第三百五十一話 ベルの仕事
楽しい時間というのは、どうしてこうも早く過ぎてしまうんだろうな。
ベルと数字で遊び始めてから、もう数日が経っていた。
最初は、ちょっと計算が得意な娘だと思っただけだった。それがどうだ。数字を並べれば目を輝かせ、面倒そうな計算にも夢中になり、図形を見せれば俺が思いもしなかった考え方をする。
いやぁ、面白かった。
おかげで俺も随分と楽しませてもらったし、思いがけず補給について考え直す機会にもなった。
だが、いつまでも遊んでいるわけにはいかない。
何しろ、俺は戦争の真っ最中だ。
俺がのんびりしている間にも戦争は続いているし、遊んでいるばかりではいつまで経っても終わらない。まぁ、仮に今回の戦争が終わったところで、戦いそのものがなくなるとは思えないんだが。
それでも、今やるべきことはある。
ベルをマバール城へ送り届ける手配も済んだ。
武官や文官たちには既に話を通してあるし、城にも手紙を送っている。補給隊に同行させれば、少なくとも俺たちと一緒に馬を飛ばすよりはずっと無理のない旅になるだろう。
本当なら俺が連れて帰ってやるのが一番なんだろうが、そういうわけにもいかない。
何しろ、俺たちの移動は普通の旅とは違う。
馬にまで肉体強化魔法を使い、速度を上げて長距離を駆け抜けるような強行軍だ。まだ幼く、魔力も持たないベルに付き合わせるのは無茶というものだろう。
そんなわけで、俺の前には今、ひどく情けない顔をしたベルが立っている。
「ほら、ベル、元気を出せ! 別に別れじゃないんだから」
「で、でも……」
小さな声が返ってきた。
泣いてはいない。
だが、目元は今にも崩れそうで、口を開けばそのまま涙がこぼれてしまいそうだった。
ううむ、困ったな。
こういう顔をされると、どうにも胸のあたりが痛くなる。
俺だって寂しくないわけじゃないぞ。何日も一緒に遊んでいたんだからな。だが、だからといってお前を連れて戦場へ行くわけにもいかん。
「不安なのは分かるが、マバール城は俺の家みたいな物だ。必ず帰る」
ベルは俺の顔を見上げたまま、しばらく黙っていた。
そして、何か思いついたように口を開く。
「なら、ギルバートさまも一緒に……」
ああ、そう来たか。
確かに、それが一番簡単なんだよなぁ。
俺が一緒に帰れば、ベルも不安にならずに済むだろうし、城に着いてからも面倒を見てやれる。
だが、そうはいかない。
「俺には役目がある。城には優しく美しい女たちがいる。その者たちにはお前のことを頼んでいる。大丈夫だ」
「……はい」
ううむ、返事が小さい。
まぁ、見知らぬ場所へ行くんだから当然か。
俺にとっては住み慣れたマバール城だが、ベルにとっては名前を聞いただけの場所だ。どんなところなのかも、そこにいる者たちがどんな人間なのかも、まだ知らない。
手紙は既に送ってあるし、城で迎える準備についても話は通っている。さらに、ベルには新しく書いた手紙も持たせてある。
それでも、本人の不安が消えるわけじゃないよな。
「いいか、ベル。レティシアとダリアは俺の子を妊娠している。面倒を見てくれ。リエリエールにはお前の世話を頼んでいるから、何でも頼れ」
「は、はい……」
ああ、まずい。
また泣きそうになった。
何だろうなぁ。安心させようとしているのに、どうしてこうなる。
妊娠している二人に無理をさせたいわけじゃないが、ベルなら何かと役に立ってくれるかもしれない。それに、リエリエールにも頼んであるんだから、城で一人ぼっちになるようなことはない。
少なくとも、俺はそういうつもりで話しているんだが。
ベルの表情は、なかなか明るくならなかった。
よし、こうなったら少し話を変えよう。
「お前の仕事は何だ?」
「えっと……えっと……」
ベルが困ったように視線を動かす。
そんなに難しい質問だったか?
いや、俺が城で何か新しい仕事をさせようとしていると思ったのかもしれんな。
「いいか、まずは腹一杯食うことだ。これも手紙に書いてある」
「は、はい」
「それから、楽しめ。お前は数字が好きだろ?」
「は、はい」
「だから数字で楽しめ。それも手紙に書いた。大丈夫だ」
「は、はい……」
……ちゃんと理解してるかな?
さっきから同じ返事ばかりなんだが。
普段なら数字の話をするだけで、もっと顔が明るくなるんだけどなぁ。俺が何か計算を出すと、すぐに考え込み、答えが分かれば嬉しそうに顔を上げる。
ところが今は、俺の言葉に頷くばかりだ。
まぁ、無理もないか。
生まれ育った村を離れて、ようやく少し慣れた俺たちとも離れ、今度は知らない城へ向かうんだからな。
俺がどれだけ大丈夫だと言っても、ベル自身が実際に行ってみるまでは安心できないだろう。
それでも、あまり暗い顔で送り出すのは嫌だ。
「ほら、笑え。食うのも楽しむのも笑うのも、お前の仕事だ。な?」
そう言いながら、俺はベルの両頬に指をかけた。
むにっ。
左右へ引っ張ると、口元が横へ広がった。
うん、これで笑顔だ。
……いや、ちょっと違うか?
「い、痛いでしゅ……」
「あっ」
しまった。
笑わせようとしたのに、ベルの目に涙が浮かんできた。
慌てて手を離すと、ベルは頬を押さえながら俺を見上げる。
ううむ。
なかなか難しいな、子供を笑わせるというのは。
数字ならあんなに簡単に喜んでくれるのに。
そう思っていると、少し離れたところから視線を感じた。
補給隊の隊長だ。
俺と目が合うと、何でもないような顔をして視線を戻す。
だが、少しするとまたこちらを見ている。
……そろそろ出発したいんだろうなぁ。
当然だ。
補給隊には補給隊の予定がある。俺がいつまでもベルとの別れを惜しんでいたら、出発できないじゃないか。
とはいえ、もう少し何か言ってやりたい。
そうだ。
「ああ、そうだ。城の書庫には数字がたくさん書いてある本があるから、それも見せてもらえ。俺が許す」
「は、はい!」
おっ。
今度は少し声が大きくなったな。
ベルが好きなのは数字だ。計算も図形も、あれだけ楽しそうに考えていたんだから、本を読むことができれば、もっと色々なものを知ることができるだろう。
もっとも、読み書きの方はまだ十分とは言えない。
だが、それなら覚えればいい。今まで触れる機会が少なかっただけで、数字に関してはあれほどのものを見せてくれたんだからな。
城の書庫なら、俺と遊んでいた時とは違う数字にも出会えるかもしれない。
何より、楽しんでくれればそれでいい。
「では元気でな。お前の仕事を忘れるなよ」
「……はい」
また小さな返事に戻ってしまった。
やれやれ。
俺はベルの頭へ手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
小さな頭が俺の手の下でわずかに動く。
ベルは俯きかけたが、すぐに顔を上げた。
その顔を見て、俺は笑ってみせる。
これ以上何か言えば、また泣きそうになるかもしれん。
それに、ここで別れるだけだ。
もう二度と会えないわけじゃない。
俺はベルから手を離し、補給隊の方へ歩いた。
待っていた隊長へ軽く頷く。
隊長も頷き返し、出発のために動き始めた。
馬が動き、車輪がゆっくりと回り出す。
荷車が少しずつ進んでいくのを眺めていると、その中から声が響いた。
「ギルバートさま!」
ベルだった。
こちらに向かって、大きく手を振っている。
おお、そんなに振らなくても見えてるぞ。
腕が取れるんじゃないかと思うほど、ぶんぶんと振っているじゃないか。
俺も笑いながら手を振り返した。
よしよし。
一応、元気ではあるな。
あれだけ泣きそうになっていたのに、最後にはちゃんと大きな声も出せた。
荷車はそのまま進んでいく。
ベルの姿が少しずつ遠ざかっても、しばらく手を振るのをやめなかった。
……ちょっと寂しいかな。
数日間、随分と賑やかだったからなぁ。
数字を見せれば考え込み、答えを出せば嬉しそうにして、また次の問題をせがむ。
ああいう相手と遊ぶのは、なかなか楽しいものだ。
それに、あの娘はまだまだ面白くなる気がする。
マバール城で腹一杯食べて、数字で遊んで、よく笑ってくれればいい。
俺が帰った頃には、もっと難しい計算をするようになっているかもしれんな。
そんなことを考えながら、遠ざかる補給隊を見送っていた。
「ずいぶんと気に入ってますな」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返らなくても分かる。
セバスチャンだ。
「まぁな。お前よりは可愛らしいからな」
「そりゃそうでしょうよ」
苦笑まじりの声が返ってきた。
俺も少し笑う。
こいつとベルを比べるのもどうかと思うが、まぁ、間違ってはいないだろう。
セバスチャンは俺の隣に立ち、遠ざかっていく補給隊へ一度視線を向けた。
それから、こちらを見て口を開く。
「それでどうしやす?」
ああ、そうだな。
いつまでも見送っているわけにもいかない。
俺には俺の仕事がある。
「これまでと変わらん。敵後方を荒らしまくる。特に食料を狙うぞ。王国を干上がらせてやれ」
口にすると、頭の中が自然と切り替わっていく。
ベルと数字で遊んでいた時とは違う。
いや、その数字遊びが無駄だったわけじゃないぞ。
むしろ逆だ。
あれのおかげで、補給というものがどれほど面倒なのか、改めて考えることができた。
食料は必要な場所へ運ばなければ意味がない。
運ぶ者も食わなければならないし、距離が伸びればそれだけ多くの食料が必要になる。
ベルと遊んでいる時は数字の問題だったが、戦争ではその数字の向こうに兵たちがいる。
なかなか厄介なものだ。
だからこそ、そこを狙う。
ちょうどいい勉強になったな。
「砦は?」
セバスチャンが尋ねてきた。
「いや、今回はできるだけ広範囲に畑を焼き払い、食糧庫を破壊する。もちろん砦も狙う」
「欲張りですなぁ」
「効率的だろうが」
思わず言い返す。
別に畑を焼いたら砦を攻めてはいけないなんて決まりはない。
行く先に食糧庫があれば壊すし、砦があれば攻撃する。
できるだけ多くの食料を失わせれば、それだけ王国側は困るだろう。
そういえば、面白い話もあったな。
俺はセバスチャンへ少し身体を寄せ、声を落とした。
「どうやら王国側は帝国から小麦を仕入れているらしい」
「ほう」
セバスチャンがこちらを見る。
俺は思わず口元を緩めた。
「俺たちが焼いた小麦を俺たちから買ってくれるんだから、いいお得意さまだよな」
いやぁ、何とも皮肉な話だ。
俺たちが畑を焼き、食糧庫を壊す。
そうやって食料を失った王国が、今度は帝国から小麦を買う。
王国側からすれば笑い事ではないんだろうが、俺たちにとっては悪い話じゃない。
セバスチャンも口元を歪めた。
「そりゃ攻めさせてもらい、その代金を貰っとるようなものですな」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
実際に攻撃の代金を貰っているわけじゃないが、考えてみれば何とも都合がいい。
もっとも、だからといって手を緩める理由にはならん。
むしろ、さらに買ってもらえるように頑張らないとな。
……うん。
なかなかひどい話だな、これ。
だが、俺たちは帝国の騎士だ。
王国が困ることをするのが仕事なんだから、仕方ないだろう。
「準備は?」
「全て整っとります」
セバスチャンはそれだけ答えた。
余計な説明はない。
こいつが整っていると言うなら、出陣に必要な準備は済んでいるのだろう。
「よし、それならすぐに出陣する」
「へい」
返事を聞いて、俺はもう一度だけ補給隊が去っていった方へ顔を向けた。
ベルの姿はもう見えない。
少し寂しくもあるが、いつまでも気にしていても仕方がない。
あの娘にはあの娘の仕事を与えた。
腹一杯食って、数字で遊んで、笑うこと。
俺も自分の仕事をしなくてはならない。
それにしても、随分と元気になったものだ。
数日間、ベルとたっぷり遊んだおかげで、身体も気分もすっかり軽くなっている。
これなら、また思う存分暴れられそうだな。
王国で発散させてもらおう。
そんなことを考えていると、自分の顔つきまで変わっていくような気がした。
ベルと向き合っていた時の緩んだ気分が、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに頭へ浮かぶのは、王国の畑、食糧庫、砦、そしてそれらを守る騎士たちのことだ。
俺はもう一度セバスチャンを見た。
あいつも既に動き始めている。
よし。
ここからはレダリエ騎士団として動こう。
昼を過ぎた頃、俺たちは本陣を後にした。
馬を進ませながら、前方へ目を向ける。
ベルと過ごした数日間は楽しかった。
だが、休みは終わりだ。
俺は手綱を握り直し、馬の速度を上げた。
さぁ、仕事を始めようか。
本日の投稿は、5時、12時、20時の予定です。




