第三百十五話 一昼夜の買い物
馬の蹄が街道を叩くたび、身体に小気味よい振動が伝わってくる。
いやあ、いい馬だな。
さすがセバスチャンが選んだだけのことはある。肉体強化魔法を使っているとはいえ、これだけ速度を上げても脚運びに乱れがない。
俺は手綱を握りながら、馬の首筋へ目を向けた。
毛並みの下で筋肉が力強く動き、地面を蹴るたびに身体が前へ押し出される。風が頬を叩き、耳元を勢いよく通り過ぎていった。
うむ、実に頼もしい。
もっとも、これから随分と無理をさせることになるんだが。
「すまんな、もう少し頑張ってくれ」
馬が俺の言葉を理解したかどうかは分からないが、速度を落とすことなく走り続けてくれた。
目的地までの道は覚えている。
これまで何度も往復しているからな。街道の曲がり方も、どこで道が分かれているかも、大体は頭に入っている。
それでも、夜になれば話は別だ。
何しろ明かりがない。
日が沈んだ途端に道が見えなくなる、なんてことになれば面倒だからな。明るいうちに少しでも距離を稼いでおきたい。
俺は馬の呼吸と脚の動きに注意しながら、肉体強化魔法を調整した。
あまり強めすぎてもいけない。速く走れればそれでいいというものではないし、途中で馬が潰れたら帰りに困る。
頑丈な馬を用意してくれと頼んだのも、そのためだ。
……まあ、セバスチャンには随分驚かれたけどな。
今頃、何を考えているんだろう。
あいつのことだから、呆れながらも何かしら考えているに違いない。
帰ったら説明しないといかんな。
そう思ったところで、ふと笑ってしまった。
休暇中だというのに、いきなり馬と金を要求され、そのまま主人に逃げられたんだからな。
そりゃあ驚くだろう。
……いや、逃げたわけではないぞ。
明日には戻ると言ったんだから、何も問題はない。
たぶん。
そんなことを考えているうちに、日が傾き始めた。
街道の脇に伸びる影が長くなり、遠くの景色から少しずつ色が失われていく。昼間ははっきり見えていた道の凹凸も、薄暗くなるにつれて見分けづらくなってきた。
俺は軽く身を低くし、前方へ意識を集中させる。
ここからが面倒なんだよな。
肉体強化魔法を使っているとはいえ、馬が地面を踏み外せば危ない。暗い道では昼間以上に気をつける必要がある。肉体強化魔法で多少は夜目も上がるが注意しなくてはいけない。
それでも、引き返す気はなかった。
今さら戻ったところで、結局また気になってしまうだけだろう。
だったら、さっさと済ませた方がいい。
うむ、そういうことだ。
俺は手綱を持ち直し、馬を走らせ続けた。
やがて日は完全に沈み、街道は夜の闇に包まれた。
昼間の暖かさはどこかへ消え、外套の隙間から冷たい風が入り込んでくる。身体そのものは肉体強化魔法のおかげで問題ないが、顔に当たる風はなかなか鬱陶しい。
それに、腹も減ってきた。
考えてみれば、今日は随分と慌ただしい一日だった。
マバール城に戻り、レティシアの懐妊を知らされ、アル兄さんのところへ行き、それからレティシアに会った。
その後はセバスチャンたちへ報告して、土産を取りに行って、今度は馬を走らせている。
……何をやっているんだ、俺は。
せっかくの休暇なのに、ちっとも休んでいないじゃないか。
まあ、いいけどな。自分のやりたい事をしてる訳だし。
今のところ、疲れよりも気分の良さが勝っている。
そもそも、父親になるんだぞ。
これくらいでへこたれてどうする。
そう思うと、また自然に口元が緩んだ。
レティシアの顔が浮かぶ。
ダリアの顔も浮かぶ。
二人とも、俺の子供を産んでくれるんだよなあ。
いやあ、何度考えても嬉しい。
……いかん、前を見ろ。
夜の街道を走っている最中に、にやけている場合ではない。
俺は気を取り直し、馬の状態を確かめた。
呼吸は荒くなってきているが、脚運びに大きな乱れはない。肉体強化魔法も、今のところ問題なく維持できている。
さすが軍馬だ。
普通の馬なら、とっくに音を上げているんじゃないか?
もっとも、普通の馬でこれほど無茶な走り方を試したことはないから、正確なところは分からんが。
「頼むぞ。帰ったらゆっくり休ませてやるからな」
首筋を軽く撫でると、馬は勢いよく鼻を鳴らした。
……返事か?
まあ、そういうことにしておこう。
夜は長かった。
どれほど肉体強化魔法で身体を補助していても、暗い街道を走り続けるのは気を使う。
道の状態を確かめ、馬の動きに合わせて身体を動かし、必要に応じて魔力の流し方を調整する。
やること自体は難しくない。
ただ、それを延々と続けるのが面倒なのだ。
馬の速度は、思っていた以上に落ちなかった。
もちろん、まったく疲れていないわけではないだろう。身体には汗が浮いているし、呼吸も随分荒くなっている。
それでも、脚は止まらない。
セバスチャンめ、いい馬を選んでくれたな。
戻ったら褒めてやろう。
……その前に怒られるかもしれんが。
まあ、その時はその時だ。
夜が深まり、やがて空の色が少しずつ変わり始めた。
遠くの地平がわずかに明るくなり、黒く沈んでいた街道の輪郭が戻ってくる。
朝か。
ずっと馬上にいたせいで、さすがに尻が痛くなってきた気がする。
肉体強化魔法を使っているのに、どうしてこういうところは気になるんだろうな。
……いや、単に同じ姿勢が長すぎるだけか。
俺は軽く身体を動かし、前方を見た。
そろそろだな。そのまましばらく駆け続ける。
見覚えのある景色が近づいてきたところで、思わず息を吐いた。
よし、着いた。
何度も通った道とはいえ、夜通し走り続けた後だと、なかなか達成感がある。
俺は馬の速度を落とし、目的の場所へ向かった。
さて、あるといいんだが。
ここまで来て、なかったらどうしよう。
……いや、その時はその時だ。
とにかく確かめるしかない。
馬を降り、目的の品を探す。
少しばかり気が急いていたのか、目当てのものを見つけるまで、妙に落ち着かなかった。
どこだったかな。
確か、この辺りに……。
おっ。
あった。
「良かった、あった」
思わず声が出た。
いやあ、助かった。
わざわざ夜通し馬を走らせてきたんだからな。これで何もなかったら、さすがに少し悲しくなるところだった。
俺は目的の品を手に取り、間違いないことを確かめた。
うむ、これでいい。
さて、後は金を払うだけだな。
……金か。
そういえば、俺が自分で金を払って買い物をするなんて、ほとんど初めてじゃないか?
普段はレティシアやセバスチャンが何でもやってくれるからな。
欲しいものがあれば誰かに頼むし、商人との取引だって俺自身が金を数えて渡すようなことは滅多にない。
必要な金額を聞いても、正直なところ、いまいち実感が湧かないんだよな。
今も、どれだけ払えばいいのかよく分からん。
……まあ、足りなければ言われるだろう。
俺はセバスチャンから受け取った金を取り出し、その中から一掴みして差し出した。
相手が少し驚いたような顔をした。
ん?
足りないか?
そう思って様子を見たが、品物はそのまま渡してもらえた。
どうやら問題なかったらしい。
うむ、これでよし。
俺は目的の品を大事に持ち、馬のところへ戻った。
さて、帰るか。
……しかし、考えてみれば、これからまた同じ道を戻るんだよな。
当然といえば当然なんだが。
馬を見ると、さすがに疲れが出ているようだった。
そりゃそうだ。
夜通し走り続けたんだからな。
俺は首筋を撫でながら、小さく息を吐いた。
「すまんが、もう一度頼むぞ」
馬の様子を確かめ、再び鞍に跨った。
帰りも肉体強化魔法を使う。
ただし、いくら魔法で身体を補助できるといっても、疲れそのものが消えてなくなるわけではない。
馬にかかる負担を考えながら、慎重に魔力を流していく。
もう少しだ。
頑張ってくれ。
俺は手綱を握り、再び馬を走らせた。
帰り道も長かった。
だが、来た時とは少し気分が違う。
目的は果たした。
それだけで、随分と気が楽になるものだ。
あとはマバール城へ戻るだけ。
道も分かっているし、余計なことを考える必要もない。
……まあ、セバスチャンへの説明は必要だろうけどな。
何と言おうか。
ちょっと買い物に行ってきた、とでも言えばいいか。
いや、それはそれで何か言われそうだな。
そもそも、どこまで行ったのか聞かれたらどうする。
……正直に答えるしかないか。
嘘をつくようなことでもないしな。
それにしても、俺は何だかセバスチャンに怒られることばかりしている気がする。
いや、気のせいだろう。
あいつは普段から小言が多いだけだ。
……たぶん。
俺はそんなことを考えながら、ひたすら馬を走らせた。
日が高くなり、再び傾き始める。
朝から続けている移動のせいで、馬の呼吸はいよいよ荒くなってきた。
俺は何度も状態を確かめ、そのたびに肉体強化魔法を細かく調整した。
頑張れ。
あと少しだからな。
馬の首筋に浮いた汗が光を受け、走るたびに散っていく。
いや、本当によく走ってくれる。
ここまで来ると、感心するしかない。
やがて、見慣れたマバールの街が前方に見えてきた。
おおっ。
戻ってきたぞ。
日が沈む前に間に合ったな。
俺はようやく肩の力を抜いた。
さすがに城下へ入ってからは速度を落とし、周囲の人々を避けながら馬を進める。
人通りのある道をゆっくり進むのが、こんなに楽に感じられるとはな。
もっとも、馬の方は早く休みたいだろう。
あと少しの辛抱だ。
マバール城へ戻り、ようやく馬を止めた。
俺は鞍から降りると、馬の首筋を撫でた。
「いやあ、お前、優秀な馬だな。よく頑張ってくれた」
馬は荒い息を吐きながら、ゆっくりと首を動かした。
うむ、ご苦労。
今度こそゆっくり休んでくれ。
馬を預け、俺は自分の部屋へ向かった。
さすがに丸一日以上馬を走らせていたせいか、地面を歩いている感覚が少し変な気がする。
ずっと揺られていたからな。
しかし、ようやく戻ってきた。
これで一安心だ。
「若様!」
聞き覚えのある声が飛んできた。
振り向くと、セバスチャンがこちらへ歩いてくるところだった。
おお、いたのか。
……いや、いたのかじゃないな。
待っていたんだろう。
「どこに行っとったんですかい?」
セバスチャンの顔を見る限り、どうやら随分と気にしていたらしい。
まあ、何も言わずに出ていったからな。
悪かったとは思う。
思うが、今は早く土産を渡したい。
「後で話す」
「後でって、若様――」
何か言われる前に、俺はそのまま歩き出した。
すまんな。
本当に後で話すから。
急いで自室へ戻り、持ち帰った品を置いてから、昨日置いていった土産を確認する。
うむ、全部あるな。
これでようやく渡せる。
いやあ、随分と遠回りしてしまった。
でもまあ、いいだろう。
俺がやりたかったことなんだからな。
土産を前にして、思わず頬が緩んだ。
さて、誰から渡そうか。
……いや、順番を考えるまでもないな。
まずはレティシアだろう。
やれやれ、これで土産を渡せる。
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