第三百五十二話 焼き払う理由
夜の間、馬を走らせ続けた。
空が白み始める頃には、俺たちはもう王国側へ入っていた。馬の首筋には汗が浮かび、朝の冷えた風が頬に当たる。後ろを振り返れば、セバスチャンたちが距離を保ちながら続いている。誰も余計な声を出さない。
目の前に広がっているのは、小麦畑だった。
薄暗い中でも、伸びた葉の青さが分かる。風が吹くたびに一面が揺れ、葉と葉の擦れる音が、馬の鼻息に混じって聞こえてきた。畑の向こうまではっきり見通せるほど明るくはないが、これだけ広がっていれば、育てるのもなかなか大変だろうな。
収穫までは、まだ何か月かあるんだろう。
それでも、これだけ育っていれば十分だ。今焼いてしまえば、ここまで費やした時間も手間もなくなる。もう一度種をまいたところで、失った時間が戻るわけじゃない。
早朝だからか、動く人影は見えなかった。
感知魔法を展開してみる。近くに目立った魔力反応はない。もっとも、それで誰もいないとは言えないんだよな。平民は魔力を持たない。畑の中や向こう側にいても、感知魔法には引っかからない。
まぁ、いるかもしれんが、だからどうしたという話だ。
「よし、全て焼き払え。攻撃魔法も使って構わん」
俺が命じると、騎士たちが動き出した。
だが、ジノがこちらに顔を向ける。
「抵抗する者は?」
……は?
一瞬、何を聞かれたのかと思った。
「殺せ!」
少し強く声が出た。
こいつ、仕事を忘れてるのか? 俺たちは帝国の騎士だぞ。王国に来て、畑を焼き払おうとしているんだ。止めようとする奴が出てきたら、どうするかなんて決まっているだろうが。
それとも、ベルと遊んでいる姿を見て、俺が情け深くなったとでも思っているのか?
確かにベルは気に入っている。味方どころか、身内に近いくらいにはな。だが、あの娘と王国の民は違う。俺が大切にしたい相手に優しくすることと、敵に容赦することは別の話だ。
ジノはそれ以上何も聞かず、他の騎士たちとともに畑へ向かった。
すぐに、まだ薄暗い空の下で火が上がった。
初めは畑の一角に見えていた赤い色が、次々に別の場所でも膨らんでいく。攻撃魔法が放たれるたびに、青かった葉が炎に包まれ、黒ずんで崩れていった。乾いた音が重なり、朝の静けさがあっという間に失われる。
畑の向こうで何かが動いた。
人だ。
一人、また一人と、畑の間から飛び出してくる。こちらへ向かって声を張り上げる者もいれば、燃え広がる畑の方へ走る者もいた。自分たちが育てた小麦が目の前で焼けているんだ、黙って見ていられないんだろう。
だが、俺たちの仕事を邪魔されても困る。
騎士たちの攻撃魔法がそちらへ向き、飛び出してきた農民も炎に呑まれた。聞こえていた叫び声が途切れても、畑の火は勢いを増していく。
俺は馬上からその光景を眺め、もう一度感知魔法を広範囲に展開した。
近くに魔力反応はない。
騎士でも来るかと思ったが、どうやらここを狙われるとは考えていなかったらしい。もちろん、少し離れた場所にいる可能性はある。それでも今この場で、俺たちを止められそうな相手は見当たらなかった。
火に照らされた畑は、さっきまでとはまるで別の景色になっていた。
もったいないとは思う。
食べ物を育てるのは大変だからな。これだけの小麦が収穫できれば、いったい何人を食わせられたんだろう。
だから焼くんだが。
王国の食料を失わせる。足りなくなれば、別のところから運ばなければならない。そうなれば、運ぶ者も、守る者も必要になるだろう。
ベルと遊んだ計算が、頭の中に浮かんでくる。
パン一万個を運ぶ話をしていた時は、あの娘が答えを出すのを見て楽しんでいた。今はその面倒を、王国の連中に押しつける番だ。
「行くぞ。まだまだ焼くところはある」
炎を背にして、俺たちは再び馬を走らせた。
それからも、狙うのは食料だった。
次に見つけた畑でも騎士たちを動かし、食糧庫を見つければ壊した。閉ざされた扉の向こうに積まれた食料も、建物ごと崩してしまえば使い物にならない。騎士たちが壁へ攻撃魔法を放つと、崩れた破片と一緒に中のものが散らばり、土煙が上がった。
鼻の奥に焦げた匂いが残っている。少し進んだところで風向きが変わると、今度はさっき壊した建物の埃が追いかけてきた。
やれやれ、随分と埃っぽい仕事だな。
そう思いながらも、見つけたものを放っておくつもりはない。
町があれば焼き、砦があれば崩す。もちろん、何もせずに通り抜ける場所もあった。できるだけ移動の方向を読まれたくなかったし、同じ方角へ真っ直ぐ進み続けるのは面白くない。
向かってくる騎士は殺した。こちらの攻撃を止めようとする平民も同じだ。騎士だろうが平民だろうが、抵抗する者を見逃す理由はない。
ただ、無抵抗の平民をわざわざ追い回して殺したりはしない。
面倒だしな。
逃げる者までいちいち追いかけていたら、それこそ時間がいくらあっても足りん。俺たちは平民を一人残らず殺しに来たんじゃない。食料を失わせ、王国を困らせに来たんだ。
騎士は別だぞ。
あいつらは放っておけば、いずれ戦場で俺たちの前に立つかもしれない。目の前にいるなら、わざわざ生かしておく必要はないだろう。
進む方向を変えるたびに、セバスチャンたちもすぐについてくる。俺が急に道を変えても、今さら驚くような奴はいなかった。
王国側からすれば、次にどこへ現れるのか、なかなか分からんだろうな。
そんなことを考えていた時、道がいくつも交わる場所に出た。
馬の足元には、何度も車輪が通ったらしい跡が続いている。道の先はそれぞれ別の方角へ延び、荷を運ぶなら便利そうな場所だった。
……便利そう、というのは、王国にとってだが。
「ここも壊しておくか」
セバスチャンがこちらを見た。
「道ですかい?」
「荷が集まるなら、その辺りを使えなくすれば困るだろ。たぶんな」
確信があるわけじゃない。だが、道が交わっているなら、人も荷も通るだろう。交わる場所を壊せば、そこを利用するのも面倒になるんじゃないか。
騎士たちに命じ、道が交わる辺りを攻撃魔法で破壊させた。土煙が上がり道の真ん中に大穴が空く。周囲は少し小高くなっているしこれで通るのに少し苦労するだろう。俺たちはまた別の方角へ向かった。
しばらく進むと、今度は橋が見えた。
小さなものなら放っておいてもいいが、ある程度の大きさがある橋は別だ。
俺は馬を止め、その向こうへ続く道を眺めた。
橋があるということは、ここを渡れるということだ。逆に橋がなくなれば、ここでは渡れない。別の道を探し、遠回りしなければならない。
遠回りするとなれば、その分だけ時間がかかる。
時間がかかれば、食料も余計に必要だ。
……おお、いいじゃないか。
「壊すぞ」
俺の言葉に従って、攻撃魔法が橋へ向けられる。
重い音が響き、橋の一部が崩れ落ちた。残った部分にも攻撃が加わると、向こうへ続いていた橋は途中で途切れてしまった。
これで、ここを使って食料を運ぶのは難しくなっただろう。
もちろん、ほかの橋があるかもしれない。少し上流か下流へ行けば、渡れるところだってあるかもしれん。
だが、それならそれでいい。
遠回りしてくれれば、その分だけ余計に食料が必要になるんだからな。
ベルと遊んでいたおかげで、こういうことにも頭が回るようになった。
あの娘には感謝しないとな。
そうだ。何か土産でも送ってやろうか。
あれほど数字が好きなんだから、数学の本なんかいいかもしれない。マバール城の書庫にも本はあるが、俺から贈ったものなら、また別の楽しみになるだろう。
問題は、どこで手に入れるかだ。
その辺の村や町に、都合よく数学の本があるとは思えん。
どこかの貴族の屋敷なら、ひょっとすると見つかるかもしれないな。
……よし。
そういう屋敷があれば、ついでに襲ってみるか。
ベルへの土産探しだ。いいものが見つかれば、あの娘も喜んでくれるだろう。
馬を進めながら、俺は周囲へ目を向けた。
それからも畑や食糧庫を狙って各地を移動していると、やがて前方に屋敷が見えてきた。
周囲には壁があり、その向こうに建物が見える。大きさからして貴族の屋敷だろう。近づくにつれ、妙に整った、落ち着いた雰囲気が感じられた。
何だろうな。こういうところなら、本の一冊や二冊ありそうな気がする。
試しに感知魔法を展開すると、屋敷の方から魔力反応があった。
まぁ、いいだろう。
俺は隣を進むセバスチャンへ顔を向けた。
「あの屋敷を襲うぞ」
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