第三百六十一話 貴族殺しの昔話
焚き火の中で薪が崩れ、小さな火の粉が夜空へ舞い上がった。
川の流れる音は相変わらず聞こえているが、日が落ちてから随分と冷えてきた。焚き火の近くにいる分には問題ないものの、背中に当たる夜風が少し冷たい。
俺は火に向けていた手を引っ込め、向かいに座るグレゴリオを眺めた。
相変わらず無口な男だ。
こちらから話しかければ答えるし、別に不機嫌そうでもない。だが、自分から何か話そうとはしないらしい。セバスチャンと俺が話している間も、ほとんど黙って聞いていた。
まぁ、無理に喋らせる必要もないんだが。
それでも、新しく仲間になった男のことは多少知っておきたい。
俺たちはそれからも色々と話をした。
グレゴリオがこれまで何をしていたのか、どんな主人に仕えていたのか。こちらが尋ねれば、短いながらもきちんと答えてくれる。
ただ、話が進むにつれて、少々妙なことが分かってきた。
俺は思わずグレゴリオの顔を見直した。
「つまり、お前の腹違いの兄がお前の実の妹に発情したから、殴り殺したのか?」
「はっ」
……なるほど。
いや、なるほどと言っていいのか分からんが。
なんとも馬鹿馬鹿しい話だな。
「ふーん。何と言うか、自業自得と言うか、馬鹿馬鹿しい話だな」
「はっ」
グレゴリオは短く答えた。
貴族殺し。
随分と物騒な異名だと思っていたが、事情を聞けば何とも間の抜けた話じゃないか。
もちろん、貴族を殺したという事実は変わらないし、この世界ではそれだけで大事になる。だが、殺された方にも相応の理由があったらしい。
そもそも腹違いとはいえ、自分の弟の妹に手を出そうとするかね。
しかも、その弟がグレゴリオだ。
こんな大男を怒らせればどうなるか、少し考えれば分かりそうなもんだが。
……いや、分からなかったから殴り殺されたのか。
俺がそんなことを考えていると、グレゴリオは焚き火の向こうへ視線を向けた。
その目が、ほんの少し遠くを見るようなものに変わった気がした。
「ワシは、城で働いておった平民の母から生まれました」
「ふむ」
「平民腹ということで、母の実家で育ちましたが、ある時、兄が訪ねて来ましてな。それから兄に仕えるようになったんです」
「ふーん」
なるほど。
平民腹か。
この世界では、それだけで随分と立場が違ってくる。
親が貴族でも、母親が平民なら何かと面倒なことになる。グレゴリオも、最初から貴族の子供として扱われていたわけではなかったらしい。
まぁ、本人がそれをどう思っていたかまでは分からんが。
少なくとも、兄に仕えるようになったということは、そこで生活が変わったのだろう。
「で、その兄はどんな奴だったんだ?」
俺が尋ねると、グレゴリオは少し言葉を選ぶように口を閉じた。
焚き火の明かりが禿頭を照らし、濃い髭の間に影を作っている。
「兄は、その、なんというか……強きに弱く、弱きに強い方でしてな」
「ああ、なるほど。要は臆病者なんだな」
「若様!」
隣からセバスチャンの声が飛んできた。
なんだよ。
分かりやすく言っただけじゃないか。
「間違ってないだろ?」
「そういうことを、いちいちはっきり言わんでもいいでしょうが」
「だって、そういうことだろ?」
俺が言い返すと、セバスチャンは呆れたように息を吐いた。
まったく、こいつは時々うるさい。
だが、当のグレゴリオは怒った様子もなく、苦笑しているだけだった。
ほら、本人も否定していないじゃないか。
それに、強い相手には逆らえず、弱い相手には威張り散らすなんて、典型的な臆病者だろう。
そんな奴が貴族というだけで偉そうにできるんだから、世の中というのは面白い。
まぁ、俺も貴族なんだけどな。
「そんな兄も、ようやく貴族女性と婚姻しましてな。落ち着くと思ったのですが……」
グレゴリオの声が少し鈍った。
ん?
貴族女性と婚姻?
強きに弱く、弱きに強い男?
……ああ。
俺は何となく事情を察した。
「あれだろ。初夜に失敗したな、その兄は」
「若様」
またセバスチャンに注意された。
今度はさっきより声が低い。
何だよ、別におかしなことを言っていないだろ。
だが、グレゴリオは少し困ったような顔をした。
「まぁ……」
そう言って苦笑する。
ほらな。
どうやら見当違いでもなさそうだ。
実は、男性貴族にはそういう奴がいるのだ。
俺には全く理解できないが。
そもそも貴族女性には魔力がある。
当たり前の話だ。
つまり、相手は無力な女ではない。
魔力を持つ女性というのは、場合によっては自分を殺すことだってできる相手なのだ。
まぁ、例えるなら雌獅子かな?
見た目が綺麗だからといって、牙も爪もないわけじゃない。
もちろん、そんなことは男性貴族だって頭では理解している。
貴族同士なのだから当然だろう。
ところが、いざ女を抱こうとすると、勃起しない。
したくてもできない。
そういう男がいるらしい。
何とも情けない話だが、本人にしてみれば深刻な問題なのだろう。
おそらくだが、本能的に怯えているんじゃないだろうか。
相手は、もしかしたら己を殺すことのできる女だからな。
普段は偉そうにしている男でも、いざ目の前に強い女がいると、身体の方が勝手に縮こまるのかもしれん。
いや、縮こまるというのは少々違うか。
勃たなくなるわけだから、ある意味そのままか?
……まぁ、どうでもいいな。
とにかく、そこで上手くいかなかった男は焦る。
今夜こそはと頑張る。
だが、焦れば焦るほど上手くいかなくなる。
そうして何もできないまま朝を迎えるわけだ。
うーん。
考えただけでも情けない。
いや、ここで相手の貴族女性が優しく協力してくれれば、まだ何とかなるのかもしれない。
最初は失敗しても、時間をかけて慣れればいい。
別に一晩で全部決まるわけでもないしな。
だが、残念ながら貴族社会というのは、そう簡単な話ではない。
何しろ貴族女性には子を産むという大事な役目がある。
最低限の役目と言ってもいい。
そもそも貴族は平民より子供ができにくい。それなのに夫が女を抱けないとなれば、妻にしてみれば冗談では済まないだろう。
子供ができなければ、自分の立場だって危うくなる。
それも、自分が悪いわけではないのに、だ。
だから、貴族女性は周囲に言いふらす。
夫が抱いてくれない。
あの男は女を抱くこともできない。
そうやって相手を責めるわけだ。
酷いと思うかもしれないが、俺は仕方のないことだと思う。
自分が悪いわけじゃないと、周囲に知らせておかなければならないからな。
貴族女性としての役目を果たせないのは、自分ではなく夫のせいだ。
それをはっきりさせる必要がある。
ある種の自衛策というわけだ。
まぁ、夫からすればたまったもんじゃないだろうが。
ただでさえ勃たなくなっているところへ、周囲から臆病者と笑われるんだからな。
しかも、表立って笑われるとは限らない。
陰でこそこそ言われる方が、かえって厄介かもしれん。
あいつは女を抱けない。
あいつの妻はまだ子供ができない。
そんな話が耳に入れば、ますます焦るだろう。
そして、また勃たなくなる。
うーん。
悪循環の見本みたいな話だな。
だが、それが貴族社会というものだ。
そもそも勃たない男が悪いわけだし。
俺としては、そこで悩んでいる暇があれば、どうにかして女を抱けばいいじゃないかと思うんだが。
まぁ、それができないから困っているんだろうけどな。
それで、そうなった男性貴族の中には、平民の女性に強く興味を持つ者が一定数出てくる。
なぜか?
簡単だ。
平民の女は圧倒的な弱者だからな。
魔力を持つ貴族女性とは違い、相手に怯える必要がない。
少なくとも、本人はそう思えるわけだ。
自分よりずっと弱い相手なら、安心して抱ける。
実に分かりやすい。
そして、実に情けない。
グレゴリオには悪いが、そんな男は本当に馬鹿だと思う。
貴族女性を前にすると勃たないくせに、平民の女なら大丈夫だなんて、どれだけ臆病なんだよ。
俺には理解できん。
実際、俺だって貴族女性であるリエリエールを抱いている。
だが、そんなことになった経験は一度もない。
むしろ、俺自身を宥める方に苦労するくらいだ。
いや、あれはあれで大変なんだけどな。
こっちはこっちで、何かと我慢しなくちゃいけないこともあるし。
それにしても、女を前にして怖くなって勃たなくなるなんて、どんな気分なんだろう。
まったく想像できん。
俺がそんなことを考えている間も、グレゴリオはぽつぽつと話を続けていた。
焚き火の薪が音を立てて崩れ、赤い光が大男の顔を下から照らしている。
妹のことに話が及ぶと、グレゴリオの口数はさらに少なくなった。
こちらが尋ねれば答えるが、余計なことは言わない。
その様子を見ていると、さすがに面白半分で聞き続ける気にもならなかった。
まぁ、結局は兄が妹に手を出そうとし、グレゴリオが殴り殺したということだ。
何とも馬鹿馬鹿しい。
だが、俺としては一つだけはっきり言っておきたいことがある。
「こう言っては何だが、良くやったな、グレゴリオ」
グレゴリオが顔を上げた。
「はっ?」
「兄だろうが何だろうが、そんな情けない男に子を成す資格など無い!」
「は、はぁ……」
何だ、その返事は。
俺は真面目に褒めているんだぞ。
そもそも、自分が女を抱けないからといって、弱い相手に手を出そうとするのが間違っている。
男なら、もっと堂々としていればいいのだ。
「男なら、相手が貴族だろうが騎士だろうが平民だろうが、良い女なら抱きたくなるもんだ。それが正しい漢の姿だ」
俺がはっきりと言ってやると、セバスチャンが横から口を挟んだ。
「そりゃ若様だけですぜ」
「何だと?」
「普通はそこまで見境なく考えませんぜ」
「ふふん。お前はじじいだから分からんのだ」
俺は胸を張って言い返した。
まったく、これだから年寄りは困る。
まぁ、実際にはセバスチャンは別に爺じゃないんだが。
こいつは何かというと、俺の考えに口を出してくる。
だが、男としての基本的な欲求を否定されては黙っていられん。
俺はグレゴリオへ顔を向けた。
「なぁ、グレゴリオ」
「は、はぁ……」
「何だ、遠慮するな。男なら良い女は抱きたくなるよな?」
グレゴリオは一瞬セバスチャンを見た。
それから俺へ視線を戻す。
「は、はい」
「そうだろう!」
ほら見ろ。
やっぱりそうじゃないか。
男なら良い女を抱きたいと思うのは当然だ。
相手が貴族か平民かなんて、そんなものは関係ない。
良い女は良い女なんだからな。
俺が満足して頷くと、セバスチャンは何とも言えない顔をしていた。
ふん。
自分が少数派だと分かったから悔しいんだろう。
まぁ、仕方ないな。
「だが、無理矢理はいかんな」
俺はグレゴリオへ向き直った。
「遊びでなら楽しいが、無理矢理はつまらん。弱い者いじめみたいだしな」
「はい」
今度はグレゴリオも素直に頷いた。
うん、うん。
そうだよな。
ああいうのは、遊びとして楽しむもんだ。
嫌がっている相手を無理矢理どうこうするのとは、まったく違う。
お互い分かっていて、わざとそういうやり取りをするから面白いんじゃないか。
何というか、こう、知的な男としてな。
相手に合わせて楽しむのが大事なのだ。
まぁ、少しばかり芝居がかったやり取りをすることもあるが、あれはあれでなかなか楽しい。
普段とは違う言い方をしたり、わざと大袈裟に振る舞ってみたり。
そういう馬鹿馬鹿しいことを真面目に楽しむのも悪くない。
……うん。
我ながら、なかなか分かっている男だと思う。
そんなことを考えながら一人で満足していると、隣から低い声が聞こえた。
「若様、レティシア嬢たちにバレると大事になりやすぜ」
「……ん?」
セバスチャンが焚き火を見つめたまま、ぽつりと言った。
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
レティシアたち?
何がバレるって?
……あ。
そういえば、さっきから随分と声が大きくなっていたな。
俺はゆっくりと周囲を見回した。
焚き火を囲んでいるのは俺とセバスチャンとグレゴリオだが、少し離れたところには他の騎士たちもいる。
当然、俺たちの声が聞こえないほど遠くにいるわけではない。
むしろ、結構近い。
……まずいな。
いや、別に男同士で女の話をしていただけなら、何の問題もない。
そんなものは誰だってするだろう。
だが、さっきの話は少々まずい。
何しろ、俺が普段どんなことをして楽しんでいるのか、余計な想像をされかねない。
いや、実際にどんなことをしていたかまで分かるわけじゃないが。
しかし、騎士たちが妙なことを口にしたらどうなる?
それがレティシアたちの耳に入ったら?
……うん。
怒るだろうなぁ。
俺はともかく、レティシアたちは怒る。
間違いなく怒る。
そりゃそうだ。
自分たちが何をして楽しんでいたか、そんなことを他人に知られたら、面白いわけがない。
俺だって、わざわざ誰かに教えて回るつもりはない。
それなのに、ついつい調子に乗って喋ってしまった。
いや、詳しいことまでは喋っていないぞ。
喋ってはいないが……。
俺はもう一度周囲を見回した。
近くにいた騎士が、こちらへ顔を向けている。
別の騎士は俺の視線からそっと顔をそらした。
……聞いてたな?
いや、どこまで聞いていたかは分からん。
分からんが、聞いていなかったとは思えない。
こうなったら仕方ない。
俺は少し背筋を伸ばし、騎士たちへ向き直った。
「お前ら!」
声を張り上げると、周囲の視線が集まった。
よし。
ちゃんと聞いているな。
「この話は禁句とする! 絶対に他の奴らには話すなよ!」
俺は騎士たちを見回した。
「話したら処罰するからな!」
念のため、はっきりと言っておく。
別に難しい命令じゃない。
今夜の話を誰にも喋らなければいいだけだ。
それくらいなら、こいつらにもできるだろう。
俺は腕を組み、満足して頷いた。
よし。
これで大丈夫だろう。
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