第三百八十二話 三つの扉
第三百八十二話 三つの扉
夜のマバール城は、昼間とはずいぶん雰囲気が違う。
もちろん、夜になったからといって城の仕事がすべて終わるわけではない。見張りの騎士たちは相変わらず持ち場を守っているし、廊下を歩いていれば、まだ仕事をしている使用人たちとすれ違うこともある。
ただ、昼間のような賑やかさはもうなかった。
石壁に掛けられた灯火が廊下を照らし、俺とアル兄さんの足音が静かな城内に響いている。
アル兄さんは俺の少し前を歩き、時折こちらを振り返りながら奥へと進んでいた。
いや、奥というより下か。
これまで何度も歩いてきた城の廊下だが、今夜は普段と違う方向へ向かっている。俺の部屋とも、父上の執務室とも違う。そもそも、城のこの辺りまで来ること自体、ほとんどなかった。
生まれてからずっと暮らしてきた城なのに、知らない場所というのは案外あるものだなぁ。
そんなことを考えながら、前を歩くアル兄さんの背中を追いかける。
これから会うのは、明日には処刑されることになっている善良王ユーディリアだ。
俺から面会を希望したとはいえ、まさか今夜のうちに会えるとは思っていなかった。
アル兄さんが一緒に来てくれるのはありがたい。もっとも、単に弟の頼みを聞いてくれたというだけでもないんだろうな。
俺とあのおっさんが何を話すのか、アル兄さんも気になるんだろう。
まぁ、別に隠すような話をするつもりもないんだが。
そうしてしばらく進んでいると、廊下の先に二人の騎士が立っているのが見えた。
二人の間には重そうな扉がある。
見覚えのない扉だ。
俺は思わず歩く速度を緩めた。
こんなところに扉があったのか。いや、別に不思議でもないんだが、何度も城内を歩いているつもりだっただけに、少し妙な気分になる。
扉の左右に立っていた騎士たちは、近づいてきた俺たちに気づくと姿勢を正した。
「少し話をする。父上から許可もある。通してくれ」
アル兄さんがそう告げると、二人の騎士は頷き、それぞれ扉へ向き直った。
ガチャン。
続いて、もう一度。
ガチャン。
金属の重い音が廊下に響き、扉が開かれる。
ん?
俺は扉そのものよりも、今の騎士たちの動きに目を奪われていた。
二人がそれぞれ鍵を持っていたぞ?
一人が鍵を開け、それでもう一人が別の鍵を開ける。
つまり、どちらか一人だけでは、この扉を開けられないということか。
ほう。
なかなか厳重だなぁ。
もっとも、これから会う相手を考えれば、当たり前なのかもしれない。あのおっさんは今でこそ囚われの身だが、ついこの間まで王国の頂点に立っていた人物だ。
何かあってからでは遅い。
それにしても、鍵を二つ使うとは、なかなか面倒なことをしている。
俺が感心している間に、アル兄さんは開かれた扉の向こうへ進んでいた。
慌てて後を追う。
扉の先には、下へと続く階段があった。
踏み込んだ途端、空気が少し冷たく感じられる。
階段は石造りで、上から差し込む灯火の明かりが足元を照らしていた。アル兄さんが先に立ち、俺は少し後ろから続く。
背後で扉が閉まる音がした。
その音が思った以上に大きく響いたので、つい振り返ってしまう。
うーん、なんというか、城の中なのに、別の建物へ入ったような気分になるな。
「ギルは初めてだよね、地下牢を見るのは」
前を歩いていたアル兄さんが、こちらを振り返って話しかけてきた。
「はい。話だけで実際に来るのは初めてです」
やっぱり、ここが地下牢なのか。
噂には聞いていた。
マバール城にも地下牢があるという話だ。
まぁ、城なんだからあって当然なんだろうが、これまで実際に見る機会はなかった。
というか、普通に生活していて地下牢へ行く用事なんてないよな。
「まぁ、そんなに来るところじゃないからね」
アル兄さんが苦笑する。
そりゃそうだ。
地下牢なんて、好き好んで見物に来るような場所でもないだろう。
しかし、せっかくの機会だ。知らないことを聞いておくのも悪くない。
「ここにはどのような者たちが?」
俺が尋ねると、アル兄さんは少し考えるように歩く速度を落とした。
「うーん、そうだねぇ。マバール家に逆らった分家の貴族とか、捕らえた敵の貴族とかが多いね」
「父上に逆らうようなバカな分家の貴族がいるんですか?」
思わず聞き返してしまった。
あの父上に逆らう?
いや、そんなことを考える奴がいるのか。
もちろん、父上にだって気に入らないところくらいはあるだろう。俺だって、父上に叱られたことは何度もある。
だが、気に入らないことがあるのと、実際に逆らうのとでは話が違う。
ましてや分家の貴族だ。
マバール家の力を知らないはずがない。
あの父上に逆らうとは、よほど根性があるのか、それとも単に頭が悪いのか。
俺にはちょっと理解できんなぁ。
「うーん、逆らうっていうか、行状不行きだったり、家内で騒ぎを起こした者たちが多いね」
「なるほど」
なんだ。
そっちか。
つまり、バカの方か。
俺が勝手に納得していると、前を歩いていたアル兄さんが、ちらりとこちらを振り返った。
「ギルも気をつけるんだよ」
「アル兄さん! 俺はそんなにバカじゃありません!」
思わず声が大きくなってしまった。
なんでそこで俺の話になるんですか!
俺は父上に逆らうようなことはしませんよ!
「あはは、冗談だよ」
「悪い冗談です!」
「ごめん、ごめん」
アル兄さんは笑いながら謝っている。
まったく、もう。
俺だって、それなりに考えて行動しているつもりなんだがなぁ。
まぁ、たまに父上やアル兄さんを困らせている自覚はあるけど。
しかし、地下牢へ向かっているというのに、なんとも明るい会話だ。
もう少し重苦しい雰囲気になるのかと思っていたんだが、アル兄さんはいつもと変わらない。
俺もついつい普段どおりに話してしまう。
それが悪いことなのかは分からないが、少なくとも緊張して黙り込んでいるよりは気が楽だ。
しばらく階段を下りながら、ふと思いついたことを聞いてみた。
「全員が処刑されるんですか?」
そういえば、分家の貴族が処刑されたという話は聞いたことがない。
もちろん、俺が知らないだけかもしれない。
まだ若いから、そういう話をわざわざ聞かされていない可能性もある。
しかし、地下牢に閉じ込めるほどの問題を起こしたなら、どうなるんだろうな。
アル兄さんは足元を確かめながら答えた。
「いや、ほとんどは充分に反省したら解き放たれるよ。でも、反省したって認められるのに最低でも十年はかかるね」
「最低十年ですか」
思ったより長い。
いや、かなり長いぞ。
いくら貴族の寿命が長いとはいえ、十年も地下牢で暮らすというのは、なかなか厳しい。
しかも最低十年だ。
十年経ったら必ず出られるというわけでもないらしい。
うーん。
俺も気をつけよう。
もちろん、父上に逆らったりするつもりはない。
そんな恐ろしいことをする気は、これっぽっちもないぞ。
でも、家内で騒ぎを起こした者たちもいるのか。
それはちょっと気になるなぁ。
俺の場合、別に騒ぎを起こすつもりで何かをしているわけじゃないんだが、結果として周囲が騒がしくなることはある。
いや、だからといって地下牢に入れられるとは思わないけど。
でも、念のため気をつけておこう。
「長いと、それこそギルが生まれる前からずっと閉じ込められてる貴族もいるよ」
「そんなに」
思わずアル兄さんの顔を見た。
俺が生まれる前から?
それはもう、十年どころの話じゃないんじゃないか。
貴族は長生きだからなぁ。
その長い寿命を考えれば、何十年も生きていること自体は珍しくない。だが、その時間をずっと地下牢で過ごすとなれば話は別だ。
朝になっても地下牢。
夜になっても地下牢。
何年経っても、同じ場所から出られない。
しかも、地下牢に閉じ込められている以上、魔力封印もされているだろう。
それなら、退屈を紛らわせることさえ難しそうだ。
俺だったらどうだろう。
少なくとも、十年もこんなところに閉じ込められたら、相当参ってしまうと思う。
ましてや俺が生まれる前からだぞ?
退屈で精神を病んでしまいそうだなぁ。
いくら反省する時間が必要だといっても、そこまで長くなると、何を考えて毎日を過ごすんだろう。
そんなことを想像しているうちに、階段の先が見えてきた。
そこには、また扉があった。
しかも、先ほどと同じように二人の騎士が護っている。
まだ扉があるのか。
アル兄さんは慣れた様子で騎士たちに話しかけた。
二人はすぐに頷き、扉へ向き直る。
ガチャン、ガチャン。
再び二つの鍵が開けられ、扉が開いた。
その向こうを覗き込んで、俺は思わず眉を上げた。
また階段だ。
まだ下へ行くのかよ。
ずいぶん深いところまで続いているんだなぁ。
アル兄さんはそんな俺の様子に気づいたのか、少し笑いながら先へ進んだ。
「ここからは少し事情のある者たちが収監されてるんだ。暴れたり、反省が足りなかったり。それに敵方の貴族とかね」
ふむ。
敵方の貴族か。
捕らえた敵の貴族を生かしておくということは、まぁ、そういうことなんだろうな。
男なら生かしたりしないよなぁ。
貴族には子がいるからな。
当然、母胎も必要になる。
そう考えれば、生かしておく理由にも納得できる。
別に難しい話でもない。
戦で敵を捕らえたからといって、全員を同じように扱う必要はないんだろう。
もっとも、俺自身がここに収監されている者たちを見たわけではない。実際にどんな貴族がいるのかまでは分からないが。
俺はアル兄さんの後を追って、さらに階段を下りていった。
上の階段よりも、周囲が静かになった気がする。
俺たちの足音が石に当たって響き、しばらくして消える。
そしてまた、次の足音が響く。
それを繰り返しながら下へと進んでいると、ようやく階段が終わった。
今度は通路だ。
頑丈そうな石壁が両側に続いている。
足元も石で、上の階とは違い、飾り気らしいものはほとんど見当たらない。
なんというか、本当に頑丈そうだな。
これなら、普通の人間が壁を壊して逃げようとしても、なかなか難しいだろう。
いや、貴族なら魔法があるか。
もっとも、そんなことをさせるはずもない。
魔力封印されていたら、俺だって絶対に逃げられんなぁ。
そう考えると、少しだけ嫌な気分になった。
いや、別に俺が捕まったわけでもないんだが。
魔力を使えず、こんな場所に長い間閉じ込められるなんて、考えるだけでも御免だ。
アル兄さんは迷うことなく通路を進んでいる。
俺も周囲を眺めながら歩いていると、前方にまた人影が見えた。
二人の騎士だ。
おいおい。
まだいるのか。
いったい、どこまで厳重にしているんだ?
俺が内心で呆れている間に、二人の騎士はアル兄さんに気づいて会釈した。
「相変わらず大人しくしています」
一人の騎士が、落ち着いた声で報告する。
アル兄さんは足を止めた。
「食事は?」
「はい、そちらも普段通りに」
「ふむ」
アル兄さんは少し考えるように顎を引いた。
「度胸がいいのか、覚悟しているのか、微妙だね」
そう呟く声が、すぐ隣にいた俺にも聞こえた。
ふむ。
なるほど。
どうやら、あのおっさんはここでも普段どおりに過ごしているらしい。
食事も取っているということは、少なくとも食べられないほど落ち込んでいるわけではなさそうだ。
まぁ、あのおっさんだからなぁ。
捕まったからといって、急に泣きわめいたりする姿は、あまり想像できない。
それにしても、明日には処刑されるというのに、普段どおりに食事をしているのか。
アル兄さんの言うとおり、度胸があるのか、それとも覚悟しているのか。
あるいは、まったく別のことを考えているのか。
俺にもよく分からん。
「開けてくれるかい」
アル兄さんがそう言うと、二人の騎士は頷いた。
そして、それぞれ鍵を取り出す。
ガチャン。
ガチャン。
また二つの鍵だ。
重そうな扉がゆっくりと開かれる。
これで三つ目か。
最初の扉からここまで、ずいぶん歩いた気がする。
王を閉じ込めるためとはいえ、なかなか大変な場所だなぁ。
俺は開かれた扉の向こうへ目を向けた。
そして、少し意外に思った。
あれ?
案外普通だな。
地下牢と聞いていたので、もっとゴツゴツとした石に囲まれた、いかにも牢獄という空間を想像していた。
だが、目の前にあるのは狭いながらも普通の部屋だった。
もちろん、壁は石造りだ。
城の立派な客室とは比べものにならないし、飾り気もない。
だが、きちんと寝台が置かれている。
机もあるし、椅子もある。
思っていたより、ずっとまともな部屋じゃないか。
前世風にいえば、コンクリート打ちっ放しのワンルームといった感じだろうか。
いや、それにしても随分と質素だが。
俺がそんなことを考えるのも、普段暮らしている部屋との違いが大きいからだろう。
ここには余計なものがほとんどない。
寝る場所があって、座る場所があって、食事もできる。
それだけだ。
まぁ、貴族が暮らすには狭すぎるし、ましてや王にとっては質素すぎるだろうな。
それでも、身動きも取れないような牢を想像していただけに、少し拍子抜けしてしまった。
そして、その部屋の椅子に、一人の男が座っていた。
善良王ユーディリア。
あのおっさんだ。
俺は室内へ足を踏み入れながら、椅子に座った男を眺めた。
ふむ。
見た感じ、ほとんど変わっていないな。
以前に会ったときと比べても、特に痩せた様子はない。
頬がこけているわけでもなければ、ひどくやつれているようにも見えない。
背中を丸めてうなだれているわけでもなく、静かに椅子に座っている。
こんな場所に閉じ込められているというのに、妙に落ち着いているなぁ。
まぁ、元からあまり感情を表に出さないおっさんだったけど。
俺はその顔を見ながら、少し前までのことを思い返した。
最初に会ったときから、どうにも理解しがたい相手だった。
話し合いが大事だとか、命を失わせてはいけないとか、言っていることそのものは分からないでもない。
ただ、それを戦の最中に言われてもなぁ。
実際に敵と戦い、こちらにも死者が出ているんだ。
話し合いだけでどうにかなるなら、最初から苦労なんてしていない。
それでも、あのおっさんは王だった。
王国の頂点に立っていた人物だ。
そして今は、マバール城の地下牢にいる。
なんとも妙なものだな。
以前と変わらないように見える男が、明日には処刑される。
そのことを考えても、どうにも実感が湧かない。
いや、処刑されると決まっていることは分かっているんだが、本人があまりにも普段どおりに見えるからだろうか。
そう思っていると、隣に立っていたアル兄さんが一歩前へ進んだ。
「ユーディリア殿、お望み通りギルバートを連れて来たよ」
アル兄さんの穏やかな声が、静かな部屋に響いた。
椅子に座っていた男の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
その目を見て、俺は改めて思った。
やっぱり、変わっていないな。
そして、あのおっさんが口を開いた。
「久しいな」
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