第三百四十二話 戦争と小麦の値段
村を離れてしばらくすると、背後から聞こえていた人の声も、いつの間にか馬の蹄の音に紛れてしまった。
セバスチャンが先に立ち、俺たちは目立たない道を選んで本陣へ向かっている。道、といっても立派なものではない。踏まれて硬くなった土の両脇に草が伸び、ところどころで馬の脚に触れた茎が乾いた音を立てる。少し先の曲がり角では、先頭のセバスチャンが一度速度を緩め、後続を確かめてからまた進み始めた。
さっきまで山賊の話をしていたと思えば、今度は何事もなかったように帰り道だ。あの連中も、もう少しましな場所に隠れればよかったのにな。村から踏み固められた道をたどった先に小屋があるんだから、見つけてくれと言っているようなものだ。
まあ、終わったことはいい。
俺は鞍の上で姿勢を直し、少し後ろへ目を向けた。村で拾った子供は、別の騎士の馬に乗っている。置いていかれまいとしがみついているわけでもなく、前に乗る騎士の動きに合わせて揺られていた。
別に、貴族である俺が平民と同じ馬に乗るのはけしからん、などと考えたわけではない。
ただ、あの子、少し臭かったのだ。
いや、ひどい悪臭がするという話じゃない。草と土の匂いに汗が混じって、ほかにも何かが重なったような、うまく説明できない匂いだった。あの村の暮らしを考えれば、無理もないんだろう。だから本人には何も言っていない。言ったところで、あの子が困るだけだ。
本陣に着いたら、まず風呂だな。
そんなことを考えながら前に向き直ったところで、ふと別のことが頭に浮かんだ。
そういえば、物の値段って今どうなっているんだろう。
俺たちは王国と戦争中だ。しかも、ちょっと兵を動かして睨み合っている程度ではない。王国側へ入り込み、畑を焼き、穀物の貯蔵庫も破壊してきた。向こうからすれば、相当に迷惑な連中だろう。もちろん、そのためにやっているんだが。
前世の感覚だと、戦争になれば物資の値段は上がりやすい。特に食料と鉄だろうか。鉄は武器にも使うし、食料は兵も民も食わなければ生きていけない。
この世界で、まず気になるのは小麦だな。
小麦の値段は、どのくらいになっているんだろう。
こうして馬に揺られているだけでは、もちろん分からない。そもそも、俺は今の相場なんて知らない。それでも、王国側ではかなり上がっているんじゃないだろうか。俺たちが焼いた畑も、壊した貯蔵庫も、そこで終わりではない。失われた分は誰かが埋めなければならないのだ。
いや、そう簡単に埋まるものでもないか。
小麦は必要だからといって、いきなり生えてくるわけじゃない。貯蔵庫を壊されたからといって、翌日には元どおりの量が並ぶわけでもない。俺たちがこの先も同じことを続ければ、少なくとも襲われた辺りでは、ますます苦しくなるんじゃないか。
問題は、その先だ。
王国の貴族たちはどうする?
国内で必要なだけの小麦を買えるなら、別に構わない。値上がりしていれば財布には痛いだろうが、金を払って手に入るうちは何とかなる。高い、高いと文句を言いながら買えばいいだけだ。
では、金を積んでも足りなかったら?
麦以外の作物で多少は補えるかもしれない。だが、それでも足りなければ、腹を空かせたまま耐えるのか。領民はともかく、兵までまともに食わせられなければ、戦争どころではないはずだ。
だったら、どこから持ってくる?
……帝国か。
馬が硬い土を踏んだのか、鞍が一度大きく揺れた。俺は身体を支えながら、今浮かんだ考えを頭の中でもう一度転がしてみる。
王国の貴族が帝国から小麦を買う。戦争相手なのだから、そう簡単にできる話ではないだろう。帝国貴族の誇りにかけて、王国の連中になど売らん、と突っぱねる者だっているかもしれない。
それならそれで構わない。小麦が向こうへ渡らないだけだ。
だが、相場の何倍もの値段を出すと言われたらどうだろう。二倍、三倍、いや、もっとだ。もし十倍で買うと言われたら? その金額を前にしても、絶対に売らないと言い切れる貴族ばかりなのか。
俺なら、ちょっと考えるぞ。
もちろん、王国貴族が帝国貴族に直接『売ってくれ』と頼む場面を想像しているわけではない。そんな露骨な取引はしないだろう。間に商人を挟めばいい。帝国側で買い集めた小麦が、その先で誰の手に渡るかなんて、売った貴族には分からないこともあるはずだ。
いや、分からないからこそ困るのか。
商人が帝国内で買った小麦を、回り回って王国へ売る。帝国貴族の中には、最終的な行き先など考えずに売る奴もいるかもしれない。
それ自体は、俺は別に悪いことだと思わない。
ただし、高く売れるなら、だ。
王国側が、食料を手に入れるために何倍もの金を払う。買った小麦は食ってしまえばなくなるが、支払った金は戻ってこない。その金の一部でも帝国貴族の懐に入れば、今度はこちらの戦争資金になるかもしれない。戦争が終わってから領地を立て直したり、何かを作ったりするための金にもできる。
なかなか素晴らしいじゃないか。
王国の畑を焼き払って相手の食料を減らす。足りなくなった相手は、高い金を払って帝国から買う。その金が帝国へ流れ込む。しかも、畑を焼くのを続ければ、その状況も続くかもしれない。
……おいおい。
戦争を続けるほど儲かる、素敵な商売になりかねないぞ。
もちろん、全部が全部そううまく運ぶわけじゃない。商人だって利益を取るし、運ぶのにも手間はかかる。そもそも王国側に、本当に何倍もの金を出す余裕があるかも分からない。それでも、相手が欲しがる物をこちらが持っているなら、安売りする理由はないだろう。
むしろ、俺が気になるのはそっちだ。
帝国側が、何も考えずに小麦を安く売っていたらどうなる?
普通の値段で売る。あるいは、まとめて買ってくれるからと少し安くする。買った商人が王国へ持ち込む。向こうは不足した分を比較的安く補える。これでは、俺たちが頑張って畑や貯蔵庫を焼いた意味が薄れるじゃないか。
ああ、嫌だ嫌だ。
せっかく敵の継戦能力に打撃を与えているのに、味方が知らないうちにそれを埋め合わせていたら、何をやっているのか分からなくなる。敵に物を売るな、とまでは言わない。売るなら売るで、しっかり高値を取ってほしいのだ。
売らなければ王国は食料に困る。売れば王国から金を取れる。
どちらでもいい。こちらが少しでも都合のいい方を選べれば、それでいいんだから。
そこで、ようやく身近なところに考えが戻ってきた。
マバール領だ。
うちには広大な穀倉地帯がある。かなりの小麦を収穫しているはずだし、戦争に備えた蓄えも相当あるんじゃないだろうか。実際の量は知らないけどな。
もし、その小麦が今、安値でどこかへ売られていたとしたら?
俺は無意識に手綱を握り直した。馬が小さく首を動かしたので、余計な力を抜く。
これは、父上に相談した方がいいかもしれない。
全部の商人を追いかけて、最後に誰が食うのかを突き止めるなんて、できるかどうかも分からない。だが、せめて大規模な取引だけでも注意してもらえないだろうか。できれば、王国側がよほど高い値段を出すまでは売らないようにする。五倍、十倍という値段がつくなら話は別だが、普通の相場でぽこぽこ流すのだけは勘弁してほしい。
マバール領だけでは足りないか。ほかの帝国貴族たちにも、同じことを考えてもらえればもっといい。もちろん、俺が勝手に決められる話じゃないし、商人を挟んだ取引は見極めるだけでも厄介だろう。
そもそも、もう父上たちが対策している可能性だってある。
そうなら何の問題もない。俺が余計な心配をしていただけで済む。
していないなら、注意してもらうきっかけにはなるだろう。小麦の値段が本当に上がっているのかどうかさえ、今の俺には確かめようがないんだから、思いつきであれこれ断定するわけにもいかない。
それでも、ありそうなんだよなぁ。
先を行くセバスチャンの背が、道の曲がりに合わせて少し横へ動いた。俺も馬をそちらへ向け、後ろの騎士たちがついてくるのを目の端で確かめる。あの子もちゃんと乗っているな。
戦争は戦場だけで終わるわけじゃない。畑を焼いた後、その小麦を誰がいくらで売るかでも、結果は変わるかもしれない。
せっかくやるなら、効果は最大限に活用したい。
父上には、折を見て話しておこう。
本日の更新は、5時、12時、20時となります。
ちょっとなろうの対応悪いように感じます。
なんらかの対策が必要かな?




