第三百十二話 熱すぎる茶
俺は小走りでアル兄さんのもとへ向かった。
ノエルに案内しろとは言ったものの、じっとしていられない。見慣れた廊下を進みながら、頭の中ではレティシアの事ばかり考えていた。
懐妊。
レティシアが懐妊したかもしれない。
それも、まだ調べている最中だという。
ああ、もう、どうしてこういう時に限って時間が長く感じるんだ?
戦場で敵を待っている時より落ち着かない。
途中で何度か曲がり角を抜け、足を速める。背後から足音が聞こえていた気もするが、振り返る余裕などなかった。
ようやく目的の部屋まで来ると、俺は迷わず扉に手をかけた。
「アル兄さん!」
勢いよく扉を開け放つ。
室内にはアル兄さんが静かに立っていた。
「おかえり、ギル」
いつもと変わらない柔らかな声。
微笑みまで普段通りだ。
……なんでそんなに落ち着いていられるんだ?
いや、アル兄さんが慌てたところで何か変わるわけではない。それくらい分かっている。
だが、今の俺には、その穏やかな表情すら妙に腹立たしい。
「レティシアは! レティシアの子は!」
ほとんど叫ぶように尋ねた。
アル兄さんは俺を見ている。
しかし、微笑みは変わらない。
「ギル、まずは座りなさい。そして、そのお茶を飲みなさい。話はそれからだよ」
「……は?」
お茶?
何を言っているんだ?
レティシアが妊娠したかもしれないというのに、今はお茶なんか飲んでいる場合じゃないだろう!
そう思ったのだが、ふと視線を動かすと、机の上に杯が置かれているのが見えた。
白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。
……いや、だからなんだ?
「ですが!」
「ダメだよ。座ってお茶を飲み切らない限り、何も話さない」
きっぱりと言い切られた。
アル兄さんは相変わらず微笑んでいる。
くっ。
この人は!
俺がどれだけ焦っているのか、分かっているはずだろう?
それなのに茶を飲めだと?
しかも、飲み切らない限り話さない?
…………。
いや、待て。
ここで俺が怒鳴ったところで、アル兄さんは考えを変えないだろう。
こういうところは昔から頑固なんだよなぁ。
普段は優しいし、何を言っても穏やかに聞いてくれるんだが、一度こうすると決めたら、なかなか譲らない。
仕方ない。
飲めばいいんだろ、飲めば。
俺は椅子に腰を下ろすと、机の上の杯を手に取った。
湯気が顔にかかる。
少し熱そうだな。
まぁ、お茶くらい一気に飲んでしまえばいい。
そう思って口をつけた。
「熱っ!」
思わず杯を離した。
なんだ、これ!
ほとんど熱湯じゃないか!
舌の先がひりひりする。
危ないなぁ、もう!
俺は抗議の意味を込めてアル兄さんを見た。
ところが、兄は涼しい顔でこちらを見返しているだけだ。
「飲みなさい」
…………。
鬼か、この人は。
いや、だからといって飲まないわけにはいかない。
レティシアの事を聞くためだ。
ここは我慢するしかあるまい。
俺は再び杯を持ち上げた。
ふー、ふー。
息を吹きかけてから、そっと口をつける。
……熱い。
まだ熱い。
ずずっ。
ほんの少しだけ口に含んで飲み込むと、熱が喉を通っていく。
おお、熱いな。
なんだか腹の中まで温かくなった気がするぞ。
いや、そんな事はどうでもいいんだが。
早く飲み切らなければならん。
ふー、ふー。
ずずっ。
ああ、行儀が悪い。
貴族の子供がこんな飲み方をしていたら、きっと注意されるんだろうな。
実際、普段なら俺だってこんな事はしない。
だが、今はそんな事に構っていられるか。
アル兄さんが飲み切れと言うんだから、何としても飲み切ってやる。
ふー、ふー。
ずずっ。
…………。
まだ熱いな。
俺は杯の中を覗き込んだ。
随分飲んだつもりだったが、まだかなり残っている。
くそっ。
いっそのこと冷めるまで放っておくか?
いや、それでは余計に時間がかかる。
仕方ない。
俺はまた息を吹きかけた。
そうやって何度も少しずつ飲んでいるうちに、不思議と胸の奥のざわつきが幾分収まってきた。
熱いものを飲むのに必死になっていたせいだろうか。
先ほどまで頭の中で暴れ回っていた考えが、ようやく少しずつ形になってくる。
レティシアは懐妊したかもしれない。
だが、まだ確定していない。
アル兄さんの指示で詳しく調べている。
俺の魔力が腹の子に影響するかもしれないから、今は不用意に会ってはならない。
…………。
そうだな。
ノエルの言う通りだ。
別に、誰かが俺に隠していたわけじゃない。
分かったのはほんの数日前で、その時には俺はマバール城へ向かっていた。
アル兄さんだって、必要な対応をしているんだろう。
ならば、まずは事情を聞かなければ。
そう考えられる程度には落ち着いてきた。
もっとも、早くレティシアに会いたいという気持ちは、まるで変わっていないが。
「ノエル、ご苦労だったね。下がっていいよ。ありがとう」
不意にアル兄さんが声をかけた。
ん?
ノエル?
俺は杯を持ったまま振り返った。
そこにはノエルが立っていた。
……あれ?
いつの間に?
そういえば、アル兄さんのところへ案内しろと言ったんだったな。
俺が勝手に走ってきたから、途中で追い抜いてしまったのか。
いやぁ、悪い事をしたな。
もっとも、今はそれどころじゃないんだが。
「いえ、お許しいただけるなら、私も立ち会わせてください」
ノエルはそう言って頭を下げた。
ほう。
帰っていいと言われたのに、自分から残りたいと言うのか。
俺は少し意外に思いながら、その様子を眺めた。
アル兄さんはしばらくノエルを見ていたが、やがて小さく頷いた。
「分かったよ。疲れたら座っていいからね」
「ありがとうございます」
ノエルがもう一度頭を下げる。
俺はそれを横目で見ながら、再び杯に口をつけた。
ずずっ。
……お。
さっきよりは随分飲みやすくなったな。
まだ熱いが、これならいけそうだ。
最後の一口を飲み込み、空になった杯を机へ戻した。
「ふう……」
ようやく飲み切った。
いやぁ、長かった。
お茶一杯飲むのに、こんなに苦労したのは初めてかもしれん。
俺が顔を上げると、アル兄さんが微笑んだ。
「少しは落ち着いたみたいだね」
…………。
そう言われると、確かにそうかもしれない。
先ほどまでのように、何も考えず怒鳴り散らす気にはならなくなっていた。
だが、そんな事よりも。
「アル兄さん、レティシアは?」
俺は椅子に座ったまま尋ねた。
声が先ほどより落ち着いているのは、自分でも分かった。
アル兄さんはゆっくりと頷いた。
「うん。ゆっくり説明するね」
俺は思わず身を乗り出した。
「まず、二日前にレティシアから報告があった。体調に違和感があると」
二日前。
俺がまだ帰路にいた頃だ。
レティシアが、自分から?
「そして、懐妊したかもしれないと教えてくれた」
…………!
思わず椅子から立ち上がりかけた。
「座って。立ち上がったら話さないよ」
静かな声が飛んできた。
くっ!
俺は浮かせた腰を戻した。
まったく、こんな時まで!
だが、ここで話を止められるわけにはいかない。
大人しく座り直した俺を見てから、アル兄さんは話を続けた。
「すぐに治癒魔導士たちに調べさせた。レティシアは日頃からかなり自分の体調を気にしていたみたいだね」
そう言って微笑む。
…………レティシアが。
体調に違和感があると言って、自分から報告したのか。
いつも俺の世話ばかり焼いているあいつが、自分の事をそこまで気にしていたとは。
いや、レティシアなら当然か。
あいつは細かいところによく気がつく。
俺なんか、自分の身体の調子が少しくらいおかしくても、気にせず動いてしまいそうだからな。
だが、レティシアは違う。
…………。
それで?
調べた結果はどうだったんだ?
俺はアル兄さんの顔を見つめた。
「治癒魔導士たちの見立てでは……」
そこで言葉が途切れた。
アル兄さんが俺をじっと見ている。
なんだ?
どうした?
早く言ってくれ!
俺は口を開きかけたが、先ほど立ち上がりかけた時の事を思い出して、ぐっと堪えた。
アル兄さんは、そんな俺を見てから静かに告げた。
「レティシアは懐妊している。今、再度確認させているが、ほぼ間違いないだろう」
…………。
レティシアが。
懐妊。
…………。
俺の子を?
レティシアが、俺の子を身籠った。
その言葉が頭の中で何度も繰り返された。
嬉しい。
嬉しいはずなんだが、どうにも上手く考えがまとまらない。
気づくと俺は椅子から立ち上がっていた。
今度はアル兄さんも何も言わなかった。
俺は兄を見つめた。
「会えるのですか?」
声が震えた。
自分でも情けないくらいだったが、どうしようもない。
レティシアに会いたい。
今すぐ会って、顔を見たい。
だが、アル兄さんは静かに首を振った。
「もう少し待ちなさい。それも含めて治癒魔導士たちに確認させているから」
…………そうか。
まだ確認しているのか。
俺は自然と椅子に腰を落とした。
さっきまでなら、待てと言われるだけで腹が立っていたかもしれない。
だが、今は違う。
レティシアと子供のためだ。
俺が我慢すれば済むのなら、我慢するしかない。
…………。
それにしても。
すごいな、俺。
この年で二人の子持ちか。
いや、まだ産まれてないけど。
ダリアのお腹にも俺の子がいる。
そして、今度はレティシアだ。
二人とも、俺の子を。
…………。
なんだか凄い話だな。
俺は自分の手を見下ろした。
別に何か変わったわけではない。
いつもと同じ手だ。
戦場で剣を握り、魔法を使い、馬の手綱を引いていた手。
そんな俺が、父親になる。
それも二人の。
……いや、だからまだ産まれてないんだが。
分かっている。
分かっているんだが、どうにも不思議な気分だ。
嬉しいし、早く顔を見たいとも思う。
だが、まだ腹の中にいる子供の顔なんて分かるはずもない。
それどころか、レティシアには今すぐ会う事すらできない。
ああ、もう。
考えても仕方ないな。
俺は椅子に身体を預け、ぼんやりと机の上を眺めた。
空になった杯が置かれている。
さっきまであれほど腹立たしかった熱い茶も、今となっては随分遠い事のように感じられた。
どれくらいそうしていただろうか。
扉が開く音がした。
顔を向けると、何人もの人間がぞろぞろと入ってくる。
……なんだ?
俺がぼんやりと眺めていると、その中の年嵩の婆さんが前へ出た。
「ご懐妊です」
…………。
そうか。
ご懐妊か。
なんだか、その言葉が妙に遠くから聞こえた。
分かっている。
アル兄さんから、ほぼ間違いないと聞かされていたんだからな。
だが、改めてそう言われると、胸の奥がじんわりと熱くなってくる。
本当に?
本当にレティシアが?
俺の子を?
「レティシア様は素晴らしいです。まだご自身の魔力の乱れもないうちに懐妊に気づくとは」
婆さんが感心したように言った。
そうなのか。
魔力に乱れが出る前に気づいたというのは、そんなに凄い事なのか。
まぁ、レティシアだからな。
あいつは凄くて当たり前な気がする。
何しろ俺のレティシアだ。
美しいし、気が利くし、いつだって俺の事を考えてくれる。
そんな女が自分の身体の変化を見逃さなかったとしても、別に不思議じゃない。
うん。
やっぱりレティシアは凄いな。
俺がそんな事を考えていると、婆さんが続けた。
「魔力を抑えていただけるなら、少しの間ならお会い出来ます」
続きは、20時に投稿します。




