第三百七十九話 ベルの居場所
マバール城へ戻った俺は、ベルを連れてそのまま私室へ向かった。
オルフィアの屋敷では思いがけず長居をしてしまったし、その後は城下で買い物までした。ベルはずいぶん楽しそうだったから構わないのだが、俺としてはそろそろ着替えたい。
何しろ、服のボタンが一つなくなっている。
いや、なくしたわけじゃない。ちゃんと役に立ったのだから、むしろ有意義な使い方だったと言うべきだろう。もっとも、服としては少々格好が悪くなってしまったが。
まあ、城に戻れば何とでもしてもらえるだろう。
そんなことを考えながら私室へ入ると、いつもの使用人たちに混じって、見覚えのある女性が立っていた。
ん? ノエルじゃないか。
リエリエール付きの使用人である彼女が、どうして俺の部屋にいるんだろう。
俺が声をかけるより早く、隣を歩いていたベルが顔を上げた。
「ノエルさん!」
「あら、ベル。お帰りなさい」
ノエルが笑顔で応じると、ベルは両手に大事そうに持っていたカップを少し持ち上げた。
「えっと、これ、見てください! ギルバートさまに買ってもらいました!」
おお、さっそく見せるのか。
ベルは水色のカップと赤色のカップを並べ、ノエルによく見えるように差し出している。さっきからずっと大切に抱えていたものだから、落とさないか少し心配になるが、本人はそんなことよりも見てもらう方に夢中らしい。
ノエルも身をかがめ、二つのカップへ目を向けた。
「あら、良かったわね。ベルに似合ってるわよ」
「はい! ベルもすごく、すごく嬉しいです。ベルはずっと、ずっと大事にします!」
うむ。実にいい笑顔だ。
買った甲斐があったというものだな。
ノエルもそんなベルを微笑みながら見ている。普段、リエリエールのそばで控えているときとは少し違って、随分と柔らかい表情だ。
どうやら二人は仲良くやっているようだな。
ベルをリエリエールに預けてから、それなりに時間は経っている。とはいえ、俺が一日中そばにいるわけではないから、普段どんなふうに過ごしているのかまでは知らない。
こうして笑顔で話しているところを見ると、ひとまず安心だ。
しかし、何でノエルがここにいるんだろう。
ベルを迎えに来たのかな?
俺がそんなことを考えていると、ベルの相手を終えたノエルが、そっと俺の方へ近づいてきた。
そして、少し声を落とす。
「申し訳ありません。リエリエール様が女の日となり、お相手が難しくなりました」
……ああ、なるほど。
女の日。
つまり、生理になったということか。
そういえば、そういうこともあるよなぁ。
俺は少し残念に思いながらも頷いた。
「そうか、残念だが仕方ないな。リエリエールにはゆっくり休むように伝えてくれ」
そもそも、こういうものは本人の体調が一番だろう。
世の中には、そんなことは関係ないと言う男もいるのかもしれないが、俺は違う。
いや、別に抱けと言われれば抱けるとは思うぞ?
だが、相手が楽しめないのに抱くというのは、どうにも気が進まない。
俺ばかり楽しんでいても面白くないしなぁ。
やはり、ああいうことはお互いに楽しむべきだと思う。
何より、リエリエールに無理をさせてまで急ぐ必要もない。別に今日を逃したからといって、もう会えなくなるわけでもないのだから。
「ご厚情ありがとうございます」
ノエルが深く頭を下げた。
いやいや、別に礼を言われるようなことでもないんだが。
それでも、リエリエールのことを気遣っているのが伝わってくるのは悪くない。
俺は少し笑いながら、もう一言付け加えた。
「リエリエールには、治ったら覚悟しておくようにも伝えてくれ」
すると、ノエルは一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに口元を緩めた。
「はい、必ずお伝えします」
うむ。
そう答えてくれると、こちらも楽しみになるな。
リエリエールがどんな顔をするのか、少し見てみたい気もする。
もっとも、本人の体調が戻ってからの話だが。
そこで俺は、ふとベルのことを思い出した。
「ああ、それなら今夜もベルはこちらで休ませよう。その方がそちらも安心だろ」
「はい、ありがとうございます」
ノエルがもう一度頭を下げる。
うん、リエリエールにはゆっくり休んでもらいたいし、ノエルにも余計な手間をかけさせたくない。
それに、ベルが俺の部屋に泊まること自体は別に問題ないからな。
……そういえば。
ベルをリエリエールに預けてはいるものの、普段どこで眠っているのか、ちゃんと確認したことがなかったな。
リエリエールの部屋の使用人室だろうか。
それとも、ノエルと一緒なのかな?
ちょうど本人がいるんだ。聞いておくか。
「ベルはリエリエールの部屋の使用人室に眠らせているのか?」
「はい、普段はそうしていますが、ほとんどリエリエール様や私と眠ります。その……かわいいので」
最後の方は少し声が小さくなり、ノエルは照れたように微笑んだ。
……ほう。
そうなのか。
いや、まあ、気持ちは分かる。
こんなにかわいい子がそばにいたら、一緒に眠りたくなるのも無理はないだろう。
俺だってベルが来た日はついつい甘やかしてしまうしな。
それにしても、照れているノエルもなかなかかわいい。
普段はリエリエールの世話をしている姿ばかり見るから、こういう表情は少し新鮮だ。
うーむ。
かわいい子をかわいがっている女性もかわいいというのは、何だか得をした気分になるな。
もっとも、そんなことを口にしたら話が妙な方向へ行きそうだから、黙っておこう。
俺は少し離れたところでカップを眺めているベルへ目を向けた。
どうやらリエリエールにもノエルにも、ずいぶんかわいがられているようだ。
いいことだな。
だが、だからといって甘やかすばかりでもいけない。
「だが、悪いことをしたら遠慮なく叱ってくれ。それに関して俺は口出しせん」
俺がそう言うと、ノエルは真面目な顔で頷いた。
「はい。ですが、頭の良い子ですので叱ることはほとんどありません。行儀作法に関して少し注意するくらいです」
「そうか。それならそれで構わん。無理に叱る必要もないしな」
うむ。
どうやらベルは上手くやっているようだ。
俺としても、ベルにはのびのび育ってもらいたい。
とはいえ、何をしてもいいというわけではない。今はまだ子供なのだから、悪いことは悪いと教えてもらう必要があるだろう。
……まあ、俺にベルを叱れるかどうかは別問題だが。
あの顔でしょんぼりされたら、たぶん負ける。
いや、かなり高い確率で負ける自信がある。
だからこそノエルたちには、必要なときは遠慮せずに叱ってもらいたいんだよなぁ。
そんなことを考えていると、それまでカップを眺めていたベルが、こちらへ顔を向けた。
「あの……えっと、えっと……」
「ん? どうした、ベル」
ベルは少しだけ視線を落とし、両手に持ったカップを見つめてから、おずおずと口を開いた。
「あの、一度叱られました。あの、えっと……暗くなるまでお城の子たちと遊んでたので」
……ほう?
叱られたことを自分から申告するとは。
なかなか正直じゃないか。
俺が感心していると、ノエルも思い出したように頷いた。
「ああ、ありましたね。でも一度だけですので、ご安心ください」
なるほどなぁ。
暗くなるまで遊んでいたのか。
それは確かに心配させただろう。
マバール城には、実のところ子供もそれなりにいる。大抵は使用人などの見習いとして働いている子供たちだ。
ベルもそういう子たちと一緒に遊ぶようになったらしい。
うむ。
それは実にいいことじゃないか。
ベルは頭が良いし、大人の話にも興味を持つ子だ。今日だってオルフィアと農作物の話をしていたくらいだからな。
だが、子供同士で遊ぶ時間だって大事だろう。
せっかく城に来たのだから、友達もたくさんできるといい。
ただし、帰ってこないのは困るよなぁ。
リエリエールやノエルだって、暗くなってもベルが戻らなければ心配するだろう。
「リエリエールやノエルを心配させるのは良くないが、遊ぶのはいいことだ」
「は、はい!」
ベルが顔を上げる。
俺はその頭へ手を伸ばし、ぐりぐりと撫でてやった。
柔らかい髪が指の間でくしゃくしゃになる。
ベルは両手のカップを落とさないように気をつけながら、少し肩をすくめている。
ははは。
かわいいなぁ。
俺が満足するまで頭を撫でて手を離すと、ベルは少し乱れた髪のまま、嬉しそうに笑った。
その様子をノエルも微笑みながら眺めていたのだが、ふと視線が俺の胸元で止まった。
「あら? ギルバート様、服のボタンが?」
ん?
ああ、そうだった。
俺は自分の服を見下ろした。
銀のボタンが一つなくなっている。
「ああ、ベルのカップを買うのに交換した」
俺がそう答えると、ノエルは一瞬だけ黙った。
それから、ベルには聞こえないようにするためだろうか、少しだけ俺へ近づいて声を落とした。
「あの、おそらくですが、あのカップなら十個は買えると思いますよ」
……ん?
「そうなのか?」
「はい、おそらくですが」
ノエルは小さく頷いた。
ほう。
十個か。
それはなかなかの数だな。
まあ、銀のボタンだし、それなりの値打ちはあるとは思っていたが。
俺はもう一度ベルの方を見る。
ベルは水色と赤色のカップを見比べながら、どちらも大事そうに抱えている。
……ふむ。
俺はベルにカップを買ってやれて嬉しい。
ベルは俺にカップを買ってもらえて嬉しい。
店の者は俺にカップを売れて嬉しい。
うん。
何の問題もないな。
十個買えたところで、ベルが十個もカップを使うわけじゃないし。
いや、ベルなら十個並べて悩んだりするのだろうか。
……ありそうだなぁ。
そう考えると、二つでちょうど良かったのかもしれん。
俺が勝手に納得していると、ノエルは小さく微笑んでからベルの方へ向き直った。
「ベル、お行儀良くしないとギルバートさまに嫌われるわよ」
少し笑いながらの注意だったが、ベルはすぐに顔を上げた。
「お行儀良くします!」
おお、元気のいい返事だ。
ノエルも満足そうに頷き、俺へ丁寧に頭を下げると、リエリエールのもとへ戻っていった。
その姿を見送りながら、俺はベルへ視線を戻した。
本人はまだ二つのカップを大事そうに持っている。
ふむ。
リエリエールにもノエルにもかわいがられ、城の子供たちとも一緒に遊んでいる。
ベルにはベルの居場所が、ちゃんとできているようだな。
それにしても。
あんなに真剣な顔で「お行儀良くします!」と宣言されると、どうにも笑顔になってしまう。
うーん。
やっぱりかわいいな。
次の更新は、20時の予定です。




