第三百十一話 帰還早々の大騒ぎ
マバール城が見えてきた。
いやぁ、なんだか懐かしいな。
ここのところずっとシルディア城にいたせいか、まだそれほど長く離れていたわけでもないのに、随分久しぶりに感じる。
あの城も悪くないんだが、やはりマバール城が一番だ。
マバール家の本城としての風格がある。
……ような気がする。
まぁ、単にこっちの方が大きくて立派だから、そう感じるだけかもしれんが。
それでも、見慣れた城壁が近づいてくるにつれ、自然と顔が緩んでしまう。戦場では随分と好き勝手やってきたが、こうして帰ってくると、やはり自分の家というのはいいものだ。
何より、俺の愛する女たちがいる。
レティシアにダリア、それからリエリエール。
ああ、早く会いたい。
土産も買ってきたしな。レティシアには指輪、ダリアには安産のお守りと髪飾り、リエリエールには綺麗な球体の置物だ。
喜んでくれるだろうか。
いや、きっと喜んでくれるはずだ。少なくとも、俺としては随分頑張って選んだつもりだからな。
支払いはセバスチャンだったけど。
そんな事を考えているうちに城へ到着した。
久しぶりに見る城内の様子も、特に変わったところはない。石壁も、行き交う使用人たちの姿も、見覚えのあるものばかりだ。
ああ、帰ってきたんだな。
なんだか嬉しい。
俺たちが戻ってくる事は伝わっていたのだろう。出迎えの武官や文官が集まっていて、こちらへ頭を下げている。
うむ、ご苦労。
だが、それはそれとして。
さて、レティシアはどこだ?
俺は馬を降りながら周囲を見渡した。
ダリアは妊娠中だから、わざわざ外まで出迎えには来ないだろう。そんな無理をさせるつもりもないし、後で俺の方から会いに行けばいい。
リエリエールも貴族だからな。使用人たちに混じって出迎えるというのは、ちょっと違う気がする。
だが、レティシアは別だ。
俺の専属使用人だからな。
それに、俺にとっては単なる使用人なんかではない。ほとんど妻みたいなものだ。
帰ってきた俺を出迎えてくれないはずがない。
そうだろ?
だというのに。
「よう、元気そうだな」
出迎えの者たちに適当に声をかけながら、その向こうまで目を走らせる。
……いない。
あれ?
おかしいな。
レティシアなら後光が差しているから、どこにいてもすぐ分かるはずなんだが。
いや、実際に後光が差しているわけではないぞ。
俺にはそう見えるというだけだ。
それくらい美しいという事だな。
しかし、どこを見ても肝心のレティシアの姿がない。
あれ?
アル兄さんもいないな。
忙しいのかな?
アル兄さんなら仕事で手が離せないという事もあるだろうが、レティシアはどうしたんだ?
もしかして、何か仕事をしているのか?
いやいや、俺の出迎え以上に重要な仕事なんてあるか?
……あるかもしれんが。
少なくとも、俺はないと思いたい。
久しぶりに帰ってきたんだから、真っ先に顔を見せてくれてもいいじゃないか。
…………。
待てよ。
ひょっとして、怒ってる?
その可能性を考えた途端、なんだか背筋が冷たくなった。
いや、まさかな。
レティシアが俺を出迎えないほど怒るなんて、そんな事があるだろうか。
……可能性がないとは言えない。
考えてみれば、俺は随分長い事ほったらかしにしていた気がする。
もちろん、忘れていたわけではないぞ。
それは絶対にない。
だが、戦争だの何だのと忙しくしているうちに、手紙もほとんど出していなかった。
レティシアの方からすれば、俺が何をしているのかもよく分からなかったかもしれん。
まずいな。
これはまずいかもしれん。
帰ってきたら真っ先に抱きしめようと思っていたんだが、ひょっとすると、その前に謝らなければならんのか?
いや、謝るくらいならいくらでも謝るぞ。
なんなら土下座してもいい。
……貴族がそんな事をしていいのかどうかは知らんが。
とにかく、まずは顔を見なければ。
俺が内心で冷や汗をかきながら周囲を探していると、出迎えの人垣の中に見覚えのある顔を見つけた。
ノエルだ。
リエリエールの専属使用人である。
おお、ちょうどいいところに。
レティシアがどこにいるのか聞いてみよう。
そう思ったのだが、俺が声をかけるより先に、ノエルの方から近づいてきた。
なんだ?
妙にそそくさとしているな。
ノエルは俺のすぐ近くまで来ると、周囲を気にするように顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「レティシア様が懐妊したかもしれません」
…………。
ん?
懐妊?
懐妊って、あれか?
妊娠?
…………。
「なぜ、早く言わん!」
気づいた時には怒鳴っていた。
ノエルがびくりと身体を震わせる。
あ。
いや、違う。
お前は悪くない。
そんな事は分かっているんだ。
分かっているんだが、どうにも感情が抑えられない。
レティシアが妊娠した?
俺の子を?
どういう事だ?
いや、どういう事も何も、そういう事をしているんだから妊娠したって何も不思議じゃない。
むしろ喜ぶべき事だ。
嬉しい。
もの凄く嬉しい。
だが、それならなぜ俺は知らなかったんだ?
「アル兄さんはどこだ?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
ノエルが何か言おうとしたが、その前に俺の頭の中では次から次へと考えが湧いていた。
アル兄さんなら知っているはずだ。
レティシアが妊娠したかもしれないなんて、そんな大事な話を知らないわけがない。
それなのになぜ俺に知らせていない?
父上もダル兄さんも、つい先日までマバール城にいたじゃないか。
誰か一人くらい教えてくれてもよかっただろう?
俺の子だぞ。
レティシアと俺の子なんだぞ!
「違います!」
思いがけず強い声が返ってきた。
俺はノエルを見た。
顔を強張らせているが、それでもノエルは引き下がらない。
「かもしれないだけです! ほんの数日前に分かったんです。今、アルディス様の指示のもと、詳しく調べています。落ち着いてください!」
…………そうなのか?
ほんの数日前?
俺は一瞬、何を言われたのか分からなくなった。
いや、待て。
数日前という事は、俺がマバール城へ向かっている途中じゃないか。
そうか。
そういう事か。
だったら、まだ俺に知らせられていなくても仕方ない。
何しろ、俺はこっちへ向かって移動していたんだからな。
しかも、妊娠したと確定したわけではなく、まだ調べている最中だという。
なるほど。
それなら、アル兄さんが何も知らせてこなかったのも無理はない。
……無理はないんだが。
知りたかった。
一番最初に知りたかった!
レティシアが俺の子を身籠ったかもしれないなんて、そんな大事な事を、せめて本人の次くらいには知っていたかった。
いや、俺が遠くにいたんだから仕方ないのは分かる。
理屈では分かるんだ。
だが、感情がまるで追いつかない。
嬉しいのか、腹が立っているのか、不安なのか、自分でもよく分からなくなってきた。
何より、レティシアは大丈夫なのか?
体調が悪いのか?
妊娠したかもしれないという事は、何か身体に変化があったんだろうか。
ああ、もう!
こんなところで考えていても仕方ない。
「どこだ!」
俺はノエルに詰め寄った。
「レティシアはどこにいる!」
今すぐ会わなければ。
本人に会って、無事なのか確かめなければならん。
そう思って歩き出そうとした、その時だった。
ノエルが俺の前に立ちはだかった。
「ダメです!」
「……何?」
「ギルバート様の魔力では、お子に障るかもしれません! アルディス様も別室でお待ちしています。今はレティシア様に会ってはなりません!」
はっきりと言い切られた。
俺は思わず足を止めた。
…………魔力。
そうだ。
魔力か。
この世界では、魔力が腹の中の子供に影響すると強く信じられている。
俺だって、それを単なる迷信だと笑い飛ばすつもりはない。
魔力というものが身体に与える影響は小さくない。実際、魔力を持つ貴族や騎士は平民よりもずっと長生きするし、身体の丈夫さだって違う。
それなら、腹の中で成長している子供に影響があってもおかしくはない。
俺自身、以前からそう考えていた。
そして、俺の魔力は強い。
強すぎるくらいだ。
そんな俺が、妊娠したばかりかもしれないレティシアへ不用意に近づく。
……まずいかもしれん。
いや、実際にどんな影響があるのかなんて俺には分からない。
何ともない可能性だってあるだろう。
だが、万が一という事がある。
もし、俺が近づいたせいでレティシアや腹の中の子供に何かあったら?
…………。
そんな事は絶対に嫌だ。
俺は奥歯を噛みしめた。
会いたい。
今すぐ会いたい。
久しぶりにレティシアを抱きしめたいし、あの柔らかな声を聞きたい。
妊娠したかもしれないという話も、本人の口から聞きたい。
だが、会ってはならない。
少なくとも、今は。
レティシアに会いたいという感情と、会ってはならないという理性が、頭の中でぐるぐると渦巻く。
くそっ。
なんなんだ、これは。
戦場なら、目の前に敵がいれば倒せばいい。
面倒な相手がいれば叩き潰せばいいし、邪魔なものがあれば排除すればいい。
だが、今は違う。
誰が悪いわけでもない。
ノエルはレティシアを守ろうとしているだけだし、アル兄さんだって必要な事をしているんだろう。
それくらい俺にも分かる。
だからこそ、どうしようもなく腹立たしい。
ああ、クソッ!
思わず拳を握りしめた。
そのまましばらく立ち尽くしていたが、やがて大きく息を吐いた。
……分かった。
分かったよ。
ここで騒いでも仕方ない。
レティシアに会えないなら、せめて事情を知っているアル兄さんから話を聞くしかない。
俺は振り返った。
「セバス、あとは任せる」
出迎えの武官や文官たちがまだ待っている。
本来なら帰還の挨拶くらいきちんとするべきなんだろうが、今の俺にはとてもそんな余裕はない。
頼むぞ、セバス。
「へい、お任せください!」
力強い返事が返ってきた。
ありがたい。
こういう時、本当に頼りになる男だ。
細かい事は全部任せておけばいい。
俺はもう一度ノエルへ向き直った。
「ノエル、アル兄さんのところへ案内しろ」
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