第三百二十話 楽しいいくさの再開
久しぶりに、何も考えずに朝を迎えられる。
これほど素晴らしいことがあるだろうか。
いや、もちろん他にも素晴らしいことはたくさんある。美味い食事とか、綺麗な女性とか、温泉とか。
だが、朝起きた時に、今日は何をしなければならないのかと考えずに済むのは、なかなか贅沢なことだと思う。
しかも、ここはマバール城だ。
寝る場所にも食事にも困らないし、城の外には俺を殺そうとする連中もいない。
実に素晴らしい。
このまま一生、こういう生活を続けたいものだ。
……まあ、そういうわけにもいかないんだが。
俺はそんなことを考えながら、アル兄さんと朝食を取っていた。
卓上には焼いたパンと肉、それに温かいスープが並んでいる。特別に豪華な料理というわけではないが、久しぶりに落ち着いて食べられる食事は、それだけで十分に美味かった。
「ずいぶん機嫌がいいね、ギル」
向かいに座るアル兄さんが、食事の手を止めてこちらを見た。
「そう見えますか?」
「ああ。先ほどから楽しそうに食べているよ」
「実際、楽しいですから」
俺はパンをちぎり、口へ運んだ。
焼きたてというほどではないが、まだほんのりと温かい。噛むと小麦の香りが広がり、自然と頬が緩んでしまう。
うん、美味い。
「城の食事はやっぱりいいですね。安心して食べられる」
「戦場では、そうもいかないからね」
「ええ。食える時に食っておかないと、次にいつ食えるか分からないこともありますから」
そう答えてから、少しばかり考える。
戦場では食事の時間ですら、完全に気を抜けるとは限らない。
もちろん、いつも敵に襲われるわけではないし、十分な休息を取れる時もある。だが、どこかで周囲を気にしているんだよな。
その点、今は目の前の料理に集中できる。
実にありがたい。
「それで、休暇の間はどうするつもりだい」
「どうもしません」
「……どうもしない?」
「ええ。美味いものを食って、のんびりして、好きなことをして過ごします。せっかく帰ってきたんですから」
俺がそう答えると、アル兄さんは少し呆れたように笑った。
「ギルらしいね」
「そうでしょう?」
何しろ、俺は本来、お気楽な三男坊として暮らしたいんだ。
優秀な兄が二人もいるんだから、家のことは任せておけばいい。
俺は適当に好きなことをして、女性たちと仲良く暮らす。
それが理想だったんだがなぁ。
どうしてこうなったんだろう。
気がつけば戦場へ出て、王国の連中と戦い、今ではなかなか面倒な立場になってしまっている。
別に後悔しているわけではないぞ。
やりたいことをやったと思っているし、必要ならこれからもやるつもりだ。
だが、それと休暇を楽しむことは別問題だ。
「アル兄さんは、相変わらず忙しいんですか?」
「まあ、それなりにね」
「大変だなぁ」
「ギルに言われるとは思わなかったよ」
アル兄さんが苦笑する。
いや、俺は本当にそう思っているんだが。
戦場の仕事は確かに面倒だが、城でずっと仕事を続けるのも大変だろう。
毎日同じように働くというのは、俺には向いていない。
たまにならいいんだけどな。
「兄さんも、たまには休んだ方がいいですよ」
「そうだね」
「俺みたいにのんびりすればいい」
「ギルほどは無理だと思うよ」
なぜだ。
こんなに素晴らしい生活なのに。
俺は首を傾げたが、アル兄さんは笑って食事を再開してしまった。
まあ、いいか。
こうしてアル兄さんと他愛のない話をしながら朝食を取るのも久しぶりだ。
誰かが急報を持って駆け込んでくるわけでもなく、難しい顔をして作戦を考える必要もない。
ただ食べて、話して、時々笑う。
それだけの時間が、妙に心地よかった。
◇
朝食を終えた俺は、レティシアのところへ向かった。
昨日はできるだけゆっくり休むように言ったんだが、あいつのことだから、また何か仕事をしているかもしれない。
妊娠したからといって、急に何もするなと言われても困るだろう。
それに多少は動いている方がいいとも聞く。
それは分かる。
分かるんだが、無理はさせたくない。
そんなことを考えながら顔を出すと、レティシアはいつものように穏やかな表情で迎えてくれた。
「若様、おはようございます」
「ああ、おはよう。身体の具合はどうだ?」
「はい。特に変わりはございません」
「そうか。それなら良かった」
俺はレティシアの顔を見つめた。
昨日と変わらないようにも見えるし、少し柔らかな雰囲気になったようにも見える。
……うーん。
単に俺がそう思いたいだけかもしれないな。
何しろ、腹の中には俺の子供がいるんだから。
それを考えるだけで、どうにも頬が緩んでしまう。
「若様?」
「いや、何でもない」
「……また何かお考えですか?」
「何も考えてないぞ」
レティシアがじっと俺を見る。
……ああ、駄目だ。
こいつには通用しないな。
「子供のことを考えていただけだ」
素直に答えると、レティシアは一瞬だけ目を伏せ、それから嬉しそうに微笑んだ。
その指には、昨日渡した指輪がある。
おお。
ちゃんと身につけてくれているんだな。
「指輪、気に入ってくれたか?」
「もちろんでございます」
レティシアが手を少し持ち上げた。
その仕草を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。
うむ。
やっぱり贈り物というのはいいものだ。
喜んでもらえれば、選んだ甲斐がある。
「それで、今日は何か仕事をするつもりなのか?」
「必要なことはございますが……」
「無理はするなよ」
「はい。承知しております」
返事は実に素直だ。
だが、こいつは昔から、俺の世話となると自分のことを後回しにするところがある。
そこがありがたくもあり、困るところでもあるんだよな。
「今はお前一人の身体じゃないんだからな」
そう言ってから、少し恥ずかしくなった。
いや、自分の子供のことなんだから、恥ずかしがる必要はないんだが。
レティシアはそんな俺を見て、穏やかに頷いた。
「はい、若様」
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
別に何か用事があるわけではない。
顔を見て、少し話をして、同じ時間を過ごしたかっただけだ。
レティシアも特に何かを尋ねることなく、俺のそばにいてくれた。
手を伸ばすと、彼女は自然にその手を取ってくれる。
こうしていると、昔から変わらないような気もする。
だが、今は違う。
指には俺が贈った指輪があり、腹の中には小さな命がある。
そのことを思うと、手を握る力まで自然と弱くなってしまった。
「若様、そこまでお気遣いいただかなくとも……」
「いや、お前にはこれくらいでいい」
俺がそう言うと、レティシアはそれ以上何も言わず、そっと手を握り返してきた。
……うん。
いいなぁ。
こういう時間も、なかなか悪くない。
その後、ダリアのところへも顔を出した。
「ギル様」
俺の姿を見つけたダリアが、嬉しそうに微笑んでくれる。
髪には、昨日贈った髪飾りがついていた。
おお。
こっちも使ってくれているんだな。
「似合ってるぞ」
「ありがとうございます」
ダリアは少し照れたように笑い、髪飾りへ指を添えた。
やっぱり、選んで良かった。
昨日は結局、髪に飾りをつけるのもうまくできなかったんだよな。
簡単そうに見えたんだが、あれはなかなか難しい。
俺が妙なことを考えていると、ダリアは不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、やっぱり俺がつけるより、お前が自分でつけた方が綺麗だなと思ってな」
「ふふ、そんなことはありませんよ」
いや、そんなことはあると思う。
昨日の自分の不器用さを思い出して、少し情けなくなった。
ダリアはそんな俺を見て笑っている。
……うむ。
まあ、楽しそうだからいいか。
俺は彼女の隣へ腰を下ろし、ゆったりと話をした。
腹は以前よりもずいぶん大きくなっている。
目の前にいるダリアはいつも通り穏やかだが、やはり身体への負担は大きいはずだ。
俺には想像することしかできない。
「何か困ったことはないか?」
「大丈夫ですよ、ギル様」
「本当か?」
「はい」
「遠慮する必要はないからな」
ダリアは少し困ったように、それでも嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
俺は彼女の腹へ目を向けた。
昨日、触れさせてもらった時のことを思い出す。
あの中に、小さな命があるんだよなぁ。
考えてみれば、実に不思議なことだ。
俺とダリアの子供。
それが今、確かにそこにいる。
まだ顔も見たことがないのに、早く会いたくて仕方がない。
いや、急いで生まれてきてもらっては困るんだが。
無事に生まれてくれれば、それでいい。
俺はそっとダリアの手を握った。
「元気な子供を産んでくれ」
「はい、ギル様」
ダリアの笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
……ああ。
幸せだなぁ。
◇
そんなふうに過ごしているうちに、休暇の日々はゆっくりと流れていった。
ある日は、オルフィアやシルフィアと茶を飲みながら過ごした。貴族と騎士だが仲良いからな、こいつら。
窓から入る光が卓上を照らし、茶器の表面に淡く反射している。
目の前には二人の女性。
いやぁ、これもなかなかいいものだ。
何しろ、綺麗な女性たちとお茶を飲みながら、好きな話をしていられるんだからな。
「それで、ギルはどう思うの?」
オルフィアがこちらへ視線を向けた。
話題になっていたのは魔法の使い方だった。
「どう、と言われてもな。俺は魔力の動かし方を少し変えているだけだぞ」
「それが難しいの」
オルフィアの言葉に、俺は首を傾げた。
いや、別に難しいことをしているつもりはないんだが。
例えば攻撃魔法だって、同じ魔力を使うにしても、広く使うのか、一点へ集中させるのかで結果が変わる。
防御魔法も同じだ。
どの程度の範囲を守るか、どこへ魔力を集中させるか。
そんなことを考えながら使っているだけだ。
まあ、昔から魔力をいじくり回してきたから、今さら特別なことをしているという感覚がないんだよな。
「ギルバート様にとっては、それが普通なのですね」
シルフィアが少し難しそうな顔で言った。
「そうだな。俺にとっては普通だぞ」
「では、他の方にも同じことができると?」
「練習すれば、ある程度はできるんじゃないか?」
そう答えると、シルフィアは難しい顔のままオルフィアへ顔を向けた。
二人が何やら視線を交わす。
……なんだ?
俺、何かおかしなことを言ったか?
「魔力操作の話だぞ。何も新しい魔法を作るわけじゃない」
「それはそうなんですけど」
シルフィアが首を傾げる。
だが、その表情はどうにも納得しきっていないように見えた。
うーん。
魔法というのは、感覚の違いが大きいのかもしれないな。
俺には当たり前のことでも、他の人間にはそうではない。
逆に、俺が簡単にできないことを、別の人間が当たり前のようにやっている場合だってあるだろう。
「ま、難しく考えすぎても仕方ないだろ」
俺は茶を一口飲んだ。
うん、美味い。
茶を飲みながら魔法の話をする。
時折、シルフィアが妙なところへ話を広げるので、つい俺も熱心になってしまう。
オルフィアはそれを聞きながら、時々こちらへ質問を投げてくる。
気がつけば、ずいぶん長く話し込んでいた。
こういう時間も楽しいんだよなぁ。
魔法のことを考えるのは嫌いじゃない。
むしろ、かなり好きな方だと思う。
ただ、戦場ではどうしても実用性ばかり考えてしまう。
相手を倒すにはどうするか。
こちらの被害を減らすにはどうするか。
そんな話ばかりになってしまうからな。
こうしてゆったりと茶を飲みながら話すのは、なかなか新鮮だった。
そして夜になれば、リエリエールのところへ向かった。
最初の翌朝こそ少し心配したものの、その後も彼女は変わらず穏やかに迎えてくれた。
「お疲れではございませんか?」
ある晩、俺が隣に腰を下ろすと、リエリエールがそう尋ねてきた。
「いや、今日はのんびりしていただけだからな」
「それはようございました」
「お前こそ大丈夫か? 無理をしてないだろうな?」
俺が尋ねると、リエリエールはくすくすと笑った。
……また笑われた。
どうも、こいつには俺の心配などお見通しらしい。
「ギルバート様は、本当にお優しいのですね」
「そうか?」
「はい」
そう言って微笑む姿を見ていると、俺の方が落ち着かなくなる。
優しいと言われても、俺としては当たり前のことをしているつもりなんだが。
何しろ、大切な女性なんだからな。
無理をさせたくないと思うのは当然だろう。
俺は彼女の手を取った。
リエリエールも自然に握り返してくれる。
しばらくそのまま、二人で静かに過ごした。
話したいことがあれば話すし、特に何もなければ、ただ隣に座っている。
それだけでも十分に心地いい。
時々、彼女が俺の顔を見て微笑む。
俺もつられて笑ってしまう。
いやぁ。
なんというか、本当にいいなぁ。
こういう女性と一緒に過ごせるというのは、それだけで幸せなことだと思う。
もちろん、レティシアもダリアも大切だ。
だが、リエリエールには二人とはまた違った魅力がある。
その落ち着きや包容力に、俺はすっかり甘えてしまっている気がする。
……うむ。
少しくらいは甘えてもいいよな。
彼女も嫌がっている様子はないし。
たぶん。
◇
こうして、実に充実した休暇を過ごした。
朝はアル兄さんと食事を取り、昼間はレティシアやダリアの顔を見に行く。
時にはオルフィアやシルフィアと茶を飲み、魔法の話をする。
そして夜はリエリエールと過ごす。
俺が望んでいた生活というのは、まさにこういうものだったんじゃないだろうか。
好きな時に美味いものを食べ、好きな人たちと過ごす。
面倒なことを考えず、ゆったりと日々を楽しむ。
……うん。
これを幸せというんだろうなぁ。
だが、幸せな時間というのは、どうしてこうも早く過ぎてしまうんだろう。
初めのうちは、まだ何日もあると思っていた。
朝起きるたびに、今日は何をしようかと考えるのが楽しかった。
ところが、いつの間にか残りの日数を数えるようになっていた。
……もうそんなに経ったのか。
そう思った時には、約束の十日が目前に迫っていた。
そろそろシルディア城へ戻らなければならない。
いや、別に戻りたくないわけじゃないぞ。
あちらにはまだ片づけなければならない仕事があるし、戦争も終わったわけではない。
俺が休んでいる間に、勝手にすべてが解決してくれていればありがたいんだが、さすがにそんな都合のいいことはないだろう。
まあ、十分に休んだ。
後は働くだけだ。
……できれば、もう少し休みたいけどな。
そんなことを考えながら、俺は出発の準備を整えた。
レティシアにもダリアにも、無理をしないようにと改めて伝えた。
二人とも分かっていると言ってくれたが、心配なものは心配なんだから仕方がない。
リエリエールにも留守を頼んだ。
彼女はいつもの穏やかな笑顔で頷いてくれた。
こうして見送ってもらえるというのは、なかなか嬉しいものだ。
以前にも増して、帰ってくる場所ができたような気がする。
何しろ、今度帰ってきた時には、二人の腹の子供たちも、もっと大きくなっているかもしれないんだからな。
……早く帰ってこよう。
そう思う一方で、戦場へ戻ることを考えると、妙に身体が軽くなる。
どうにも困ったものだ。
俺は平和でのんびりした生活が好きなはずなんだが、戦いとなれば、それはそれで楽しくなってしまうんだから。
◇
出発の日の早朝。
マバール城には、すでに俺の直属騎士たちが集まっていた。
まだ朝の空気は冷たく、城の石壁には薄い光が差し始めたばかりだ。
馬たちが時折鼻を鳴らし、蹄を動かす音が響いている。
俺は集まった騎士たちの顔を順番に眺めた。
セバスチャン、オルド、それに見慣れた連中。
うむ。
皆、いい顔をしている。
少なくとも、見たところ疲れの色はない。
休暇前のような張り詰めた雰囲気も薄く、身体の動きにも余裕が感じられる。
どうやら、それぞれ十分に休めたらしいな。
「皆、いい休暇を過ごせたようだな」
俺が声をかけると、セバスチャンが口元を緩めた。
「若様も、ずいぶんお元気そうですな」
「ああ。実に素晴らしい休暇だったぞ」
「そいつは何よりで」
なんだ、その笑い方は。
まあ、いいか。
俺が十分に休めたのは本当だし、こいつらも元気なら何よりだ。
「馬の具合はどうだ?」
「問題ありやせんぜ。いつでも出られます」
「そうか」
セバスチャンが頷き、オルドたちもこちらへ視線を向けた。
全員が出発を待っている。
その顔を見ていると、こちらまで気分が引き締まってくる。
久しぶりに鎧を身につけ、馬の背に上がる。
手綱を握る感触も、鞍に身体を預ける姿勢も、すっかり馴染んだものだ。
ついこの前まで戦場にいたのだから、当然と言えば当然だが。
俺は城を振り返った。
あの中には、俺の大切な人たちがいる。
アル兄さんも、レティシアも、ダリアも、リエリエールも。
オルフィアやシルフィアだっている。
つい先ほどまで、あそこでのんびり過ごしていたんだよなぁ。
名残惜しくないと言えば嘘になる。
できることなら、あと十日くらい休んでいたい。
……いや、十日と言わず、ひと月でもいいぞ。
まあ、そんなことを言っていても仕方がない。
約束は約束だ。
シルディア城へ戻り、続きを片づけなければならない。
俺は前方へ視線を戻した。
セバスチャンがこちらを見ている。
オルドたちも、すでに出発できる姿勢を整えていた。
よし。
十分に休んだ。
身体も軽いし、気分もいい。
何より、帰ってくる楽しみが以前より増えた。
だったら、さっさと仕事を終わらせて戻ってくればいい。
俺は手綱を握り直し、騎士たちへ声をかけた。
「では、行くぞ。楽しいいくさの再開だ」
本日はここまでとなります。
次回更新は明日5時となります。
これまでありがとうございました。
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