第三百七十六話 小麦と雑草
「そういえば、以前言ってたあの作物への魔法はどうなってる?」
俺がそう尋ねると、オルフィアはカップへ伸ばしかけていた手を止めた。
「あの魔法?」
「ああ、肉体強化魔法と治癒魔法を作物に使うって話だ。前に言ってただろ?」
「ああ、あれね。うーん、効果はあるわよ。実験した限りでは」
「ほう!」
思わず身を乗り出しかけて、膝の上にベルがいることを思い出した。
危ない危ない。
ベルを抱え直してからオルフィアを見ると、さっきまで俺を睨んでいたのが嘘みたいに、少し楽しそうな顔になっている。
やっぱりこいつは魔法の話をしている方が機嫌がいいらしい。
しかし、効果があるのか。
これはなかなか面白いことになりそうだな。
以前、オルフィアからこの話を聞いた時にも興味を持ったが、本当に作物の成長を早められるなら、使い道はいくらでもあるだろう。
何しろ、今回の戦ではかなりの畑を焼いてしまったからなぁ。
思い出すのは、炎が走った後の黒い地面だ。家も畑も区別なく焼け、遠くまで続いていた緑が灰色に変わっていた。
もちろん、戦争だから仕方がない。
敵に食料を残してやる必要なんてないし、戦いの最中に畑だけ丁寧に避けていたら、何をやっているのか分からなくなる。
だが、戦争が終われば話は別だ。
今度はそこに人が住み、畑を耕し、食料を作らなければならない。
しかも、これからは新しく帝国貴族になった連中が、そうした土地を治めていくことになる。
となれば、作物の成長を早める魔法というのは、なかなかありがたいものじゃないだろうか。
ふむ。
これは教わっておいた方がいいな。
俺が覚えるのも悪くないが、マバール家の家臣から誰か適当な者を選んで、そいつに覚えさせるという手もある。
俺が毎日畑を回って魔法を使うわけにもいかんしなぁ。
いや、別に畑仕事が嫌いなわけじゃないぞ。
ただ、俺には俺の仕事がある。
……まぁ、なるべく仕事はしたくないんだけど。
それはともかく、こういう魔法をマバール家で使えるようになれば、かなり役立つだろう。
他の貴族たちにも教えてやれば、焼けた土地の復興にも使えるかもしれない。
もちろん、ただで教えるつもりはない。
何しろ、これはオルフィアが研究している魔法だ。
価値があるものなら、それなりの対価をもらうべきだろう。
それに、可能ならマバール家で独占しておいた方がいいんじゃないだろうか。
……いや、待てよ。
あまり独占しすぎても、いらぬ恨みや嫉みを買いそうだな。
だったら、協力的な貴族には使用方法を教えてやってもいいかもしれない。
むろん、父上と相談してからだが。
俺が勝手に決められるような話でもないし、そもそも魔法の使い方を教えるだけで誰にでも使えるようになるとは限らない。
その辺りも含めて、まずは詳しく聞いておこう。
……それにしても。
俺は向かいのオルフィアを眺めた。
さっき、こいつはマバール家に大恩があると言っていたな。
ふむ。
おそらくだが、父上か兄上たちが、ルディア家の亡命を正式に認めてもらうために何かしてくれたのだろう。
オルフィア一人ならともかく、ルディア家そのものを受け入れるとなれば、いろいろ面倒もあったはずだ。
あくまで俺の想像だけどな。
しかし、それほど恩を感じているなら、ここで少し返してもらってもいいんじゃないだろうか。
俺たちも助かるし、オルフィアも恩返しができる。
うん、実に素晴らしい。
友達同士なんだから、そういうことは遠慮しない方がいい。
むしろ、恩を返す機会を与えてやる俺は、かなりいい友達なのではなかろうか。
我ながら感心してしまう。
「でも、問題もあるわ」
そんなことを考えているところへ、オルフィアが嫌なことを言ってきた。
……ん?
問題?
せっかく俺が素晴らしい将来を考えていたのに。
「問題? どんな問題だ?」
「そうね。まずは、想定してたより効果が低いってことね」
「ふむ。どの程度の効果なんだ?」
「だいたい一割。せいぜい二割くらいかしら」
……ん?
一割?
二割?
俺は少し考えた。
それは何に対しての数字なんだろうか。
「それは成長速度に対してか? それとも収穫量に対してか?」
「えっ? それはどっちも効果あるわよ。作物自体が強化されて治癒されるんだから」
オルフィアは不思議そうに首を傾げた。
いや、そんな当然みたいに言われてもなぁ。
俺としては成長速度だけでも十分ありがたいと思っていたのだが、収穫量まで増えるのか。
……ちょっと待てよ。
例えば、これまで十ヶ月かけて十キロの収穫だったものが、九ヶ月くらいで十一キロになるってことか?
もちろん、ものすごく大雑把な計算だが。
それって、かなりすごいことじゃないだろうか。
収穫までの時間が短くなって、取れる量も増える。
農民からすれば、喜んで飛びつくような話に思える。
俺は向かいのオルフィアを見る。
だが、本人はどうにも納得していないらしい。
どうやら、もっと劇的な効果を期待していたようだ。
うーむ。
さすが魔法馬鹿。
一割や二割では満足できんのか。
「使えると思うんだが?」
「そう?」
オルフィアは少し首を傾げ、それから俺の顔をじっと見た。
「でも、問題はまだあるわよ」
「まだあるのか?」
「うん。作物一つ一つに魔法をかけてられないから、こう、ある程度の範囲にかけるでしょ?」
オルフィアは片手を持ち上げ、指先で大きな円を描いた。
ふむ。
そりゃそうだろうな。
畑にある作物を一つずつ相手にしていたら、いくら時間があっても足りんだろう。
だから、ある程度まとめて魔法をかける。
俺もそうすると思う。
それで何が問題なんだ?
「そうするとね、作物より、それ以外の雑草とかの方がずっと元気になるの」
……ん?
「雑草?」
「そう。もう、すごいのよ。作物も育つんだけど、その周りに生えてる草までどんどん伸びちゃって」
オルフィアは嫌そうに顔をしかめた。
「結局、雑草を取る手間が増えるのよね」
……なるほど。
そういうことか。
思わず天井を見上げそうになった。
確かに、肉体強化魔法も治癒魔法も、相手が小麦だから効果を発揮するというわけじゃない。
畑全体に使えば、そこに生えている雑草にも同じように作用するわけだ。
いや、オルフィアの話では、雑草の方がずっと元気になるらしい。
それは困るなぁ。
せっかく作物が育っても、周りが雑草だらけになってしまったら、農民はたまったもんじゃない。
収穫が増える代わりに草取りの仕事も増える。
しかも、普通の雑草より元気になっているときた。
うーん。
それは確かに問題だな。
「こう、例えばなんだが、タネだけに魔法をかけてから植えるとかはできないのか?」
俺は膝の上のベルがずり落ちないよう腕を添えながら尋ねた。
畑に植える前なら、周りに雑草なんてない。
作物のタネだけ集めて魔法をかけておけば、雑草への影響は防げるんじゃないだろうか。
我ながらなかなかいい考えだ。
ところが、オルフィアはすぐに首を横へ振った。
「無理」
「無理なのか?」
「タネだとほとんど効果がないの。こう、なんていうか、止まってるっていうか……育ってないと効果がないみたいなの」
「ふむ……」
俺は少し考える。
止まっている。
育っていない。
ということは、魔法をかけた瞬間から何でもかんでも成長するわけではないらしい。
「成長してるのを促すみたいな感じなのかな?」
「そうなのかも?」
オルフィアは頷きかけたものの、途中でまた首を傾げた。
「今、いろんな段階に魔法をかけて実験してるけど、結果が出るのにどうしても時間がかかるから」
「ああ、なるほどな」
そりゃそうか。
作物は魔法をかけたからといって、すぐに収穫できるようになるわけじゃない。
どれだけ早く育つか、どれだけ収穫できるかを確認しようと思えば、実際に育ててみる必要がある。
途中で背丈だけ伸びても、それでは駄目だ。
収穫してみたら実が少なかった、なんてことになれば意味がない。
いや、むしろ茎や葉ばかり元気に育って、そちらに栄養が取られてしまうことだって考えられるんじゃないだろうか。
そうなると、最悪の場合は収穫量が減るかもしれん。
そこまで考えて、俺は一つ気になった。
「前はどの段階で魔法を使ったんだ?」
「前?」
「ああ。さっき、収穫量も増えたと言っただろ? いつ魔法をかけたんだ?」
「ああ、それなら、だいたい成長の八割くらいの段階かな?」
「八割か」
ふむ。
それなら、ある程度育った作物に魔法をかけて、その後の収穫まで確認できたということだな。
なるほど。
そうなると、もっと早い段階で使えばどうなるんだろうか。
成長の半分くらいの時期なら?
それとも、もっと早く芽が出たばかりの頃なら?
……いや、そう簡単にはいかんか。
早くから使えば使うほど、雑草も元気になるかもしれない。
しかも、どの段階が一番いいのか調べるには、それぞれ別に育てる必要がある。
オルフィアが時間がかかると言っているのも分かるなぁ。
「でも、雑草とかがすごくって、手間は普段より余計にかかっちゃった」
オルフィアは残念そうに続けた。
うーん。
そうだよなぁ。
収穫量が一割増えたとして、そのために草取りの仕事が倍になったらどうなんだろうか。
農民を増やせばいいのか?
いや、それでは増えた収穫を余計な人手に使うことになる。
草取りの仕事が増えるということは、その間に別の仕事ができなくなるということでもある。
畑を広げた方が早い場合もありそうだな。
……いや、待て待て。
そう簡単に畑を増やせるわけでもないだろう。
耕す土地がなければどうにもならんし、今回の戦で焼けた土地だって、すぐに元通りになるわけじゃない。
それに、収穫が一割増えるというのは、やっぱり大きいように思える。
十キロしか取れなかったものが十一キロになる。
百キロなら百十キロだ。
いや、実際にそれだけ増えるかどうかはともかく、収穫するたびに少しずつ増えるなら、積み重なれば相当な量になるはずだ。
うーむ。
これは俺には判断できんな。
少なくとも、農業に詳しい連中にも話を聞いてみないと、どちらが得なのか分からん。
しかし、まだ研究の途中なのだから、今すぐ答えを出す必要もないか。
オルフィアにいろいろ試してもらって、その結果を見てから考えればいい。
そうだな。
せっかく本人がやる気になっているんだし、しっかり頑張ってもらおう。
俺はベルの身体を抱え直した。
長い間、膝の上でおとなしくしているなぁ。
さっきまではあれだけ元気に騒いでいたのに、今はほとんど動かない。
……ん?
ふと視線を落とすと、ベルが俺の顔をじっと見ていた。
大きな目をこちらに向け、何か言いたそうにしている。
「ん? どうした? つまらなかったか?」
俺が尋ねると、ベルは慌てたように首を振った。
それも一度ではなく、ぶんぶんと何度も振っている。
おいおい。
そんなに強く否定しなくてもいいぞ。
「そうか。ならいいんだが」
俺がそう言うと、ベルは少しだけ口を開いた。
だが、すぐには言葉が出てこないらしい。
俺の服を指先でつまみ、向かいのオルフィアをちらっと見てから、またこちらを向く。
何だろうな。
何か聞きたいことでもあるんだろうか。
「どうした、ベル。何か聞きたいのか?」
「えっと……あの……」
「ああ、何でも聞いていいぞ」
俺はなるべく優しく声をかけた。
するとベルは、小さく息を吸ってから尋ねた。
「あの、このお話の作物って、小麦ですか?」
……ん?
小麦?
俺は思わずオルフィアを見た。
そういえば、何の作物で実験しているのか、まだ確認していなかったな。
成長速度だの収穫量だのと、そんな話ばかりしていたから、てっきり何でも同じように考えていた。
「オルフィア、実験は小麦でやったのか?」
「うん。小麦が増えたら一番嬉しいだろうから、小麦でやってる」
「なるほどな」
まぁ、分からんでもない。
小麦はパンの材料にもなるし、保存も利く。
売ることだってできる。
貴族が領地の収穫を考えるなら、まず小麦に目を向けるのは当然かもしれない。
俺だって、畑の作物を増やせると言われたら、真っ先に小麦を思い浮かべそうだ。
オルフィアが研究対象に選んだ理由も、それほど不思議ではない。
だが、ベルはどうしてわざわざ小麦かどうかを聞いたんだろう?
俺は膝の上の小さな顔を覗き込んだ。
ベルはオルフィアの答えを聞いて、何か考えているようだった。
少し俯き、指先をもじもじと動かしている。
それから、意を決したように顔を上げた。
「あの、えっと、えっと、あの……」
「うん?」
「お芋でもやって欲しいです」
ベルは少し恥ずかしそうにしながら、そう言った。
次は、20時となります。




