第三百十話 戦場帰りの勘定
翌朝、俺たちはマバール城に向けて出発した。
朝の空気はまだ少し肌寒く、馬の蹄が街道を踏むたびに乾いた音が響く。振り返れば、シルディア城のある方角には朝の光が差し始めていた。
いやぁ、久しぶりの休暇だ。
しかも十日間もある。
戦争が終わったわけではないし、父上の話では王国軍が最後に何か仕掛けてくる可能性もあるらしいが、それはそれだ。せっかく休めと言われたんだから、ありがたく休ませてもらおう。
何より、マバール城に帰れるのが嬉しい。
「マバール城は久しぶりだな」
隣で馬を進めるセバスチャンに明るく声をかけた。
「…………」
返事がない。
聞こえなかったのか?
「おい、セバス」
「…………」
おかしいな。いつもなら何かしら返してくるんだが。
「どうした?」
顔を覗き込むようにして聞くと、セバスチャンはようやくこちらを向いた。
「人に支払いを押し付けた事、忘れとるんですかい?」
ぎろりと睨まれた。
…………あ。
そういえば、そうだったな。
昨日、シルディア橋のところで土産を買った時、支払いを全部セバスチャンに任せて、そのまま帰ってしまったんだった。
うん、忘れてた。
完全に忘れてた。
「いや、もちろん忘れてないぞ。感謝してる。支払った金はマバール城に着いたら文官から支払わせる」
「頼みますぜ」
むう。
なんだか妙に機嫌が悪いな。
いつものセバスチャンなら、この程度の事でわざわざ文句を言ったりしないんだが。
いや、文句自体はよく言われるか。俺が何かやらかすたびに、あれこれ言ってくるからな。
ただ、金の事でここまで言われるのは珍しい。
もしかして、それほど高かったのか?
「……いくらぐらいだったんだ?」
軽い調子で聞いてみた。
「金貨五十枚を超えましたぜ」
「…………」
金貨五十枚。
おお。
なんだか凄い金額だな。
いや、実際のところ、どの程度凄いのかはよく分からんのだが。
「……高かったんだな」
「若様が選んだんでしょうが」
「いや、そうなんだが」
困った事に、俺はいまだにこの世界の貨幣価値というものがいまいち分かっていない。
金貨一枚が銀貨十枚、銀貨十枚が銅貨百枚、なんて具合に決まっていれば分かりやすいんだが、残念ながらそうではない。
そもそも貨幣というものは使っているうちにすり減る。
欠ける事もあるし、長く使われたものなら新品と比べて重さが違ってくる。
当然、そんなものを全部同じ一枚として扱えるはずもない。
金貨一枚といっても、銀貨十二枚になるものもあれば、九枚にしかならないものもある。状態が悪ければ、そのままでは一枚として受け取ってもらえない事だってある。
面倒くさい。
実に面倒くさい。
しかも、金貨や銀貨そのものの価値が分かりにくいだけではない。
どれくらいあれば生活できるのかという感覚まで、俺にはさっぱりなのだ。
ある者は、一家族なら金貨二、三枚もあれば暮らしていけると言う。
ところが別の者に聞けば、金貨十枚は必要だと言われる。
中には金貨なんてなくても困らないと言う奴までいる。
いや、さすがにそれはどうなんだ?
と思ったものだが、よく考えれば畑を持っている者もいれば、家畜を飼っている者もいる。食べる物を自分たちで用意できるなら、必要な金だって違うんだろう。
結局、何をどれだけ買わなければならないかによって話が変わるわけだ。
そう考えると、ますます分からなくなってくる。
金貨一枚で何が買えて、銀貨一枚なら何が買えるのか。
それをいちいち覚えて、そのうえ貨幣の状態まで気にしなければならん。
やってられるか。
だから俺は、金の扱いに慣れているセバスチャンに預けて、全部任せている。
その方が安全だし確実だ。
何より楽だしな。
俺が財布の中身を気にしながら買い物をするより、セバスチャンに任せておく方がよほど間違いがない。
うん。
素晴らしい判断だと思う。
それに、金貨五十枚を超えたという事は、たぶん相当に高かったんだろう。
だが、いい品を土産にできたんだから俺としては構わない。
レティシアの指輪も、ダリアへの贈り物も、リエリエールの土産も、気に入ってもらえればそれで十分だ。
安物を買って後悔するより、ずっといい。
もっとも、実際に金を出したのはセバスチャンだが。
「いつも金預けてるだろ?」
そう聞くと、セバスチャンは呆れたようにこちらを見た。
「足りんかったんですよ」
「そうなのか」
なるほど。
預けていた金では足りなかったわけだ。
…………ん?
待てよ。
それって、ちょっとまずくないか?
「すると、マバール城までは野営か?」
「は?」
「いや、宿代がないと宿には泊まれないだろ?」
それくらいは俺も知っている。
さすがに貴族だからという理由だけで、どこの宿でも無料で泊めてくれるわけではあるまい。
金がないなら野営するしかない。
まぁ、野営には慣れているし、俺たちなら別に困らんだろうが、せっかく休暇をもらったのに毎晩野営というのもなぁ。
面倒くさいじゃないか。
しかし、セバスチャンは何とも言えない顔になった。
「それは大丈夫です。シルディア城で新しく金は預かりましたから」
「なんだ、そうなのか」
よかった。
それなら何の問題もないじゃないか。
「じゃあ、支払わなくていいな」
「違いやす!」
いきなり大きな声を出された。
「あっしの立て替えた金は支払われてません!」
「……そうなのか?」
「そうですぜ!」
なんだ、そういう事か。
つまり、俺が預けていた金だけでは土産代が足りず、セバスチャンが自分の金で不足分を払ってくれたわけだ。
それで、旅のための金はシルディア城で新しく預かったが、セバスチャンが立て替えた分は返ってきていない。
なるほどな。
…………いや、だったら。
「シルディア城で払ってもらえばよかったのに」
「誰かさんがおらんので支払われなかったんですよ」
じっと見られた。
俺もじっと見返す。
…………。
ああ。
誰かさんって俺の事か。
いや、そんなに睨まんでもいいじゃないか。
別に払わないと言っているわけじゃないんだから。
「分かった、分かった。マバール城に着いたら払わせる。それでいいだろ?」
「最初からそう言っとるんですぜ」
そうだったか?
そうだったな。
うん、確かにそうだった。
それにしても、昨日はよくあんな大金を立て替えてくれたものだ。
どれくらい預けていたのかも知らんし、不足分がいくらだったのかも分からないが、セバスチャンが困っているなら早く返してやらんとな。
前世の感覚なら、領収書もないのに言い値で金を払っていいのか、なんて思う奴もいるだろう。
だが、俺は別に気にしない。
セバスチャンが金をごまかして懐に入れるような真似をするとは思えんし、仮にそんな事があったとしても、正直なところ俺は構わない。
普段どれだけ世話になっていると思っているんだ。
あのクソじじいがいなかったら、俺は今頃もっと面倒な目に遭っていたに違いない。
だから、金の事くらい好きにしてくれていい。
…………しかし。
そういえば、俺の個人資産ってどれくらいあるんだ?
馬の揺れに身体を任せながら、ふとそんな事を考えた。
生産拠点からの利益もあるはずだし、たぶん結構な額になっていると思う。
思うんだが、実際にいくらあるのかと聞かれると分からない。
そもそも俺は、自分で金を使う機会がほとんどない。
城に帰れば寝るところはある。
食事は用意されるし、着る服にも困らない。
紙やペンだってあるし、読みたいものがあれば書庫へ行けばいい。武具もあるし、馬だっている。
必要なものがあれば言えば大抵は誰かが用意してくれる。
城の外で買い物をする時も、支払いはセバスチャンかレティシアに任せている。
だから、俺自身が金貨を握りしめて店に行く必要など、ほとんどないのだ。
なんだか凄い生活だよな。
前世では考えられん。
いや、これが貴族というものなのかもしれんが。
考えてみれば、俺が城の自室に引きこもって、毎日ダラダラしていたとしても、おそらく生活に困る事はない。
食って寝て、気が向いたら本を読んで、また寝る。
何もしない。
実に立派なニート生活だ。
しかも、働かなくても衣食住が保証されている。
…………素晴らしいじゃないか。
いや、待て。
想像してみると、なんだかつまらなそうだな。
最初の数日くらいは楽しいかもしれんが、毎日それだけというのは、さすがに飽きるだろう。
俺は別に、何もせずに生きていたいわけではない。
面白そうな事があればやってみたいし、知らないものがあれば見てみたい。
面倒な事は嫌いだが、退屈なのはもっと嫌だ。
うん。
やっぱりニート生活はやめておこう。
そんな事を考えていると、隣から声がした。
「若様」
「ん?」
「今度は何を考えとるんです?」
「いや、別に大した事じゃない」
「そうですかい」
セバスチャンはそれ以上聞いてこなかった。
何となく、余計な事を考えていると思われた気もするが、まぁいい。
俺は手綱を握り直し、前方へ目を向けた。
街道はまだ先へ続いている。
マバール城までは数日かかるが、別に急ぐ必要もない。
久しぶりの帰郷だ。
レティシアもダリアもいるし、リエリエールだっている。
みんな元気にしているだろうか。
土産を渡したら、どんな顔をするかな。
そんな事を考えると、自然に頬が緩んでしまう。
ああ、早く帰りたいな。
馬の蹄の音を聞きながら、俺は再びマバール城での生活に思いを巡らせた。
それから数日。
俺たちは、ようやくマバール城の近くまで戻ってきた。
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