第三百四十六話 腹いっぱいが最初の仕事
しばらく天幕で休んでいると、外から聞き慣れた声がした。
「若様、ベルを連れてきやしたぜ」
おお、戻ってきたか。
「入れ」
俺が答えると、天幕の入り口が開き、セバスチャンが顔を覗かせた。その後ろには、何やら落ち着かない様子のベルが立っている。
「へい、お待たせしやした」
「うむ、ご苦労」
そう答えながら、セバスチャンの後ろにいるベルへ目を向けた。
「ほう」
思わず声が出た。
いやぁ、これは驚いたな。
きれいに洗われたベルは、随分と印象が変わっていた。
汚れの落ちた顔は思っていたよりも白く、くりっとした大きな目がよく目立つ。鼻は少し小さめで、口はやや大きい。顔立ちそのものはまだまだ子供らしいが、なかなか愛嬌がある。
絶世の美女とまではいかないが、充分に可愛らしいと思う。
何より、あれほど汚れていた髪がきれいになったのが大きい。
顔にこびりついていた汚れも落ち、ようやく本来の姿が分かったような気がする。
うーむ。
やっぱり風呂に入れて正解だったな。
しかも、服まで着替えている。
村から着てきたくたびれた服ではなく、きれいな服を身につけているものだから、なおさら別人のように見えた。
もっとも、本人はあまり落ち着かないらしい。
俺と目が合うと、ベルはもじもじしながら服の裾に手を添え、恥ずかしそうに俯いてしまった。
「どうした? きれいになったじゃないか」
「あ、ありがとう、ございます……」
ベルは小さな声で答えたが、相変わらず顔を上げようとしない。
ん?
何だ?
そんなに恥ずかしいのか?
別に変な服を着せたわけでもないし、俺から見れば充分に似合っているんだが。
「服もよく似合っているぞ」
そう言ってやると、ベルは一瞬だけこちらを見上げた。
そして、また俯いてしまう。
うーん。
照れているのか、それとも慣れない服が気になるのか。
まぁ、どちらでもいいか。
無理に顔を上げさせる必要もないだろう。
それにしても、こうして見ると本当に小さな子供だな。
馬の蹄の数をあっという間に計算してしまうものだから、ついつい妙な期待をしてしまうが、目の前にいるのはまだ幼い娘なのだ。
才能がどうこう言う前に、まずは普通に暮らせるようにしてやらないとな。
何しろ、これからしばらくは俺が面倒を見るんだから。
「風呂はどうだった?」
尋ねると、ベルは少しだけ顔を上げた。
「はい、気持ちよかったです」
「そうか、それはよかった」
うんうん。
ちゃんと入れたようで何よりだ。
一人で入れないと言われた時はどうしたものかと思ったが、別に大した問題ではなかったな。
セバスチャンへ視線を向ける。
「世話をしてくれた者には礼を言っておいてくれ」
「へい、分かりやした」
よし。
これで風呂の問題は片付いた。
となれば、次は飯だな。
外もすっかり暗くなっているし、俺もそろそろ腹が減ってきた。
ベルも腹を空かせているんじゃないか?
「よし、では、メシにするか。たくさん食べるんだぞ」
「は、はい!」
おお、いい返事だ。
さっきまで俯いていたくせに、食事の話になるとちゃんと顔を上げるんだから、なかなか分かりやすい。
まぁ、子供はそれくらいでいいんだ。
「セバス、お前も一緒に食うか?」
「へい、そうさせてもらいやす」
「うむ」
そういうわけで、俺たちは三人で食事を取ることにした。
用意されていたのは、蒸した芋に焼いた肉、それから野菜の入ったスープだった。
戦場で食べる飯としては、充分すぎるくらいだろう。
俺としては、こういう飾り気のない飯も嫌いではない。
蒸した芋は腹にたまるし、肉があれば満足感もある。温かいスープまでついているんだから文句はない。
何しろ、腹が減っている時は何を食ってもうまいものだ。
……いや、さすがにまずいものはまずいか。
まぁ、今日の飯は問題なさそうだ。
俺が席につくと、ベルも少し遅れて腰を下ろした。
ところが、目の前に食事が並んでいるというのに、なかなか手を伸ばそうとしない。
ん?
さっきはあんなに元気な返事をしたのに、どうした?
「ベル、食べないのか?」
「た、食べます」
そう答えながらも、ベルは恐る恐る芋に手を伸ばし、小さく口へ運んだ。
それから、また自分の服へ視線を落とす。
ああ、なるほど。
そういうことか。
どうやら新しい服を汚すのが気になるらしい。
確かに、せっかくきれいな服を着せてもらったんだから、汚したくないと思うのも分からんではない。
だが、それで飯を遠慮するのは本末転倒だろう。
「ベル」
「は、はい」
「服のことなんか気にするな」
ベルは少し困ったように俺を見た。
「でも……」
「気にするな。まず、お前の仕事は腹一杯食べる事だ」
そう言ってやると、ベルは大きな目を瞬かせた。
うむ。
そうだぞ。
前にも言ったが、今のお前に難しいことをやらせるつもりはない。
俺がベルを連れてきたのは、働かせるためでもなければ、何かの役に立てるためでもない。
面白い才能を持っているから、どうなるのか見てみたいと思っただけだ。
それなのに、食事も満足に取れないようでは困る。
そもそも、育ち盛りなんだからな。
腹いっぱい食べて、大きくなってもらわないと。
「服なんて汚れたら洗えばいい。それよりちゃんと食べろ」
「……はい!」
ベルは少しだけ表情を緩めると、再び芋に手を伸ばした。
今度は先ほどよりも大きく口を開け、もぐもぐと食べ始める。
よしよし。
それでいい。
俺も肉を口へ運びながら、そんなベルを眺めていた。
最初こそ遠慮がちだったが、一度食べ始めると、なかなかいい食いっぷりだ。
芋を食べ、スープを飲み、肉にも手を伸ばす。
口の中のものを飲み込んでは、次の食べ物に目を向けている。
何とも忙しそうだ。
まぁ、腹が減っていたんだろうな。
村ではどんな暮らしをしていたのか、俺は詳しく知らない。
ただ、あの家の様子を思い出せば、毎日好きなだけ食べていたとは考えにくい。
もちろん、俺の勝手な想像ではあるんだが。
それにしても、ずいぶん食べるな。
ベルは小さな身体をしているくせに、なかなか食事の勢いが衰えない。
蒸した芋を食べ終えると、また肉を口へ運び、時折スープを飲んでいる。
その様子を見ていると、何だかこちらまで楽しくなってくる。
うん。
いいことだ。
「うまいか?」
俺が尋ねると、ベルは口の中のものを飲み込んでから頷いた。
「はい、おいしいです!」
「そうか。なら遠慮せずどんどん食え」
「はい!」
そして再び食べ始める。
実に素直でよろしい。
俺は隣にいるセバスチャンへ目を向けた。
セバスチャンも普通に食事を続けていたが、俺の視線に気づくと、ちらりとこちらを見た。
「どうしやした?」
「いや、ベルはなかなかよく食うなと思ってな」
「そうですな」
セバスチャンはベルの方を見た。
そして、少し口元を緩めた。
「それだけ食えりゃ、結構なことでさ」
「だよなぁ」
うん。
まったくその通りだ。
食べられるうちに食べておくのは大切なことだ。
特に子供ならなおさらだろう。
俺自身、食事について不自由した経験はほとんどないが、だからこそ、こうして遠慮せず食べてくれるのは嬉しい。
せっかく用意したものを、気を遣って残される方が困るからな。
ベルは俺たちの会話を聞いて一度だけ手を止めたが、俺が頷いてやると、また食事を再開した。
何とも見ていて飽きない娘だ。
しばらくして、ふと気づいた。
おいおい。
こいつ、俺たちとほとんど変わらないくらい食べてないか?
もちろん、俺もセバスチャンも、それなりに食事を取っている。
だが、ベルの小さな身体を見ていると、あれだけの量がどこに入っていくのか少々不思議になる。
うーむ。
子供というのは案外食べるものなんだな。
まぁ、いいか。
本人が食べたがっているんだし、無理に止める必要もないだろう。
それに、最初の仕事は腹いっぱい食べることだと言ったばかりだ。
ここで俺が止めたら、それこそ訳が分からん。
そうして、三人での食事はゆっくりと進んでいった。
最初は服を汚すことばかり気にしていたベルも、食べ終える頃には随分と落ち着いた様子になっていた。
もっとも、腹いっぱいになったせいか、今度は別の問題が出てきたようだ。
ベルが何度も瞬きをしている。
ん?
どうした?
よく見ると、目が少しとろんとしていた。
食事を終えたというのに、ぼんやりと卓を見つめている。
時折、こくりと頭が傾くのだが、その度にはっとしたように顔を上げていた。
ああ。
眠くなったのか。
そりゃそうだろうな。
今日は知らない場所へ連れてこられ、風呂に入れてもらい、腹いっぱい飯まで食ったんだから。
慣れないことばかりで疲れたんだろう。
いや、それ以前に、もう夜だしな。
俺だってそろそろ眠くなってきた。
ベルは眠気を我慢しているのか、必死に目を開けようとしている。
そんなに頑張る必要はないんだが。
「ベル、眠いのか?」
俺が尋ねると、ベルはびくりと顔を上げた。
「い、いえ……」
そう答えた直後、また小さく頭が揺れた。
おいおい。
無理するなって。
別に眠いからといって叱ったりしないぞ。
「眠いなら寝てもいいんだぞ」
「……はい」
返事がずいぶん小さくなっている。
これはもう限界が近いな。
さて、どうするか。
食事は済んだし、あとは寝かせてやればいいんだが、問題はどこで寝かせるかだ。
俺は少し考えた。
さすがにベルのためだけに何か特別なことをするつもりはない。
だが、知らない場所に連れてこられたばかりの子供を、いきなり知らない人間に預けて眠らせるのもかわいそうなような気がする。
どうせ俺には個人用の天幕があるんだから、そこで寝かせればいいか。
少なくとも、俺ならベルも多少は安心するだろう。
たぶん。
そんなことを考えていると、セバスチャンがこちらへ声をかけてきた。
「若様、どうしやす?」
どうやらベルのことを気にしているらしい。
俺は頷いて答えた。
「他の者とだと不安だろう。俺の天幕で眠らせる」
「へい」
セバスチャンは短く頷いた。
うん。
これくらいのワガママは許してもらおう。
そもそも、俺の天幕なんだからな。
誰かに迷惑をかけるわけでもないだろうし、ベルが落ち着くまで一緒にいてやればいい。
まぁ、いつまでも本陣に置いておくわけにはいかないんだが。
その辺りは明日にでも父上に相談するとしよう。
俺は改めてベルを見た。
腹いっぱいになって、眠そうにしている小さな娘。
こうして眺めていると、とてもあんな計算をするようには見えない。
いや、人間というのは見た目じゃ分からないものだな。
面白い才能を持っているというだけで、俺はこいつの将来が楽しみになっている。
将来的には、生産拠点で色々な計算をやってもらってもいいかもしれない。
あそこなら、数字を扱う機会はいくらでもあるだろう。
何かを作るにも、材料を揃えるにも、計算というものは必要になる。
それに、レダリエ騎士団の経理を任せるという方法もあるな。
騎士団を動かす以上、金の管理は避けて通れない。
そういう仕事なら、ベルの計算能力を役立てることもできるかもしれん。
もっとも、本人がやりたがるかどうかは別の話だ。
俺が勝手に将来の仕事を決めても仕方がない。
そもそも、まだ子供なんだからな。
うーむ。
いっそのこと、数学の研究者にでもなってもらうか?
それはそれで面白そうだ。
俺には思いつかないようなことを考えたりするかもしれないし、数字だけを相手に好きなだけ頭を使わせてみるのも悪くない。
もちろん、そんなものになれるかどうかは知らん。
本人が興味を持つかどうかだって、まだ分からない。
だが、それでいいんだ。
今から無理に何かをさせる必要はない。
好きなものを見つけて、好きなように考えて、その結果として面白いことができれば、それで充分だろう。
俺としては、ベルが何を思いつくのか見てみたいだけなんだから。
まぁ、役に立つならなおいいが。
役に立たなくたって、面白ければ俺は満足だ。
そんなことを考えながら、俺は小さく頷いた。
やはり、マバール城に送ろう。
ここでは危険もあるし、何より落ち着いて暮らせない。
明日にでも父上に報告して、ベルが少し落ち着いたらマバール城へ送ればいい。
あそこなら、衣食住の心配はない。
問題は、ベルが寂しがるかもしれないことだな。
何しろ、知り合いが誰もいないんだから。
まぁ、リエリエールなら上手く相手をしてくれるだろう。
あいつは落ち着いているし、ベルの話もきちんと聞いてくれそうだ。
それに、数字が好きだと伝えておけば、何か適当に遊んでくれるかもしれん。
うん。
そうしよう。
……ああ、そうだ。
手紙も書いておくか。
レティシアたちにも、俺が元気にやっていることを知らせておきたいしな。
何しろ、あいつらは何かと俺のことを心配するからなぁ。
別に何も心配する必要はないと思うんだが。
……いや、後方襲撃を繰り返している人間が言っても、あまり説得力はないか。
まぁ、とにかく手紙を書こう。
ベルのことも説明しておかないと、いきなり知らない子供が城へ来ても困るだろう。
面白い娘を見つけたこと。
しばらく面倒を見てやってほしいこと。
それから、腹いっぱい食わせてやること。
うん。
大切なのはその辺りだな。
特に最後は忘れずに書いておかないと。
何しろ、ベルの最初の仕事なんだから。
ふと目を戻すと、ベルは今にも眠ってしまいそうだった。
おっと。
こんなところで考え込んでいる場合じゃないな。
「ベル、そろそろ戻るぞ」
「……はい」
返事はしたものの、声にはほとんど力がない。
俺は席を立ち、ベルのそばへ近づいた。
小さな身体がゆらゆらと揺れている。
おいおい。
このまま歩かせたら、途中で眠ってしまいそうだな。
仕方がない。
「ほら、こっちへ来い」
俺はベルを抱き上げた。
ベルは一瞬驚いたように目を開けたが、すぐに力を抜いて俺に身体を預けてきた。
うーむ。
こうして抱えてみると、やっぱり小さいな。
まぁ、俺自身もまだ大人というわけではないんだが。
それでも、ベルくらいなら問題なく抱えられる。
何より、本人が眠そうにしているんだから仕方がない。
「セバス、俺は先に戻るぞ」
「へい、お休みなさいやし」
「うむ、お前もな」
セバスチャンへ軽く頷き、俺はベルを抱えたまま歩き始めた。
外へ出ると、夜の空気が頬に触れた。
本陣にはまだ灯りが残り、離れたところから人の話し声や馬の鳴き声が聞こえてくる。
戦場の夜というのは、静かなようで案外そうでもない。
どこかで人が動き、誰かが仕事をしている。
まぁ、俺は今日はもう休ませてもらうんだが。
腕の中のベルへ目を向ける。
大きな目はほとんど閉じられ、時折思い出したように瞬きをしていた。
ふむ。
今夜はゆっくり眠らせてやろう。
明日になれば、また何か面白いことを考えるかもしれん。
それに、あの計算能力についても、もう少し色々と試してみたい。
何しろ、まだほんの少ししか見ていないんだからな。
まぁ、急ぐ必要はない。
ベルはまだ子供だ。
たくさん食べて、たくさん眠って、それから好きなだけ考えればいい。
俺は眠りそうなベルを抱え直し、自分の天幕へと戻った。
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