第三百六十七話 白い服のベル
白い服の裾を揺らしながら、ベルがこちらへ駆けてくる。
俺の姿を見つけたのがよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべている。小さな足で一生懸命に走ってくる姿を見ていると、こちらまで自然に頬が緩んでしまった。
「ギルバートさまー!」
「おお、ベル。久しぶりだな」
俺が両腕を広げると、ベルは勢いを緩めることなく飛び込んできた。
「おっと!」
思ったより勢いがあったので、少しだけ身体を引いて受け止める。ベルは俺の服をぎゅっと握り、顔を押しつけてきた。
ははは、随分と歓迎してくれるじゃないか。
俺はその小さな身体を抱き上げた。
「おお?」
思わず声が漏れた。
何だろう。以前抱き上げた時よりも、随分と大きくなっている気がする。腕の中に収まる身体にはまだ幼さが残っているが、頬も少しふっくらしたように見えるし、抱き上げた時の感触も違う。
それほど長く離れていたわけではないんだがなぁ。
「……大きくなったな。ちゃんと腹いっぱい食べてるか?」
危ない危ない。
思わず重くなったな、と言いそうになってしまった。
いくら小さくてもベルは女の子だ。女性に向かって重くなったなどと言うのはよろしくない。こういうところは気をつけなければならん。
もっとも、ベルが気にするかどうかは分からんが。
「はい!」
ベルは勢いよく返事をすると、俺の首に回していた腕を少し緩め、指を折りながら話し始めた。
「えっとね、朝も、お昼も、えっと、お茶の時も、それから夜も、たくさんたくさん食べてます!」
「ほう、そんなに食べているのか」
「はい! お腹いっぱいになります!」
胸を張って答えるベルを見て、思わず笑ってしまった。
そうかそうか。
ちゃんと食べているようで何よりだ。
そういえば、こいつに最初に与えた仕事は、腹いっぱい食べることだったな。あの時も随分と真面目に聞いていたが、どうやら今も律儀に守っているらしい。
「偉いぞ、ベル。ちゃんと言いつけを守っているんだな」
「はい! ギルバートさまからのお仕事ですから!」
「ははは、そうだったな」
ベルは褒められたのが嬉しいのか、また俺にしがみついてきた。
いやぁ、何とも可愛らしい。
先ほどまで、善良王の処刑だの父上の考えだのと、頭の中が面倒なことでいっぱいだった。それが今では、腹いっぱい飯を食べているという少女の報告を聞いて喜んでいるんだから、我ながら随分と切り替わりが早いものだ。
まぁ、全然いいけど。
ベルを抱え直しながら、ふと疑問が浮かんだ。
「しかし、よく俺が戻ったことに気づいたな。ついさっき帰ってきたばかりなんだが」
文官に話を通してもらったばかりだし、城内の全員が俺の帰還を知っているとも思えない。まして、ベルが城門の近くにいるとは思っていなかった。
するとベルは、何だか嬉しそうに身を乗り出した。
「あのね、えっとね、リエリエールさまが教えてくれたの!」
「リエリエールが?」
「はい! ギルバートさまが戻って来たよって!」
「ほう、そうだったのか」
なるほどな。
リエリエールが教えてくれたのか。
感知魔法で俺の魔力に気づいたのか、誰かが帰還を知らせたのか。そのあたりは分からんが、ベルがここにいる理由は分かった。
しかし、リエリエールも随分と気が利くじゃないか。
手紙でベルの世話を頼んでおいたが、こうして本人に知らせてくれるということは、普段から気にかけてくれているんだろう。
あのリエリエールには礼を言わんとな。
「それで、俺を迎えに来てくれたのか?」
「はい! 早く会いたかったです!」
「そうかそうか。俺もベルに会えて嬉しいぞ」
頭を撫でてやると、ベルは目を細めて笑った。
そういえば、最初に出会った頃と比べると、表情も随分と明るくなった気がする。あの頃は何かを尋ねるたびに、少し遠慮するようなところがあったんだが、今ではこんなに元気よく飛びついてくる。
いや、元から人懐っこいところはあったか。
何にせよ、元気なのはいいことだ。
「さて、ベル。いつまでもここにいるのも何だし、俺の部屋に行くか?」
「はい!」
「それじゃあ行こう」
俺はベルを抱き上げたまま歩き始めた。
ベルは降りようともせず、俺の肩に手を置いて周囲を眺めている。歩くたびに小さく揺れるのが面白いのか、ときおり楽しそうな声を漏らしていた。
それにしても、城へ戻って早々、子供を抱えて歩くことになるとは思わなかったな。
廊下ですれ違う使用人たちは、俺を見るといつもどおり礼をする。だが、その視線が腕の中のベルへ向かい、ほんの少し驚いたような顔になることがあった。
まぁ、そうなるよなぁ。
俺が子供を抱えて城内を歩くなんて、普段は見ない光景だろう。
ベルのことを知っている者ならともかく、知らない者が見たら、どういう関係なのか分からんだろうしな。
うーん。
いっそのこと、近いうちにベルを俺付きの近侍見習いにでもするか。
そうすれば、俺のそばにいても不自然ではないし、余計な誤解を招かずに済む。それに、ベルとも気軽に会えるようになるだろう。
別に、ただ単に可愛がりたいからというだけじゃないぞ。
こいつの数字に対する理解力は、間違いなく普通じゃない。あの暗算の速さは大人でもそう簡単に真似できんし、考えること自体を楽しんでいるところがある。
せっかくの才能なんだから、ちゃんと伸ばしてやりたい。
もちろん、まだ子供だ。いきなり難しい仕事を押しつけるつもりはないが、近侍見習いという立場なら、勉強しながら少しずつ仕事を覚えることもできるだろう。
それに、城内で暮らしていくなら、礼儀や文字も覚えた方がいい。
うん、悪くないな。
「ギルバートさま?」
「ん?」
「どうしたんですか?」
「いや、ベルは随分と賢い子だなと思っていたんだ」
「えへへ」
ベルは照れくさそうに笑い、俺の肩へ頬を寄せた。
……うむ。
こんなに嬉しそうにされると、少々甘やかしすぎてしまいそうだな。
自室へ着くと、ベルを下ろして中へ入った。
長い移動を終えて、ようやく自分の部屋に戻ってきたわけだ。見慣れた机や椅子が目に入ると、何とも落ち着く。
本当なら、ここでゆっくり休みたいところなんだが。
「さて、ベル。何をして遊ぶ?」
「えっと、数字!」
「ははは、やっぱり数字か」
「はい!」
即答だった。
普通の子供なら、ほかにも色々と遊びたいことがあるだろうに、こいつは本当に数字が好きだなぁ。
俺は椅子に腰を下ろし、ベルにも隣へ座るよう促した。
「それじゃあ、まずは簡単な問題からだ。十七と二十八を足すと?」
「四十五です!」
「正解。じゃあ、その四十五から十九を引くと?」
「二十六です!」
「おお、速いな」
相変わらず、ほとんど考えている様子がない。
数字を聞いた途端に答えが出てくる。いや、本人はちゃんと考えているんだろうが、俺から見ると頭の中で何が起きているのか分からん。
「じゃあ、十二を八倍すると?」
「九十六です!」
「正解だ」
俺が頷くと、ベルは嬉しそうに身体を揺らした。
「次は? 次は何ですか?」
「おいおい、少しは休ませてくれ。俺だって計算しているんだぞ」
「えへへ、ごめんなさい」
そう言いながらも、ベルの目は期待に満ちている。
まったく、どちらが遊んでもらっているんだか。
しばらく数字の問題を出し続けていると、ベルが机の上の紙へ目を向けた。
「ギルバートさま、あのね」
「どうした?」
「文字もね、お勉強してるんです」
「ほう、文字もか」
「はい! まだ難しいのもあるけど、前より読めるようになりました!」
「それは偉いじゃないか」
ああ、そうだった。
ベルは数字の扱いこそ驚くほど上手いが、文字の方はまだ勉強中だったな。
そりゃそうだ。数字が得意だからといって、文字まで最初から読めるわけじゃない。あの頃は分からない文字を俺に尋ねていたし、城へ来てからも勉強を続けているらしい。
これは、ちょっと試してみたくなるな。
「それじゃあ、ベル。今度は文字の問題だ」
「はい!」
俺は紙を手元に寄せ、筆記具を取った。
何を書こうか少し考えてから、ある言葉を書きつける。難しい文章にしても仕方がないし、まずは本人にも馴染みのあるものがいいだろう。
「よし。これは何と読む?」
紙をベルの方へ向ける。
ベルは身を乗り出し、俺が書いた文字をじっと見つめた。
「えっと……」
指先を紙に近づけ、文字を一つずつ確かめている。
先ほどまでの数字とは違い、すぐには答えが出てこないらしい。だが、困った顔をすることもなく、一文字ずつ目で追っていた。
「ギルバート……」
「うん」
「マバール……」
ベルの顔がぱっと明るくなった。
「ギルバート・マバールって書いてあります!」
「正解だ!」
「やった!」
両手を上げて喜ぶベルにつられ、俺も笑ってしまった。
いやぁ、いいなぁ。
勉強して、できなかったことができるようになって、それをこんなに嬉しそうにしてくれるんだから、教える方まで楽しくなる。
「よく読めたな。ちゃんと勉強しているんだな」
「はい! いっぱいお勉強してます!」
「そうか。じゃあ、もっと色々な文字を覚えないとな」
「はい! ギルバートさまの名前は、もう読めます!」
「ははは、それはありがたい」
数字を覚える速さに比べれば、文字の勉強は少し時間がかかるのかもしれない。だが、それでいい。急いで覚えさせる必要なんてないんだからな。
俺は別の言葉を書き始めた。
ベルはその手元を興味深そうに覗き込み、書き終わるのを待ちきれない様子で身体を寄せてくる。
やれやれ。
この調子だと、今日は一日中こいつに付き合うことになりそうだ。
まぁ、今夜までは暇なんだし、それも悪くないか。
その後も、数字の問題を出したり、文字を書いて読ませたりしながら過ごした。
ベルは正解するたびに嬉しそうに笑い、分からない文字があると何度でも尋ねてくる。俺が読み方を教えると、小さな声で繰り返してから、もう一度紙を見つめていた。
その真剣な横顔を見ていると、つい次の問題を考えてしまう。
まったく、何とも楽しい時間だな。
そうしていると、扉の方から声がかかった。
「ギルバート様、ノエルでございます」
「おお、入ってくれ」
扉が開き、ノエルが姿を現した。
俺を見ると、丁寧に頭を下げる。
「ギルバート様、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま」
ノエルは顔を上げると、隣に座っているベルへ目を向けた。
「あら、やっぱりこちらにいたのね」
「ノエルさん!」
ベルが嬉しそうに声を上げる。
しかし、ノエルはそのままベルへ歩み寄ると、少しだけ腰をかがめた。
「こら、ベル。戻って来ないから、リエリエール様が心配してるわよ」
「あっ!」
ベルの肩がぴくりと動いた。
「えっ、えっと……ごめんなさいです」
慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
その様子が何とも可愛らしく、思わず口元が緩んでしまった。
ノエルも笑っているし、本気で怒っているわけではなさそうだ。とはいえ、ベルが心配をかけてしまったのは確かだろう。
「すまん、ノエル。俺が引き止めていたんだ」
「いえ、ギルバート様。こちらこそ失礼いたしました」
「気にするな。それより、リエリエールに伝えてくれ。今夜は父上と話さねばならんので、明日行くとな」
「はい、かしこまりました」
ノエルは素直に頷いた。
できればリエリエールにも直接顔を見せてやりたいところだが、今日はやめておこう。父上が時間を作ってくれるというのに、こちらの都合で遅れるわけにはいかん。
あの女なら、事情を話せば分かってくれるだろう。
「ところで、ベルはいかがいたしましょう?」
「ん?」
ノエルの視線がベルへ向かう。
ああ、そうか。ベルは普段リエリエールのところで世話になっているんだったな。
さて、どうするか。
俺がベルを見ると、本人もこちらを見上げていた。
まだ遊び足りないのか、机の上には先ほどまで使っていた紙が残っている。せっかく久しぶりに会えたんだし、もう少しくらい一緒にいてもいいだろう。
「今夜はここで休ませる。まだ話し足りないからな」
「かしこまりました」
隣を見ると、ベルがぱっと顔を輝かせた。
「いいんですか!?」
「ああ。嫌か?」
「嫌じゃないです!」
「ははは、そうか」
随分と勢いのいい返事だな。
ベルは嬉しそうに笑い、俺の袖をそっと握ってきた。
その笑顔を見ると、俺まで嬉しくなってしまう。
我ながら、随分と甘いものだ。
「それでは、リエリエール様にお伝えしておきます」
「ああ、頼む」
ノエルはもう一度頭を下げ、それからベルへ視線を向けた。
「ベル、お行儀良くね」
「はい!」
「ギルバート様にご迷惑をおかけしないようにね」
「はい! 気をつけます!」
ベルが一生懸命に頷くと、ノエルは柔らかく微笑んだ。
そのまま一礼し、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まるのを見届けてから、俺は隣のベルへ目を向けた。
ノエルは貴族であるリエリエールに仕える平民の使用人だ。言葉遣いも立ち居振る舞いもきちんとしているし、ベルにとってはいい手本になるだろう。
それに、ああして注意してくれる相手がいるのはありがたい。
俺が可愛い可愛いと甘やかすばかりでは、ベルのためにならんからな。
……まぁ、そう思っていても、こいつの顔を見ると甘やかしたくなるんだが。
「さて、ベル」
「はい!」
「まだ数字の問題をやるか?」
「やります!」
やっぱりか。
俺は笑いながら、机の上に残っていた紙を引き寄せた。
父上から呼び出されるまでは、まだ時間がある。
それまでは、この小さな数字好きに付き合ってやるとしよう。
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