからですかい」


「ああ。腹が減ったから飯、眠くなったから寝る、って感じでしか時間が分からん。身体の中だけ、少しずつずれていく感じがある」


「若様でもそう感じやすか」


「俺の身体が頑丈でも、感覚までは頑丈にはならんだろ」


 セバスチャンは喉の奥で笑った。


 焼け始めたフォレストディアの肉から脂が落ち、火が小さく跳ねる。ギルはその匂いを吸い込み、少しだけ腹が反応するのを感じた。さっき保存食を齧ったばかりなのに、焼けた肉の匂いは別腹を刺激してくる。迷宮内で食う肉は、妙に美味そうに感じた。


 ただし、気は抜けない。


 ギルは感知魔法を展開させたまま、周囲の魔力反応を拾っていた。地面近くを動く小さな反応。少し高い枝の上で揺れた微かな反応。遠く、木々の奥にあるフォレストディアらしき反応。大きなものは近くにない。火の周囲にいる自分たちの魔力だけがはっきりと濃く、迷宮の薄いざわめきの中で浮いているように感じられた。


 昨日よりは慣れた。


 最初は、森そのものが微かに魔力を持っているようで、どれが魔物の反応なのか掴みづらかった。だが、長く感知魔法を展開していると、動き方や強さの違いが少しずつ分かってくる。薪の木はぼんやりとそこにあり、ホーンラビットは低い位置で跳ねるように動き、ロングアームモンキーらしきものは枝の高さで反応が滑る。


 火の近くで動く者の反応は、かなり分かりやすい。


 セバスチャンは濃い。


 オルドたちはそれぞれ揺れ方が違う。


 トールは見張りに立ちながら、時々感知魔法を展開し直している。魔力の巡りがわずかに変わるので、ギルにはそれが何となく分かった。クレインは荷をまとめる手を止めないが、意識の一部はずっと周囲へ向いているように見える。


 この感覚は、たぶん迷宮に慣れるほど重要になる。


 森の奥にいるものを、目で見てから反応していたのでは遅い。


 枝の上を移動する反応。


 地面近くで跳ねる反応。


 下草の陰で止まる反応。


 大きさだけではなく、高さと動きで見分ける必要がある。


 全部を完璧に見分けられるわけではない。


 だが、迷宮で生きるには、この微妙な違いを拾い続ける必要があるのだろう。


「若様、焼けましたぜ」


 セバスチャンが串を差し出してきた。


 ギルは受け取り、少し冷ましてから噛みつく。熱い肉汁が口へ広がった。塩気が強めだが、保存食の塩辛さとは違う。脂に甘みがある。野性味はあるが臭くはなく、噛むたびに肉の濃い味が出てきた。


「やっぱり美味いな、フォレストディア」


「食える魔物の中じゃ当たりの方ですな」


「迷宮の魔物って、名前だけ聞くともっとこう、気味悪いのが多いかと思ってた」


「気味悪いのもいますぜ」


「それは食いたくない」


「食えとも言いやせん」


 セバスチャンが笑い、ギルはもう一口肉を噛んだ。


 熱い肉を食べながら、ふと森の奥を見る。ずっと続く木々。変わらない光。湿った空気。魔物が生まれ、木が伸び、探索者が入り、素材を持ち帰る場所。


 ここに終わりはあるのだろうか。


 ギルは串を持ったまま、素直に口にした。


「なあ、迷宮って果てはあるのか?」


 セバスチャンの手が止まった。


 オルドが顔を上げ、クレインも荷袋の紐を結びながらこちらを見る。トールは少し離れた場所で見張っていたが、耳はこちらに向けているようだった。


「あるって話ですぜ」


 セバスチャンはそう答えた。


「話?」


「実際に見たやつは、ほとんどいませんからな」


「帰ってこないのか」


「帰ってこねえ奴が多い。戻った奴の話も、どこまで正しいかは分かりやせん」


 ギルは串肉を見下ろした。


 なるほど、と思う。


 奥へ進めば進むほど強い魔物が出て、最奥には何かがある。そんな都合のいい構造を、どこかで勝手に想像していたのかもしれない。宝なり、特別な魔石なり、巨大な魔物なり、分かりやすい終点。だが、ここは現実の迷宮だ。奥へ行く意味を誰かが保証してくれるわけではない。


「食料が持たないか」


「それもありますな」


 セバスチャンが頷く。


「奥へ進むほど、帰りも長くなりやす。食料を持てば荷が増える。荷が増えりゃ動きが鈍る。素材を手に入れても持ち帰れなきゃ金にならねえ。魔物を食いながら進むにしても、食える魔物ばかりとは限りやせん」


「水もいるな」


「ええ。それに、深いところほど魔物が強くなるとも言われてやす」


 クレインが静かに付け足した。


「持ち帰れる量には限りがあります。探索者なら、危険を冒して果てを目指すより、戻れる範囲で素材を集めた方が現実的です」


「まあ、そうだよな」


 ギルは頷いた。


 迷宮の果てを見たところで、それ自体が金になるとは限らない。名誉になるのかもしれないが、命と釣り合うかは別だ。まして平民の探索者なら、日々の食い扶持が先だろう。


 それでも、目指す者はいる。


 そういう人間がいることも、ギルには何となく分かった。


「それでも行くやつはいるんだろ?」


「おりますぜ」


 セバスチャンは焚き火の向こうで、少しだけ呆れたように笑った。


「戻ってこねえ奴がほとんどですがね」


「果てはどんな感じなんだ?」


「話だけなら色々ありやす。巨大な壁だったとか、崖だったとか、でかい川だったとか」


「川?」


「ええ。向こう岸が見えねえほどだったって話もありやす。まあ、そいつがどこまで本当かは分かりやせんが」


 ギルは想像した。


 地下の森の奥に、巨大な壁。


 または突然途切れる崖。


 あるいは、地下に広がる大河。


 見てみたい。


 普通に見てみたい。


 胸の奥が少し熱くなるのを感じた。未知の場所。誰もほとんど見ていない風景。迷宮の果て。まだ見ぬ空間を想像するだけで、退屈しかけていた頭が少しだけ目を覚ます。


「見てみたいな」


「駄目ですぜ」


 即答だった。


「まだ行くとは言ってないだろ」


「若様の場合、そのうち言いやす」


「信用ないなぁ」


「ありますかい?」


「ないかもしれん」


 セバスチャンは深く息を吐いた。


「今回はそんな準備してません。食料も水も足りねえ。素材もかなり増えてきてやす。ここからさらに奥へ行ったら、帰りが面倒になりますぜ」


「魔物を食べながら進めば、食料はどうにかなるんじゃないか?」


 ギルが言った瞬間、セバスチャンの目が細くなった。


「レティシア嬢にしばらく会えませんな」


 ギルは動きを止めた。


「…………」


「迷宮の果てまで行って帰るとなれば、数日じゃ済まねえかもしれませんぜ」


「…………」


「その間、レティシア嬢は城でお待ちでしょうなあ」


 ギルは焚き火を見つめた。


 迷宮の果て。


 巨大な壁。


 崖。


 大河。


 見たい。


 かなり見たい。


 だが、レティシアにしばらく会えない。


 寝台で乱れるレティシア。


 朝に恥ずかしそうに見送るレティシア。


 茶を淹れるレティシア。


 少し怒った顔のレティシア。


 比べる。


 比べるまでもなかった。


「……迷宮の果てよりレティシアの方がいいな」


 オルドが肩を震わせた。


 クレインが顔を伏せる。


 トールは見張りの姿勢を保っているが、背中が少し揺れた気がした。


 セバスチャンは呆れたように笑う。


「分かりやすくて助かりますぜ」


「いや、普通そうだろ」


「若様は本当にレティシア嬢が好きですな」


「好きに決まってるだろ」


 ギルは堂々と言った。


 恥ずかしいことではない。


 俺の女なのだから。


 むしろ、誇るべきことだ。


 そのまま肉を噛み、少し考える。


「レティシアの果てって何なんだろうな」


「若様」


「いや、何でもない」


 自分で言っておいて、よく分からなかった。


 ただ、考え続けるとかなり下品な方向へ行きそうだったので、ギルはそこで止めた。焚き火に薪を足す。火が強くなり、湿った空気の中で赤く揺れた。


 その炎を見ているうちに、別の疑問が浮かぶ。


 薪の木。


 切っても伸びる木。


 魔物が湧く迷宮。


 フォレストディアも、ホーンラビットも、アイアンボアも、サーベルタイガーも、どこから来ているのか。


「なあ、薪の木って本当に再生してるのか?」


 ギルが言うと、セバスチャンが眉を寄せた。


「本当に?」


「切った後に伸びるのは見た。でも、それが何から伸びてるのか分からん。切り株なのか、根なのか、土なのか、迷宮の魔力みたいなものなのか」


 セバスチャンは腕を組んだ。


「そこまで考えたことはねえですな」


「だよな」


 ギルは焚き火にくべられた薪を見た。


「そもそも同じ木が伸びてるのかも分からん。地上の植物みたいに根からまた出てるのか、迷宮が木っぽいものを再配置してるのか、俺には分からん」


「若様、また難しいことを」


「魔物もそうだろ」


 ギルは森の奥へ視線を向ける。


「倒した魔物はどう補充される? 普通に繁殖するのか? それとも迷宮のどこかで発生するのか? ホーンラビットくらいなら繁殖してそうだが、サーベルタイガーみたいなのも同じなのか?」


 焚き火の周囲が少し静かになった。


 オルドが低く唸る。


「言われてみれば、分かりませんね」


「探索者は倒して素材を持ち帰る。迷宮管理側は数を見て危険度を測る。だが、何日で元に戻るか、どんな風に増えるか、全部把握してるわけじゃないんだろ」


「場所によるでしょうな」


 セバスチャンが言った。


「この迷宮はまだそれほど古くねえ。危険域も見えやすい。アルディス様が管理してるんで、表層の変化は追ってるはずですが、奥の奥まで全部分かるかと言われりゃ、難しいでしょうな」


「だよなぁ」


 ギルは少し楽しくなっていた。


 未知だ。


 分からないことが多い。


 魔石が宝飾品になるとか、薪の木が燃料になるとか、フォレストディアの肉が美味いとか、そういう実利もある。だが、それだけではなく、迷宮というもの自体が奇妙だった。


 知りたい。


 どうなっているのか見たい。


 薪の木の再生を調べるなら、切った根元を何刻も見張ればいいのだろうか。


 切り口から伸びるのか。


 根元から芽が出るのか。


 それとも気づかぬうちに別の場所から似た木が出るのか。


 魔物ならもっと難しい。


 ホーンラビットを何匹も狩り続ければ、同じ場所にまた現れるのか。


 魔石を抜いた後の死体を放置したら、何か変化するのか。


 大型の魔物はどれほどの間隔で現れるのか。


 考えれば考えるほど、分からないことが増える。


「例えばだ」


「嫌な予感しかしやせん」


「迷宮内で思いっきり攻撃魔法を撃ったらどうなるんだ?」


 セバスチャンが露骨に顔をしかめた。


「さあ?」


「分からんか」


「迷宮が吹き飛ぶか、中にいるもんが吹き飛ぶか、変なことが起きるかじゃねえですか」


「変なこと」


「変なことです」


「気になるな」


「絶対にやらんでくださいよ」


 ギルは少し口を尖らせた。


「いや、地形は再生するのかとか、木は戻るのかとか、魔物はどれぐらいで戻るのかとか、普通に気になるだろ」


「気になってもやることじゃありやせん」


「迷宮そのものが壊れるのか、逆に全然壊れないのかも知りたい」


「若様」


「一回だけなら」


「絶対駄目ですぜ」


 即座だった。


 ギルは内心で舌打ちする。


 かなりやってみたい。


 サーベルタイガーの時も思ったが、自分の攻撃魔法を本気で撃ったら、この地下の森がどうなるのか気になる。火で焼けるのか。壁が崩れるのか。天井に穴が開くのか。それとも迷宮特有の何かで耐えるのか。


 研究としても興味深い。


 いや、研究というより好奇心だが。


「今、一回ぐらいならいいかって顔してましたぜ」


「してない」


「してました」


「気のせいだ」


「レティシア嬢に言いつけますぜ」


「分かった。絶対やらない」


 ギルはすぐに諦めた。


 レティシアに言われるのはまずい。


 たぶん怒られる。


 静かに怒られる。


 それは嫌だ。


「本当ですかい」


「本当だ」


「若様の本当はたまに怪しいですからな」


「今回は本当だ」


 セバスチャンはまだ疑っている顔だったが、それ以上は言わなかった。


 焚き火の火が弱まり、オルドが薪を足す。


 火花が散る。


 薄暗い森の中で、赤い光だけが少し強い。


 ギルは火を眺めながら、自然と思考が別の方へ流れていくのを感じた。


 ダル兄さん。


 アル兄さん。


 ダルメシアンは国境警備の責任者として働いている。アルディスは迷宮管理の責任者として働いている。二人とも、それぞれ役目がある。


 では、自分はどうなるのか。


 辺境伯家の三男。


 規格外の魔力。


 現場判断ができると評価されている。たぶん。


 だが、家を継ぐわけではない。


「……俺って、将来何やるんだろうな」


 声に出ていた。


 セバスチャンがこちらを見る。


「若様なら何でもできますぜ」


「そういう雑な褒め方はいらん」


「雑でしたかい」


「雑だった」


 ギルは火へ視線を戻した。


「ダル兄さんは国境。アル兄さんは迷宮。じゃあ俺は何だって話だ」


 セバスチャンは少し黙った。


 こういう話になると、このクソじじいは意外と軽口を減らす。冗談を言う時は言うが、家や役目に関わることには妙に鋭い。


「考えられるのは、王国側の境目だな」


 ギルは自分で言いながら首を傾げた。


「マバール領と王国内部側の管理。国境ほど派手ではないが、人や物は流れる。王都方面との調整もある。ありそうではある」


「ええ」


「だが、俺向きじゃない気がする。あれは経験と人脈だろ。俺みたいな若造より、もっと長くやってる人間の方が向いてる」


 マバール領は広い。


 帝国側だけが問題ではない。


 王国内部との繋ぎも必要だ。税、物流、貴族間の体面、街道の安全、文官との調整。どれも重要ではある。


 だが、ギルの魔力をそこへ置くのは、少しもったいない気がした。


「王都での交渉役は?」


 クレインが控えめに言った。


 ギルは即座に顔をしかめた。


「ないな」


「早いですな」


「経験値が足りなすぎる。それに絶対面倒になる」


 セバスチャンが笑う。


「若様、王都で暴れそうですな」


「暴れはしない。たぶん」


「たぶん」


「いや、貴族相手にずっと腹の探り合いとか嫌だぞ。父上や兄さんたちの方がずっと向いてる」


 王都。


 華やかかもしれない。


 綺麗な女も多いかもしれない。


 それは少し興味がある。


 だが、政治の中心で常に言葉を選び、体面を整え、王国貴族たちの中で生きる。それはさすがに疲れそうだった。


 ギルは火をつついた。


「遊軍……いや、遊撃隊みたいなものならありそうだな」


「ほう」


「国境と迷宮、どちらかで問題が起きた時に急行する。普段は領都にいて、必要な時だけ動く。俺の魔力も活かせるし、何より普段はある程度ゆっくりできそうだ」


「最後が本音ですな」


「否定はしない」


 オルドたちが笑った。


 だが、ギルの中ではかなりしっくり来ていた。


 高火力。


 高い魔力容量。


 高い魔力強度。


 攻撃魔法を本気で使える場所なら、自分はかなり役に立つ。


 迷宮の浅層では素材の関係で使いづらいが、緊急時や戦場なら話は別だ。強い魔物が出た。国境で帝国が動いた。砦が危ない。そういう時に突っ込む役割なら、ギルの力は分かりやすく活きる。


 しかも、普段は自由がありそうだ。


 レティシアとも過ごせる。


 研究もできる。


 悪くない。


「遊撃隊、いいな……」


「若様、本気で気に入りましたな」


「かなりな」


 ギルは少し笑った。


 そのまま、思考が妙な方向へ流れる。


「他には……裏で魔力持ちを増やすための種馬的な生活とか?」


 セバスチャンが一瞬だけ固まった。


 オルドが咳き込む。


 トールが見張り中なのに肩を揺らした。


「若様」


「いや、可能性としてだ」


「可能性でそういうこと言いますかい」


「美女を集められるなら楽しそうではある」


「楽しそう、で済む話じゃねえですぜ」


「分かってる」


 ギルは笑った。


 魔力持ちの子を増やすことは貴族にとって重要だ。自分の魔力が規格外であるなら、種としての価値も高いだろう。だが、今すぐマバール家がそこまで追い詰められているわけではない。正妻や側室、政略、体面、血統、全部絡む。単純に美女を集めて楽しく過ごせるだけの話ではない。


 それに、レティシアが怒る。


 たぶん静かに怒る。


「まあ、ないだろうな」


「なくはねえでしょうが、若様の仕事としてそれだけってことはねえでしょうな」


「だよなぁ」


 結局、遊撃隊的な立場が一番しっくり来る。


 火を眺めながらそう考えていると、少しだけ胸が落ち着いた。


 自分の未来はまだ決まっていない。


 だが、何もないわけでもない。


 ギルは辺境伯家の三男で、規格外の魔力持ちだ。


 お気楽でいたい。


 でも、何の役目も持たずにはいられない。


 なら、せめて自分に合う役目がいい。


 普段はゆっくり。


 必要な時だけ派手に動く。


 うん。


 やはりそれがいい。


 その夜、ギルは薄明るい森の中で眠った。


 完全には深く眠れなかった。


 時折、感知魔法を展開し直し、周囲の反応を確かめる。木上を小さな反応が通り過ぎたこともあったが、近づいては来なかった。遠くで鳴き声が響き、火が弱まり、見張りが交代する気配がした。


 目を開けても、景色はほとんど変わらない。


 だから朝が来たというより、身体が起きる時間になったという感じだった。


「……絶対、身体狂うだろこれ」


 ギルは起き上がりながら呟いた。


 セバスチャンが火の跡を処理している。焚き火の周りには灰が残り、黒く焦げた薪の木が二本、まだ熱を抱いていた。オルドが水を少し垂らし、クレインが灰を土で覆う。火の匂いが弱まり、湿った森の匂いがまた戻ってくる。


「慣れればどうにかなりやす」


「慣れたくはないな」


「迷宮担当になれば慣れますぜ」


「それはアル兄さんの仕事だ」


 ギルは硬いパンを受け取り、干し肉と一緒に齧った。


 硬い。


 塩辛い。


 昨日のフォレストディアが恋しい。


「塩が強いな」


「保存食ですからな」


「分かってる。分かってるけど強い」


 水で流し込みながら、ギルは荷物を確認する。


 素材は十分に増えていた。


 フォレストディアの皮と肉。


 ホーンラビットの角と毛皮。


 アイアンボアの牙と肉。


 サーベルタイガーの牙と毛皮。


 魔石もいくつか。


 布で包まれた魔石は、火の光を受けると淡く光った。綺麗なものは宝飾品に使われると聞いたが、確かに磨けば見栄えがしそうだった。ギルはそれを少し見てから、荷の重さへ視線を移す。


 袋が増えている。


 馬や荷運びを使っているわけではない迷宮内では、持てる量に限界がある。素材を傷めないよう包めば嵩も増えるし、肉は重い。牙や角は形が悪く、下手に括ると歩く時に邪魔になる。


 これ以上奥へ進むと、帰りの荷が重くなる。


 探索者たちが深部へ行かない理由を、ギルはかなり実感し始めていた。


 食後、一行はさらに少しだけ奥へ進んだ。


 ギルは感知魔法を展開させる。


 反応を立体的に拾う。


 右奥の低い位置にホーンラビットらしき小さな反応。


 頭上近く、枝の上を移動する弱い反応。


 前方の下草の奥にフォレストディアらしき中程度の反応。


 遠くに少し大きな反応もあるが、こちらへ向かってくる気配はない。


 森の中を進む。


 足元は湿っている。


 太い根を避け、下草を分け、時々小川のような水筋を越える。水は浅いが、石は滑りやすい。トールが先に足を置き、安定する場所を確認してからギルへ視線で示す。ギルは肉体強化魔法を軽く使い、足元を崩さずに越えた。


 枝の上で何かが動いた。


 ギルは顔を上げる。


 灰色がかった毛。


 長い腕。


 ロングアームモンキーらしき魔物が、枝の隙間からこちらを見ていた。目が合ったような気がした瞬間、それは腕を伸ばして隣の枝へ移り、音もなく奥へ逃げる。追えなくはないが、追う意味は薄い。


「また逃げたな」


「荷を狙う時は寄ってきますが、人数がいると逃げることもありやす」


 セバスチャンが言った。


「賢いのかもな」


「かもしれやせんな」


 そのまましばらく進むと、下草の低い位置で二つの反応が跳ねた。


 ホーンラビット。


 ギルが口を開く前に、セバスチャンも気づいていたらしい。


「低い。二つ」


「分かってる」


 短いやり取りの直後、草が揺れた。


 一匹目が飛び出す。


 角を前へ突き出し、地面近くから腹を狙うような軌道で跳ねてくる。トールが盾を下げ、角を受け流した。真正面から止めない。軌道をずらす。ホーンラビットは横へ流れ、そこへクレインの刃が入る。


 二匹目は少し遅れて跳んだ。


 ギルの右足を狙うように、低く鋭い軌道で飛び込んでくる。


 ギルは肉体強化魔法を脚へ通し、半歩だけ後ろへ引いた。角が外套の裾を掠める。剣を抜くほどの間もない。だが、慌てるほどでもない。膝を軽く落とし、柄で角の横を打つ。


 硬い感触。


 小さな体が横へ弾かれる。


 オルドが踏み込み、首筋へ刃を通した。


 ホーンラビットは草の上で短く痙攣し、動かなくなった。


「今の、俺が斬ってもよかったな」


 ギルが言うと、セバスチャンが肩をすくめた。


「次でいいでしょう」


「次って言うほど出てきてほしくもないんだが」


「迷宮ですからな」


「便利な言葉だな」


 ホーンラビットの角と毛皮は回収する。


 肉も食えなくはないが、荷が増えているので必要分だけにするらしい。クレインが手早く処理し、オルドが血の匂いを強く残さないよう場所を少しずらした。ギルは周囲の反応を探る。近くに大きな反応はない。


 さらに進む。


 今度はフォレストディアだった。


 下草の奥に一頭。


 昨日より少し小さい。


 角は短めだが、肩の筋肉は厚い。こちらを見て逃げない。草を咥えたまま、ゆっくりと頭を上げる。その目に、地上の鹿のような怯えはない。じっとこちらを測り、前脚で地面を掻いた。


「来るか」


「来ますな」


 セバスチャンの声は落ち着いている。


 フォレストディアが突っ込んできた。


 トールが横へずれながら盾を入れ、角の軌道を逸らす。防御魔法が一瞬だけ硬くなる気配がした。ギルは正面から受けるのではなく、脇へ回り込む。素材を傷めない位置。首の根元。だが、セバスチャンの方が早かった。


 短い踏み込み。


 刃が入る。


 フォレストディアが崩れ、オルドが足を止め、クレインが急所を処理する。


 手際がいい。


 派手さはない。


 危なげもない。


 だからこそ、ギルは少しだけ物足りなさを覚える。


 それが贅沢な感覚なのは分かっていた。


 今の戦いは正しい。


 素材を残し、危険を抑え、時間をかけすぎない。迷宮探索としては理想に近いのだろう。何かが起こらないことは良いことだ。魔物に奇襲されず、仲間が怪我をせず、素材が増える。それは成功だ。


 だが。


 正直、少し飽きてきた。


 ギルは解体を見ながら、内心でそう思った。


 口には出さない。


 出せるはずもない。


 セバスチャンたちは真面目に探索している。オルドもクレインもトールも、荷の重さや周囲の反応に気を配りながら動いている。フォレストディア一頭を処理するだけでも、血の匂い、肉の重さ、毛皮の状態、帰り道の負担まで考えている。


 ここで、飽きた、などと言ったらどうなる。


 たぶんセバスチャンに呆れられる。


 いや、呆れられるだけならいい。


 探索者にとって命懸けの日常を、遊びのように見ていると思われるのは少し違う。


 ギルはこの世界の人間として生きている。迷宮も、魔物も、素材も、家の管理も現実だ。それでも、記憶の底にある遊びの感覚が、時々勝手に期待してしまう。強い魔物。謎の扉。見たこともない宝。分かりやすい事件。そんなものが次々起きる方が、現実としてはおかしい。


 現実の探索は、もっと地味だ。


 感知。


 移動。


 魔物発見。


 狩る。


 解体。


 素材をまとめる。


 また進む。


 同じことの積み重ね。


 だが、その積み重ねが金になり、領地の資源になり、迷宮管理の基礎になる。


 ギルは小さく息を吐いた。


 フォレストディアの皮が丁寧に剥がされ、肉が布へ包まれる。魔石は小さかったが、色は悪くない。クレインがそれを別袋へ入れた。荷袋の口を結ぶと、紐が少しきつそうに食い込んだ。


「増えたな」


「増えましたな」


 セバスチャンが荷を見ながら言う。


「戻りを考えると、そろそろ頃合いでしょう」


「もう少しだけ奥を見るか?」


「もう少しなら」


 セバスチャンは即座に否定しなかった。


 だからギルも頷く。


 大きなイベントを期待しているわけではない。


 いや、少しはしている。


 だが、口には出さない。


 一行はさらに奥へ進んだ。


 森の雰囲気は大きく変わらない。木々の種類が少し変わり、薪の木に混じって幹の黒い木が増えた。葉は厚く、淡い光を受けて鈍く光っている。足元の下草はさらに深くなり、歩くたびに湿った草が膝近くへ触れた。


 ギルは感知魔法を展開し続ける。


 枝の上にロングアームモンキーらしき反応が一つ。


 低い茂みにホーンラビットらしき反応が二つ。


 遠く、かなり奥に少し大きめの反応があるが、動きは鈍い。


 サーベルタイガーほどの反応はない。


 しばらく歩くと、枝の上の反応が動いた。


 ギルが視線を上げる。


 ロングアームモンキーがいた。


 今度は前よりはっきり見える。長い腕で枝を掴み、身体は小さく丸めている。顔は猿に似ているが、目の色が妙に濃い。こちらを見ている。逃げるでもなく、襲うでもなく、しばらく見ていた。


 セバスチャンが低く言う。


「荷を狙うかもしれやせん」


「撃つか?」


「攻撃魔法は要りやせん。寄ってくりゃ払います」


 ギルは頷いた。


 ロングアームモンキーは枝を揺らし、少し横へ移った。


 まだ見ている。


 ギルたちが進むと、距離を取るように枝を渡る。完全に逃げるわけではない。ついてくるようにも見える。荷の匂いか、肉の匂いか。それとも単にこちらを観察しているのか。


 少し厄介だ。


 だが、襲ってこない相手を無理に追っても仕方ない。


 そのまま進むと、茂みからホーンラビットが飛び出した。


 今度はギルが処理した。


 肉体強化魔法で踏み込み、角の軌道を外し、短く剣を振る。小さな体に刃が入り、草の上へ転がる。手応えは軽いが、地味に気持ち悪い。攻撃魔法なら一瞬なのに、素材を残すためには手で斬る必要がある。


「慣れたくない感触だな」


「慣れますぜ」


「それはそれで嫌だ」


 セバスチャンが笑った。


 ロングアームモンキーはその様子を枝の上から見ていた。こちらが見返すと、今度こそ奥へ逃げる。枝が揺れ、反応が少し高い位置から遠ざかっていった。


「賢いな、やっぱり」


「不用意に近づかねえだけ賢いでしょうな」


「魔物にも色々いるもんだな」


「迷宮ですからな」


「本当に便利だな、それ」


 その後、大物は出なかった。


 出ないまま、素材だけが少し増えた。


 小型の魔石。


 ホーンラビットの角。


 追加のフォレストディアの肉。


 さほど珍しいものではないが、持ち帰れば金になる。ギル自身は金に困っていないが、迷宮の資源として見れば十分な成果だった。


 ただ、荷が重い。


 クレインの肩紐が少し沈んでいる。


 トールの背の荷袋も膨らみ、歩くたびに包まれた牙が中で硬く当たる音がした。オルドは文句を言わないが、荷の位置を何度か直している。セバスチャンはそれらを見ながら、森の奥と帰り道を交互に確認していた。


 ギルにも分かった。


 ここが頃合いだ。


 もう少し奥へ行ける。


 だが、これ以上進めば戻りが面倒になる。


 荷が重い状態で魔物に襲われれば、動きが鈍る。素材を捨てれば逃げられるかもしれないが、それでは意味がない。迷宮探索は、倒すことより持ち帰ることの方が大事なのだろう。


 セバスチャンが足を止めた。


「若様」


「何だ」


「そろそろ戻りやしょう」


 ギルは少しだけ森の奥を見た。


 薄暗い木々。


 淡い光。


 まだ続く道。


 果ては見えない。


「素材は十分か?」


「ええ。これ以上増やすと持ち帰りが面倒です。帰り道で何か出た時の余裕も残しておきてえ」


「なるほどな」


 正しい判断だった。


 ギルにも分かる。


 奥へ行きたい気持ちはある。


 迷宮の果てを見たい。


 薪の木の再生も、魔物の発生も、もっと知りたい。


 攻撃魔法を撃ち込んだらどうなるのかも、正直まだ気になっている。


 だが、今回は視察と練習に近い。


 準備も深部探索用ではない。


 素材も十分ある。


 なら、戻るべきだ。


「分かった。戻るか」


 ギルが言うと、セバスチャンが少し安心した顔をしたように見えた。


「素直で助かりますぜ」


「俺はいつも素直だろ」


「どの口が言いやすか」


「ひどいな」


 ギルは軽く笑い、もう一度森の奥を見た。


 迷宮は面白い。


 未知が多い。


 危険で、面倒で、資源に満ちている。


 だが、今はここまでだ。


「まあ、レティシアも待ってるしな」


 ぽつりと呟くと、セバスチャンが吹き出した。


「若様、本当にそこですな」


「大事だろ」


「ええ、大事ですな」


 セバスチャンは笑いながらも、否定しなかった。


 帰り道は、行きよりもゆっくりになった。


 荷が重い。


 素材を傷めないように気を遣う。


 血の匂いが完全に消えているわけではなく、小型の魔物が近づいてくることもあった。ギルは感知魔法を展開させたまま、地面近くの反応と枝の上の反応を拾い続けた。


 一度、左奥の下草でホーンラビットが跳ねた。


 こちらへ来る前にトールが気づき、盾で進路を塞ぐ。ホーンラビットは迂回しようとしたが、クレインの刃がそれを止めた。小さな魔石だけを抜き、角は持つか少し迷った末に回収した。荷は増えるが、捨てるほどでもないらしい。


 少し進んだところで、ロングアームモンキーの反応がまた枝の上に出た。


 同じ個体かどうかは分からない。


 木々の間から灰色の毛が見え、すぐに消える。荷を狙っているのか、見ているだけなのか。ギルが感知を向けると、反応はすっと離れた。賢い。やはり、少なくともホーンラビットよりは間合いを測っているように見える。


 帰り道だからといって、完全に安全ではない。


 むしろ荷が重い分、行きより面倒かもしれない。


 ギルはその面倒さを味わいながら歩いた。


 地味だ。


 本当に地味だ。


 だが、これが迷宮なのだろう。


 歩き、見て、拾い、避け、持ち帰る。


 その積み重ねが、迷宮管理と探索者の生活を作っている。


 やがて、森の雰囲気が少し変わった。


 下草が浅くなり、木々の間隔が広がる。


 薪の木を切った跡が増え、踏み固められた道へ戻ってきた。人の気配がある。遠くで斧の音がした。探索者たちが入口近くで作業しているのだろう。


 薄暗い森の中で、その音は妙に現実的だった。


 ギルは少しだけ肩の力を抜いた。


 迷宮の奥から戻ってきたのだと、足元の踏み固められた土が教えてくる。


「戻ったら、まず素材を預けるんだよな」


「ええ。管理所で確認させやす」


「アル兄さんへの報告も要るか」


「でしょうな」


 セバスチャンが言った。


「若様が迷宮を吹き飛ばそうとしたことも?」


「してない」


「しようとはしましたな」


「してない」


「レティシア嬢には?」


「絶対言うな」


 セバスチャンが笑う。


 ギルは少し眉を寄せたが、本気では怒らなかった。


 レティシアに会える。


 その考えが、帰り道の疲れを少し軽くする。


 迷宮の果ては見えなかった。


 薪の木の再生も分からない。


 魔物の発生も分からない。


 自分の将来も、まだ確定していない。


 だが、持ち帰るものはある。


 素材。


 経験。


 疑問。


 そして、遊撃隊という悪くない未来予想の形。


 ギルは感知魔法を展開させたまま、入口へ続く道を進んだ。


 地面近くを跳ねる小さな反応は遠ざかり、枝の上の反応も消える。前方には人の気配が増えてきた。探索者。兵。管理所近くの者たち。


 迷宮の森は、行きと同じように薄暗く、何も語らず、ただ静かに広がっていた。


 ギルは最後に一度だけ振り返った。


 奥へ行けば、まだ何かがある。


 壁か。


 崖か。


 川か。


 それとも、何もないのか。


 見てみたい気持ちは消えない。


 だが、今は帰る。


 レティシアの待つ場所へ。


 柔らかい寝台があり、温かい茶があり、迷宮よりずっと分かりやすく自分を引き止める女がいる場所へ。


 ギルは小さく息を吐き、薄明るい森に背を向けた。

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