第三百五十七話 俺たちはまだ焼いていない
「あれがシルジェ要塞か」
馬上から目を細めると、遠くに巨大な城壁が薄く浮かんでいた。
まだずいぶん距離がある。こちらからでは壁の細かな造りまでは分からず、空と地面の間に灰色の輪郭が横たわっているように見える。それなのに、あの大きさだ。近寄ればどれほどのものになるのやら。
馬の歩みに合わせて視界が上下するたび、俺はその輪郭を追った。目を凝らしても城壁は遠く、なかなかはっきりしない。だが、見失うほど小さくもない。なるほど、あれを要塞と呼ぶのなら、確かに相当なものだろう。
「へい、おそらく王国じゃヴォス要塞と匹敵する唯一の要塞ですな」
隣からセバスチャンの声がした。
「なるほどな」
ヴォス要塞か。
マバール領にある、かつてダル兄さんが指揮していた要塞だ。マバール家が王国の貴族だった頃、帝国との国境最前線を守っていた、領内でも最大の要塞。あの巨大な城壁を思い出してから、もう一度シルジェ要塞へ目を向けた。
うん。確かに、ほとんど変わらんように見える。
ダル兄さんが率いていた頃のヴォス要塞を考えると、あそこを力ずくで落とすのはかなり面倒そうだ。壁が高ければいいというものでもないが、あれだけの規模を持つ施設を相手にするなら、それ相応の備えがあると考えるべきだろう。
もっとも、今回は要塞攻めに来たわけじゃない。わざわざ正面から突っ込んで、面倒を増やす理由もないんだよな。
とはいえ、せっかくここまで来たんだ。中がどんな様子かくらいは調べておこう。
俺は馬の背で姿勢を整え、感知魔法を広域展開した。
遠くへ、さらにその先へ。周囲に散らばる魔力反応を拾いながら、狙いをあの城壁の向こうに定める。普通なら遠すぎると感じる距離でも、俺の感知魔法なら十分に届く。
ほどなくして、いくつもの反応がまとまって伝わってきた。
「ふむ、流石にかなりの騎士がいるな」
ひとつ、ふたつと数えるような数じゃない。少し確かめただけで百を超えた。まだ全部を丹念に調べたわけでもないのに、これほどの魔力持ちが集まっている。
なるほど。セバスチャンが言っていた通り、王国側も重要施設の警備を緩めるつもりはないようだ。
これまで俺たちが各地で散々やってきたことを考えれば、当然といえば当然か。守るべき場所まで手薄にしてくれるほど、相手も間抜けじゃないらしい。
逆に言えば、あそこにはそれだけ守る価値のあるものが置かれているのかもしれん。
食糧なんか、たっぷりあるんじゃないか?
だとしたら焼いてやりたいところだが、実際に何がどれだけあるかまでは感知魔法じゃ分からない。大量の騎士がいることは分かっても、食糧の量まで分かるわけではないからな。
「どうですかい?」
俺が要塞の方を眺めたまま黙っていると、セバスチャンが尋ねてきた。
「警備は厳しい様だな。少なくとも騎士の数は百を超えている」
「ちょいと厳しそうですな」
セバスチャンも顔を上げ、遠くの城壁を眺めた。表情はいつもと変わらないが、その返事はずいぶんあっさりしていた。無理に攻めろなどと言わないのは、俺が何を面倒がっているのか分かっているからだろう。
いや、まあ、俺の魔力なら要塞そのものを無理矢理壊すことはできると思う。
問題は、その後だ。
城壁を壊したところで、中にいる騎士が全員まとめて死ぬとは限らない。あれほどの数があれば、あちこちに散らばる奴も出てくるだろう。残った相手を一人ずつ追いかけて倒すなんて、考えるだけで面倒くさい。
以前のようにきっちり包囲して、逃げ場を塞いでから殲滅するなら話は別だ。だが、今はそんな準備もしていないし、ここで足を止めるつもりもない。
食糧が本当にあるかどうかも分からない要塞のために、余計な手間を背負うのは割に合わんな。
「よし、あそこは放っておこう」
「へい」
俺は手綱を動かし、進む向きを変えた。セバスチャンもそれに続き、騎士たちの馬が順に動き出す。振り返れば、シルジェ要塞の城壁はまだ遠くに残っていた。
あそこを本気で攻略するなら、ちゃんと計画を立ててからだな。今は別の仕事がある。
俺たちは要塞から離れ、馬を走らせた。
しばらく進んだ頃だった。
風に、妙な匂いが混じり始めた。
最初は気のせいかと思ったが、馬を進めるうちに少しずつ濃くなる。鼻の奥に引っかかる、乾いた焦げ臭さだ。
「……なんだ?」
顔を上げると、進む先の空に黒いものが伸びていた。
煙だ。
地面に近いところから立ち上がり、風に流されながら広がっている。薄い雲とは色が違う。あれは、何かが燃えている煙だろう。
俺はセバスチャンと顔を見合わせた。
おかしい。
まだ、俺たちは焼いてないぞ?
この辺りで何かに火を放った覚えはない。騎士たちも俺と一緒に移動している。なのに、前方では立派な黒煙が上がっているじゃないか。
「こいつぁ……」
セバスチャンが短く呟いた。
俺はもう一度煙を見た。風にほどけるその下で、何が起きているのかはここからじゃ見えない。どこが燃えているのかも、誰が火をつけたのかも分からん。
だが、こういう時に思いつくことはある。
「領民同士の争いか?」
「おそらくですがね」
セバスチャンが頷く。
「このところ各地を焼いてますからな。おそらく食い物が品薄になっとるんでしょう」
「ああ、なるほどな」
言われてみれば、そうかもしれない。
俺たちは畑を焼き、食糧庫を壊して回っている。運ぶための道も、使えそうな橋も、必要に応じて潰してきた。そうして各地から食い物が消えていけば、残っているものに人が群がるのはおかしくない。
前世でも似たようなことはあった。
普段は当たり前のように物が店に並び、運べば次の品が届くような暮らしですら、値上がりだの品薄だのという話が出れば、途端に買い占めが始まる。必要以上に抱え込む奴もいれば、手に入らずに騒ぐ奴もいる。あれほど物が豊かな場所でさえそうだったんだ。
こちらで食糧が本当に足りなくなったら、もっとひどいことになるだろう。
買い占めるだけで済むとも思えない。腹が減ったからといって、隣の家に食べ物があるのを黙って眺めていられるかどうか。まして、食糧が尽きるかもしれないとなれば、どこまでもつものやら。
目の前の煙がそういう争いの結果なのかは、まだ分からない。セバスチャンだって現場を見たわけじゃないしな。
それでも、十分ありそうな話だった。
俺は黒煙を見上げながら、しばらく考えた。
もし本当に領民同士が食い物を奪い合っているのなら、実にありがたい。
俺たちがわざわざ出向かなくても、向こうで勝手に争ってくれる。食糧が減るばかりか、畑を耕していた連中まで減ってくれるかもしれない。これが一か所だけの出来事じゃなく、あちこちで起きているのだとしたら、なおさら都合がいい。
もっとも、そんな土地を後から支配することになれば、苦労も増えそうだ。
食い物を奪った相手と奪われた相手が、何事もなかったように隣同士で暮らせるとも思えん。畑を焼かれて、人まで減っていれば、元に戻すのも簡単じゃないだろう。
まあ、それは勝った後の話だ。
今から戦争が終わった後の面倒を全部考えていたら、肝心の戦争に勝てなくなる。とりあえずは、王国側の力を削ぐことが先だな。
「どうしやす?」
セバスチャンがこちらを見た。進んで確かめるか、それとも別の場所へ向かうか。あの煙を見てしまえば、判断を聞きたくもなるだろう。
俺は煙の先へ目を向けたまま、首を横に振った。
「せっかく、自分たちで勝手に争ってくれてるんだ。放っておこう」
「へい」
むしろ、頑張ってほしいくらいだ。
誰が誰と争っているのかも知らんが、俺たちに代わって敵の食糧を減らしてくれるのなら、止める理由がない。今ここへ行って騒ぎを収めてやる義理なんぞ、当然ないからな。
それよりも、せっかく思いついたことがある。
俺は馬の向きを少し変え、セバスチャンを見た。
「よし、これまであまり襲撃してない地域を襲うぞ」
「まだ手をつけてない辺りですかい?」
「ああ。畑を焼き、食糧庫を壊せ。橋も落とそう。そうすれば、そこでも争ってくれるだろう」
セバスチャンは前方の煙に一度だけ目を向け、それからこちらへ頷いた。
「なるほど。そういうことですかい」
今までと同じように焼くだけでも、敵の食糧は減る。だが、食い物が残っている場所と残っていない場所ができれば、そこへ別の面倒も生まれるかもしれない。
もちろん、思い通りになるとは限らん。あの黒煙の原因すら、まだ推測の域を出ないんだからな。それでも、試してみる価値はあるだろう。
俺は手綱を握り直した。
「行くぞ」
馬が向きを変え、蹄の音が続いた。背後へ遠ざかる黒煙を最後に一度だけ振り返る。
俺たちが火をつけたわけでもないのに、あれだけ燃えている。
まったく、戦争というのは面白いものだな。
俺たちは煙の上がる場所には向かわず、まだあまり焼いていない地域を目指して走り出した。
本日の更新は、5時、12時、20時の予定です。




