第三百四十五話 戦場の小さな客人
辺りが薄暗くなり始めた頃、俺たちはベルを連れて無事に本陣へと戻った。
いやぁ、ようやく帰ってきたな。
日が傾いた空の下、本陣には大小の天幕が立ち並び、その間を騎士や兵士たちが行き来している。馬のいななきに混じって、どこかから食事の支度をする匂いが漂ってきた。
こうして戻ってくると、やはり本陣というのは落ち着くものだ。
もちろん、ここだって戦場の一部には違いない。だが、後方を襲撃しながらあちこち移動していた時に比べれば、ずいぶんと気楽である。
何しろ、寝る場所を探す必要もなければ、食事の支度をする必要もほとんどない。
うん。ありがたいことだ。
そんなことを考えながら、俺は近くにいるベルへ目を向けた。
さて、こいつをどうするかな。
連れて帰るところまではよかったんだが、その先についてはまだ何も決めていない。
まぁ、勢いで拾ってきたんだから当然と言えば当然なんだが。
ベルは俺のそばで、忙しそうに行き来する兵士たちを眺めていた。見慣れないものが多いのか、あちらを見たり、こちらを見たりと、なかなか落ち着かない様子だ。
そりゃそうだろうな。
小さな村で暮らしていた娘が、いきなりこんなところへ連れてこられたんだから。
しかし、いつまでも本陣に置いておくわけにはいかない。
ここは戦争をしている場所なのだ。
本陣は防御も厚いし、そう簡単に敵が襲ってくるとは思えない。それでも、絶対に安全だという保証はどこにもない。
万が一ということもある。
それに、ここにいれば、あまり子供には見せたくないものまで見ることになるだろう。
騎士や兵士たちにとっては当たり前の光景でも、ベルにとってはそうではないはずだ。
うーん。
やはりマバール城へ送るべきだろうな。
あそこなら、少なくとも戦争に巻き込まれる危険はここよりずっと少ない。食事も寝る場所もきちんと用意できるし、何より安心して暮らせる。
ただ、ベルにとっては知り合いが一人もいない場所になる。
そこが少し気になるんだよなぁ。
せっかく伯母夫婦を説得してついてきたというのに、いきなり知らない場所へ送り込まれたら寂しがるかもしれん。
まぁ、だからといって本陣に置いておくわけにもいかないしな。
問題は、誰に面倒を見てもらうかだ。
レティシアやダリアに頼むのが一番手っ取り早いんだが、あの二人は妊娠中だからなぁ。
あまり余計な負担をかけたくない。
そうなると、リエリエールか。
あいつなら、ベルのような子供の相手も上手くやってくれそうな気がする。
もちろん、本人に頼んでみなければ分からんが。
最初はメイド長にでも預けようかと思っていたんだが、それも少し違う気がする。
別にメイドの仕事が悪いわけではない。
マバール城で働くなら、覚えておいて損のないことも多いだろう。
だが、ベルの才能はそちら向きではないと思うんだよな。
何しろ、あの計算能力だ。
馬の蹄の数を尋ねただけで、あんな答え方をするとは思わなかった。
しかも、本人はそれを面白がっている。
うーむ。
なかなか興味深い。
文官に預けるという方法もある。
数字を扱う仕事なら、そちらの方が適しているだろうし、きちんと教育を受けさせれば役に立つことも増えるかもしれない。
だが、それもなぁ。
俺は別にベルを文官にしたいわけではないんだ。
文官に預ければ、当然ながら文官として必要な知識や仕事を教えられることになるだろう。
それはそれで悪くない。
悪くないんだが、何というか、あの面白い才能が普通の文官の仕事に収まってしまうのは、少々もったいない気がする。
別に今から将来の仕事を決める必要もないしな。
本人が何を面白がり、何を覚え、どんなことを考えるようになるのか。
まずはそれを見てみたい。
その方が絶対に面白いだろう。
面白い、か。
……そういえば、マバール城にも面白いやつがいるんだよなぁ。
いや、面白いことは面白いんだが。
アレとベルでは、ちょっと方向性が違うというか、何というか。
うーん。アレは魔法オタクだからなぁ。
混ぜると危険な気がする。
何がどう危険なのかと聞かれても困るんだが、何となくそんな気がするんだから仕方がない。
少なくとも、俺の見ていないところであまり接触させたくないな。
まぁ、今からそんなことを心配しても仕方ないか。
まずはベルの生活を落ち着かせることが先だ。
考えを切り上げ、俺は近くで馬を休ませていたセバスチャンに声をかけた。
「セバス、風呂を用意してベルを入れてくれ」
「へい」
セバスチャンがこちらを向いたので、俺はベルへ目を戻した。
村から連れてきたままだから、相変わらずあちこちが汚れている。
顔もそうだが、髪にも汚れが残っているし、服も随分とくたびれていた。
まぁ、山の中の村で暮らしていたんだから仕方がないんだろうけどな。
せっかく本陣まで戻ってきたんだ。
まずは身体をきれいにして、それから腹いっぱい飯を食わせてやろう。
幸い、この世界には風呂に入る風習がある。
風呂好きな者も多いし、父上が常駐しているこの本陣にも、当然ながら入浴できる場所が用意されている。
数こそ少ないが、女性も従軍しているので女風呂もある。
そこを使わせてもらえばいいだろう。
「ベル、食事の前にとりあえず風呂に入ってこい」
そう言ってやると、ベルは俺を見上げた。
ところが、返事がない。
ん?
どうした?
ベルは何やらもじもじしている。口を開きかけては閉じ、困ったように視線を下げてしまった。
風呂が嫌いなのか?
いや、それならそれで言ってくれればいいんだが。
「どうした?」
俺が尋ねると、ベルはしばらく迷ってから、小さな声で答えた。
「あ、あの……一人でお風呂入った事ありません」
「ん?」
思わず聞き返してしまった。
一人で風呂に入ったことがない?
ああ、なるほど。
そういうことか。
確かに、ベルくらいの年齢なら誰かと一緒に入っていてもおかしくない。
それに、あの村の暮らしぶりを考えると、そもそも風呂に入る時は色々と節約していたのかもしれない。
まぁ、詳しい事情は知らんけどな。
しかし、困ったな。
別に一人で入れないことを責めるつもりはないんだが、だからといって汚れたままにしておくわけにもいかない。
ベルはちらちらと俺を見上げている。
何だか叱られるのを待っているようにも見えるが、そんなことで叱るつもりはないぞ。
そもそも、知らないことやできないことがあるのは当たり前だ。
俺だって、こいつくらいの年齢の時に何でも一人でできたわけじゃない。
いや、前世の話まで含めれば少々ややこしくなるが。
まぁ、それはどうでもいい。
「ふむ、それなら誰かに世話をさせよう。それならいいな?」
そう言うと、ベルは顔を上げた。
「は、はい」
おお、よかった。
それなら簡単だ。
俺は再びセバスチャンを呼んだ。
「すまんが、誰かベルを風呂に入れてくれる者を探してくれ」
「へい、分かりやした」
セバスチャンはちらりとベルを見てから頷いた。
まぁ、こいつに任せておけば問題ないだろう。
……いや、ちょっと待てよ。
セバスチャンなら変な人間を選ぶことはないと思うが、だからといってベルが安心できる相手とは限らない。
何しろ、こいつはまだ子供だからな。
大人にとっては何でもない相手でも、子供から見れば怖いということもあるだろう。
俺は少し身を寄せ、ベルには聞こえないよう声を落とした。
「あまり怖そうな女はやめろよ」
セバスチャンが一瞬こちらを見る。
それから、同じように声を落として答えた。
「分かっとります」
うん。
それならいい。
ベルは俺たちのやり取りを不思議そうに眺めていたが、別に何も言わなかった。
まぁ、聞かせるような話でもないしな。
「じゃあ、ベル。きれいにしてもらってこい。終わったら飯にするぞ」
「はい!」
今度はちゃんと返事が返ってきた。
先ほどまでの困った様子も少し和らいだように見える。
よしよし。
まずは一安心だ。
セバスチャンにベルを任せ、俺は父上のところへ向かうことにした。
何しろ、帰還した報告くらいはしておかないといけない。
いくらお気楽な三男坊とはいえ、そこまで勝手に振る舞うわけにはいかないからな。
本陣の中を歩いていると、あちこちから兵士たちの話し声が聞こえてくる。
武具を手入れしている者もいれば、食事の準備をしている者もいた。
外から戻ってきたばかりの俺には、その何気ない光景が妙に落ち着いて見える。
もちろん、ここで働いている連中にとっては、そんなにのんびりした場所ではないんだろうが。
俺からすれば、こうして必要なものが揃っているだけでもありがたい。
何より、父上がいる。
そのことだけでも随分と気が楽だ。
父上の天幕まで来ると、俺は中へ入った。
「父上、今戻りました」
父上はこちらへ顔を向けた。
「うむ、ご苦労」
「はい」
俺は軽く頭を下げた。
父上は俺の顔をしばらく見ていたが、すぐに口を開いた。
「詳しい報告は明日で良い。今日は休め」
おお。
ありがたい。
正直、今から後方襲撃の経過を一つ一つ説明するのは少々面倒だと思っていたところだ。
もちろん、聞かれればきちんと報告するつもりだったが、明日でいいと言ってもらえるなら遠慮する必要はない。
「はい、ありがとうございます」
俺が答えると、父上は短く頷いた。
うん。
それなら今日はゆっくり休ませてもらおう。
必要な話は明日に回せばいい。
俺はもう一度礼をして、父上の天幕を後にした。
外へ出ると、先ほどよりも辺りが暗くなっていた。
天幕の間には灯りが見え始め、夕方まで慌ただしく動き回っていた兵士たちの姿も、暗がりの中へ少しずつ溶け込んでいく。
さて、これからどうするかな。
とりあえず飯にするか。
……いや、ベルが風呂から戻ってくるまで待ってやるか。
あいつ一人で飯を食わせるのもかわいそうだしな。
せっかく一緒に連れてきたんだから、最初くらいは俺も付き合ってやろう。
どうせ急いで食事を取る必要もない。
そうと決まれば、少し休憩だ。
俺は自分の天幕へ向かうことにした。
いやぁ、こういう時は本当に貴族の三男に生まれてよかったと思う。
戦場の本陣だというのに、俺には個人用の天幕がごく普通に用意されているんだからな。
実にありがたい。
考えてみれば、騎士や兵士たちが全員同じような待遇を受けているわけではない。
それなのに俺は、戻ってきたら自分の場所で休める。
しかも、食事の支度までしてもらえるんだから、文句のつけようがない。
うーむ。
やはり貴族というのはいいものだ。
もちろん、それ相応の仕事はある。
戦争に出れば危険だし、今回のような後方襲撃だって、遊びだけで済ませられるものではない。
だが、その辺りを考慮しても、今の俺の待遇は十分すぎるほど恵まれている。
そもそも、三男坊という立場が実にいい。
長男のように家を継ぐ重圧があるわけでもないし、次男のように色々と頑張る必要もない。
……いや、俺も結構頑張っている気はするんだが。
まぁ、それはそれだ。
こうして自分の天幕に戻り、気兼ねなく休める時間があるんだから、今のところ十分満足している。
天幕の中へ入り、俺は腰を下ろした。
ふぅ。
ようやく落ち着いたな。
身体から余計な力を抜き、しばらく何も考えずに過ごす。
こういう時間も大切だ。
さっきまで馬に乗って移動していたんだから、少しくらい身体を休ませても罰は当たるまい。
それにしても、今回は妙な帰り道だった。
後方襲撃を終えて戻ってくる途中で、小さな村に立ち寄り、山賊を退治し、おまけにベルまで連れて帰ってきた。
なかなか予定通りにはいかないものだ。
いや、別に悪い意味ではないぞ。
山賊退治も済ませたし、ベルという面白い娘まで見つけられた。
むしろ、いい寄り道だったんじゃないか?
もっとも、ベル本人がどう思っているかは分からない。
村を離れたばかりだし、知らない場所へ来て不安もあるだろう。
あいつがどんなことを考えているのか、俺にはまだほとんど分からんからな。
まぁ、これから少しずつ知っていけばいい。
とりあえず今日は風呂に入れて、腹いっぱい飯を食わせて、ゆっくり眠らせてやろう。
難しいことは明日から考えればいいさ。
父上だって今日は休めと言ってくれたんだからな。
うん。
そうしよう。
俺は身体を楽にしたまま、静かに息を吐いた。
外からは相変わらず人の声や足音が聞こえてくるが、天幕の中にいると、それも少し遠く感じられる。
さて、ベルはどうしているかな。
初めて一人で入る風呂ではないにしても、知らない場所で知らない人間に世話をしてもらうんだ。
少し緊張しているかもしれん。
まぁ、セバスチャンに任せたんだから大丈夫だろう。
あいつはああ見えて、こういうことにも気が回る。
俺が余計なことを心配する必要はない。
それより、風呂から戻ってきたベルがどんな顔をしているか、そちらの方が楽しみだ。
何しろ、あいつはずっと汚れたままだったからな。
きれいに洗えば、また違った印象になるかもしれん。
そんなことをぼんやり考えながら、俺はもうしばらく休んでいることにした。
どうせ急ぐ用事もない。
ベルが戻ってきたら、一緒に飯でも食うとしよう。
本日の更新は、5時、12時、20時の予定です。




