第三百七十四話 城下へ行く前のお約束
セバスチャンと別れた俺は、城内へ戻り、そのまま私室へ向かった。
さて、ベルはどうしているかな。
騎士団の連中には休暇を命じたし、セバスチャンとの話も済んだ。アル兄さんに会うのは遅い時間になるだろうから、それまでは特に急いでやらなければならない仕事もない。
せっかくだから、今日はベルと遊んでやろう。
もっとも、何をして遊ぶかまでは考えていないんだが。
そんなことを思いながら私室へ戻り、居間へ入ると、ベルはまだ食卓についていた。
ただし、もう食事は終わっているようだ。
小さな両手でカップを持ち上げ、一生懸命にお茶を飲んでいる。
……おお。
何とも可愛らしい。
あのカップ、ベルには少し大きすぎるんじゃないか?
俺が使う分には何とも思わない大きさなのだが、ベルが持つと随分と立派に見える。片手では持ちにくいらしく、両手で包み込むようにして支えているのだ。
カップの縁に口をつけ、少し傾けては元に戻す。
その仕草が妙に慎重で、見ているだけで頬が緩んでしまう。
「たくさん食べたか?」
声をかけると、ベルはカップを下ろしてこちらを振り向いた。
「あっ、おかえりなさい! たくさん、たくさん食べました!」
おお、元気だなぁ。
しかも、実に満足そうな顔をしている。
どうやら俺がいない間も、しっかり食べてくれたらしい。
「そうか、偉いぞ」
「はい!」
褒められたのが嬉しいのか、ベルは背筋を伸ばして返事をした。
その様子があまりにも可愛らしかったからだろうか。近くに控えていた使用人まで、柔らかな笑顔になっている。
うむ。
気持ちは分かるぞ。
こんな小さな子が一生懸命に食事をして、たくさん食べました、と胸を張って報告してくれるんだからな。
そりゃあ、笑顔にもなるだろう。
俺はベルの向かいに腰を下ろした。
ベルは再びカップを両手で持ち上げると、少しずつお茶を飲み始めた。
……本当に可愛いなぁ。
こういう子供を見ていると、何となく世話を焼きたくなるのも分かる気がする。
もっと食べろ、ゆっくり寝ろ、困ったことがあれば言え。
そんなことばかり考えてしまう。
まぁ、ベルについては実際にたくさん食べてもらわないと困るんだが。
これからどんどん大きくなるんだからな。
さて、それはともかく。
これから何をするかな。
俺はお茶を飲むベルを眺めながら、今日の予定を考えた。
騎士団の仕事は片づいた。
アル兄さんとの面会までは時間がある。
つまり、ベルと遊ぶにはちょうどいいわけだ。
しかし、何をして遊べば喜んでくれるんだろう。
うーん。
ベルは数字が好きだからなぁ。
計算問題でも出してやれば、それだけで喜んでくれそうだ。
ベルは、数字の話になると随分と楽しそうにするからな。
ただ、あれは俺が疲れる。
いや、計算自体が嫌いなわけではないんだ。
問題は、計算問題を作るところから始めなければならないことだ。
問題集があるわけじゃないからなぁ。
ベルに出す問題は俺が考えないといけないし、当然、答え合わせも俺がしなければならない。
簡単すぎるとすぐに終わってしまうし、難しすぎる問題を出しても仕方ない。
ベルの様子を見ながら、ちょうどいい問題を考えてやる必要があるわけだ。
それを何度も繰り返すとなると、結構な手間なんだよなぁ。
ベルは喜んでくれるだろうが、俺がちっとも休めない。
せっかくの休みなのに、わざわざ頭を使う仕事を増やすのもどうなんだろう。
いや、子供の相手をするのも大事だとは思うんだけどな。
だったら文字の練習でもするか?
ベルは数字が好きなわりに、文字についてはまだ少しあやふやなところがあるようだ。
今のうちにしっかり覚えておけば、あとで困ることも減るだろう。
それに、文字が読めるようになれば、ベル自身ができることも増える。
うん。
悪くない。
悪くないんだが……。
それだと俺が面白くなさそうだよなぁ。
ベルが文字を書くところを横から眺め、間違えたら教えてやる。
それを延々と繰り返すのか。
うーん。
なんだか、仕事をしているような気分になりそうだ。
せっかく時間があるんだから、ベルだけじゃなくて俺も楽しめることがしたい。
別に、立派な教育係になりたいわけじゃないんだ。
ベルが喜んでくれて、俺ものんびり楽しめる。
そんな都合のいい遊びはないものか。
俺はカップを傾けながら、しばらく考え込んだ。
……ふむ。
城下にでも行ってみるか。
そういえば、随分と久しぶりな気がする。
マバール城へ帰ってきてからも、城内での用事ばかりだったしな。
別に何か買いたいものがあるわけではないが、城下をぶらぶら歩くだけでも気分転換になるだろう。
それに、ベルも喜んでくれそうだ。
あの子は小さな村の出身だからなぁ。
マバール城下のような賑やかな場所なら、店を眺めたり、人の行き来を見たりするだけでも楽しいんじゃないだろうか。
何か美味そうなものがあれば買ってやってもいいし。
いや、さっき腹いっぱい食べたところだから、すぐに食べ物というのもどうかと思うが。
まぁ、それは後で考えればいい。
それに……。
そういえば、ちょうど会いたい奴がいるんだった。
あいつ、今頃どうしているんだろうなぁ。
少し気になる。
顔を見に行くにはいい機会かもしれない。
ただ、ベルを会わせるとなると、ちょっと不安なんだよな。
ベルは素直で可愛いし、頭もいい。
そこが実に素晴らしい。
だからこそ、あまり妙な影響を受けてほしくないんだが……。
うーん。
まぁ、いいか。
せっかくの機会だし、会わせてしまおう。
俺もあいつがどうしているのか気になるしな。
そう決めると、俺はベルへ顔を向けた。
「ベル、俺と城下に行ってみるか?」
ベルはカップを置き、ぱっと顔を上げた。
「はい! 行きたいです!」
おお。
何ともいい返事だ。
まだ何をしに行くのかも話していないのに、実に嬉しそうだな。
やっぱり子供は外へ出かけるのが好きなんだろうか。
もっとも、ベルが城下へ行ったことがあるのかどうか、俺は知らないんだよな。
小さな村の出身だから、あまり経験はないだろうと思っていたんだが。
「ベルは城下に行ったことはあるのか?」
「えっと、えっと、ノエルさんと何回か行きました。お洋服も買ってもらいました」
「ほう、そうなのか」
おお。
もう何回か行っていたのか。
それは知らなかったな。
まぁ、俺がいない間もベルは城で暮らしていたわけだし、ノエルが面倒を見てくれていたんだから、おかしな話ではない。
むしろ、城下へ連れていってくれていたのはありがたいことだ。
それに、服まで買ってもらっていたのか。
俺は改めてベルの姿を眺めた。
そういえば、今着ている服も随分と綺麗だな。
派手な飾りがついているわけでもないし、貴族の子供が着るような華美な服でもない。
だが、きちんと清潔にしてあるし、ベルによく似合っている。
うむ。
可愛らしい。
以前着ていた服は、結構ぼろぼろだったからなぁ。
そのまま城内で生活させるには、少々相応しくないとは思っていたんだ。
俺がいちいち口を出さなくても、ノエルがちゃんと面倒を見てくれていたわけか。
ありがたいことだ。
今着ているのも、ノエルに買ってもらった服なのだろうか。
たぶん、そうなんだろうな。
あとでノエルに会ったら、きちんと礼を言っておこう。
それにしても、ベルはもう何度か城下へ行っているのか。
俺が考えていたほど珍しい場所ではないかもしれないが、それでも喜んでくれているんだから問題はない。
何より、今日は俺と一緒に行くんだからな。
別に、以前と同じことをする必要もない。
俺自身も久しぶりの城下を楽しめばいいんだ。
よし。
それじゃ、そろそろ行くか。
そう思って腰を上げかけたところで、ふと気になった。
……いや、その前に一つだけ言っておかなければならないことがあるな。
ベルは素直な子だ。
今だって、城下へ行くと聞いただけであんなに嬉しそうにしている。
だからこそ、きちんと約束させておいた方がいいだろう。
俺はベルへ向き直った。
「ベル、一つ俺と約束だ」
そう告げた途端、ベルの表情が変わった。
さっきまで嬉しそうにしていたのに、急に背筋を伸ばし、真剣な顔で俺を見つめてくる。
「はい! 絶対、絶対守ります!」
……おお。
まだ何も言ってないぞ?
何を約束するのかも聞かずに、絶対守ると言い切ってしまった。
まったく、素直な子だなぁ。
まぁ、俺としてはありがたいんだが。
俺は少しだけ笑いそうになるのをこらえ、改めてベルに言い聞かせた。
「よし、いいか。絶対に一人では城を出るな。これが約束だ」
ベルは俺の顔をじっと見つめたまま、真剣に聞いている。
うむ。
ちゃんと聞いてくれているようだな。
マバール城下は、決して治安が悪い場所ではない。
俺だって何度も行ったことがあるし、城下の賑わいを楽しむのは嫌いじゃない。
だが、絶対に安全かと聞かれれば、そんなことはない。
スリや引ったくりなんかはあるし、喧嘩だって起こる。
時には殺人まであるのだから、平和そうに見えるからといって油断はできない。
それに、人攫いがいるという噂まで聞いたことがある。
もっとも、俺自身が確かめた話ではないから、本当にいるのかどうかまでは知らない。
だが、噂だけだからと無視する気にもなれないんだよなぁ。
ベルみたいに小さくて可愛らしい子供なら、悪い奴に目をつけられるかもしれない。
もし一人で城下へ出かけて、何かあったら大変だ。
俺が一緒ならともかく、ベルだけではどうしようもないことだってあるだろうしな。
だからこそ、これだけはしっかり約束してもらわないと困る。
ベルは少しもふざけた様子を見せず、大きく頷いた。
「はい! 分かりました! ベルは絶対に、絶対に一人でお城から出ません! お約束します!」
おお。
実に立派な返事だ。
しかも、両手をぎゅっと握っている。
そんなに真剣な顔で約束してくれるとは思わなかったなぁ。
何というか、見ているこちらが少し可笑しくなってしまう。
いや、笑ってはいけないんだろうが。
何しろ、俺は結構大事なことを言っているわけだしな。
ただ、ベルがあまりにも真剣なので、どうしても頬が緩んでしまう。
うむ。
可愛い。
だが、一つ勘違いされても困る。
俺は別に、ベルが城下へ遊びに行くことまで禁止したいわけじゃないんだからな。
「ノエルや大人と一緒なら、城下に行ってもいいからな」
「はい! 分かりました!」
ベルは再び元気よく頷いた。
よしよし。
これなら大丈夫だろう。
ちゃんと約束の内容を聞いて、守ると言ってくれたんだからな。
それに、ベルは素直な子だ。
俺が絶対に駄目だと言ったことを、わざわざ破ろうとするようには思えない。
もちろん、子供なんだから何かを勘違いしたり、うっかり忘れたりすることはあるかもしれない。
それでも、こうして一度きちんと約束しておけば、何も言わずにいるよりはずっといいだろう。
俺としても、ベルが安心して城下へ遊びに行けるようにしてやりたいしな。
さて。
これで気になっていたことは片づいた。
ベルはすでに朝食をたっぷり食べているし、俺も騎士団の仕事を済ませた。
アル兄さんと会うまでには、まだ時間がある。
だったら、久しぶりに城下へ出かけるとしよう。
ベルも楽しみにしているようだし、俺も会いたい奴がいる。
……オルフィア。
あいつ、どうしているんだろうなぁ。
頭はいいし、魔法に関しては随分と面白い奴なんだが、何しろ相当な変人だからな。
魔法のことになると、普通の奴とは考え方が随分違う。
まぁ、そこが面白いところでもあるんだが。
それにしても、ベルと会わせて大丈夫だろうか。
ベルも頭がいいからなぁ。
数字が好きで、教えたことも一生懸命に覚えようとする。
そんな素直な子が、あの魔法オタクに妙な影響を受けたりしないだろうな。
……うーん。
少し不安だ。
だが、別にオルフィアが悪い奴というわけではない。
変人なのは間違いないが、俺にとっては親しい友人でもあるし、魔法の話をするのも楽しい。
それに、せっかく久しぶりにマバール城へ戻ってきたんだから、顔くらい見ておきたい。
ベルと会わせるにも、いい機会ではあるだろう。
まぁ、何か妙なことを教え始めたら、俺が止めればいいだけだしな。
……大丈夫だよなぁ。
俺は目の前で嬉しそうにしているベルを見てから、改めて考えた。
うむ。
よし。
では、会いに行くか。
オルフィアに。
本日はここまでとなります。
次の更新は、明日5時の予定です。




