第三十五話 山賊のお仕事
屋敷が燃えていた。
朝靄の残る帝国の空に、黒い煙がまっすぐ上がっている。まだ陽は高くない。湿った草の上には露が残り、遠くの畑では平民たちが一日の仕事を始める頃合いだった。けれど、その屋敷の周囲だけは朝ではなかった。火が壁を舐め、梁を焦がし、割れた窓から赤い光がこぼれている。
ギルは少し離れた庭の石畳に立ち、燃え広がる屋敷を見ていた。
口元には赤布。
衣は粗末だが清潔。
姿だけなら、相変わらず上品な山賊だ。
だが、屋敷の中にいた者たちは、もう誰もそう呼ぶことはない。
門番の兵はセバスチャンたちが処理した。警備に出てきた騎士も、オルドとジノが左右から崩した。使用人の中で逃げようとした者は、外へ回していた騎士たちが止めた。悲鳴はあった。怒号もあった。だが、それも長くは続かなかった。
今回の屋敷は、ダリアが選んだメガレス家系の小貴族だった。
帝都から離れすぎず、かといって守りが厚すぎない場所。家としては古いが、今は当主とその周辺だけで維持されているらしい。騎士の数は少なく、常駐する兵も多くない。財はそれなりにあり、メガレス家の傘の下で生きている。燃やせば噂になる。だが、こちらの消耗は少ない。
実にいい標的だった。
ダリアはそういう屋敷を選ぶのが上手い。
ギルはそれを認めている。
褐色の肌に灰色の髪を持つ女は、今もギルの少し後ろにいた。戦闘の間も、そこから離さなかった。彼女は魔力を持たない。騎士たちの踏み込みや攻撃魔法の余波に巻き込まれれば、それだけで死にかねない。道案内であり、標的を選ぶ目でもある彼女を失うのは困る。
だから、ギルの側に置いた。
守るためというより、必要な駒を失わないため。
そういう考え方をする自分に、今さら戸惑いはなかった。
「若様」
セバスチャンの声が飛んだ。
ギルはそちらを見る。
屋敷の奥、庭へ面した回廊の陰に、白い寝衣のようなものをまとった男が立っていた。年は四十前後か。髪は乱れ、片手には剣を持っている。だが、ただの剣ではない。男の体から魔力が立ち上っていた。貴族だ。
貴族の魔力は騎士とは違う。
量も濃さも違う。
普段なら抑えているのだろうが、今は怒りと恐怖で隠す余裕がないのか、男の魔力は剥き出しに近かった。
「貴族です!」
セバスチャンが叫ぶ。
さすがに、セバスチャンでも貴族を正面から相手にするのはきつい。騎士としては破格に強い。経験もある。だが、貴族は別だ。魔力そのものが違う。防御魔法を張られ、攻撃魔法を撃たれれば、騎士が無理に受けるのは危険になる。
だから、ギルが動く。
ギルは男へ向けて一歩踏み出した。
男が何かを叫んだ。
名前か、家名か、呪詛かは聞き取らなかった。聞く必要もなかった。男の周囲に防御魔法が組まれる。透明な壁のようなものが、朝の光を歪める。貴族の防御魔法。騎士の攻撃なら弾くかもしれない。セバスチャンの一撃でも、正面からなら受け止める可能性はある。
ギルは攻撃魔法を放った。
貫く。
最初の一撃が防御魔法に触れ、歪んだ光を砕くように押し込んだ。男の顔が驚きに変わる。次の瞬間、二発目が同じ場所を貫いた。防御魔法が割れる。三発目が頭を撃ち抜き、四発目が胸を貫いた。
止めない。
倒れた男の心臓の位置へ、もう一度。
頭へ、もう一度。
確実に殺す。
貴族はしぶとい。魔力が体に満ちている。常識外れに生き残ることがある。だから、倒れたから終わりではない。動かなくなったように見えても、息が残っているかもしれない。治癒魔法を使える者がいれば、繋がれるかもしれない。なら、頭と心臓を確実に壊す。
男の体が石畳に崩れた。
ギルは視線を外さない。
魔力の気配が消えていくのを確認する。完全に消えたところで、ようやく周囲を見る。
「奥に、もう一人います」
ダリアの声だった。
彼女は屋敷の構造を知っているわけではない。だが、回廊の奥へ走った女の姿を見たのだろう。ギルは頷き、そちらへ進む。
屋敷の奥は煙が入り始めていた。
壁に掛けられた織物が焦げ、廊下の端で火が小さく跳ねている。使用人らしい女が倒れていた。逃げようとしたのか、手には小さな包みが握られている。ギルは見ない。立ち止まらない。
奥の部屋に、女の貴族がいた。
若くはない。だが、老いてもいない。寝間着に上着を羽織っただけの姿で、腕の中に幼い子を抱いている。子どもは泣いていなかった。泣き疲れたのか、あるいは恐怖で声が出ないのかは分からない。女はギルを見て、何かを言おうとした。
ギルは待たなかった。
女の防御魔法は、先ほどの男より弱い。
だが、貴族だ。
今は弱くても、血は残る。子も残る。見逃せば家が残る。家が残れば、復讐の芽になる。メガレス家へ戻り、こちらの情報を伝えるかもしれない。幼い貴族の子どもが成長すれば、いつか敵になる。そういう世界だ。
敵の血を残して、良いことはない。
ギルは攻撃魔法を放った。
女の防御魔法を砕き、頭と胸を貫く。
続けて、幼い子どもも。
自分の手で殺す。
実際に触れたわけではない。剣で斬ったわけでもない。使ったのは攻撃魔法だ。だが、殺したのはギルだった。そこをごまかす気はない。魔法を使ったから責任が薄くなるわけではない。命令したのでもない。誰かに任せたのでもない。
貴族は、ギルが殺す。
確実に。
部屋の中に魔力の気配が残っていないことを確かめ、ギルは振り返った。
ダリアは入口の近くに立っていた。
顔色は悪い。
だが、目を逸らしてはいない。彼女は汚れ仕事を知っている側の人間だろう。暗殺や襲撃、裏の交渉、そういうものに関わってきたのかもしれない。それでも、ギルの処理の速さと徹底ぶりは、見慣れたものではないのだろう。
ギルは何も言わなかった。
慰める必要はない。
弁明する必要もない。
ダリアも何も言わなかった。
屋敷の外へ出ると、火はさらに大きくなっていた。セバスチャンたちは財を運び出している。金貨、銀器、宝飾品、武具、価値のありそうな小箱。持ち出せるものは持ち出す。山賊だからな。燃やすだけでは山賊として不自然だ。奪ってこそ山賊らしい。
もちろん、ただの略奪ではない。
噂にするためでもある。
貴族屋敷を襲い、焼き払い、財を奪い、生存者を残さない異常に強い山賊。その噂が広がれば、帝国内部に恐怖が走る。不審がられても構わない。むしろ、不審なくらいがいい。どこの家の仕業か、誰が裏にいるのか、勝手に疑ってくれればそれでいい。
「若様、奥は?」
セバスチャンが聞く。
「終わった」
「では、火を回しやす」
「ああ。全部焼け」
「へい」
セバスチャンが指示を飛ばし、騎士たちが動く。
ギルは馬の方へ戻りながら、もう一度屋敷を見た。
燃える屋敷。
消えた貴族家。
これで一つ。
すでに、いくつも焼いた。
メガレス家系の小貴族屋敷をいくつも焼き払った。生存者は残していない。貴族はギルが殺し、騎士や兵はセバスチャンたちが潰し、逃げようとした者も処理した。財は奪い、近くの街で売り飛ばした。売った相手が不審がることもある。だが、金になればいい。噂になればもっといい。
アバルディア家系の屋敷も襲った。
ダリアが選んだ、被害が比較的軽く済む家だ。中にいた貴族は大抵一人だったが、それも確実に殺した。アバルディア関係だけを避ければ疑われる。だから襲う。味方に近い家でも、必要なら焼く。そこに甘さを出せば、全体が崩れる。
フリージア家系も襲った。
数は多くない。だが、被害が散るようにした。
ザザント家系だけは襲わない。
帝都への攻撃で作った不自然な無傷を、今も育てている。メガレス、アバルディア、フリージアに被害がある。だが、ザザントは避けられている。偶然か。誰かの意図か。帝国の者たちは勝手に考えるだろう。
そして、考えれば考えるほど疑いは深くなる。
屋敷が崩れ始めた。
大きな梁が折れ、火の粉が空へ舞う。
ギルは背を向けた。
「出るぞ」
騎士たちが頷く。
ダリアは最後に一度だけ屋敷を見たが、すぐに歩き出した。
その日の昼前には、ギルたちはもう次の街道を進んでいた。
馬の歩調は急ぎすぎない。急げば追われているように見える。かといって遅すぎても、周囲が騒ぎ出す前に距離を取れない。ダリアが選んだ街道は、近くの小さな街へ繋がっている。そこでは、今朝奪った財の一部を売る予定だった。
のんびり進んでいるように見える。
だが、全員の意識は張っていた。
ギルは馬上で周囲を見ながら考える。
そろそろ敵も警戒するだろうな。
これだけ燃やせば当然だ。最初のうちは、ただの山賊か、偶然の襲撃か、屋敷ごとの恨みか、色々考えたかもしれない。だが、いくつも続けば違う。標的には偏りがある。メガレス家系が多い。アバルディアやフリージアも被害を受けている。ザザントだけがない。そこに意図を見ない者はいない。
だが、敵にできることは限られる。
俺がいる。
ダリア以外は全員騎士だ。
現実には、こんなに強力な山賊は存在しないだろう。騎士が何人もいて、その上で貴族屋敷を焼き、財を奪い、生存者を残さない。そんなことができる連中なら、山賊なんて将来性のないことをするより、どこかの貴族に仕えた方がずっといい。普通はそうなる。
だから正体が見えにくい。
ただの山賊ではない。
だが、どこの家か分からない。
アバルディア家か。ザザント家か。フリージア家か。メガレス家内部の候補争いか。それとも別の貴族か。王国の関与まで思いつく者がいるかもしれないが、証拠はない。マバール家がこの件に絡んでいるなど、簡単に表へ出せる話ではない。そもそも俺たちは赤布を巻いた山賊だ。
上品だがな。
「若様」
セバスチャンが馬を寄せる。
「後ろは?」
「今のところ追手らしい気配はありやせん。まあ、あの屋敷から生きて逃げたやつはいねえでしょうから、騒ぎが広がるには少しかかりやす」
「近くの村や街へ煙は見えるだろう」
「見えるでしょうな。ですが、火事と思うか襲撃と思うかは、近づいてみねえと分かりやせん」
「なら十分だ」
ギルは頷いた。
全てを隠す必要はない。
むしろ隠れすぎても困る。噂は広まってほしい。だが、追手に追いつかれるほど早く広まっては困る。その加減が大事だった。
「ダリア」
ギルが呼ぶと、彼女が少し後ろから馬を寄せた。
「はい」
「次の街は安全か?」
「安全とは言えません。ただ、盗品を売るには向いております」
「いい答えだ」
「メガレス家に近い商人もいますが、金に汚い者が多いです。品を見れば買います」
「盗品と分かっても?」
「分かった方が安く買えるので」
「なるほど。商人らしいな」
ギルは少し笑った。
ダリアは相変わらず標的選びが上手い。どの屋敷にも騎士はほとんどいない。帝国名物の小貴族ばかりだ。魔力はあるが、家としての戦力は薄い。大きな屋敷でも、常駐する騎士が少なければ、急襲に弱い。貴族本人さえギルが処理すれば、残りはセバスチャンたちでどうにかなる。
「本当に、よく選ぶな」
ギルが言うと、ダリアは少しだけ視線を伏せた。
「そういう役目ですので」
「アバルディア家でか?」
「はい」
「嫌か?」
「役目です」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
ダリアがどう思っているかは分からない。貴族屋敷を選び、襲撃しやすい場所を示し、被害の軽いアバルディア家系の屋敷を選ばされる。それを好んでやっているとは思えない。だが、役目として受け入れている。なら、今はそれでいい。
街へ着く前、ギルたちは一度小さな林で止まった。
赤布の位置を直し、奪った財をいくつかの袋に分ける。全部を一度に売る必要はない。目立ちすぎる。だが、少しずつ売れば、街に噂が落ちる。山賊が貴族屋敷を襲ったらしい。どこかで焼けた屋敷から出た品ではないか。そんな声が広まる。
ギルは袋の中を確認しながら、ふと思った。
剣と魔法の世界の戦争というものを、前世ではもっと違う形で想像していた。
陣地を組む。
旗を立てる。
兵が一塊になって進む。
騎士が先頭で突撃し、魔法使いが後ろから火を放つ。
そんなものを、なんとなく思い描いていた。物語の影響かもしれない。ゲームの影響かもしれない。細かな記憶はもう曖昧だが、剣と魔法の世界と言えば、大軍が正面からぶつかるような絵が浮かびやすかった。
だが、マバール城の書庫で読んだ本は違った。
歴史書。
戦術書。
古い戦の記録。
もちろん、大規模な集団戦が全くないわけではない。要塞攻略や決戦で、大軍が向き合うこともある。だが、それは思ったほど多くない。むしろ例外的な事例として書かれていることが多かった。
多かったのは、少数の部隊に分かれて移動し、攻撃し、敵に隙を作る形だ。
騎士を中心に小さな班を作る。
平民兵が荷を運び、見張り、道を塞ぎ、騎士を支える。
騎士は魔力と武力で敵の兵を崩し、敵本拠地へ近づく隙を作る。
そして、最後に貴族が攻撃魔法を放つ。
貴族を倒せるのは、基本的に貴族だ。
騎士は強い。だが、貴族の魔力には届きにくい。防御魔法の厚さ、攻撃魔法の威力、肉体の頑丈さ、持久力。どれも違う。だから、この世界の戦いで大事なのは、単純な兵の数ではない。
貴族の強さ。
騎士の働き。
貴族をどこへ入れるか。
騎士がどう隙を作るか。
兵がどこまで支えるか。
それらの組み合わせだ。
前世の感覚で言うなら、近代戦に少し近いのかもしれない。いや、銃も砲もないし、通信も違う。だから同じではない。だが、一塊になって押すのではなく、小さく分かれて動き、決定打を狙うという意味では、どこか似ている気がする。
魔法があるからこそ、密集しすぎると危ない。
強い貴族の攻撃魔法が一塊の兵へ降れば、それだけで大きな損害になる。だから散る。隙を作る。騎士が動く。貴族が叩く。そういう形になったのだろう。
なら、今の俺たちはどうか。
かなり異常な部隊だ。
十人ほど。
ダリア以外は全員騎士。
さらに俺がいる。
普通の山賊ではあり得ない。小さな部隊としては、戦力が濃すぎる。しかも目的は占領ではなく、襲撃と破壊。火をつけ、貴族を殺し、財を奪い、すぐ離れる。防ぐには、相手も貴族を出す必要がある。騎士だけで止めようとすれば、ギルに貫かれる。
では、俺を倒すにはどうするか。
最低でも貴族が十人はいるだろう。
いや、それでも勝てるか分からない。貴族の質にもよる。魔力容量と魔力強度で俺を上回る者は、おそらくいない。少なくとも、これまで会った者にはいない。油断は禁物だ。腐銀のようなものもある。罠もある。人質や毒や地形を使われる可能性もある。
だが、正面戦闘で、注意して襲撃する限り、負ける可能性はかなり低い。
ギルはそれを慢心としてではなく、戦力評価として考えた。
自分が強いことは知っている。
その強さをどう使うかが問題だ。
この世界の倫理観に染まったとか、前世の知識がどうとか、そういうものを今さら切り分ける気はない。俺はこの世界で貴族として生きている。敵の屋敷を焼く。敵の貴族を殺す。血を残さない。必要だからやる。
世のため人のためではない。
俺のため。
マバール家のため。
俺の生活を守るため。
レティシアのいる場所へ帰るため。
そのために、敵国の貴族家を消す。
「若様」
オルドが近づいてきた。
「荷は分け終わりました」
「よし。街へ入るぞ。余計な揉め事は避けろ。だが、舐められたら潰せ」
「承知しました」
ギルは馬に乗った。
街はもう近い。
そこで財を売り、噂を撒き、次へ進む。
山賊の仕事は忙しい。
その日の夕方、ギルたちは街を出た。
財の一部は銀貨と食料、馬の飼葉に変わった。商人は不審そうな目をしていたが、最後には買った。値は叩かれたが構わない。むしろ安く買ったことを後ろめたく思う程度でいい。彼は誰かに話すだろう。奇妙な赤布の山賊が貴族の銀器らしいものを売りに来た、と。
街道へ戻る頃には、空が赤く染まっていた。
ダリアはしばらく黙っていたが、やがてギルの横へ馬を寄せた。
「次の標的ですが」
「ああ」
「メガレス家系の屋敷が一つあります。騎士は少ないはずです。ただ、近くに別の騎士家がありますので、時間をかけると面倒になります」
「距離は?」
「明日の昼過ぎには近くまで」
「守りは?」
「屋敷の貴族は一人。ただし、姉が滞在している可能性があります」
「貴族か?」
「はい。嫁ぎ先から戻っていると聞きました」
「子どもは?」
「分かりません」
「そうか」
ギルは少しだけ考えた。
情報は完全ではない。
いつだってそうだ。
だが、動かない理由にはならない。
「では、そこへ行こう」
ダリアは一瞬だけ目を伏せた。
それから頷いた。
「承知しました」
セバスチャンが横で笑う。
「山賊の仕事は終わりませんな」
「まだ始まったばかりだ」
ギルは赤く染まる街道の先を見た。
帝国内部は広い。
メガレス家系の屋敷はまだある。
アバルディア家系も、フリージア家系も、必要に応じて襲う。
ザザント家だけは残す。
疑いを育て、恐怖を広げ、帝国を揺らす。
そして、どこかで敵は本格的に動くだろう。
貴族を出してくるかもしれない。罠を張るかもしれない。腐銀のようなものを使う者が現れるかもしれない。油断はできない。だが、怖がって止まる気もない。
ギルは手綱を握り直した。
夕風が赤布の端を揺らす。
焼いた屋敷の煙はもう見えない。
だが、噂は残る。
山賊はまだ、帝国の中を歩いている。




