第三十四話 不思議な無傷
帝都の外市街で過ごした数日は、ギルにとって思った以上に悪くない時間だった。
三重の城壁の内側へは入れなかった。そこは残念だ。かなり残念だった。第一市街に並ぶ貴族屋敷、第二市街の豪商や上級騎士たちの区画、第三市街の商家や工房。ダリアの話を聞けば聞くほど、実際に歩いて見てみたい気持ちは強くなった。だが、身分保証に日数がかかる以上、無理に入る理由はなかった。
もちろん、一人分ぐらいなら早く用意できるかもしれない、という話はあった。
その時は少し心が揺れた。
かなり揺れた。
だが、セバスチャンとダリアに全力で止められた。オルドやジノたちにも止められた。俺は「いきなり暴れたりしないぞ」と主張したのだが、誰一人として信用してくれなかった。まったく失礼な話だ。俺は上品な山賊である。上品な山賊はいきなり暴れたりしない。たぶん。
まぁ、外市街だけでも十分に楽しめたからいいけどな。
屋台の肉串は少し硬いが悪くなかったし、塩茹での芋も腹に溜まった。緑がかった茶は渋みの奥にほんのり甘さがあり、レティシアへの土産に茶葉を買った。南方料理の店では、味噌っぽい豆調味料と醤油っぽい豆調味料を見つけた。完全に同じではない。だが、かなり近い。あれは絶対に持ち帰る価値がある。
少量ではあるが、手に入れた。
壺に詰められた豆の調味料は重く、匂いもある。ダリアはかなり渋い顔をした。セバスチャンも「若様、これ持って帰るんですかい」と呆れていた。だが、買った。買わないという選択肢はなかった。これを見逃すくらいなら、帝都まで来た意味が半分ほど消える。
いや、半分は言い過ぎかもしれない。
でもかなり大きい。
何しに来たんだと言われそうだが、俺は本気だ。戦も政治も大事だが、食も大事である。美味いものは生活を変える。生活が変われば気分も変わる。気分が変われば人も動く。そう考えれば、豆の調味料も立派な戦略資源かもしれない。
たぶん。
そういうことにしておこう。
数日目の朝、ギルは外市街の宿の二階で、買い集めた小さな荷を眺めていた。
茶葉。
豆の調味料を詰めた小壺。
南方の香辛料を少し。
それから、外市街で見つけた小さな木製の匙。これはレティシアが使うかどうか分からないが、形が少し面白かったのでつい買った。土産としては悪くないだろう。彼女は呆れるかもしれない。いや、たぶん呆れる。だが、その後で一つずつ確認するはずだ。
その顔を想像すると、少しだけ口元が緩みそうになった。
だが、いつまでも土産のことばかり考えているわけにもいかない。
ギルは窓の外へ目を向けた。
外市街の朝は早い。荷車の音はすでに通りを満たし、屋台からは湯気が上がり、職人たちの槌音も聞こえ始めていた。遠くには帝都の城壁が見える。灰色の壁は朝の光を受けて薄く白く見え、その上に紫の旗が小さく揺れていた。
そろそろ真面目に仕事をするか。
ギルはそう思った。
帝都は見た。
外側だけだが、人の流れ、荷の量、食文化、街の広がり、城壁の位置、旗の色、門の警備。十分とは言えないが、何も知らないよりは遥かにましだ。見物は終わり。ここからは山賊のお仕事である。
「ダリア」
部屋の入口近くに控えていたダリアが、静かに顔を上げる。
「はい」
「帝都の各家の屋敷の位置を、だいたいでいいから教えてくれ」
ダリアは一瞬だけ目を細めた。
驚いたというより、ようやく来たか、という顔に見えた。
「第一城壁内の話でよろしいですか」
「ああ。正確な場所まではいらない。どの家の屋敷群がどの辺りにあるか、それだけでいい」
「承知しました」
ダリアは机の上に布を敷き、そこへ細い木片をいくつか置いた。紙の地図ではない。そんなものを広げれば危険だし、そもそも彼女が持っているとも限らない。彼女は自分の知識と、外市街から見える城壁や塔、門の位置を手がかりに、大まかな配置を示していった。
「皇帝宮は中心です。第一市街はその周囲を囲むように広がっています。メガレス家の屋敷群は北東寄り。アバルディア家は西寄り。フリージア家は南側に近く、ザザント家は東からやや南へかけてまとまっています。ただし、完全に一つの区画というわけではありません。古い屋敷、婚姻で得た屋敷、別邸、役職用の屋敷が混じります」
「だろうな」
ギルは木片の位置を見ながら頷いた。
さすがに四帝家の屋敷がきっちり区画ごとに並んでいるわけではないらしい。それでも、大きな固まりはある。内側の地理を知らないギルには、それだけで十分だった。
「この辺りがメガレスか」
「おおむね」
「アバルディアはこっち」
「はい」
「フリージアは南。ザザントは右側、東寄りか」
「外市街から見た場合は、そうなります」
「ふむ」
好都合だ。
思っていたより固まっている。
もちろん、実際に内側を歩いたわけではない。ダリアもこの場で見てきたわけではなく、アバルディア家から得ている家関係の知識と、彼女が知る帝都の構造をもとに説明している。だから、細部は間違うかもしれない。だが、狙いは細部ではない。
大まかな分布で充分だ。
ギルは何度か位置を確認し、窓の外に見える塔や壁の角度と頭の中で重ねた。
「若様」
セバスチャンが後ろから声をかけた。
「なんだ」
「楽しそうですな」
「そう見えるか」
「悪さを考えてる時の顔で」
「山賊だからな」
「上品な、でしょう」
「そうだ。上品な山賊は下準備を大事にする」
セバスチャンが喉の奥で笑った。
ダリアは黙っている。
彼女はたぶん、俺が何を考えているのか完全には分かっていない。いや、何かをするつもりなのは分かっているだろう。だが、帝都の中へ入れないのに、城壁内の屋敷配置をなぜここまで確認するのか。その答えまでは見えていないはずだ。
翌朝、ギルは外市街をもう一度歩いた。
今回は見物ではない。
目立たないように、いつもよりさらに慎重に動いた。ダリアが示した道を使い、セバスチャンが周囲を見ながら進む。感知魔法は必要な時だけ、狭く薄く触れる程度に抑えた。帝都周辺で余計な魔力操作をすれば、気づく者がいるかもしれない。今は目で見る。壁の高さ、塔の位置、旗の角度、外市街の道の伸び方、遠目に見える第一城壁の一部。
見えるものだけで、だいたいの目星をつける。
ギルは一つ一つ頭に刻んだ。
外市街の人々はいつも通り動いている。屋台では芋が茹でられ、荷受け場ではばらばらの木箱が積まれ、学問所へ子どもたちが走っていく。帝都の外側では、昨日と同じ生活が続いていた。内側では四帝家が皇帝の座を巡って動いているのだろうが、外側の平民にとっては今日の飯と仕事の方が近い。
その日の午後、ギルたちは帝都外市街を離れた。
ダリアは少し安堵しているように見えた。
無表情に近い女だが、数日一緒にいれば、わずかな変化くらいは分かるようになる。少なくとも、帝都で俺がいきなり攻撃魔法を撃たなかったことにほっとしているのだろう。失礼な話だ。俺はそんなに無計画ではない。
セバスチャンは、逆に不思議そうにこちらを見ていた。
「なんだ」
ギルが聞くと、セバスチャンは首を傾げた。
「いや、若様が本当に帝都で暴れなかったんで」
「失敬な」
「てっきり、一つくらい何かやらかすかと」
「俺は上品な山賊だぞ」
「上品な山賊が何をするかは、あっしにもまだ分かりやせんからな」
「ふん」
ギルは少し不満げに鼻を鳴らした。
帝都から離れる道は、来た時よりも短く感じた。
外市街の喧騒が背後へ遠ざかり、荷車の列も少しずつ減っていく。大通りから脇道へ入り、さらに小さな道へ移る。ダリアが選んだ道は、外市街から離れても帝都の方角を見失いにくい。低い丘があり、そこを越えれば、遠くに三重の城壁が見える場所へ出る。
ギルはその地形を見て、そこに決めた。
帝都からかなり離れている。
だが、完全に見えなくなるほどではない。
近すぎれば危険だ。遠すぎればさすがにずれる。ちょうどいいとは言えないが、今の条件では悪くない。周囲に村や宿場はなく、道からも少し外れている。早めに野営を始めても不自然ではない場所だった。
「今日はここだ」
ギルが言うと、セバスチャンは帝都の方角をちらりと見た。
「早いですな」
「休める時に休む」
「へいへい」
騎士たちは手早く野営の準備を始めた。馬を繋ぎ、火を起こし、周囲を確認する。ダリアは少しだけ帝都の方を見たが、何も言わない。彼女にはまだ、俺が何をするのか分からないのだろう。いや、何となく嫌な予感くらいはしているかもしれない。
夕食は肉を焼いた。
外市街で買った肉ではない。道中で調達したものだ。セバスチャンがどこからか手に入れてきた。相変わらず手際がいい。肉そのものは普通だったが、今日は少し違う。
ギルは小壺を取り出した。
「若様、それを使うんで?」
セバスチャンが覗き込む。
「少しだけな」
味噌っぽい豆調味料だ。
貴重なので大量には使えない。だが、試さずにはいられない。ギルは木の匙で少しすくい、焼く前の肉の表面へ薄く塗った。匂いは強い。ダリアが微妙な顔をした。セバスチャンも少し鼻を動かす。
火の上に肉を置く。
しばらくすると、じゅう、と脂が落ちた。
さらに少し遅れて、香ばしい匂いが広がる。
焼けた豆調味料の匂い。
塩気と発酵した甘さ、焦げの香りが混じり、ただの焼き肉とは違う匂いになった。ギルは思わず口元が緩むのを抑えた。
そうだろ、そうだろ。
焼いた味噌の匂いはいいよな。
味噌そのものじゃないけど。
「ほう」
セバスチャンが感心したように声を漏らした。
「匂いは悪くねえですな」
「だろう」
「癖はありやすが、焼くと変わるもんで」
「そうなんだよ」
ギルは肉をひっくり返した。
焦げすぎないよう気をつける。量が少ないから失敗は許されない。外側が焼け、肉汁が浮き、豆調味料の塗られた表面が少し濃い色になったところで引き上げる。
一切れ食べる。
熱い。
塩気が強い。
だが、肉の脂と豆調味料の香ばしさがよく合う。
完全に味噌焼きではない。違う。けれど、近い喜びがある。ギルは内心でかなり満足した。
「悪くないな」
表ではそれだけ言う。
「若様、目が笑ってやすぜ」
「気のせいだ」
「相当気に入ってやすな」
「気のせいだ」
ダリアは焼いた肉を一口食べ、少しだけ目を細めた。
「南方では、魚に使うことが多いです」
「肉にも合うようだ」
「そのようです」
「王国へ持ち帰ったら、色々試せそうだ」
「匂いで嫌がる者もいるかと」
「そこは調理場の腕だな」
レティシアならどうするだろうか。
まず匂いに眉を寄せる。次に、俺が気に入っていると分かると真面目に扱い始める。メイド長あたりは変なものを持ち込んだと怒るかもしれない。いや、怒られるかもしれないのは俺ではなくレティシアか。なら、ちゃんと俺が命じたことにしておかないとな。
そんなことを考えながら、ギルは少量の豆調味料を大事にしまった。
夜は静かだった。
遠くに帝都の光がぼんやりと見える。城壁そのものは闇に沈んでいるが、外市街の火や門周辺の灯りが点々と浮かんでいた。あの中にはまだ大勢の人間がいる。食い、寝て、働き、喋り、明日も同じ朝が来ると思っている。第一城壁の内側では、四帝家の屋敷に明かりが灯っているのだろう。
ギルは早めに横になった。
眠りは浅かった。
翌朝、まだ空が白み始める前に目を覚ます。
冷たい空気が頬に触れた。草には露がついている。馬が小さく鼻を鳴らし、見張りに立っていた騎士がこちらを見た。周囲には俺たち以外の気配はない。少なくとも、見える範囲にはいない。念のため、ギルは狭く感知魔法を触れさせる。魔力の反応は仲間だけだった。
遠くに帝都が見える。
朝靄の向こう、三重の城壁が淡い影になって横たわっている。距離はかなりある。普通なら、ここから帝都へ何かできるとは思わないだろう。矢は届かない。投石機もない。騎兵が駆けても時間がかかる。魔法ですら、常識的には射程外のはずだ。
だが、常識的にやる必要はない。
「セバスチャン」
ギルは静かに言った。
「周囲を警戒しろ」
セバスチャンの顔が変わった。
それだけで、こちらが何かを始めると理解したのだろう。
「全員、周囲を見ろ。道と丘の向こうもだ。誰も近づけるな」
セバスチャンの低い声に、騎士たちが一斉に動いた。オルドとジノが左右へ散り、他の者たちも馬と荷の位置を確認しながら警戒に入る。ダリアは少し遅れてこちらを見た。彼女の顔には、はっきりとした疑問が浮かんでいる。
「ギル様?」
「少し仕事をする」
「ここで、ですか」
「ああ」
ギルは帝都を見据えた。
距離がある。
かなりある。
普通の攻撃魔法なら届かない。魔力は距離が伸びるほど散りやすい。貫くように放っても、焼き払うように広げても、遠くへ行くほど形が崩れる。だから通常、攻撃魔法は目の届く戦場で使う。ある程度の距離は取れても、ここまで離れた帝都へ落とすなど考えない。
だが、ギルには前世由来のイメージがある。
砲弾。
大砲から撃ち出され、弧を描き、遠くへ落ちるもの。
もちろん、実際の大砲を作れるわけではない。詳しい構造も知らない。だが、イメージはある。遠くへ投射し、落とす。攻撃魔法をその形で扱う。魔力を無理矢理まとめ、拡散を抑え、途中までは目立ちにくくし、一定の位置で破壊へ転じさせる。
繊細で、乱暴なやり方だ。
俺の魔力容量と魔力強度がなければ、たぶん成立しない。
ギルは息を整えた。
帝都の第一城壁の内側。
ダリアから聞いた位置。
前日に見た塔と旗と壁の角度。
メガレス家の屋敷群。
アバルディア家の一角。
フリージア家の方向。
そして、ザザント家の位置。
落とす場所。
落とさない場所。
ギルは右手を軽く上げた。
攻撃魔法を放つ。
一発目は、ほとんど音もなく朝の空へ吸い込まれた。
近くにいれば魔力の動きは感じるだろう。だが、目で追うのは難しい。ギルは続けて二発、三発と撃ち出した。砲弾のように。遠くへ、弧を描くように、ただし本物の物体ではなく攻撃魔法として。途中で無駄に光らせない。帝都側に発射の線を見せない。落ちる直前に形をほどく。
四発目。
五発目。
六発目。
体の奥から魔力がかなり抜ける感覚がある。
だが、まだ足りる。
まだ余裕はある。
普通の貴族なら、この距離に届かせるだけで潰れるかもしれない。一般的な騎士なら、そもそも発想すらしないだろう。だが、俺はできる。できるなら使う。
少し遅れて、遠くの帝都に光が走った。
いや、光というより、朝靄の向こうで何かが弾けたように見えた。
その瞬間、帝都の内側に土煙が上がる。
続けて別の場所。
さらに別の場所。
第一城壁の内側、見えるはずのない貴族屋敷群へ、ギルの攻撃魔法が降り注いだ。距離があるため、細部は分からない。だが、土煙の上がる位置は分かる。狙い通り、大まかな固まりへ落ちている。
音は遅れて届いた。
低く、腹に響くような轟音。
どん、と大気が揺れた気がした。
さらに続いて、どん、どん、と音が重なる。
ダリアが息を呑む音が聞こえた。
彼女は帝都を見ていた。
普段の無表情が消えている。褐色の顔から血の気が引き、灰色の髪が朝風に揺れる。その目は土煙の上がる位置を追い、やがて何かに気づいた。
「ギル様」
声が硬い。
ギルは最後の一発を放った。
それが遠くの帝都へ落ちる。
轟音。
朝の静けさが完全に壊れた。
帝都の方角で、鐘の音が鳴り始める。遠すぎて薄いが、混乱が広がっていく気配は見える。城壁の上を兵らしき影が走っている。外市街の方にもざわめきが広がるだろう。まだこちらまでは届かないが、帝都は確実に目を覚ました。
「ギル様!」
ダリアが怒鳴った。
その声は、今までの彼女の声とまったく違っていた。
「あれやったら、アバルディア家の屋敷にも攻撃魔法が当たっとるやんけ!」
ギルは一瞬ぽかんとした。
言葉が違う。
いや、意味は分かる。かなり強い訛りだ。南方の言葉なのか、彼女の地の言葉なのかは分からない。関西弁というわけではもちろんないが、前世の感覚でいうなら、急に標準語を脱ぎ捨てたような勢いがあった。
ネコ被ってたのか。
いや、今それを考えている場合ではない。
ダリアは剣に手をかけかけていた。
セバスチャンがわずかに体を動かす。オルドとジノも反応した。空気が一瞬で張り詰める。ダリアは魔力を持たない。正面から戦えば、俺やセバスチャンの敵ではない。だが、怒りで剣を抜こうとしている相手を軽く見るほど俺は油断していない。
「落ち着け」
ギルは手を下ろした。
「わざとだから」
「わざとやて?」
ダリアの声には怒りが残っている。
いや、怒りしかない。
「あれやったら怪我人も出とる!」
「ああ。下手したら死者も出たかもな」
ギルは静かに答えた。
言い訳はしない。
被害は出る。
それは分かっていた。
屋敷だけを綺麗に壊し、人だけを避けるなどできない。そんな都合のいい魔法ではないし、この距離でそこまで細かく選べるはずもない。アバルディア家の屋敷に攻撃魔法を落とせば、怪我人が出る可能性はある。死者が出る可能性もある。
それでも落とした。
必要だったからだ。
「アバルディアだけが攻撃されなければ、疑われる」
ギルは帝都を見たまま言った。
「メガレス、フリージアが攻撃されて、アバルディアだけ無傷。そんな都合のいい話があるか? 帝都の中枢を狙った攻撃で、アバルディア家だけが外れていたら、誰でも疑う。アバルディア家が関わっているとな」
「せやけど」
「だから当てた」
ダリアの唇が震えた。
怒りを飲み込もうとしているのか、さらに怒ろうとしているのかは分からない。彼女にとってアバルディア家は主筋だ。そこへ俺が攻撃魔法を落とした。怒るのは当然だ。だが、当然だからといって止める理由にはならない。
「若様」
セバスチャンが帝都を見ながら口を開いた。
「あの右側だけ攻撃しとらんのは、なぜですかい?」
ダリアの目が動いた。
彼女は怒りのまま帝都を睨んでいたが、セバスチャンの言葉で土煙の分布を見直したようだった。遠くの帝都。朝靄。上がる煙。第一城壁内部のいくつかの場所が荒れている。その中で、確かに右側、東からやや南へかけての一角だけは、土煙がない。
「あそこらへんは……ザザント家の」
ダリアの声から訛りが少し薄れた。
理解が怒りに割り込んできたのだろう。
セバスチャンがにやりと笑う。
「やれやれ、若様も性格が悪いですな」
「山賊だからな」
「悪党の間違いじゃありやせんか?」
「上品な悪党だ」
ギルは帝都を見据えた。
ザザント家だけを避けた。
もちろん、完全に無傷になるかは分からない。帝都内で破片や火災が広がれば、多少の影響はあるかもしれない。だが、攻撃魔法そのものを落としていない一角は明確にある。メガレス家、アバルディア家、フリージア家には被害が見える。ザザント家の方角だけ、不自然に煙が少ない。
帝都側がどう考えるか。
この距離から撃たれたとは、まず思わないだろう。
普通ならあり得ないからだ。
だが、攻撃魔法がどの方向から降ったか、どの屋敷が狙われ、どこが避けられたかは調べる。第一城壁内部で起きたことだ。貴族や騎士が総出で確認する。発射から途中まで目立ちにくくしたとはいえ、落ちた位置と被害の偏りは残る。
「周囲、特にメガレス家はどう考えるだろうな」
ギルは言った。
「アバルディアもフリージアも攻撃された。メガレスも当然被害を受けた。なのに、なぜザザントだけが目立って無傷なのか」
ダリアは黙っていた。
顔にはまだ怒りが残っている。
だが、目は考え始めている。
「ザザント家は、他の三帝家から疑われます」
ダリアの言葉は戻っていた。
訛りは完全には消えていないが、さっきより抑えられている。
「もちろん、ザザント家は関与を否定するだろうな」
「実際、関与していません」
「そうだ」
ギルは頷いた。
「だが、やっていない証明は難しい」
「否定すればするほど、疑われますな」
セバスチャンが楽しそうに言った。
「特にメガレスは面白くねえでしょう。自分たちもやられた。アバルディアもやられた。フリージアもやられた。なのにザザントだけが、なぜか大きな被害を避けている。偶然か? さあ、どうでしょうな」
「悪い顔をするな、セバス」
「若様ほどじゃありやせんよ」
「俺は顔を隠してる」
「布の上からでも分かりやすぜ」
ギルは少しだけ笑った。
ダリアは笑わない。
当然だろう。
彼女にとっては笑い事ではない。アバルディア家の屋敷に攻撃魔法が落ちた。怪我人も死者も出たかもしれない。ギルの理屈を理解しても、怒りが消えるわけではない。
それでいい。
怒るなとは言わない。
ただ、必要なことは必要なことだ。
「ダリア」
ギルは彼女を見た。
「すまんが、ある程度はアバルディア関係も荒らすぞ」
ダリアの表情が再び硬くなる。
「今後も、ですか」
「ああ。避けすぎれば疑われる。だから、荒らしても被害が少ない家を選べ。政治的に痛くないところ。切り捨てても構わないところ。あるいは、軽い被害で済ませられるところだ」
「……簡単に言いますね」
「簡単ではない。だからお前に聞く」
「本命は」
「無論、メガレス家だ」
ギルは遠くの帝都を見た。
煙が少しずつ上がっている。朝の光に照らされ、薄い灰色の筋が空へ伸びていた。帝都は騒ぎ始めている。門は閉じられるかもしれない。外市街も混乱するだろう。中では各家の騎士が走り、誰が攻撃したのか、どこが被害を受けたのかを確認しているはずだ。
そしてザザント家の無傷が目に入る。
不自然な無傷。
ギルが意図的に作った空白だ。
「そうして、ザザントは襲わない訳ですか」
セバスチャンが言った。
「悪党ですな、若様は」
「そうすれば、ザザント家はメガレス家が襲ってくれるだろ」
ダリアが小さく息を飲んだ。
それから、ゆっくりと言葉を落とす。
「メガレス家に疑われたザザント家は、アバルディア家に救いを求める?」
ギルは頷いた。
「可能性はある。もちろん、確実じゃない。ザザント家が踏ん張るかもしれないし、メガレス家が慎重に動くかもしれない。フリージア家が別の動きをするかもしれない。だが、疑心暗鬼は作れる」
「ザザント家がアバルディア家へ近づけば、メガレス家の皇帝候補たちはさらに警戒します」
「だろうな」
「アバルディア家は被害者として振る舞える」
「実際、被害は受けたからな」
ダリアの目が一瞬きつくなる。
ギルはそれを受け止めた。
ここで甘い顔をする気はない。
「不思議なことに、ザザント家と協力するとアバルディア家への攻撃も止むんだ。不思議だよな」
ギルは遠くの煙を見たまま言った。
ダリアはしばらく黙っていた。
まだ怒りは残っている。いや、残っていて当然だ。だが、その怒りの奥で、ギルの言葉がどこへ繋がるのかを組み直しているように見えた。主家への被害。ザザント家への疑い。メガレス家の反応。アバルディア家の被害者としての立場。今後の山賊の動き。
やがて、ダリアは低く答えた。
「分かりました。ザザント家よりの協力要請は、可能な限り受け入れるように進言しておきます」
セバスチャンが喉の奥で笑った。
「若様、本当に悪党ですな」
「山賊だからな」
「上品な山賊でしたか」
「そうだ」
ギルは最後にもう一度、帝都を見た。
煙はまだ上がっている。
あそこには怪我人がいるだろう。死者もいるかもしれない。アバルディア家にも被害は出た。メガレス家にも出た。フリージア家にも出た。そして、ザザント家だけが不自然に残った。
ここから先は、帝国の者たちが勝手に考える。
誰がやったのか。
なぜザザントだけ無傷なのか。
誰が得をするのか。
否定すればするほど疑われ、庇えば庇うほど関係を勘ぐられる。メガレス家の中に複数の皇帝候補がいるなら、その疑いは内側でも利用されるだろう。誰かがザザント家を攻めろと言い、誰かが慎重になれと言い、誰かがアバルディア家の動きを気にする。
帝国を一つにまとめさせない。
それが目的だ。
「移動するぞ」
ギルは言った。
「ここに長居はしない」
「へい」
セバスチャンが即座に騎士たちへ合図を送る。野営の跡を片付け、馬を引き、荷をまとめる。ギルは小壺がきちんと包まれていることも確認した。豆調味料は大事だ。帝都へ攻撃魔法を落とした直後に何を気にしているんだと言われそうだが、大事なものは大事である。
ダリアはまだ帝都を見ていた。
ギルは彼女に声をかけない。
怒りを飲み込む時間くらいはあっていい。だが、置いていく気もない。彼女は必要だ。アバルディア家にとっても、俺たちにとっても。
やがてダリアはゆっくりと振り返った。
表情は戻っている。
完全ではない。
だが、仕事をする顔だった。
「次はどちらへ」
「メガレス家に近い場所だ」
「承知しました」
「ただし、アバルディア関係で軽く荒らしてもいい場所も考えておけ」
「……承知しました」
その返事には少しだけ苦さがあった。
それでいい。
何も感じない人間より、よほど信用できる。
ギルは馬に乗った。
朝の空気はまだ冷たい。遠くの帝都は煙を上げ、紫の旗は見えないほど遠くなっている。ここからは見物ではない。外市街で屋台を食べ、茶を買い、南方料理に喜んでいた時間は終わった。
山賊の仕事が始まる。
上品かどうかは、まあ、これから考えよう。
ギルは手綱を引き、帝都に背を向けた。




