第三百六十八話 夜更けの呼び出し
ベルが数字の問題を解くたびに、机の上の紙が少しずつ増えていった。
俺が数字を書き、ベルが答え、その答えが正しいかを確かめる。そんなことを繰り返しているうちに、窓から差し込む光も随分と傾いてきた。
いやぁ、こいつは本当に飽きないんだな。
普通なら、これだけ計算を続ければ嫌になりそうなものだが、ベルは相変わらず楽しそうにしている。答えを間違えた時でさえ、悔しがるより先にもう一度考え始めるんだから、なかなか大したものだ。
「よし、じゃあ次だ。二百四十を四つに分けると、一つはいくつだ?」
「六十です!」
「正解。では、その六十を三つ集めると?」
「百八十!」
「おお、よくできたな」
「えへへ!」
ベルは得意そうに笑うと、机の上の紙へ視線を落とした。
「ギルバートさま、あのね、もう少し難しいのもできます!」
「ほう、随分と自信があるじゃないか」
「はい!」
そう言って胸を張る姿が、何とも頼もしい。
もっとも、こいつにとって何が難しい問題なのか、俺にはいまいち分からんのだが。二桁の計算ならほとんど即答するし、三桁でも少し考えれば答えてしまう。
俺が子供の頃は、こんなに計算が得意だったかなぁ。
いや、前世のことを考えても、ここまで暗算が速かった記憶はない。そもそも、俺は便利な道具に頼ることに何の抵抗もなかったからな。
こいつの頭の中はどうなっているんだろう。
「それじゃあ、三百二十五を二倍して、そこから百五十を引いてみろ」
「えっと……」
ベルは少しだけ目を伏せた。
小さな唇が動き、指先が膝の上を軽く叩く。数字を一つずつ確かめているのか、何かを数えているのか、そのあたりはよく分からない。
やがて顔を上げた。
「五百です!」
「正解だ!」
「やったぁ!」
勢いよく両手を上げるベルを見て、俺も笑ってしまった。
いや、笑っている場合じゃないな。今の問題だって、俺は頭の中で計算してから出しているんだ。それをあっさり解かれると、何となく悔しい気もする。
まぁ、子供相手に張り合ってどうするんだという話だが。
「ギルバートさま、次は?」
「おいおい、少しは休ませてくれ。俺の方が疲れてしまうぞ」
「あっ、ごめんなさい」
ベルが慌てて頭を下げたので、俺は笑いながらその頭を撫でた。
「冗談だ。気にするな」
「はい!」
また嬉しそうな顔に戻る。
まったく、忙しい子だ。
そうして二人で遊んでいるうちに、いつの間にか夕食の時間になっていた。
今日は部屋で食事を取ることにして、ベルにも一緒に食べさせる。
食事が運ばれてくると、それまで数字に夢中だったベルの目が、今度は皿の上へ向けられた。
何とも分かりやすいなぁ。
「ベル、腹は減ったか?」
「はい!」
「ははは、元気な返事だな。じゃあ、食べるか」
「はい! いただきます!」
ベルはきちんと姿勢を正し、食事を始めた。
以前と比べると、食べ方も随分と落ち着いているように見える。もちろん、まだ子供らしいところはあるが、食器の扱いも丁寧だし、食べ物を口へ運ぶ仕草にも慌てた様子がない。
ノエルたちが教えてくれているのかもしれんな。
それにしても、本当に美味しそうに食べる。
一口食べるたびに頬が緩み、次の一口を楽しみにしているのが見ているだけで分かる。食事というものは、こんなにも嬉しそうな顔をして取るものだったかな。
「美味いか?」
「はい! とっても美味しいです!」
「そうか。たくさん食べろよ」
「はい!」
ベルは嬉しそうに頷き、また食事へ戻った。
俺も自分の皿へ手を伸ばす。
そういえば、まともに落ち着いて食事をするのも久しぶりな気がするな。シルディア城からの帰還は随分と急いだし、その前も戦場を動き回っていた。食える時に食うのが当たり前になっていたから、こうして椅子に腰を下ろし、誰かと話しながら食事を取るというのは、思っていた以上にありがたい。
しかも、目の前にはベルがいる。
こちらが何か言うたびに元気よく返事をしてくれるんだから、退屈する暇もない。
「ベル、そんなに食べて苦しくならんか?」
「大丈夫です!」
「本当か?」
「はい! まだ食べられます!」
「ははは、そうかそうか」
実際、ベルはよく食べた。
小さな身体のどこに入るんだろうと不思議になるくらいだったが、無理をしているようには見えない。食べ終わる頃には満足そうに息をつき、俺の方を見てにっこり笑った。
「ごちそうさまでした!」
「ああ。腹いっぱいになったか?」
「はい! いっぱいです!」
「それならよかった」
俺は思わずベルの頭を撫でた。
こいつが腹いっぱい飯を食べている。
たったそれだけのことなんだが、妙に嬉しい。
最初に出会った時、こいつへ何をしてやれるかと考えて、まずは食事を取らせることにした。今ではそれが当たり前になっているらしい。
うん。いいことだ。
食事が片づけられてからも、ベルは俺のそばを離れなかった。
さすがに腹いっぱいになったから少し大人しくなるかと思ったんだが、机の上に残っていた紙を見つけると、また嬉しそうな顔になる。
「ギルバートさま、もう一回、お勉強してもいいですか?」
「お前は本当に数字が好きだなぁ」
「はい!」
「よし、それじゃあ少しだけな」
俺は椅子を引き寄せ、ベルを隣に座らせた。
窓の外はすっかり暗くなっている。灯りの下で紙を広げ、先ほどの続きから数字の問題を始めた。
だが、しばらくすると、ベルの様子が少し変わってきた。
「じゃあ、八十七と百二十六を足すと?」
「えっと……二百十三です」
「正解だ」
答えは合っている。
ただ、いつもより少し遅い。
ベルは目をこすり、椅子に座り直した。本人はしっかりしているつもりなのかもしれないが、まぶたが重そうに下がっている。
おやおや。
どうやら眠くなってきたらしい。
朝から元気に走り回り、俺と再会してからはずっと喋ったり遊んだりしていたんだ。そりゃ疲れるよな。
「ベル、眠いんじゃないか?」
「……眠くないです」
そう答えた直後、小さなあくびをした。
おいおい。
それで眠くないと言われてもなぁ。
「無理しなくていいぞ。今日はもう休むか?」
「まだ……ギルバートさまと、お勉強したいです」
ベルは少しだけ身体を起こし、俺を見上げた。
その顔を見て、何となく分かった気がする。
久しぶりに会えたんだから、まだ一緒にいたいんだろう。
俺も同じ気持ちだ。
だが、眠いのを我慢させるのも可哀想だしな。
「そうか。じゃあ、あと一問だけだ。それが終わったら休むんだぞ」
「はい……!」
よし。
それじゃあ、最後は少し難しい問題にしてみるか。
「三百三十四の三倍は?」
「うーんと……」
ベルは目を細めた。
いつもなら、もう答えが返ってきている頃だ。だが、今は眠気と戦っているらしく、視線が紙の上をゆっくり動いている。
「えっと……えっと……」
小さな指が机の端をなぞった。
ベルは一度俺の顔を見て、それからまた考え込む。
「うーん……えっと、千と……えっと、二つです」
「おお、正解だ!」
思わず声が大きくなった。
千と二つ。
つまり、千二だ。
眠くて仕方がないという顔をしているのに、ちゃんと正解してしまうんだから恐れ入る。
「よくできたな、ベル」
「……えへへ」
褒められたベルは嬉しそうに笑ったが、いつものように両手を上げる元気はないらしい。
代わりに、俺の袖をそっと握ってきた。
「ギルバートさま……次は?」
「いや、もう終わりだ。約束しただろう?」
「……はい」
「今日はよく頑張ったな。続きはまた今度にしよう」
俺が頭を撫でると、ベルは小さく頷いた。
さて、寝かせてやるか。
椅子から立ち上がり、ベルへ手を伸ばす。
「ほら、ベル。おいで」
「はい……」
ベルが両腕を伸ばしてきたので、そのまま抱き上げた。
昼間はあれほど元気だったのに、今はすっかり大人しくなっている。俺の肩へ頬を寄せ、身体の力を抜いている様子が、何とも子供らしい。
こいつにも、こんなところがあるんだな。
いや、まだ子供なんだから当たり前か。
俺はベルを抱えたまま寝室へ向かった。
寝台へそっと下ろすと、ベルは俺の服を掴んでいた手をなかなか離さなかった。
「ベル?」
「……ギルバートさま」
「ん? どうした?」
ベルは眠そうな目で俺を見上げた。
何か言いたそうに唇を動かしているが、なかなか言葉が出てこない。
俺は寝台のそばに腰を下ろし、ベルの顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ? 何か聞きたいことでもあるのか?」
「……あのね」
「ああ」
「ギルバートさま、明日もおられますか?」
小さな声だった。
ベルの指が、俺の服の端を握り直す。
なるほど。
そういうことか。
今日は突然帰ってきた俺と再会できたが、明日になったらまたいなくなっているんじゃないかと心配しているのかもしれない。
そういえば、こいつと別れた時も、随分と寂しそうにしていたな。
あの時はマバール城へ先に向かわせるしかなかったし、俺もいつ帰れるか分からなかった。ベルには、しばらく待ってもらうことになってしまったんだ。
俺はベルの手にそっと触れた。
「ああ、明日も城にいるぞ」
「……ほんと?」
「本当だ。少し仕事はあるがな」
ベルの目が、ほんの少し大きくなった。
「……良かった」
そう呟くと、掴んでいた指からゆっくり力が抜けていった。
俺が寝具を整えてやる頃には、もう目を閉じている。
やれやれ。
安心した途端に眠ってしまうとは。
しばらく顔を眺めていたが、ベルはもう何も話さなかった。小さな胸がゆっくり上下し、先ほどまで数字を答えていた口元も静かになっている。
俺はそっと立ち上がった。
起こさないように足音を抑えて寝室を出る。扉を静かに閉めると、ようやく肩の力を抜いた。
ふぅ。
今日は随分と楽しかったな。
まさか、マバール城に帰ってきて、こんな時間を過ごすことになるとは思わなかった。
ベルの笑顔を思い出すと、自然に頬が緩む。
あいつは本当に数字が好きなんだなぁ。
これから文字も覚えて、色々なことを学んでいけば、いったいどんな子になるんだろう。
楽しみだ。
近侍見習いの件も、そのうちきちんと考えてやらなければならんな。あれだけの才能を持っているんだし、本人が楽しく学べる環境を用意してやりたいものだ。
もっとも、今すぐ決める必要もないか。
まずは父上との話だ。
俺は椅子に腰を下ろし、背もたれに身体を預けた。
長い一日だった。
昨日はシルディア城を出発し、ほとんど休まず馬を走らせた。今朝ようやく帰ってきたと思ったら、ベルに捕まって一日中遊んでいたんだから、我ながらよく動くものだ。
身体は疲れている。
だが、眠る気にはならなかった。
父上が今夜時間を作ってくれると言っていたんだ。それを寝過ごすわけにはいかんだろう。
机の上には、ベルと遊んでいた時の紙がまだ残っている。
俺は何となく一枚を手に取った。
並んでいる数字を眺めていると、あいつが一生懸命に考えていた顔が浮かんでくる。
三百三十四の三倍、か。
眠い中でも正解したのは見事だったな。
いや、それにしても。
昼間までは、善良王の処刑のことばかり考えていた。それがベルと過ごしている間、すっかり頭から抜け落ちていたんだから、不思議なものだ。
もちろん、忘れたわけじゃない。
父上に会いたいという気持ちも変わっていない。
ただ、ベルが楽しそうに笑っている間は、俺も余計なことを考えずに済んだ。
ああいう時間も、悪くないな。
俺は紙を机に戻し、ゆっくり息を吐いた。
静かになった部屋で耳を澄ますと、廊下を通る足音が時折聞こえてくる。
城内はまだ動いているらしい。
父上も仕事をしているんだろうか。
いや、さすがに少しは休んでいてほしいものだが、あの父上だからなぁ。今の状況で、のんびり寝ていられるとは思えない。
善良王の処刑。
王国の残った勢力。
そして戦争の終わらせ方。
考えなければならんことはいくらでもあるんだろう。
俺には、その全部を理解することなんてできん。
だからこそ、父上と話しておきたい。
処刑をやめさせたいわけじゃない。
ただ、どうしてその決断に至ったのか、それを聞きたいんだ。
あの奇妙な男が死ぬ前に。
そうして、どれくらい時間が過ぎただろう。
何度か姿勢を変えながら待っていると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
やがて扉の前で止まる。
「ギルバート様」
声がかかった。
「ああ、起きている。どうした?」
「お館様がお呼びでございます」
「そうか。分かった、すぐに行く」
ようやくか。
灯りの具合と、先ほどから感じていた時間の長さを考えれば、おそらく日付が変わる頃だろう。
こんな遅い時間まで父上を待たせたわけではないが、父上の方も相当忙しかったに違いない。
俺は椅子から立ち上がり、服の乱れを軽く整えた。
寝室の方へ目を向ける。
ベルは今頃、ぐっすり眠っているだろう。
明日も城にいると約束したし、また顔を見せてやらんとな。
それにしても、今日一日で随分と気持ちが軽くなったものだ。あれほど落ち着かなかったのに、今は父上と何を話すべきか、少し冷静に考えられる。
もっとも、実際に顔を合わせたらどうなるかは分からんが。
俺は扉へ向かい、待っている使いの者に声をかけた。
「待たせたな。案内してくれ」
「はっ」
廊下へ出ると、夜の冷えた空気が頬に触れた。
背後で扉が閉まる。
俺は一度だけ振り返り、それから前を向いた。
さて。
父上と話をしよう。
本日はここまでです。
次回は、明日5時となります。




