第三百八十話 二つのカップ
ベルはノエルが部屋を出ていった後も、二つのカップを眺めていた。
よほど気に入ったらしい。水色の方を少し持ち上げてみたかと思えば、今度は赤い方へ目を移す。どちらを見ても嬉しそうなので、見ているこっちまで気分が良くなる。
俺も着替えようかと思ったところで、控えていた使用人が一歩前へ出た。
「ギルバート様、アルディス様から使いがありました。夕食後になら会えるとのことでございます」
「そうか、ありがとう」
ようやく返事が来たか。
アル兄さんに面会を頼んでいたのは俺の方だし、忙しいところに時間を作ってもらうのだから文句はない。それでも、父上に会ったときのように深夜まで待たされるとなると、さすがにしんどい。
夕食後なら、まだ少しは余裕があるだろう。俺が夕食を終える頃にアル兄さんの仕事も一段落する、ということなのかもしれない。
「ああ、すまんが着替えを用意してくれ。それと、この服はボタンを一つなくしたので頼む」
「かしこまりました」
使用人は俺の胸元へちらりと目を向けたが、何も聞かずに頭を下げた。
うむ。その辺りは実にありがたい。
銀のボタンをカップと交換した理由を、一から説明するのは少々面倒だからな。説明したところで、ノエルと同じような顔をされないかもしれないし。
用意された服に着替えている間、ベルは邪魔にならないところで待っていた。手には相変わらず二つのカップ。大事にしすぎて、かえって疲れないのだろうか。
着替えを済ませ、使用人に服を預けてから椅子へ腰を下ろすと、ベルもそばへ来た。
「ギルバートさま、これ、使ってもいいですか?」
「もちろんだ。そのために買ったんだろう?」
「はい!」
弾むような返事を聞いて、俺は使用人にお茶を頼んだ。
ところが、ベルは机の前に来たところでぴたりと動きを止めた。両手のカップを交互に見比べ、口を開きかけては閉じている。
「どうした?」
「えっと、えっと、水色……あっ、でも、えっと、やっぱり赤色? えっとでも、水色も、あの、えっと……」
なるほど。どちらを使うか決められないのか。
水色を見れば水色がよくて、赤色を見れば赤色がよくなるらしい。眉を寄せて真剣に悩んでいる姿は、まるで大仕事を任されたみたいだ。
俺はしばらくその様子を眺めていたが、さすがにお茶を淹れる使用人まで困らせるのは良くない。
「とりあえず、両方とも淹れてやってくれ」
そう言うと、使用人が小さく笑いをこらえた。
「かしこまりました」
ベルは驚いたように俺を見上げる。
「りょ、両方ですか?」
「そうだ。二つともベルのカップなんだから、好きに使えばいい」
何も一度に一つしか使ってはいけない決まりはない。二つとも気に入っているなら、二つとも使えばいいのだ。
「ありがとうございます!」
ベルはぱっと顔を輝かせ、机の上に並べたカップを嬉しそうに見守った。
お茶が注がれると、二つの小さなカップから湯気が立った。ベルは少し待ってから水色を持ち上げ、そっと口をつける。続いて赤色へ持ち替え、こちらからも一口。
「どうだ?」
「はい! おいしいです!」
うむ。良かったな。
……しかし。
そのうちベルは水色を右手に、赤色を左手に持って、両方を交互に飲み始めた。
おい、ベル。
カップの大きさは、確かにお前の手にちょうどいい。城で使っていた大きなカップよりも、ずっと扱いやすそうだ。
だが、二つ同時に持ったら、結局両手が塞がっているぞ。
俺は思わず笑いそうになり、口元を手で隠して自分のお茶を飲んだ。
まあ、本人が嬉しそうだからいいか。
時折、二つのカップを並べてじっと見つめては、また交互に口をつける。飲んでいるのは同じお茶なのに、ベルにとってはそれぞれ違う楽しさがあるらしい。
俺は自分のカップを置き、机の向こうで忙しそうにしている小さな手を眺めた。
あの銀のボタン一つでこれだけ喜んでくれるのなら、悪い買い物ではなかったな。
やがて夕食になり、俺はベルと一緒に食事を取った。
さっきまで二つのカップを離そうとしなかったベルも、食事の間はきちんと脇へ置いている。ノエルにお行儀よくすると宣言したばかりだからかもしれない。
……いや、単に両手が空かないと食べられないからだろうか。
どちらでもいい。いい子なのは間違いないからな。
「ベル、ほら、これも食え」
「はい!」
俺が勧めたものをベルは嬉しそうに口へ運び、もぐもぐと噛んでから、こちらへ顔を向けた。
「美味しいです!」
おお、そうか。
そんなに嬉しそうな顔をされると、こっちまで嬉しくなるじゃないか。
「ほら、これも食べてみろ」
「はい! これも美味しいです!」
実によく食べる。
……いや、俺がどんどん勧めているだけかもしれないが。
ベルは何を食べても目を輝かせている。食べる前にちょっと不思議そうに見つめていたものでも、一口食べればにっこり笑うものだから、つい次を勧めたくなってしまう。
まだ小さいし、少しくらい太っても構わんだろう。むしろ子供なら、多少ふっくらしている方がいいんじゃないか?
もちろん、無理に詰め込ませるつもりはない。それでも、もう少し食べられそうに見えると、ついつい声をかけてしまう。
「ベル、こっちはどうだ?」
すると、ベルは口の中のものを飲み込み、困ったように俺を見上げた。
「も、もう、食べれません。お腹いっぱいです」
おっと。
さすがに食べさせすぎたか。
「そうか。じゃあ、もう終わりにしよう」
「は、はい」
ベルはほっとしたように息をつき、それでも最後には満足そうな顔をした。
俺もその顔を見て、まあいいかと思う。無理をさせるのは良くないが、腹いっぱい食べられるのは悪いことじゃない。
食事を終えても、アル兄さんからの迎えはまだ来なかった。
夕食後に会えるとは言われたものの、こちらが食べ終わった途端に呼ばれるとは限らない。あちらはあちらで仕事があるのだろう。
俺はベルと少し遊ぶことにした。
「ベル、百十一を三で分けるといくつだ?」
「えっと、三十七です!」
「そうだな。じゃあ、二百二十二を六で分けると?」
「えっと、…あれ、また三十七です!」
うむ、いい調子だ。
ベルは俺の問いを聞くと、少し考えてから得意そうに答える。間違えないように慎重なところも、いかにもベルらしい。
何問か続けているうちに、返事が少しずつ遅くなってきた。
「じゃあ、五百五十五を十五で分けると?」
「えっと……さん、と……えっと……」
ベルは指先を見つめたまま、小さく口を動かしている。
おや?
さっきまであんなにはっきり答えていたのに、今は目が半分ほど閉じているじゃないか。答えが分からないというより、眠気の方が勝っているらしい。
無理もない。今日はオルフィアの屋敷へ行って、城下で買い物もして、帰ってからもずっと楽しそうにはしゃいでいたんだからな。
「ほら、ベル、もう眠れ」
「は、はい……」
素直に返事をしたものの、ベルは椅子から立とうとして、少しふらついた。
俺は手を貸して寝室まで連れていき、寝台に横たえてやる。
ようやく横になれたというのに、ベルはまだ目を開けようとしていた。
「は、はい、で、でも、ギルバートしゃまは?」
「俺はもう少し仕事があるんだ。安心して寝ろ」
ベルは眠たそうに瞬きをし、それから寝台の上で少し頭を動かした。
「は、はい……おやしゅみなしゃい……」
「ああ、おやすみ」
俺は柔らかい髪を軽く撫でた。
返事はもうなかった。小さな胸がゆっくり上下していて、さっきまであんなに熱心にカップを選んでいたのが嘘みたいだ。
ほんの少し前まで、この城でどう暮らしているのか気になっていたのだが、ノエルの話を聞けて良かった。
リエリエールにもノエルにもかわいがられているし、遊ぶ相手までできたらしい。俺がいつもそばにいなくても、ベルはちゃんと楽しそうにしている。
俺はもう一度だけその寝顔を眺め、静かに寝室を出た。
さて、アル兄さんとの約束が残っている。
部屋へ戻って茶を飲みながら、俺は迎えを待つことにした。
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