第三百二十一話 動かぬ国王軍
結局、王国側は国王軍を動かすための条文を作ることができなかったらしい。
……いや、正確には王都の貴族たちか。
俺からすると、そんなものはどうでもいいような気がするんだが、どうやら彼らにとっては非常に重要な問題だったようだ。
シルディア城の会議室で報告を聞きながら、俺は机の上に置かれた書類へ視線を落とした。
王都の動向をまとめたものらしいが、なかなか面倒な内容が並んでいる。国王不在の状況では国王軍を動かせないという話は以前から聞いていたし、そのために条文を整えようとしていることも父上から教えられていた。
だから、今回の報告自体はそれほど意外でもない。
むしろ、まだやっていたのかという気分である。
「結局、まとまらなかったのですか?」
俺が尋ねると、向かいに座っていた父上が頷いた。
「うむ。国王救出を名目に軍を動かそうとした者もいたようだが、最後まで合意には至らなかったらしい」
「そうですか……」
なんとも難儀な連中だな。
善良王を攫ってから、もう随分と時間が経っている。その間に各地では戦いが続き、王国側の貴族軍は次々と敗れ、こちらは着実に戦果を積み重ねてきた。
それなのに、国王軍は動いていない。
王都の貴族たちは、いったい何をしているんだろう。
いや、条文を作ろうとしていたんだろうけどさ。
「勝手に動かしてはいけないという理屈は分かるのですが……」
思わず口にすると、父上がこちらへ視線を向けた。
「なんだ?」
「いえ、法的な根拠もなく国王軍を動かしてしまえば、後々問題になるのは理解できます。国王が不在でも、貴族たちの判断だけで国王軍を動かせるという前例ができてしまいますから」
「そうだな」
「ですが、国が滅びてしまえば意味がないのでは?」
父上の口元がわずかに動いた。
笑ったのだろうか。
まあ、俺としては別に冗談を言ったつもりではない。
前世でも、緊急事態だからといって決められた手順を無視すれば、後から大問題になることはあった。権限を持たない人間が勝手に判断し、結果が良かったからといって何でも許されるわけではない。
まして国王軍である。
国王の命令がなくても動かせるとなれば、今後は誰がその権限を持つのかという問題が生まれるだろう。都合の悪い国王が現れた時にも、似たような理屈を持ち出す貴族が出てくるかもしれない。
そう考えると、勝手に動かしてはいけないという意見にも納得できる。
できるんだが……。
負けたら終わりじゃないか。
少なくとも、俺ならそんな悠長なことは言っていられない。
マバール領へ敵軍が押し寄せてきているのに、誰かの許可がないから兵を動かせません、なんて言われたら困るぞ。
いや、困るどころの話じゃないな。
そんな連中がいたら、俺が先に動いてしまうだろう。
「ギルバート殿の仰ることも分かります」
隣から声がして顔を向けると、ザイン殿が書類を机へ戻していた。
「ですが、王都の貴族たちにも、それぞれ守らねばならぬものがあるのでしょう」
「それは理解できます」
「国王軍を動かした者が、後に責任を問われる可能性もありますからな」
「……それも分かるのですが」
分かる。
分かるんだが、どうにも納得しきれない。
国王を救い出せなければ、そもそも誰が責任を問うんだ?
いや、王国そのものが残るなら責任を問う奴は出てくるか。善良王の親類だとか、後継者だとか、あるいは今回の決定に反対した連中だとか。
そう考えると、誰も責任を取りたがらないというのは自然なのかもしれない。
……うーむ。
面倒くさいな、王都貴族。
俺がそんなことを考えていると、父上が別の書類を机へ広げた。
「国王軍は動かぬ。だが、王国側も敗北を認めるつもりはない」
父上の指が地図の上を移動する。
そこには、王国側の貴族領がいくつも記されていた。俺が知っている場所もあれば、名前を聞いたことがある程度の場所もある。
マバール領の周辺ならともかく、王都寄りの貴族領についてはそれほど詳しくないんだよな。
以前から地理や貴族関係は勉強してきたが、さすがに全ての領地を覚えているわけではないからな。
「こちらへ対抗するため、王国に忠誠を誓う貴族たちが軍を集め始めた」
「……国王軍ではなく、ですか?」
「うむ。それぞれの貴族が自らの軍を率いて集まる形だ」
なるほど。
国王軍が使えないなら、自分たちの軍を持ち寄ればいいわけか。
なんとも分かりやすい話である。
いや、最初からそうすればよかったんじゃないか?
もちろん、貴族同士の利害関係や指揮権の問題もあるだろうから、それほど簡単ではないのかもしれない。
だが、少なくとも条文が完成するまで何もできずにいるよりは、遥かに現実的な選択だろう。
「それで、どれほど集まったのですか?」
父上は地図の数か所を指で示した。
「まだ全ての軍が合流したわけではない。だが、すでに相応の兵力になっている」
「ほう……」
俺は示された場所を順番に眺めた。
それぞれ離れた領地から軍を出しているらしく、集結までには時間がかかりそうだ。それでも、こうして集まり始めている以上、いずれはこちらとぶつかるつもりなのだろう。
……しかし、寄せ集めか。
もちろん、貴族軍だから弱いというわけではない。優秀な騎士を抱えている家だってあるだろうし、長年領地を守ってきた者たちもいるはずだ。
だが、普段から一緒に戦っているわけでもない貴族軍を、いきなり集めてまともに動かせるんだろうか。
人数が増えれば、その分だけ面倒も増える。
誰が先頭に立つのか。
誰の命令に従うのか。
戦利品はどう分けるのか。
そもそも、敗れた時には誰が責任を取るのか。
……ああ、駄目だ。
考えているだけで嫌になってきた。
「面倒そうですね」
「そうですな」
ザイン殿が小さく笑った。
「複数の貴族家が軍を合わせるとなれば、何かと調整が必要になります」
「ですよね」
うちだって、マバール家だけで戦っているわけではない。
今は帝国貴族となった国境諸家と協力し、他の新帝国貴族たちとも軍を合わせている。
それぞれ立場も事情も違うから、何でも好き勝手に決められるわけではない。
もっとも、こちらには父上がいる。
そしてザイン殿もいる。
長年国境を守ってきた貴族たちが中心となり、すでに何度も戦ってきた軍を率いているのだ。
いきなり寄せ集められた王国貴族軍と比べるのは、少々無理があるんじゃないだろうか。
「父上、こちらはどう動くのですか?」
「敵の集結を待つつもりはない。必要な場所へ軍を進める」
「なるほど」
まあ、そうだよな。
相手がわざわざ軍を集めてくれるからといって、こちらまで大人しく待ってやる理由はない。
それに、敵が集まるまで待つということは、その間ずっと敵に準備する時間を与えるということでもある。
俺だったら嫌だな。
相手が準備を整えるのを眺めているくらいなら、先に殴りかかった方が楽だ。
……いや、さすがにそんな単純な話でもないか。
軍を動かすなら補給も必要だし、こちらの守りを薄くするわけにもいかない。
父上たちが考えることは山ほどあるだろう。
「ギルバート、お前もいくさに出るつもりでおれ」
「はい」
即座に頷いた。
まあ、当然だ。
もともと休暇は十日間という話だったし、いつまでもマバール城でのんびりしていられるとは思っていなかった。
……いや、できればもう少し休みたかったけどな。
レティシアもダリアも懐妊しているし、リエリエールだっている。あのまま城で過ごせるなら、それに越したことはなかった。
だが、いくさが続いている以上、そうも言っていられない。
俺がここで働くことによって、マバール家が有利になり、結果として彼女たちの暮らしが守られるのなら、頑張る価値は十分にある。
……うん。
父親になるんだからな。
多少は仕事をしないといかんだろう。
そんなことを考えていると、父上が地図へ視線を戻した。
「敵の規模が明らかになり次第、各軍の配置を改める。お前の騎士団についても、その時に命を出す」
「承知しました」
俺は頭を下げた。
とりあえず、今の段階で勝手に動く必要はないらしい。
なら、しばらくは大人しくしておくとしよう。
……もっとも。
敵がまとまって動き始めたということは、こちらにも何か考えておいた方がいいのかもしれないな。
◇
会議室を出ると、廊下の向こうから冷たい風が流れてきた。
外では馬の鳴き声が聞こえる。
兵たちが何かを運んでいるらしく、窓の下から掛け声と荷車の軋む音が届いていた。
俺は少し歩いたところで足を止めた。
……さて。
どうしたものか。
王国軍が動き始めたこと自体は、別に驚くような話ではない。
むしろ、ここまでよく我慢したものだと思う。
善良王を攫われ、各地で負け続けているのに、それでも国王軍を動かすための条文を作ろうとしていたんだからな。
大したものだ。
……いや、褒めるところなのか、それ?
「若様」
声をかけられて顔を上げると、セバスチャンが廊下の向こうから歩いてきた。
いつもの傷だらけの顔である。
何となく機嫌が良さそうにも見えるが、こいつの場合は顔だけでは判断できない。
「よう、セバスチャン」
「会議は終わったんですかい?」
「ああ。王国の連中が軍を集めているそうだ」
「ほう」
セバスチャンの口元がわずかに上がった。
……なんだ、やっぱり機嫌が良いのか。
「いくさになりそうですな」
「まあな。ただ、国王軍は動かせなかったそうだぞ」
「それで貴族軍ですかい?」
「そういうことらしい」
俺が頷くと、セバスチャンは少し考えるように顎を動かした。
「面倒ですな」
「そうだな」
おや。
意見が合ったぞ。
こいつなら喜んで戦いに行こうと言い出すかと思ったんだが、そうでもないらしい。
「お前でも面倒だと思うのか?」
「そりゃ思いやすぜ。まとまった軍なら頭を潰しゃ済みますが、あちこちから集まった連中じゃ、誰を倒せば終わるのか分かりませんからな」
「……なるほど」
そういう意味か。
確かに、集まった軍の一つを叩き潰しても、他の貴族が戦いを続けるつもりなら終わらない。
逆に、指揮を執る貴族を倒しても、別の貴族が代わりを務めるかもしれない。
国王軍なら国王の命令が全てなんだろうが、貴族連合軍ではそうもいかない。
いや、それこそ国王がいないからこんなことになっているんだったな。
「一つ潰しても、また別の軍が出てくるか」
「そういうことになるんじゃねえですかね」
「……鬱陶しいな」
つい本音が出た。
別に負けるとは思っていない。
マバール軍を中心とした新帝国貴族軍が、今さら寄せ集めの王国貴族軍に敗れるとは考えにくい。
何より父上たちがいる。
あの人たちが揃って負けるようなら、相当なことだろう。
しかし、勝てるからといって面倒でないわけではない。
一度戦えば兵も疲れる。
傷つく者だって出るだろう。
馬は消耗するし、食料も減る。
こちらが勝っても、敵が次々と軍を出してくるなら、そのたびに相手をしなければならない。
……うーむ。
なんとも馬鹿馬鹿しいな。
「なあ、セバスチャン」
「へい?」
「敵が前へ出てきたら、後ろはどうなるんだ?」
セバスチャンがこちらを向いた。
「後ろ、ですかい?」
「ああ。軍を集めるために各地の貴族が兵を出しているんだろ? その間、連中の領地はどうなっている?」
俺の言葉に、セバスチャンは少し目を細めた。
「守りは薄くなるでしょうな」
「だよな」
「とはいえ、全ての兵を連れてくるわけじゃありませんぜ」
「それはそうだろうけどさ」
俺は窓の外へ目を向けた。
城の前では、荷車が何台も並んでいる。
兵たちが荷を積み替えているらしく、袋を担いだ男が次々と行き来していた。
……ああ、そうか。
わざわざ前に出てきた連中を相手にしなくてもいいんじゃないか?
俺はしばらく荷車を眺め、それからセバスチャンへ顔を戻した。
「ちょっと父上に話してくる」
「……若様?」
「いや、たいしたことじゃない。ちょっと思いついたんだ」
セバスチャンの眉間に皺が寄った。
……なんだ、その顔は。
俺が何か思いついたら、そんなに嫌なのか?
「何を考えたんです?」
「まあ、話せば分かる」
「それが嫌な予感しかしねえんですがね」
「失礼な奴だな」
俺は笑いながら踵を返した。
せっかく敵が自分から領地を離れてくれるというのだ。
こちらまで律儀に正面から相手をしてやる必要はないだろう。
うん。
これは、なかなか良い思いつきじゃないか。
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