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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第三十三話 帝都外市街


 三重の城壁は、遠目にも分かるほど立派だった。


 最初に見えたのは、空の下に横たわる灰色の線だった。低い丘を越え、街道の先が広く開けた瞬間、地平の向こうに長く続く壁が現れた。近づくにつれて、その線はただの壁ではなく、外側から内側へ重なる巨大な輪郭なのだと分かってくる。最も外側の壁だけでも十分に高いのに、その向こうにさらに高い壁があり、もっと内側にはまた別の壁らしい影が見えた。


 なるほど。


 これは見応えがある。


 ギルは馬上で少し首を上げた。


 マバール城のような重い軍事拠点とは違う。帝都の城壁には、長い時間をかけて都が膨らみ、そのたびに外へ外へと殻を増やしてきたような迫力があった。三度の大規模な拡張があったとダリアは言っていたが、実物を見ると、その言葉にも重みが出る。


 最初からこの大きさだったわけではない。


 内側に古い都があり、それを飲み込むように二つ目の壁が築かれ、さらに人と物と権力が増え、三つ目の壁ができたのだろう。壁そのものに歴史がある。そう感じさせるだけの厚みと古さがあった。


 ただ、城壁が立派だからといって、簡単に入れるわけではない。


 街道を進む人々の流れは、外側の市街地へ向かって散っていく。荷車を引く平民、旅装の商人、家畜を連れた男たち、布を被った女たち。中には剣を帯びた者もいるが、魔力の気配は薄い。多くは城壁の外側に広がる街へ吸い込まれていくようだった。


 そのさらに奥、城門の近くには別の流れがある。


 門の前には検め役らしい者が立ち、通る人間を選別している。列は長くない。むしろ、城壁内へ入る者は限られているように見えた。荷を積んだ大きな車も、許されたものだけが中へ進む。馬車の紋、護衛の立ち方、持っている札のようなもの。それらが確認されるたび、門がゆっくりと人を飲み込んでいく。


「魔力を持つ貴族や騎士は、簡単には入りにくいのか?」


 ギルが尋ねると、ダリアが頷いた。


「はい。帝都の城壁内へ入るには、身分の保証が必要です。特に魔力を持つ方々は、門で止められやすくなります」


「まあ、そりゃそうか」


 帝都だ。


 皇帝の都である。


 そこへ正体不明の騎士や貴族が簡単に入れるなら、警備としてはかなり雑だろう。しかも今は皇帝継承が揺れている。外から来た魔力持ちを無警戒に通すはずがない。


「アバルディア家の保証は使えないよな」


「使えません」


 ダリアは即答した。


「使えば、アバルディア家があなた方を帝都へ入れたことになります」


「だよなぁ」


 分かってはいる。


 アバルディア家とマバール家は表立って手を組めない。マバール家が帝国の皇帝継承に関わっているなど、王国内でも帝国内でも知られたら面倒どころでは済まない。今の俺たちはただの山賊であり、アバルディア家とは無関係。そういう苦しい形を守るために、ここまで赤布を巻いて歩いているのだ。


 なのに、アバルディア家の保証で帝都に入りました。


 駄目だ。


 雑すぎる。


「裏から簡易の身分保証を用意することはできます」


 ダリアが言った。


「できるのか?」


「日数がかかります。人数分となれば、なおさらです」


「日数かぁ」


 ギルは外側の城壁を見上げた。


 壁の上には小さく兵の姿が見える。旗が風に揺れ、そのうちのいくつかには紫が使われていた。城壁の内側を見たい気持ちはある。第一市街、第二市街、第三市街。貴族屋敷、豪商、上級騎士、小貴族、皇帝宮に近い場所。せっかく来たのだから、できれば見たい。


 だが、日数がかかるなら悩む。


 俺たちは観光客ではない。いや、気持ちとしてはちょっと観光客なのだが、立場は違う。長く留まれば目立つ。目立てば余計なことが起きる。帝都の外側にいるだけでも危険なのに、身分保証のために何日も待つのは面倒だ。


「一人分ぐらいなら、比較的早く用意できる可能性はあります」


 ダリアが続けた。


「一人分か」


 ギルは少しだけ考えた。


 なら、俺だけ入るという手もある。


「若様」


 セバスチャンの声が低くなった。


「まだ何も言ってないだろ」


「言わなくても分かりますぜ」


「いきなり暴れたりしないぞ」


「いきなりじゃなければ暴れるんですかい」


「そういう意味じゃない」


「若様を一人で帝都の内側に入れるなんざ、冗談でもやめてくだせえ」


 ギルはダリアを見る。


 彼女も首を横に振った。


「お勧めしません」


「お前までか」


「はい。たとえ一人分の身分保証を用意できたとしても、案内も護衛もなしに城壁内へ入るのは危険です」


「セバスチャンを連れていけば」


「二人分になります」


「む」


「そもそも、セバスチャン殿も目立ちます」


 セバスチャンが笑った。


「言われてやすぜ、若様」


「お前のせいだぞ」


「あっしの顔は生まれつきで」


「顔だけじゃない」


 ギルは少し不満だったが、全員に止められてまで入るほどではない。外市街だけでもかなり広い。人も物も多い。帝都の中心を見られないのは残念だが、外側を見るだけでも得るものはあるだろう。


「分かった。城壁内は諦める」


 セバスチャンが少しだけ疑わしげな目を向けた。


「本当ですかい?」


「本当だ」


「後でこっそり行こうとしませんな?」


「しない」


「ダリア、見張っといてくだせえ」


「承知しました」


「おい」


 ギルは二人を睨んだが、二人とも表情を変えなかった。


 俺の信用、低すぎないか。


 いや、まあ、仕方ないか。


 ひとまず外市街の宿を取ることになった。


 城壁外に広がる市街地は、予想していたよりもずっと大きかった。外市街と一言で言っても、ただの貧民街や仮住まいの集まりではない。通りは場所によって幅があり、荷車が何台も通れる大きな道もある。店や宿、倉、職人の工房、屋台、馬を預かる厩、荷を集める広場。人の流れに合わせて増え続けた街らしく、整然としすぎてはいないが、無秩序でもなかった。


 もっとごちゃごちゃしているかと思った。


 ギルはそう思いながら通りを眺めた。


 城壁の内側がどうなっているかは知らない。そこはダリアの説明を信じるしかない。だが、外市街だけでも十分に都市だった。王国の領都と比べても、見劣りするどころか、部分的にはこちらの方が人が多いかもしれない。


 宿はダリアが選んだ。


 外から来た行商や旅人が使う場所で、馬を預けられ、裏口もあり、こちらの人数でも不自然ではない。質は高くないが、目立たず泊まるには悪くない。セバスチャンが主人と話し、金を置き、余計な詮索を封じる。宿の主人は山賊というより厄介な傭兵団でも見るような顔をしたが、金を見るとすぐに丁寧になった。


 馬を預け、装備を整える。


 街へ出るのは三人にした。


 ギル、ダリア、セバスチャン。


 オルドやジノたちは宿の周辺を守りつつ、交代で休む。全員で外市街をぞろぞろ歩けば目立つ。三人ならまだましだ。いや、赤布を巻いたギルと凶悪面のセバスチャンと褐色肌のダリアという組み合わせが目立たないかと言われると微妙だが、十人で歩くよりはいい。


 セバスチャンは護衛だ。


 そして監視でもある。


 俺が暴走しないように。


 ダリアが不審な動きをしないように。


 まったく、頼りになるクソじじいである。


 午前中に帝都へ着いたため、外市街はよく動いていた。


 通りには朝の残りと昼の準備が混ざっている。荷を運ぶ男たちが声を掛け合い、屋台の火が赤く揺れ、商人が店先に布や小物を並べている。水売りらしい少年が桶を担いで走り、女たちが籠を抱えて市場へ向かう。少し離れた場所では、槌の音が続いていた。金属か木か、どちらかを叩く音だろう。


 楽しい。


 かなり楽しい。


 帝国の皇位争いだとか、メガレス家だとか、アバルディア家だとか、そういう面倒なことがなければ、普通に一日中見て回りたい。街にはその土地の生活がある。食い物も匂いも人の顔も、王国と似ているところと違うところが混ざっていて面白い。


 ギルは通りの向こうで、子どもたちが一つの建物に入っていくのに気づいた。


 大きな店には見えない。簡素だが、入口の横に板が掲げられており、何かの印が刻まれている。子どもたちは木片や布包みを持っていて、中からは大人の声が聞こえた。


「あれはなんだ?」


「学問所です」


 ダリアが答える。


「学問所?」


「文字と簡単な計算を教えます。商家や職人の子が多いですが、余裕のある家なら平民でも通わせます」


「へえ」


 寺子屋みたいなもんか。


 ギルは前世の知識と照らし合わせてそう思った。もちろん、その言葉は口にしない。だが、似たような仕組みは領都マバールにもある。商人や職人は読み書きや計算ができた方がいい。税や契約、帳簿にも関わる。世界が違っても、人間が暮らし、商売し、子どもへ何かを教えるとなれば、似た形になるのかもしれない。


「領都にも似たような場所はあるな」


「マバールにもですか」


「ああ。商人や職人が使う。貴族や騎士の子が行く場所ではないけどな」


「帝都でも同じです。貴族や騎士の子は家で学ぶことが多いです」


「まあ、そうなるよな」


 通りをさらに進むと、屋台からいい匂いがした。


 焼いた肉の匂いだ。


 塩と脂の匂いが風に乗り、腹を直撃してくる。串に刺した肉を火の上で炙っており、表面が焦げて音を立てている。帝都外市街に来て最初の屋台飯としては、実に分かりやすい。


「食うか」


 ギルが言うと、セバスチャンが眉を動かした。


「いきなりですかい」


「匂いがいい」


「毒見は」


「俺に毒が効くと思うか?」


「腐銀の話を聞いた後でそれを言いやすか」


「む」


 それを言われると少し困る。


 腐銀は別だ。


 普通の毒とは違う可能性がある。


「では、私が先に」


 ダリアが言った。


「お前が?」


「はい。魔力を持たぬ者に効く毒であれば別ですが、少なくとも腐銀の類であれば私では確認できません。ただ、屋台の品にそこまでの毒を入れる理由は薄いかと」


「それはそうだ」


 ギルは屋台の主人から串を三本買った。


 ダリアが先に一口食べる。表情は変わらない。少し待ったが、当然ながら倒れない。ギルも口に運んだ。


 熱い。


 塩が強い。


 肉は少し硬いが、脂があり、噛むと旨味が出る。王国の肉串と大きく違うわけではない。ただ、使っている香草が少し違うのか、後味に知らない香りがあった。


「悪くないな」


「屋台の肉にしては、まあまあですな」


 セバスチャンも普通に食っている。


 このクソじじい、文句を言いながらちゃんと食う。


 次に、塩茹での芋を買った。


 木の器に小さな芋がいくつも入っており、上から粗い塩が振られている。皮ごと噛むと、ほくほくしていて、少し土っぽい甘さがある。王国でも芋は食べるが、この外市街ではやけに芋の屋台を見かける気がした。


「芋が多いな」


「帝都周辺ではよく食べます。小麦がやや高いので」


 ダリアが説明する。


「なるほど。パンだけじゃ腹が高くつくのか」


「裕福な者はパンを好みますが、外市街では芋や豆も多いです」


「ふむ」


 ギルは芋をもう一つ口に入れた。


 悪くない。


 これも調理場に何か応用できるかもしれない。芋なら腹に溜まるし、塩だけでも食える。潰して焼く、肉と煮る、油で揚げる、粉と混ぜる。いくつか思いつくが、芋の種類や保存性にもよる。今は見るだけにしておこう。


 通りを歩く人々の肌は、王国と大きく変わらない者が多かった。白に近い肌、淡い髪、濃い髪、灰色や茶の瞳。ただ、その中に時折、ダリアと似た褐色の肌が混じる。顔立ちも少し違う。細身で、頬の線が鋭く、目元がやや深いように見える者がいる。


「あの辺りは、ダリアと似ているな」


「南方諸国の血が入っている者でしょう」


「南方か」


「私の祖先も南方出身です」


「そうなのか」


「はい。帝都には南方から来た商人や職人もいます。食べ物も少し違います」


「それは後で見たいな」


 ダリアが少しだけこちらを見た。


「南方料理に興味が?」


「ある。食文化は大事だ」


「変わった貴族ですね」


「よく言われる」


「たぶん、まだ言われ足りないかと」


「お前、やっぱり意外と言うな」


 セバスチャンがにやにやしていた。


 ギルは無視した。


 城壁に近い大通りへ出ると、第一城壁の上に紫の旗が見えた。遠いので細かな紋は分からないが、紫だけははっきりと目に入る。灰色の壁、土色の街、白や茶の衣の中で、紫は妙に目立った。あれが皇帝色なのだろう。


「紫は皇帝しか使えないんだったか」


「はい。皇帝色です。皇帝以外が正式な場で使うことは禁じられています。皇帝への献上品にも、目印として紫の布が巻かれることがあります」


「へえ」


 色で権威を示す。


 前世にも似た話を聞いた気がする。古代中国やローマ、他にも色々あったはずだ。紫が高貴な色だとか、特定の色を身分で制限するとか。詳しくは覚えていないが、権力者というのは、どこの世界でも分かりやすい象徴を独占したがるのだろう。


 この世界でも同じようなことをしている。


 少し面白い。


「なんですか?」


 ダリアが聞いた。


「いや、権力者は色まで支配したがるんだなと思って」


「色は遠くからでも分かります」


「確かに」


 旗があれば、遠くからでも誰の権威か分かる。献上品に紫布を巻けば、途中で手を出す者は減る。色そのものが命令になる。そう考えると、単なる趣味ではなく実用もあるのだろう。


 しばらく歩くと喉が渇いた。


 ダリアが近くの茶店を示す。


 外から見える席があり、旅人や商人が腰掛けている。奥へ入りすぎないので逃げやすい。セバスチャンも周囲を見て、まあいいでしょう、と言った。ギルは席に座り、店の女に茶を頼む。


 出てきた茶を見て、ギルは少し驚いた。


 色が薄い緑だった。


 香りも、王国でよく飲む茶とは違う。草に近い青い香りがあり、湯気の奥に渋みが見える気がした。ギルは器を手に取り、少し冷ましてから口に含む。


 渋い。


 だが、嫌な渋さではない。


 奥にほんのり甘さがある。


「ふむ。渋いが、なんとなく奥に甘さがあるな」


 ギルは素直に言った。


「若様、よくそんなもん飲みやすな」


 セバスチャンは顔をしかめていた。


「お前は苦手か」


「あっしはいつもの茶で十分で」


 セバスチャンは別の茶を頼んでいた。赤みのある、王国でも飲むような茶だ。香りも強い。ギルは緑の茶をもう一口飲む。完全に同じではないが、少し日本茶に似ている。前世の記憶が舌の奥でぼんやり動く。


「ダリア、この茶葉は買えるか?」


「買えます」


「なら買っておいてくれ。土産にする」


「誰への土産ですか」


「俺の専属メイドへ」


「……承知しました」


 ダリアが一瞬だけ間を置いた。


 何か思ったのかもしれないが、聞かなかった。


 レティシアはどんな顔をするかな。


 珍しい茶葉を見せたら、まず香りを確かめるだろう。俺が飲んで気に入ったと言えば、少し真面目に淹れ方を研究しそうだ。渋い顔をするか、面白がるか。たぶん両方だ。あの女は、俺が変なものを持ち帰ると呆れながらも付き合ってくれる。


 早く見せたい。


 そう思ってしまい、少しだけ胸の奥が柔らかくなった。


 茶店を出た後も、ギルはあちこち見て回った。


 布を売る店、金属細工の屋台、香辛料を置く小さな露店、荷車の修理場、陶器を並べる店。外市街だけでこれなら、城壁内はどれほどなのだろうと思う。もちろん、中に入るのは諦めた。諦めたが、興味は消えない。


 やがて街外れの荷受け場に出た。


 セバスチャンはすぐに顔をしかめる。


「若様、こんなとこじゃ見るもんもありませんな。戻りましょうや」


「いや、面白いぞ」


「荷しかありやせんぜ」


「荷が面白いんだろ」


 広場には荷車が何台も停まり、男たちが木箱や袋、壺、樽を降ろしていた。大きさはばらばらだ。細長い箱、ずんぐりした箱、丸い壺、背負い袋、縄で縛られた布包み。荷車も統一されていない。車輪の幅、荷台の高さ、引く馬や牛の大きさ。見ているだけで、積み替えが面倒そうだと思う。


 これ、揃えた方が運びやすそうだよなぁ。


 ギルは内心で考えた。


 箱の大きさ、荷車の幅、樽の寸法。ある程度だけでも合わせれば、積むのも降ろすのも早くなりそうだ。倉に置く時も、船に載せる時も、馬車へ移す時も、便利になるだろう。


 ただ、絶対に揉める。


 商会ごとにやり方がある。職人ごとの寸法もある。運ぶ品によって形も違う。領地によって道幅も違うだろうし、馬や牛の体格も違う。何より、誰がその規格を決めるのか。決めたところで従わせる権力がいる。箱職人や荷車職人も反発しそうだ。


 効果はありそうだ。


 だが、面倒くさそうでもある。


 今ここでやるかどうか決める話ではない。


「荷は多いのか?」


 ギルが尋ねると、ダリアは首を少し傾けた。


「私には判断できません。帝都外市街では、常に荷の出入りがありますので」


「まあ、そうだよな」


 見ただけでは分からない。


 普段と比べて多いのか少ないのか、季節によるのか、皇位継承の混乱で増減しているのか。そういうものは、継続して見ている者でなければ分からない。


 それでも、荷の形がばらばらなのは見えた。


 これは覚えておこう。


「戻りやしょう」


 セバスチャンが言う。


「分かった分かった」


 ギルは名残惜しく荷受け場を離れた。


 街中へ戻り、あちこち歩く。


 その途中だった。


 ふと、匂いがした。


 ギルは足を止めなかったが、意識だけがそちらへ引かれた。


 なんだ、この匂い。


 少し癖がある。


 魚の匂いか。


 それとも何か発酵したような匂いか。


 どこかで覚えがある気がした。けれど、すぐには結びつかない。前世の記憶の奥を軽く叩かれたような、妙に気になる匂いだった。


 ギルは何も言わず、匂いのする方へ歩いた。


 セバスチャンがすぐに気づく。


「若様?」


「少しこっちを見る」


「何かありやしたか」


「店だ」


 それだけ言って進む。


 ダリアもついてくる。しばらく細い通りを入ると、他の店とは少し雰囲気の違う料理屋があった。店先に干した魚のようなものが吊るされ、扉の横には見慣れない模様の布が掛かっている。中からは煮込みの匂いが流れていた。


「南方料理の店です」


 ダリアが言った。


「南方料理」


「南方諸国は海に面した地域が多く、魚料理をよく使います。匂いに癖があるため、苦手な者もいます」


「ほう」


 ギルは迷わず店へ入った。


 セバスチャンが少し呆れた声を出す。


「本当に入るんですかい」


「名物を食べる」


「若様は帝都に何しに来たんですかね」


「見物だ」


「山賊の見物は幅広いですな」


 店内は広くないが、客はそこそこいた。褐色肌の者が数人、外市街の商人らしい男、旅人。香りはさらに濃い。魚、豆、塩、何かを煮詰めたような匂い。ギルは席に座り、ダリアに名物を頼ませた。


 最初に出てきたのは、魚の煮込みだった。


 白身の魚らしいものが、薄茶色の汁で煮込まれている。香草と、細かく刻まれた野菜も入っていた。ギルは匙で少しすくい、口に運んだ。


 その瞬間、内心で固まった。


 なんだこれ。


 魚の旨味と塩気の奥に、発酵した豆のような深い風味がある。完全に知っている味ではない。だが、かなり近い。味噌汁ではない。魚の煮込みだ。けれど、味噌に近い何かがある。


 ギルは顔に出さないよう、ゆっくり飲み込んだ。


「どうです?」


 ダリアが尋ねる。


「珍しい味だな」


「苦手ですか」


「いや、面白い」


 面白いどころではない。


 かなり動揺している。


 ギルは続けて別の料理も頼んだ。


 次に出てきたのは、肉と芋の煮込みだった。


 黒っぽい煮汁が芋に染み、肉は柔らかく煮られている。香りは先ほどより強い。甘さと塩気が混ざったような匂い。ギルは肉を少し切り、芋と一緒に口へ運ぶ。


 甘辛い。


 黒い煮汁が芋に染みている。


 肉の脂と混ざり、妙に懐かしい味がする。


 これ、かなり醤油っぽいぞ。


 いや、醤油そのものではない。味も匂いも少し違う。だが、方向性が近すぎる。肉じゃがに近い。いや、肉じゃがそのものではないが、前世の食卓のどこかにあった味の影が見える。


 ギルは動揺を押し殺しながら、ダリアへ視線を向けた。


「珍しい味だが、何を使っているんだ?」


「豆から作る調味料です」


「豆」


「はい。煮て、潰して、塩などと合わせ、長く置くと聞きます。詳しい作り方は職人でなければ分かりませんが」


「広まっていないのか?」


「癖が強いので、帝都でも南方の者や一部の料理屋で使われる程度です」


「他の地域でも作るのか?」


「南方諸国以外では、ほとんど作れないそうです。同じように作っても、味が変わると聞きます」


「ふむ」


 水か。


 気候か。


 発酵環境か。


 ギルの頭の中で、前世のぼんやりした知識が暴れた。菌という言葉は浮かぶ。だが、それをこの世界でどう扱えばいいのか分からない。そもそも、俺は専門家ではない。味噌も醤油も作り方を詳しく知っているわけではない。ただ、豆を発酵させるものだという程度だ。


 それでも、これは惜しい。


 諦めるにはあまりにも惜しい。


「持ち帰れるか?」


「重いです。匂いもあります」


 ダリアが即座に言った。


「茶葉より難しいか」


「かなり」


「職人は?」


「紹介できる者がいるかもしれません。ただし、南方出身の職人を王国へ連れていくとなると、簡単ではありません」


「まあ、そうだろうな」


 帝国国内でも南方以外では作れないというなら、王国で作るのはさらに難しいかもしれない。だが、試す価値はある。材料、職人、環境。分からないことは多いが、一度持ち帰れれば調理場で研究できる。レティシアに見せたら、まず匂いで眉をひそめそうだ。その後、俺が真剣だと分かると、きっと付き合ってくれる。


 茶葉。


 味噌っぽいもの。


 醤油っぽいもの。


 南方職人。


 帝都に来て何を考えているんだ俺は。


 いや、大事だ。


 美味いものは大事だ。


 生活を変えるものは価値がある。


 ギルは肉と芋の煮込みをもう一口食べた。


 やはり美味い。


 セバスチャンは少し微妙な顔をしていたが、食えないほどではないらしい。ダリアは淡々と食べている。彼女にとっては珍しくない味なのかもしれない。


 食事を終え、店を出る頃には、ギルの頭の一部は完全に南方料理に奪われていた。


 宿へ戻る道すがら、ダリアは少しだけギルを観察していた。


 変わった貴族だ。


 そう思われている気がする。


 実際、ダリアの目はそんな感じだった。普通に外市街を歩き、屋台の肉串や芋を食べ、初めての茶を面白がって飲み、南方料理を喜ぶ。他国の貴族がこんな風に街を見物するのは珍しいのだろう。


 だが、俺は無警戒で歩いていたわけではない。


 必要な時だけ、狭く、薄く、感知魔法を使っていた。帝都周辺で広く感知魔法を広げれば、他の魔力持ちに気づかれる危険がある。感知魔法そのものを使った気配を拾われれば、警戒される。だから角を曲がる前や、人混みで妙な圧を感じた時だけ、ほんの短く周囲を撫でる程度に留めた。


 もっとも、魔力を持たないダリアにそれは分からない。


 彼女に見えているのは、たぶん俺の視線や立ち位置、セバスチャンの動きくらいだろう。屋台に気を取られているようで、セバスチャンが常に逃げ道を押さえていること。俺が人混みの中心ではなく少し端を歩くこと。ダリアが時々その辺りを見ているのは気づいていた。


「何か?」


 ギルが尋ねると、ダリアは少しだけ間を置いた。


「いえ。楽しそうにされるのだな、と」


「街を見るのは楽しいぞ」


「貴族は、あまりこういう場所を歩きません」


「だろうな」


「まして屋台の品や南方料理を、そこまで気に入る方は初めて見ました」


「美味いものは大事だ」


「そういうものですか」


「そういうものだ」


 セバスチャンが横で呆れたように笑った。


「若様は飯のためなら本気になりますからな」


「飯は大事だろ」


「否定はしやせんが、帝都に来て豆の調味料に目を輝かせる貴族は少ねえでしょうな」


「光ってたか?」


「光ってやした」


「嘘だろ」


 ダリアがそっと目を逸らした。


「おい」


「否定は難しいです」


「またそれか」


 ギルはため息をついた。


 宿へ戻ると、空は少し傾いていた。


 外市街の通りにはまだ人が多い。夕方に向けて、屋台の火が増え、荷をまとめる男たちの声も大きくなっている。帝都の城壁はその向こうで静かにそびえ、紫の旗が風に揺れていた。


 ギルは宿の入口で振り返る。


 三重の壁。


 外へ膨らんだ街。


 学問所。


 屋台。


 茶。


 荷受け場。


 南方料理。


 全部、面白かった。


 帝都の中へは入れなかったが、外だけでも十分に得るものはあった。むしろ、外だからこそ見えたものもある。人の流れ、食の違い、荷の形、色の権威、外へ広がる市街地。


 そして、味噌と醤油に近いもの。


 どうにかして手に入れたい。


 茶葉は買える。豆の調味料も少量なら買えるかもしれない。重くて匂うなら、容器を工夫する必要がある。職人を招くのは難しいが、絶対に不可能とは言い切れない。ダリア経由で南方出身者に接触できるかもしれない。材料と作り方を聞けるだけでも価値がある。


 帝国へ来て、俺は何をしているんだろうな。


 皇位継承を揺らし、メガレス家やザザント家を削ることを考えるべきなのに、頭の一部が完全に食文化へ向いている。


 だが、仕方ない。


 美味いものは正義だ。


 レティシアに茶を淹れさせ、調理場で魚の煮込みや肉と芋の煮込みを再現させる。もし成功すれば、マバール家の食卓が変わる。食卓が変われば、人の気分も変わる。大げさに言えば、文化が増える。


 悪くない。


 かなり悪くない。


「若様」


 セバスチャンが呼んだ。


「なんだ」


「今、また何かろくでもねえことを考えてやせんか」


「失礼な。美味い飯のことを考えていただけだ」


「それも場合によってはろくでもねえことになりやすからな」


「ならん」


「若様の場合、料理から商人を動かして職人を呼んで生産拠点に無茶振りするところまで行きやす」


「……」


「図星ですな」


 ギルは黙って宿へ入った。


 否定は難しかった。

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