第三百六十九話 後継者は離して鍛える
静かな廊下を、文官に案内されながら歩いていた。
さすがにこれほど夜が更けると、城内を行き交う者もほとんどいない。昼間なら使用人や文官が忙しそうに歩いている廊下も、今は俺たちの足音がやけに大きく聞こえる。
窓の外は真っ暗だ。石壁に取り付けられた灯火が、廊下の床をぼんやりと照らしている。
父上へ面会を申し込んだのは俺だが、こんな時間にいざ呼び出されると、少々申し訳ない気持ちにもなる。
俺なんか、今日は帰ってきてからベルと遊んだくらいで、たいした仕事はしていない。それでも、夜も遅くなれば眠くなるし、さっさと寝たいと思う。
ところが、父上はこの時間まで働いていたらしい。
それだけでも大変なのに、俺のために時間まで取ってくれたわけだ。
ありがたいことだなぁ。
前を歩く文官の背中を眺めながら、そんなことを考える。
そもそも、この文官だって大変だろう。俺を案内するためだけに起きているのか、それとも、まだ仕事の途中なのかは知らない。どちらにしても、こんな時間にきちんと身なりを整えて歩いているのだから感心する。
マバール城って、俺が思っている以上に働き者が多いんだな。
いや、俺も働いていないわけじゃないぞ。
今回だって、シルディア城から大急ぎで戻ってきたんだからな。
もっとも、帰ってきた理由が父上への質問というのは、少々情けない気もするが。
俺は小さく息を吐き、前方へ視線を戻した。
廊下をいくつか曲がったところで、案内していた文官の歩みが遅くなる。
ん?
ここは、城の奥じゃないか。
父上の執務室へ向かうものとばかり思っていたのだが、どうやら違うらしい。
やがて文官が立ち止まったのは、父上の私室の前だった。
なるほど。
考えてみれば当然か。これほど遅い時間なのだから、父上だってそろそろ休むのだろう。
その前に、わざわざ俺と話す時間を取ってくれたわけだ。
なんともありがたいことだ。
文官がこちらへ向き直り、扉へ視線を向けて一歩下がった。
ああ、俺が叩くのか。
父上の私室の扉だからな。文官としても、勝手に叩くのは気が引けるのかもしれない。
俺は軽く頷き、扉の前へ進んだ。
手を上げ、控えめに扉を叩く。
しばらくすると、中から聞き慣れた声が返ってきた。
「入れ」
低いが、はっきりとした声だった。
「失礼します」
俺は扉を開け、父上の私室へ足を踏み入れた。
室内には灯りが残されていたが、昼間の執務室とはまるで雰囲気が違う。
何より、父上の格好が違った。
いつもの服ではなく、すでに楽な夜着へ着替えている。
おお、本当に寝る寸前だったのか。
父上が夜着姿なのは別におかしなことではないのだが、こうして向かい合うと、普段とは少し違って見える。
いつもなら、城の当主として家臣たちに指示を出している姿を見ることが多い。もちろん親子なのだから、私的な姿を知らないわけではないが、こんな深夜に二人きりで話をする機会はそう多くない。
父上は俺の顔を見ると、挨拶もそこそこに口を開いた。
「善良王処刑の事か?」
おお。
いきなり本題ですか。
どうやら、すっかりお見通しらしい。
まあ、考えてみれば当然か。俺がシルディア城から急いで帰還して、その日のうちに面会を申し込んだのだから、何か理由があることくらいは分かるだろう。
それに、今の俺が父上に尋ねたがることなんて、そう多くはない。
「はい。むろん、処刑に反対する訳ではありません。ただ、なぜ今なのか、と思いました」
まずは、そこをはっきりさせておく。
俺が善良王の助命嘆願にでも来たと思われたら面倒だからな。
あのおっさんには、確かに思うところがある。もう少し話をしてみたいとも思っているし、どうしてあんな考え方をするのか、理解できない部分も残っている。
だが、それと処刑に反対することは別だ。
王国の王として、あのおっさんが何をしてきたのかは知っている。
それに、今は戦争に敗れて捕らえられた身だ。
敵国の王をどう扱うかは、俺が個人的な感情で口を挟んでよい問題ではない。
まして、父上が下した決定となればなおさらだ。
俺が聞きたいのは、あくまで処刑する時期についてである。
父上はすぐには答えなかった。
しばらく俺の顔をじっと見つめている。
うん。
なんだろうな。
別に怒っているようには見えないし、不機嫌というわけでもなさそうだ。
ただ、何かを確かめるような目をしている。
俺も黙って返事を待った。
やがて父上が口を開く。
「王太子の名を知っているか?」
……はい?
王太子?
善良王の処刑について尋ねたはずなのに、どうして王太子の名前が出てくるんだ?
「王太子ですか?」
思わず聞き返してしまった。
父上はそれ以上何も言わず、俺を見ている。
どうやら本当に名前を尋ねているらしい。
えーっと。
王太子の存在は知っているぞ。
もちろん、王国に王太子がいることくらいは知っている。俺だって、一応は王国貴族として生まれ育ったんだからな。
今は帝国貴族だけど。
いや、そんなことはどうでもいい。
問題は名前だ。
なんだったっけ?
王族の名前なんて、必要になれば覚えるが、普段から親しく付き合っているわけでもないし、そもそも俺が直接会ったこともない相手だ。
善良王なら、あれだけ印象的な男だから名前も覚えている。
ユーディリア。
うん、これは大丈夫。
ところが、その息子となると途端に怪しくなる。
確か、ジ……なんとかだったような。
ジル……いや、違う。
ジリ……。
ああ、そうだ。
たぶん、あれだ。
「ジリオスだったかと」
そう答えてから、少し不安になった。
合っているよな?
たぶんそんな感じの名前だったはずだ。
父上は俺の答えを聞くと、口元を緩めた。
「だったかと、か」
苦笑している。
あれ?
違ったかな?
ちょっと待ってくれ。
王太子の名前を間違えていたら、さすがにまずい気がする。
いや、今さら王国の王太子に会う予定なんてないんだが、それでも父上に呆れられるのは少々困る。
俺が記憶をもう一度探ろうとすると、父上がゆっくりと口を開いた。
「ギルバート、何かと聡いお前ですら名前をほとんど覚えておらん王太子だ。貴族たちの中には名前すら覚えておらぬ者も多いだろうな」
「はぁ」
そう言われましても。
名前を覚えていなかったことを責められているわけではなさそうだ。
というより、俺が名前をうろ覚えだったこと自体を、父上は何かの判断材料にしているらしい。
うーん。
何を言いたいんだろう?
王太子が有名ではないということか?
確かに、王太子本人が戦場に出て華々しい戦果を挙げたとか、国内の難しい問題を見事に解決したとか、そういう話を聞いた記憶はない。
もっとも、俺が知らないだけかもしれないが。
王国の貴族社会について、三男である俺が隅々まで詳しいわけでもない。
それでも、少なくとも俺の記憶に残るほどの人物ではなかったということだ。
「だが、それでも王太子は王太子だ。立太子されておるからな」
父上が続けた。
なるほど。
名前を知られているかどうかとは関係なく、正式に立太子されている以上、政治的には王太子であるわけだ。
それは分かる。
有名だろうと無名だろうと、立場そのものが変わるわけではない。
だが、だからどうしたというのだろう。
俺は父上の顔を眺めた。
すると、父上がふと視線を外し、小さな声で呟いた。
「だから後継者は離して鍛えねばならんのだ」
……ん?
今、なんと?
後継者は離して鍛える?
父上の口から、そんな言葉がこぼれるとは思わなかった。
というか、今のは俺に説明したというより、思わず口にしたように聞こえたぞ。
珍しいな。
父上は普段から、自分の発言には相当に気を使っている。
いや、気を使うなんて生易しいものじゃないか。何を話すにしても、相手がどう受け取り、その言葉がどんな結果につながるかまで考えているような人だ。
少なくとも、俺にはそう見える。
そんな父上が、ぽつりと呟いた。
やっぱり疲れているのかな。
それとも、相手が俺だからだろうか。
まあ、親子だからな。
家臣たちの前では見せない姿を見せることがあっても、おかしくはない。
しかし、後継者を離して鍛える、か。
俺はその言葉を頭の中でもう一度繰り返した。
ふむ。
考えてみると、父上はダル兄さんとほとんど一緒に行動していないんだよな。
もちろん親子なのだから、顔を合わせることはある。だが、普段の仕事となると話は別だ。
父上がマバール城を差配していた頃、ダル兄さんはヴォス要塞を差配していた。
そして今も、ダル兄さんは帝都で活動している。
つまり、当主である父上と、後継者であるダル兄さんは、かなりの時間を別々の場所で過ごしているわけだ。
これまでは、特に不思議とも思わなかった。
マバール家の領地は広いし、やるべき仕事も多い。
父上が全部を直接取り仕切るなんて無理なのだから、息子たちに仕事を任せるのは当然だ。
俺だって、あちこちへ行かされているしな。
もっとも、俺の場合は自分から面倒事に首を突っ込んでいることも多いんだが。
……いや、それは考えないでおこう。
今はダル兄さんの話だ。
父上が言った、離して鍛えるという言葉。
それには、単に仕事を分担する以上の意味があるのかもしれない。
例えば、例えばだが。
父上とダル兄さんが、いつも一緒に行動していたと仮定してみよう。
二人とも優秀な貴族だし、軍を率いることもできる。
だが、いくら親子でも考え方が完全に同じとは限らない。
むしろ、意見が異なることくらい普通にあるだろう。
そこで、何かの問題が起きたとする。
父上が右へ進めと命じた。
ところが、ダル兄さんは左へ進めと命じた。
……さて。
部下たちはどうする?
ちょっと想像してみる。
父上はマバール家の当主だ。
その命令は絶対と言っていい。
一方、ダル兄さんはマバール家の後継者であり、いずれ当主となる人物だ。
当然、その命令も軽々しく扱えるものではない。
そこで、二人から正反対の命令が出されたらどうなる?
右へ進めば、ダル兄さんの指示を無視したことになる。
左へ進めば、今度は父上の指示を無視することになる。
うわぁ。
どっちに転んでも面倒だな。
俺が部下だったら、絶対にそんな場面には居合わせたくない。
そもそも、どちらに従えばいいんだ?
……いや、考えるまでもないか。
おそらく、多くの者は父上に従うだろう。
現当主だからな。
将来の当主も大切だが、今、家を動かしているのは父上だ。
命令が衝突した場合、父上を優先するのは当然の判断だと思う。
だが、それを何度も繰り返したらどうなる?
ダル兄さんが何を命じても、父上の指示と違っていれば無視される。
そういうことが続けば、部下たちはダル兄さんの言葉を軽く感じるようになるんじゃないか?
どうせ最後は父上が決める。
そんなふうに思われてしまえば、後継者としては困るだろう。
しかも、厄介なのはそれだけじゃない。
仮に、ダル兄さんの判断の方が正しかったらどうだ?
父上が右へ進めと命じた。
ダル兄さんは左へ進めと命じた。
部下たちは父上に従って右へ進んだ。
ところが、結果として左へ進んだ方がよかったと分かった。
うーん。
これはこれで困るな。
何せ、当主の判断よりも後継者の判断の方が正しかったことになる。
一度や二度ならともかく、そういうことが繰り返されれば、父上の権威だって傷つきかねない。
もちろん、父上が自分の間違いを認めないような人だとは思わない。
だが、本人がどう考えるかと、周囲の人間がどう受け取るかは別だ。
当主と後継者のどちらが正しいか。
そんなことを家臣たちが気にするようになったら、面倒なことになるんじゃないか?
……いや、待てよ。
ならば、二人の命令が同じだったらどうだろう。
父上が右へ進めと命じる。
ダル兄さんも右へ進めと命じる。
これなら部下たちは迷わない。
全員が右へ進めばいいだけだ。
うん、何の問題もなさそうだな。
……本当にそうか?
俺は少し考え直した。
確かに、命令そのものが衝突することはない。
だが、父上とダル兄さんがいつも同じことを命じていたら、部下たちはどう思う?
父上が右と言ったから、ダル兄さんも右と言った。
父上が左と言ったから、ダル兄さんも左と言った。
そう見えてしまうんじゃないか?
たとえダル兄さんが自分で考えて、父上と同じ結論に達していたとしてもだ。
周囲からすれば、どちらが先に考えたのかなんて分からない。
まして当主と後継者なら、父上の考えに合わせていると思われてもおかしくない。
つまり、命令が違えば後継者の権威が傷つく。
同じでも、父親に追従しているだけだと思われるかもしれない。
……なんだそれ。
一緒にいるだけで面倒じゃないか。
俺は思わず眉を寄せた。
では、二人が離れていたらどうだろう。
父上はマバール城。
ダル兄さんはヴォス要塞。
実際に、以前はそうだった。
ヴォス要塞で何か問題が起きたとしても、その場に父上はいない。
もちろん、重要なことなら報告するだろうし、相談する場合だってあるはずだ。
だが、いつでも父上の判断を仰げるわけじゃない。
急いで決断しなければならないことだってあるだろう。
そうなれば、ダル兄さんは自分で考えるしかない。
どうすればいいか。
何を優先するか。
どこまで危険を冒すか。
そして、最後には自分で決めて、自分の言葉で命じることになる。
部下たちが従うのも、父上の命令ではない。
ダル兄さんの命令だ。
もちろん、ダル兄さんがマバール家の後継者であることに変わりはないし、その背後に父上の権威があることも事実だ。
だが、目の前の問題を解決し、部下を率いているのがダル兄さん自身であることは、誰の目にも分かる。
上手くいけば、ダル兄さんの手柄だ。
逆に失敗すれば、その責任もダル兄さんが負う。
父上の影を感じる者は、ずっと少なくなるだろう。
なるほどなぁ。
後継者を離して鍛えるというのは、そういうことか。
ただ仕事を任せて経験を積ませるだけじゃない。
部下たちにも、この人は自分の判断で命令する人間なのだと認めさせる必要があるわけだ。
しかも、遠く離れていれば、いつでも父上に助けてもらえるとは限らない。
判断を誤れば、部下を失うかもしれない。
領地や城を失うことだってあるだろう。
大失敗すれば廃嫡されるかもしれないし、そもそも戦場なら死ぬ可能性だってある。
……うわぁ。
なかなか厳しいな。
実の息子をそんな場所へ送り出すのか。
いや、もちろん、父上が何の考えもなく危険な仕事を任せているとは思わない。
それでも、危険が完全になくなるわけじゃない。
ダル兄さんがヴォス要塞を差配していた頃だって、いつ何が起こるか分からなかったはずだ。
父上の目が届かないところで判断を間違えれば、その結果を自分で引き受けるしかない。
それは、相当に厳しいことだろう。
だが……。
だからこそ、鍛えられるのか。
絶対に失敗しないとは思わない。
人間なのだから、判断を間違えることもあるだろう。
それでも、自分の判断によって何が起きるのかを知り、その結果から逃げずに次の決断を下す。
そうやって積み重ねた経験は、父上の隣で指示を聞いているだけでは得られないものなのかもしれない。
少なくとも、俺がダル兄さんの立場だったら、父上が隣にいてくれた方が安心だ。
困ったら相談できるし、何か間違えそうになったら止めてもらえる。
だが、それではいつまで経っても父上に頼ってしまう男になるかもしれない。
いずれ自分が当主になるというのに、それでは困るだろう。
ああ、そういうことか。
「うーん、なるほど」
思わず声に出てしまった。
しまった。
父上の前だった。
俺は顔を上げた。
父上がこちらをちらりと見ている。
何か言われるかと思ったが、父上は静かに頷いた。
「そういう事だ。危険で厳しいからこそ鍛えられるのだ」
おお。
やっぱり、そういうことなのか。
俺が何を考えていたのか、父上にはおおよその見当がついたらしい。
まあ、自分で後継者を離して鍛えると言って、そのあと息子が黙り込んで考え始めたのだから、何について悩んでいたかくらいは分かるのだろう。
そもそも、父上にしてみれば、そんなことはとっくに考え抜いた話なのかもしれない。
俺が今になってようやく気づいたことを、父上はダル兄さんをヴォス要塞へ任せる前から考えていたのだろうか。
……いや。
考えていたんだろうなぁ。
そうでなければ、こんな言葉が自然に出てくるはずがない。
俺は改めて父上の顔を見つめた。
夜着姿で、もう休もうとしていたはずなのに、その眼差しには普段と変わらない鋭さがある。
なるほど。
後継者を育てるというのも、ずいぶん大変な仕事らしい。
俺は三男坊でよかったなぁ。
少なくとも、ダル兄さんと同じ責任を背負わずに済むのだから。
……まあ、俺には俺の仕事があるんだけど。
それはそれとして。
どうやら、父上の言葉の意味は大筋で理解できたらしい。
俺は小さく頷き、父上の次の言葉を待った。
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