第三百八十一話 処刑前夜の兄弟
お茶が少し冷めてきた。
ベルを寝かせてから、どれくらい経っただろうか。俺は椅子に腰掛けたまま、手元のカップを傾けた。
さっきまでベルと一緒に賑やかに過ごしていたせいか、今は部屋が妙に静かに感じられる。
あいつ、ちゃんと眠っているだろうか。
いや、あの様子なら朝までぐっすりだろうな。何しろ、数字の答えを考えている途中で眠りかけていたくらいだ。今日はあちこち連れ回したし、夕食も腹いっぱい食べたのだから、疲れていて当然だろう。
それにしても、あの二つのカップはずいぶん気に入ってくれたようだ。
水色にするか、赤色にするか。
どちらも自分のものなのだから、そこまで悩む必要もないと思うんだが、ベルにとっては大問題だったらしい。結局、両方にお茶を淹れてもらって喜んでいた。
ふふっ。
思い出すと笑ってしまうな。
しかし、今日の仕事はまだ終わっていない。
俺は残っていたお茶を飲み干し、カップを机へ戻した。
アル兄さんからは夕食後なら会えると返事をもらっている。そろそろ迎えが来てもいい頃だと思うんだが、なかなか来ないな。
まあ、アル兄さんも忙しいのだろう。
何しろ、今のマバール家はとんでもない状況だからな。
父上もアル兄さんも、普段の仕事だけで手いっぱいだろうに、そこへ色々な問題が押し寄せている。しかも、その中には俺が持ち込んだものだって少なくない。
……うん。
あまり偉そうなことは言えんな。
それでも、今回ばかりはアル兄さんに直接話しておきたかった。
明日には善良王が処刑される。
そう考えると、会える機会はもうほとんど残されていない。別にあの男と親しくなりたいわけではないし、助けてやりたいというわけでもない。
ただ、もう一度話してみたい。
それだけなんだよなぁ。
何を話すかと聞かれたら、俺自身も少し困るのだが。
俺がそんなことを考えていると、扉の向こうから人の気配がした。
ほどなくして、使用人がアル兄さんからの使いが来たと知らせてくれる。
ようやくか。
俺は椅子から立ち上がり、軽く服を整えてから使いの者を迎えた。
「遅くにすまんな」
そう声をかけると、使いの者は丁寧に頭を下げた。
迎えに来た本人が悪いわけではないんだが、こんな時間まで俺のために働いてもらっているのだから、一言くらい礼を言っておきたい。
俺は案内に従って部屋を出た。
廊下へ出ると、部屋の中よりも空気が少し冷たく感じられた。灯火に照らされた石壁の影が足元へ伸び、俺たちの足音が静かな廊下に響く。
さすがに夜も遅い。
昼間ならあちこちで見かける使用人の姿も少なくなり、行き交う者たちの声も自然と小さくなっている。
俺は案内の者の後ろを歩きながら、これからの話を考えた。
アル兄さんは、善良王との面会を認めてくれるだろうか。
頼んだのは俺だが、別に許可されると決まったわけではない。
相手は明日処刑される国王だ。
しかも、俺自身が捕らえて連れてきた男でもある。
今さら何を話すつもりなのかと聞かれても、おかしくはないだろう。
……まあ、断られたら仕方ないな。
無理を言っている自覚くらいはある。
それでも、何となくアル兄さんなら話くらいは聞いてくれる気がした。
俺に甘いところがあるからなぁ、アル兄さんは。
いや、父上だって別に冷たいわけじゃないぞ?
ただ、父上に何かを頼むときと、アル兄さんに頼むときでは、どうにも気分が違うんだよな。
そんなことを考えているうちに、アル兄さんの部屋へ到着した。
案内の者が俺の来訪を告げ、俺は中へ通された。
「遅くなってごめんね、ギル」
部屋へ入ると、アル兄さんがいつものように微笑みながら迎えてくれた。
相変わらず、いい笑顔だ。
……いや、待て。
いつもより、少しだけきらきら感が足りない気がする。
顔色が極端に悪いわけではないし、口元にも穏やかな笑みが浮かんでいる。だが、普段のアル兄さんを見慣れている俺からすると、どうにも疲れが隠しきれていないように見えた。
まあ、当然か。
この状況で疲れていない方がおかしいだろう。
「いえ、こちらが無理を言ったのは分かっていますから」
俺がそう答えると、アル兄さんは少し嬉しそうに目を細めた。
そして、いつものように軽く抱き合う。
うむ。
こういうところは昔から変わらんな。
アル兄さんの腕が背中に回り、俺も軽く抱き返した。長々と抱き合うわけではないが、こうして迎えてもらえると、やはり何となく安心する。
……これは父上には出来んなぁ。
いや、別に父上が嫌いというわけではない。
むしろ尊敬しているし、俺たちのことを大切に思ってくれているのも分かっている。
だが、父上とこんなふうに抱き合うところを想像すると、どうにも妙な感じがするんだよな。
父上も困るんじゃないだろうか。
……ちょっと見てみたい気もするが。
いや、やめておこう。
そんなことを考えながら身体を離すと、アル兄さんが椅子を勧めてくれた。
俺たちは向かい合うように腰を下ろした。
さて。
長々と世間話をするために来たわけではない。アル兄さんだって、俺に付き合ってのんびりしている余裕はないだろう。
俺はさっそく本題を切り出した。
「アル兄さん、さっそくですが善良王との対面は?」
すると、アル兄さんは少し困ったような、それでいてどこか面白がっているような顔をした。
「本当は断ろうと思ったよ」
……おっと。
そうなのか。
苦笑しながら告げられた言葉に、俺は思わずアル兄さんの顔を見つめた。
やはり無理なのだろうか。
まあ、そうだよなぁ。
俺自身、無理を言っている自覚はある。
処刑を翌日に控えた国王と、わざわざ今から面会したいと言っているのだから、断られたところで文句は言えない。
ましてや、今のアル兄さんはただでさえ忙しい。
そんなことを考えていると、アル兄さんは俺の顔を見て小さく笑った。
「でも、ユーディリアスを捕らえて連れて来たのはギルだしね」
……ああ。
なるほど。
俺は少し肩の力を抜いた。
そう言ってもらえるなら、どうやらまったく望みがないわけではなさそうだ。
確かに、あの男を捕らえたのは俺だ。
俺としては、別にそれを理由に特別扱いしてもらうつもりではなかったのだが、アル兄さんはそこも考慮してくれたらしい。
ありがたい話だな。
しかし、アル兄さんの言葉はそれだけでは終わらなかった。
「それにユーディリアス本人もギルに会いたがっているからね」
……ん?
俺は思わず顔を上げた。
今、何と言った?
善良王が俺に会いたがっている?
アル兄さんは先ほどまでの苦笑を消し、少し真剣な表情になっていた。
「そうなのですか?」
「うん、ギルになら会うそうだよ。何かあったの?」
……何か、か。
俺は少し考えた。
善良王と最後に顔を合わせたときのことを思い返してみる。
あの男の言動は、どうにも理解しにくいところがあった。俺とは考え方が随分違うし、話していて妙な気分になることもあった。
だが、だからといって、俺にだけ会いたいと思うような出来事があっただろうか。
……うーん。
分からんなぁ。
捕まえた本人だから何か言いたいのかもしれないが、それなら別に今でなくてもいい気がする。
いや、そもそも処刑を翌日に控えた人間が何を考えているかなんて、俺に分かるわけもないか。
「うーん、特に何も思いつきませんが?」
正直にそう答えると、アル兄さんは少しの間、俺を見つめていた。
それから小さく頷き、表情を引き締める。
「そう。まぁ、ギルなら大丈夫だと思うけど、同情は禁物だよ。彼は王として責任を取らなくてはいけない」
その言葉に、俺も自然と背筋を伸ばした。
アル兄さんの声は普段と変わらず穏やかだったが、そこに冗談めいた響きはなかった。
同情は禁物、か。
確かに、その通りだろう。
俺は別に善良王を助けたいわけじゃない。あの男ともう一度話してみたいとは思っているが、だからといって処刑をやめてほしいと頼むつもりもない。
そもそも、俺が頼んだからといって、そんな話になるはずもないしな。
善良王は王としての責任を問われている。
そして、その責任をどう取らせるかという話は、もう俺一人の気持ちでどうにかしていいものではない。
俺はアル兄さんの顔を見た。
相変わらず穏やかな顔立ちだが、その目は真剣だった。
……うむ。
やはりアル兄さんも、ただ優しいだけの人ではないよなぁ。
兄として俺をかわいがってくれるのは嬉しいが、こういうときにはちゃんと線を引く。
俺が妙なことを言い出さないか、少し気にしているのかもしれない。
もっとも、そこまで心配されるようなことをするつもりはないんだが。
俺がそんなことを考えていると、アル兄さんは少しだけ笑みを戻した。
「それに我々の都合もあるからね」
……ああ、なるほど。
俺はその言葉を聞いて、父上のことを思い浮かべた。
当然だが、アル兄さんも父上から考えを聞いているのだろう。
善良王をどう扱うかという問題は、単に本人を処刑して終わりというだけの話ではない。マバール家にも、これから先のことがある。
父上が何を考えているか、俺もある程度は聞いている。
アル兄さんがその話を知らないとは思えない。
むしろ、今の状況では父上とアル兄さんの間で色々と話し合われているはずだ。
……それにしても。
アル兄さんも大変だなぁ。
明日の処刑に関することまで任されているのだから、こうして俺と話している時間だって惜しいくらいだろう。
そのうえ、俺が余計な面会を頼み込んでいるわけだ。
うん。
少し申し訳なくなってきたぞ。
だが、ここまで話が進んだのだから、遠慮して帰るのも変だろう。
俺は姿勢を正し、アル兄さんへ尋ねた。
「いつ会えますか?」
すると、アル兄さんはあっさりと答えた。
「今からだよ」
……おお。
今からか。
ずいぶん話が早いな。
俺はてっきり、明日の処刑までに少し時間を作ってもらうか、あるいはもう少し後になるのかと思っていた。
だが、今から会えるというなら話は簡単だ。
こちらとしても、無理を言っている以上、余計に時間を取らせたくはない。
何より、明日になれば処刑がある。
今夜のうちに会えるなら、その方がありがたい。
俺がそう考えていると、アル兄さんは微笑んだまま言葉を続けた。
「ただし、僕も同席させてもらうよ。あの奇妙な王がギルと何を話すか興味あるしね」
……ほう。
奇妙な王、か。
やっぱりアル兄さんも、あの男を奇妙だと感じているんだな。
まあ、当然か。
あれだけ妙なことを言う男なのだから、俺だけが違和感を覚えているという方がおかしいだろう。
それにしても、アル兄さんの口からそんな言葉が出てくると、少し面白い。
普段は誰に対しても穏やかに接している印象が強いからなぁ。
もちろん、アル兄さんがただ人当たりのいいだけの人物でないことくらい、俺もよく分かっている。
それでも、本人を前にしているわけではないとはいえ、ああもはっきり奇妙だと言うのは、少し珍しい気がした。
……いや、待てよ。
アル兄さんが同席するのは、本当に好奇心だけなのだろうか。
俺は向かいに座る兄の顔を眺めた。
微笑みはいつも通りだが、さっき同情について忠告してきたときの真剣な表情も覚えている。
考えてみれば、アル兄さんは明日の処刑の責任者だ。
その本人が、処刑前夜に俺と国王を二人きりで会わせるというのも、立場上どうなのだろう。
俺が何かすると思われているわけではないだろうし、信頼されていないとも思わない。
ただ、どれだけ信頼している相手であっても、立場によっては任せきりにできないこともある。
ましてや、今回は国王の処刑に関わる話だからな。
そう考えると、アル兄さんが同席するのには、一応は監視の意味もあるのだろう。
もちろん、アル兄さん本人がそう言ったわけではない。
だが、俺が責任者だったとしても、同じように考えるかもしれない。
何か起きてからでは遅いし、後になって誰が何を話したのか分からないというのも困る。
それに、あの善良王だ。
俺との間で何を話し始めるのか、俺にだって見当がつかない。
……うん。
そう考えると、アル兄さんに同席してもらった方が、むしろこちらも気が楽だな。
何か変な話になったとしても、全部俺一人で相手をする必要はないわけだ。
俺はアル兄さんへ頷いた。
「もちろん、構いません」
すると、アル兄さんは満足そうに微笑んだ。
「それじゃ行こうか。もったいぶっても仕方ないし」
そう言って椅子から立ち上がる。
「はい」
俺もすぐに立ち上がった。
アル兄さんは俺の返事を聞いて軽く頷くと、そのまま扉の方へ向かった。
俺もその後に続く。
しかし、善良王の方から俺に会いたがっていたとはなぁ。
いったい何の用事なんだろう。
捕らえたことへの恨み言だろうか。それとも、何か聞きたいことでもあるのか。
……うーむ。
考えても分からん。
本人に会えば、嫌でも分かるだろう。
それに、俺の方もあの男に聞いてみたいことがある。
アル兄さんと一緒なら、変に気を使って話を切り上げる必要もないかもしれない。
もちろん、どれだけ話せるかは分からないが。
俺は先を歩くアル兄さんの背中へ目を向けた。
今日もずいぶん忙しかっただろうに、こうして時間を作ってくれた。
ありがたいことだな。
それにしても、明日には処刑される国王が、よりによって自分を捕らえた俺に会いたがるとは。
……やっぱり奇妙な男だ。
まあ、何を考えているか分からないところも含めて、もう一度話してみたかったのだから、俺が文句を言うのもおかしいか。
そんなことを考えながら、俺はアル兄さんと二人で部屋を出た。
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