第三百四十三話 拾い物の才能
その日の野営地に着いた頃には、日がだいぶ傾いていた。
馬を降りると、長いこと鞍に預けていた身体が少し軽くなった。脚を伸ばし、肩を回す。別に疲れ果てたわけではないが、馬に乗っている間はどうしても同じ姿勢が続く。肉体強化魔法を使えばどうにでもなるとはいえ、そんなところでわざわざ魔力を使う必要もないだろう。
周囲では騎士たちが馬の世話を始め、野営の準備が進んでいる。
セバスチャンは相変わらず手際がいい。あれこれ細かく指示を出しているわけでもないのに、騎士たちの動きに無駄が少ない。俺が口を挟むことも特になさそうだ。
ふむ、暇だな。
いや、暇というほど暇でもないか。今日は山賊を片づけてきたし、本陣へ戻る途中でもある。敵地にいる以上、気を抜きすぎるわけにもいかない。
とはいえ、少しくらい休んでも罰は当たらんだろう。
そんなことを考えていると、少し離れたところで、騎士の馬から降りようとしている小さな姿が目に入った。
村で拾った子供だ。
騎士が手を貸すと、少女は地面に足をつけ、すぐに身体を起こした。それから自分が乗っていた馬を見上げ、何やら口を動かしている。礼でも言っているんだろうか。ここからでは声までは聞き取れない。
そういえば、こいつのこと、まだほとんど知らないんだよな。
村で少し話した。山賊と俺たちを見分けた理由を聞いた。伯母夫婦と暮らしていたことも知っているし、両親がいないという話も聞いた。うちへ来ることになった経緯も、もちろん覚えている。
だが、それだけだ。
まともに働かせるつもりなら、もう少し本人のことを知っておいた方がいいだろう。
「おーい、ちょっとこっちへ来い」
声をかけると、少女はこちらを振り向いた。自分を呼んでいると分かったらしく、近くの騎士を一度見てから、小走りでやってくる。
そういえば、あの村にいたときも妙に物怖じしない奴だったな。
あれだけ武装した騎士に囲まれて、平然と話しかけてきたのだ。いや、完全に平然としていたかどうかは分からんが、少なくとも俺にはそう見えた。
そのくせ、今は俺の少し手前で足を止め、何を言われるのかと顔を見上げている。
「そういえばお前、名前は?」
少女が目を瞬かせた。
そうなんだよ、この子の名前まだ知らないんだ。
俺は名乗ったけど、こいつの名前は聞いてなかったからな。
いやあ、我ながらひどい話だ。村で見つけて、面白そうだから雇おうと考えて、山賊を片づけて、そのまま連れてきてしまった。
順番がおかしい気がしないでもない。
もっとも、今聞けば済む話だ。
「えっと、あの、アタイ、ベルって言います。ギルバートさま」
「ほう、ベルか。なかなかいい名前じゃないか」
そう言うと、ベルは少しだけ表情を緩めた。
どこがいい名前なのかと聞かれると困るが、短くて覚えやすいのはいいことだ。長ったらしい名前だと、覚える方も面倒だからな。
ベル。
うむ、実に覚えやすい。
それにしても、ギルバートさま、か。
村ではもっと遠慮のない話し方だったと思うんだが、さすがに俺が何者なのか理解したらしい。少しぎこちない敬語が、妙に面白い。
「なあ、ベル。お前、読み書きはできるのか?」
「えっと、自分の名前とか、簡単なのなら」
「ほう、すごいな」
これは少し意外だった。
あんな小さな村の出身で、しかもあまり裕福そうな暮らしには見えなかった。まともな教育を受けているとは思っていなかったんだが、自分の名前や簡単なものなら読み書きできるらしい。
もちろん、どこまでできるのかは分からん。だが、まったく文字を扱えないのと、少しでも読み書きできるのとでは違う。
案外、しっかりしているじゃないか。
「じゃあ、計算はどうだ?」
「計算?」
ベルがきょとんとした。
首を少し傾け、俺の顔をじっと見ている。
あれ?
計算という言葉が分からないのか。それとも、何を聞かれているのか分からないだけか。
ふむ。
どうしたものかな。
俺は少し考え、ちょうど目に入った馬へ視線を向けた。
そうだ、これなら分かるだろう。
「えーっとだな。ほれ、あそこの馬には蹄が四つあるだろ?」
「うん」
「二頭なら蹄はいくつだ?」
「八つ」
即答だった。
……うん?
俺はベルの顔を見た。
別に考え込んだ様子もない。まるで、最初から答えを知っていたみたいに返してきた。
いや、二頭なら八つくらい、ちょっと数えれば分かるか。
それほど驚くことでもない。
ただ、妙に早かったな。
「なら、馬が八頭いたら蹄はいくつだ?」
「三十二」
また即答した。
おいおい。
今度はさすがに少し驚いたぞ。
八頭なら三十二。
確かに正解だ。
だが、答えが出るまでの時間が妙に短い。俺の質問が終わるのを待っていたみたいじゃないか。
これ、本当に計算しているのか?
それとも、馬の蹄くらいなら普段から数え慣れているんだろうか。
村で暮らしていたんだし、家畜の数を数えることくらいはあったかもしれない。だが、だからといって八頭の蹄を即座に答えられるものなのか?
分からんな。
もう少し試してみよう。
「……なら、馬が十二頭いたらどうだ? 蹄の数はいくつだ?」
「四十八!」
ほとんど間を置かなかった。
俺は思わず口を閉じた。
十二頭で四十八。
正解である。
いや、正解なのはいいんだが、こいつ、今どうやって答えを出した?
そもそも、計算と言われてきょとんとしていたくせに、なんでこんなに早く答えられるんだ。
ベルは俺を見上げたまま、次の質問を待っているようだった。
俺が黙っているせいか、少しだけ落ち着かない様子にも見える。
いやいや、ちょっと待て。
別にお前を困らせたいわけじゃない。
俺は頭の中で数字をいくつか並べてみた。
二頭、八頭、十二頭。
ここまでは全部、あっという間だった。
なら、もう少し大きな数字ならどうだ?
簡単に数えられるような数字ではなく、頭の中でちゃんと組み立てなければ答えが出ないようなものだ。
そうだな。
これくらいにしてみるか。
「今度はちょっとだけ難しいぞ。馬が百四十八頭なら、蹄はいくつだ?」
「ひゃく……よんじゅうはち?」
「ああ、百四十八頭だ」
ベルは小さく頷くと、口を閉じた。
今度は即答しなかった。
俺の顔から視線を外し、少し俯いている。何かを数えているのか、考えているのか。口元がわずかに動いたようにも見えたが、声は聞こえない。
うむ、さすがに難しかったかな。
いや、普通に考えれば難しいだろう。
百四十八に四を掛けるだけと言えばそれまでだが、それは掛け算を知っているからそう思うのであって、ベルがどんな教育を受けてきたのかも俺には分からない。
しかも、こいつはまだ子供だ。
さっきから何の気なしに問題を出していたが、考えてみれば少々意地悪だったかもしれないな。
まあ、答えられなくても別に構わん。
十二頭まで正確に答えただけでも十分に驚いたし、そもそも俺がこいつを雇おうと思ったのは、計算ができるからじゃない。
村での受け答えが面白かったからだ。
それにしても、随分と真剣に考えるな。
ベルはまだ俯いたままだった。
俺は急かさずに待った。
近くでは馬の鼻を鳴らす音が聞こえ、少し離れたところから騎士たちの話し声も届いてくる。野営の準備は進んでいるらしく、薪の乾いた匂いに、火を使い始めたときの煙が混じってきた。
そんな中で、ベルがゆっくり顔を上げた。
「……五百九十二……かな?」
自信がなさそうだった。
さっきまでの勢いはなく、俺の顔を窺うように見上げてくる。
五百九十二。
えーっと。
百四十八に四を掛けるんだから……。
五百九十二。
うん、合っている。
……合っているじゃないか!
ちょっと待て、おい。
俺は思わずベルを見つめた。
こいつ、正解しやがった。
しかも、さっきまでの様子からすると、何かを見ながら数えていたわけでもない。俺が質問してから、ずっとそこで考えていただけだ。
もちろん、暗算そのものは珍しくない。俺だってできる。
だが、それは俺がきちんと計算を習っているからだ。
ベルはどうだ?
自分の名前と簡単な読み書きができる程度で、計算という言葉には首を傾げていた。
そのベルが、百四十八頭の蹄の数を出した。
いや、これは確かめなければならん。
「ちょっと待て、ベル」
「えっ?」
「どうやってその数を出した?」
ベルが目を丸くした。
その向こうでは、こちらの会話を聞いていたらしい騎士たちが何人か顔を向けている。さっきまで自分たちの仕事をしていたはずなのに、いつの間にか聞き耳を立てていたようだ。
まあ、そうなるよな。
俺だって気になる。
ベルは口を開きかけ、それから少し考えるように視線を下げた。
「えっと……」
「ああ、ゆっくりでいいぞ」
「えっと、お馬さんが百だから、蹄は四百で……」
「うむ」
百頭で四百。
そこまでは分かる。
「えっと、それが……えっと、五十頭なら……」
ベルはそこで言葉を探すように少し黙った。
五十頭?
なんで五十頭が出てきた?
「えっと、半分だから、二百で……」
……ほう?
俺は黙って続きを待った。
百頭なら四百。五十頭はその半分だから二百。
なるほど。
「えっと、そこから……二頭の蹄を減らしたの」
ベルがようやく顔を上げた。
「……間違ってる?」
俺はしばらく返事ができなかった。
百頭で四百。
五十頭で二百。
合わせて百五十頭で六百。
そこから二頭分の八を引く。
六百から八を引けば、五百九十二。
……正解だ。
間違いなく正解だ。
しかも、俺が考えていたやり方とは違う。
俺なら百頭分の四百と、四十頭分の百六十、それに八頭分の三十二を足すところだ。だが、ベルは最初から百五十頭を基準にして、余分な二頭を引いている。
こっちの方が計算しやすいじゃないか。
「いや、正解だ。しかも、大正解だ」
「……ほんと?」
「ああ。本当に合っているぞ」
そう答えると、ベルは少しだけ肩の力を抜いた。
どうやら、間違っていないか心配だったらしい。
それにしても、なんという奴だ。
俺はもう一度、頭の中でベルの説明をなぞってみた。
百五十から二を引く。
そんなものは、教わっていれば珍しくもない計算方法だろう。だが、ベルはそれを誰かに教わったのか? そもそも、百四十八という数を聞いて、すぐに百五十を利用しようと考えたのか?
そこまでは分からない。
ただ、少なくともこいつは、答えを丸暗記しているわけではない。
自分で数を分け、扱いやすい形にして、それを組み合わせている。
しかも、ちゃんと正しい答えを出している。
後ろの方で、セバスチャンが低く声を漏らした。
「ほう」
ほかの騎士たちも、何やら小さく言葉を交わしている。
気持ちは分かるぞ。
俺だって驚いている。
ベルはそんな周囲の反応が気になるのか、少し困ったように俺と騎士たちを見比べていた。
いやいや、お前は何も悪いことをしていない。
むしろ、すごいことをしたんだぞ。
俺はベルを眺めながら、村で初めてこいつと話したときのことを思い出していた。
真っ直ぐ前を見ているから。
山賊と騎士を見分けた理由を、こいつはそんなふうに答えた。
あのときは、なかなか面白いことを考える子供だと思っただけだった。
だが、もしかすると。
こいつ、俺が思っていた以上に頭がいいんじゃないか?
いや、頭がいいというだけでは足りない気がする。
なんというか、数字の扱い方が妙に自然なのだ。
教わったことをそのまま使っているというより、自分で考えて、一番簡単そうな方法を見つけているように見える。
そんなことが、ろくに教育も受けていなさそうな子供にできるものなのか?
うーん。
すごいな。
こいつ、一種の天才なんじゃないか?
面白そうだからと村から連れてきた子供が、こんな才能を持っているかもしれないとはな。
いやあ、これは本当に、とんでもない拾い物をしたのかもしれん。
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