第三百六十六話 帰還の朝
マバール城の城壁が見えた時、ようやく帰ってきたという実感が湧いた。
朝の光を受けた石壁は見慣れた色をしている。ずっと馬の背で揺られていたせいか、目の前にある城が妙に動かないものに見えた。いや、城なんだから動かなくて当たり前なんだが。そんな馬鹿なことを考えるくらいには、俺も疲れているらしい。
馬の首筋には汗が浮き、手綱を握る指も少々重い。隣へ目を向けると、セバスチャンはいつもどおりの顔で馬を進めていたが、その後ろの騎士たちはさすがに疲労を隠しきれていなかった。グレゴリオも黙ってついてきている。あの大きな身体を乗せて走り続けた馬には、後でたっぷり休んでもらわんとな。
少々、急がせすぎたか。
シルディア城を出たのは昨日のことだ。それが翌朝にはもうマバール城に着いているんだから、かなりの強行軍になってしまった。処刑まで、まだ三日あると聞いていたんだ。何もこんな無茶をせずとも、間に合うように帰ればよかったはずなのに。
だが、休もうという気になれなかった。
善良王が処刑される。
その知らせを聞いてから、どうにも落ち着かない。敵国の王が処刑されること自体は、別におかしな話ではない。戦争に負け、王城からその身まで敵に捕らえられたんだ。むしろ、生かしておく方が難しいこともあるだろう。
俺だって、あいつを助けてやるべきだと考えているわけじゃない。
そもそも、王城から攫ってきたのは俺だしな。
あの時は必要だと思った。今でも、あの判断を間違いだったとは思っていない。だが、馬の背で揺られながら思い浮かぶのは、王としての肩書きより、あの妙に話の噛み合わない男の顔だった。
何というか、最後までよく分からん奴だったなぁ。
俺は敵国の王をどう処刑するのか、その作法すら知らない。ただ首を斬って終わり、というわけにもいかんだろう。相手が相手だし、それなりの準備が必要になるはずだ。もっとも、俺が知らないだけで、案外あっさりしたものなのかもしれんが。
会えるなら、会っておきたい。
会ったところで何を話せばいいのか分からないし、何かしてやれるわけでもない。それでも、死にゆくあの奇妙な男の顔をもう一度見たいと思っている。
我ながら、随分と勝手な話だ。
そう考えているうちに城門が近づき、こちらに気づいた兵たちが動き始めた。見慣れた場所へ戻ってきたというだけで、身体の力が少し抜ける。馬の歩みを緩めて中へ入ると、ほどなく一人の文官がこちらへ走ってきた。
「ギルバート様!」
「おお。いきなり戻ってきて、すまんな」
俺が馬から降りながら声をかけると、文官は足を止め、姿勢を正した。呼吸が少し乱れている。朝から走らせてしまったようで、何とも申し訳ない。
「いえ、お館様にお知らせいたします。少しお待ちください」
「ああ、頼む」
文官は一礼して城内へ戻っていった。俺はその背を見送り、手綱を預けながら肩を回した。凝り固まったところがようやく緩む。鎧を脱いで寝台に倒れ込みたいところだが、それより先に確かめたいことがあった。
父上に会いたい。
処刑を決めた理由を、父上の口から聞きたかった。
いや、決断に異を唱えるつもりはないぞ。戦争はまだ完全に片づいたわけではないし、敵の王をどう扱うかなんて、俺が軽々しく口を挟むことじゃない。父上が決めたことには、当然それだけの考えがあるはずだ。
文官に尋ねても、理由くらいは教えてもらえるかもしれない。だが、それでは何となく違うんだよなぁ。父上の顔を見て、父上の言葉で聞きたい。全部を理解できなくても、その一端くらいは知っておきたい。
忙しい時に、息子がそんなことを言い出すんだから、やっぱりわがままだな。
俺は小さく息を吐いて、傍らにいるセバスチャンへ向き直った。
「セバス、お前たちも疲れただろう。少し休め。すまんが、グレゴリオのことも任す」
「へい。そちらはあっしが何とかしやす」
「頼んだぞ」
グレゴリオにとって、ここは初めての土地だ。マバール領も、もちろんこの城も知らない。俺たちは帰ってくればそれぞれ休む場所があるが、こいつにはまだ何も用意してやれていない。
今すぐ寝る場所すらない、なんてことになったら笑い話にもならん。もっとも、セバスチャンに任せておけば、そのあたりは上手くやってくれるだろう。本人は大柄で無口だが、無理なことを言い出すような男でもないしな。
グレゴリオを見ると、相変わらず厳つい顔でこちらを見ていた。
「ひとまず休んでくれ。細かいことは落ち着いてからだ」
「はっ」
短い返事だ。こいつらしい。
そうしている間にも、城の中では人が行き来している。荷を運ぶ者、足早に通り過ぎる者。誰もが何かしら用事を抱えているように見えた。善良王の処刑に関わる準備なのか、それとも普段の仕事なのか、俺には分からない。ただ、父上が暇を持て余しているはずはないよな。
しばらくして、先ほどの文官が戻ってきた。
「どうだ?」
「申し訳ございません。今すぐは難しいと」
「やはりか」
そりゃそうだろう。
俺が勝手に帰ってきて、今すぐ会わせてくれと言ったところで、父上にも都合がある。処刑だけじゃない。戦争のことも、領地のことも、考えなければならんことはいくらでもあるはずだ。
これは、会えるとしても処刑後かな。
そんなことを考えかけたところで、文官が続けた。
「ですが、今夜には時間を設けると仰せです」
「そうか。ありがたい」
思わず頬が緩んだ。
父上、ありがとう。忙しいのに、こんな息子のわがままを聞いてくれるとは。いやぁ、さすが父上だ。今すぐでなくとも、今夜話せるなら十分だろう。
それなら、処刑もひとまず聞いていた予定のまま進むと考えてよさそうだ。もちろん、何が起きるかは分からんが、少なくとも今日中に俺が何かしなければならないという話ではなさそうだな。
俺はセバスチャンに声をかけ直した。
「セバスチャン、今日は全員このまま休ませろ。明日の朝に集まればいい」
「へい。とりあえずグレゴリオは、あっしの屋敷で休ませます」
「ああ、すまんが頼む。グレゴリオ、しばらくセバスチャンの屋敷で休んでくれ。落ち着いたら、お前の屋敷も手配するからな」
「ありがたき幸せ」
グレゴリオは深く頭を下げた。あの大きな身体でそうされると、なかなか迫力がある。礼儀正しいのはいいことなんだが、もう少し気楽にしてくれてもいいんだぞ。
周囲のレダリエ騎士団の連中も、それぞれ軽く挨拶して去っていった。ずっと一緒に走ってきたのに、別れるとなればあっさりしたものだ。まぁ、こいつららしいな。俺があれこれ言わなくても、それぞれ休み方くらい分かっているだろう。
さて。
今夜までは暇になったわけだ。
どうしたものかな。まずはレティシアたちの顔を見に行くか。いや、それはそれで危険だな。レティシアとダリアは妊娠中だし、余計な負担はかけたくない。それにリエリエールの顔を見たら、たぶん俺の方が我慢できなくなる。
断言できるぞ。あの女と一緒にいて、今夜は父上との面会があるから大人しく帰る、なんて自信はない。
下手をすれば朝まで忙しくなる。
……うん。やめておこう。
そういえば、先ほどの文官がまだ近くにいた。俺はそちらへ顔を向けた。
「なぁ、オルフィアはどうしている?」
「はっ。オルフィア様でしたら、ルディア領より来られた方々がおられますので、城下の屋敷にお移りになりました」
「そうか。もう来ていたんだな」
ああ、そういえばシルフィアに手紙を書かせたんだった。オルフィアに従ってくれる連中を、ルディア領から呼び寄せるための手紙だ。あれは開戦前の話なんだから、今になって届いていない方がおかしいか。
となると、オルフィアもそちらで忙しいのかもしれん。
うーん。どうするかなぁ。
考えていると、視界の端で白っぽいものが動いた。城壁の端あたりだ。ほんの少し見えたかと思えば、また見えなくなる。何だ? あんなところで何をしているんだ?
文官が一礼して去っていく。俺が改めてそちらを見ると、白いものがひょいと姿を現した。
「ギルバートさま!!」
弾むような声が、まっすぐこちらへ飛んできた。
ああ、なるほど。
白い服を着たベルだった。
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