第三百六話 情熱的な恋文
エレオノーラ殿との婚姻を望む男が他にもいる。
ダル兄さんは気にする必要はないと言ってくれたが、どうにも気になってしまう。相手が小物だろうと何だろうと、俺がエレオノーラ殿を嫁にしたいと思っていることに変わりはないのだ。
いっそのこと、どこの誰なのか聞いておこうか。
そんなことを考えながら腕を組んでいると、向かいに座っていたダル兄さんが不意に身を乗り出した。
何だ?
顔が近いんですけど。
大きな身体がこちらへ傾き、ゴツい顔がずいっと迫ってくる。思わず椅子の背へ身体を引きかけたところで、兄は声を潜めた。
「ギル、お前、エレオノーラ殿に手紙を書け」
「手紙、ですか?」
「ああ、情熱的なやつだぞ。父上には内緒でオレが届けてやる」
そう言って、ダル兄さんはにやりと笑った。
……情熱的な手紙?
エレオノーラ殿に?
俺が?
いや、まあ、手紙を書くこと自体は悪くない。
むしろ、結婚したいという気持ちを直接伝える機会があるのなら、利用しない手はないだろう。
何しろ相手はエレオノーラ殿なのだ。
他の二人と違って、実際に顔を合わせて話したこともある。こちらのことだって覚えてくれているはずだし、見ず知らずの相手に手紙を送りつけるわけではない。
それに、父上には内緒というのも少し面白い。
婚姻についての希望はダル兄さんが伝えてくれるのだから、これはそれとは別の話だ。
つまり、俺個人からエレオノーラ殿へ気持ちを伝えるための手紙ということになる。
ふむ。
悪くないな。
だが、情熱的というのが気になる。
「情熱的な手紙ですか?」
思わず聞き返してしまった。
俺にそんなものが書けるだろうか?
普通の手紙ですら、それほど書き慣れているわけではないのだ。まして女性に情熱を伝える手紙となれば、何を書けばよいのか見当もつかない。
もちろん、エレオノーラ殿への情熱ならあるぞ。
それはもう、たっぷりとある。
だが、その情熱を文章にしろと言われると、どうにも難しい気がする。
俺が少し考え込んでいると、ダル兄さんは大きな手を振って笑った。
「多少字が下手でも間違っていてもいい。とにかく情熱が伝わればいいんだ」
「なるほど……」
そういうことなら何とかなりそうか?
別に立派な文章を書く必要はないらしい。
気持ちが伝わればいいというのなら、難しく考えずに書けばいいのだろう。
うむ。
それなら俺にもできそうだ。
何しろ気持ちだけは十分にある。
エレオノーラ殿は美人だし賢いし、何よりあのおっぱいだ。
あんな素晴らしい女性を嫁にできる可能性があるのだから、情熱が湧かないわけがない。
そうだな。
少し時間をかけて考えれば、俺だってそれなりの手紙を書けるはずだ。
まずは部屋へ戻って落ち着こう。
それから、どんな言葉を使えばエレオノーラ殿に気持ちが伝わるのか、ゆっくり考えるとしよう。
そう思って頷いたところで、ダル兄さんが実に気楽な調子で言った。
「今日中には書けよ。明日の朝にはオレは帝都に向かわねばならん」
……はい?
今日中?
明日の朝には帝都へ向かう?
ちょっと待って。
ということは、今日中に書き終えなければならないのか?
いや、最悪でも明日の朝まで?
そんな!
さっきまでの余裕が一瞬で吹き飛んだ。
「無理です!」
思わず声が出た。
無理だろ!
いきなり情熱的な手紙を書けと言われたって、何を書けばいいのかも分からないんだぞ!
ただでさえ貴族への手紙なんて書き慣れていないのに、女性へ情熱を伝える文章だなんて、そんなものが簡単に書けるわけがない。
しかも相手はエレオノーラ殿だ。
どうでもいい相手ならともかく、俺が本気で嫁にしたいと思っている女性なのだ。変なことを書いて嫌われたりしたらどうするんだ!
「短くてもいいんだ。気持ちさえ伝われば」
ダル兄さんは相変わらず気楽そうだった。
いや、兄さん。
それが難しいんだって!
短くてもいいと言われたところで、何を書けばいいのか分からなければ意味がないではないか。
この人、自分がどれだけ無茶なことを言っているのか分かっているのだろうか。
先ほどまで頼もしい兄だと思っていたのに、今は少しだけ嫌いになってしまいそうだ。
それでも、ダル兄さんが明日の朝には帝都へ向かわなければならないというのなら、これ以上文句を言っている暇はない。
俺は椅子から立ち上がった。
「とにかく、書いてみます!」
「おう!」
兄は笑顔で頷いた。
まだ何か話したそうにも見えたが、今はそれどころではない。
そもそも、こんなに急がなければならなくなったのはダル兄さんのせいではないか。
自業自得というやつだ。
いや、困っているのは俺なんだけど。
ともかく、急いで部屋へ戻らなければ。
俺はダル兄さんに断ってから部屋を出ると、足早に廊下を進んだ。
頭の中はすっかり手紙のことでいっぱいになっている。
情熱的な手紙。
エレオノーラ殿へ。
今日中に。
……うーむ。
難しいぞ、これは。
自分の部屋へ戻ると、さっそく紙を用意して机に向かった。
椅子に腰を下ろし、書く準備を整える。
さて。
エレオノーラ殿に向けた、情熱的で俺の気持ちが伝わる手紙だ。
こういう場合、まずは挨拶から始めるべきだろうか。
いや、貴族から貴族へ送る手紙なのだから、礼儀正しい文章にする必要があるのかもしれない。
何しろ相手は四帝家の血筋なのだ。
失礼なことを書いてはいけない。
俺はしばらく考え、ひとまず書き始めた。
『拝啓、エレオノーラ殿、お元気ですか? 私は元気です。いかがお過ごしでしょうか?』
……。
…………。
違う!
これじゃない!
俺は思わず手を止め、書いた文章を睨みつけた。
何だこれは!
ただの挨拶じゃないか!
しかも、お元気ですかと聞いた直後に、いかがお過ごしでしょうかって、ほとんど同じことを二回聞いているではないか。
これのどこが情熱的なんだ!
熱量ゼロだぞ!
こんなものを送ったところで、エレオノーラ殿に何を伝えたいのか分かってもらえるはずがない。
いや、少なくとも俺が結婚したいと思っていることは伝わらないだろう。
俺は書いた紙を握りつぶし、そのまま投げ捨てた。
駄目だ。
最初からやり直しだ。
しかし、何がいけなかったのだろう。
手紙としての挨拶はそれほどおかしくないと思うんだが、情熱的かと言われればまるで違う。
そもそも、挨拶に気を取られすぎているのが問題なのではないか?
俺は机に両肘をつき、しばらく考え込んだ。
落ち着け。
落ち着くんだ、俺。
今回の手紙は、ダル兄さんがこっそり渡してくれる手紙なのだ。
つまり、正式な婚姻の申し込みではない。
俺個人からエレオノーラ殿へ送る私信ということになる。
それなら、字の上手さや定型文の正しさは、それほど問題にならないのではないだろうか。
少なくともダル兄さんは、多少間違っていてもいいと言っていた。
貴族として正しく書く必要はない。
……はずだ。
いや、もちろん最低限の礼儀は必要だろうが、そこにこだわりすぎて肝心の気持ちが伝わらなければ意味がない。
貴族の手紙だから最低でも何文字以上書かなければならないとか、逆に長すぎると相手を疲れさせるから不適切だとか、そんなことを考えている場合ではないのだ。
むしろ、こっそり渡してもらうのなら短い方が都合もいいかもしれない。
ダル兄さんだって、長々とした手紙を持っていくより楽だろう。
そうだ。
短くていいのだ。
本当に気持ちと情熱が伝われば、それでいい。
難しい言葉なんて必要ない。
短く、はっきりと気持ちを伝える。
その方向で考えれば、何とかなるんじゃないか?
……何とかなるよな?
俺は新しい紙を前にして、もう一度考え始めた。
しかし、情熱というのは、いったいどうやって文章にするものなのだろう。
好きだという気持ちを伝えればいいのか?
それとも、相手の素晴らしいところを褒めるべきなのか?
エレオノーラ殿の素晴らしいところなら、いくらでも思いつく。
美人だし、賢いし、話していても面白い。
落ち着いた物腰も魅力的だ。
それに、あのおっぱい。
……いや、待て。
さすがに胸の大きさを褒めるのはまずいだろう。
俺としては最大級の褒め言葉なのだが、相手が喜んでくれるかどうかは別の問題だ。
そもそも、今回は正妻になってほしいという気持ちを伝えるための手紙なのだ。
余計なことを書いて、肝心の用件が伝わらなかったら困る。
くそっ。
難しいな!
え〜い、なぜここがマバール城じゃないんだ!
マバール城ならレティシアがいるのに!
あいつなら手紙を書くための準備だってきちんとしてくれるし、どういう文章がいいのか相談することもできる。
少なくとも、俺一人で頭を抱えているよりはずっとましだろう。
だが、ここはシルディア城だ。
レティシアはいない。
こんな手紙を他の者に相談するわけにもいかないし、そもそも父上には内緒なのだ。
結局、完全に一人で考え、書かなければならない。
……困った。
俺は椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げた。
こんなことなら、ダル兄さんにもう少し具体的な助言をもらっておけばよかった。
いや、あの人に聞いたところで、気持ちを伝えればいいとしか言わなさそうだな。
まったく。
人の気も知らないで、気楽なものだ。
だが、文句を言っていても手紙は完成しない。
俺はもう一度姿勢を正し、紙へ目を落とした。
えーっと。
短く、はっきり、分かりやすく。
気持ちと情熱を伝える。
うーん。
そうすると……。
お元気ですか。私は元気です。もしよろしければ結婚を前提にお付き合いしてください。
……違うよな。
久しぶりだな。大輪の華のような君が好きだ。輝かしい未来を共に築こう。
むう。
……。
駄目だ。
どうにも納得できない。
俺はまた紙を丸め、机の端へ放った。
そうして新しい紙を広げ、再び考える。
少し書いては手を止め、読み返しては首を傾げる。
丁寧に書こうとすると他人行儀になるし、気持ちを込めようとすると妙に大げさになってしまう。
かといって、簡単に書きすぎると今度は素っ気ない。
情熱的な手紙というものは、なぜこうも難しいのだろうか。
相手が目の前にいるなら、まだ何とかなる気がする。
少なくとも、エレオノーラ殿の顔を見ながらなら、言いたいことを直接伝えることはできるだろう。
だが、手紙は違う。
書いた言葉だけが相手に届くのだ。
その場で説明を加えることもできないし、相手の反応を見ながら言い直すこともできない。
だからこそ、余計に悩んでしまう。
……何だか戦場より難しくないか、これ。
いや、さすがに戦場の方が危険だけど。
少なくとも、敵を倒す時は何をすればいいのか分かる。
しかし、女性に情熱を伝えるとなると、どこから手をつけていいのかすら分からない。
俺は手元の紙を見つめ、深く息を吐いた。
それでも、諦めるわけにはいかない。
せっかくダル兄さんが届けてくれると言っているのだ。
この機会を逃す手はない。
何しろ、エレオノーラ殿が俺の嫁になってくれるかもしれないのだから。
そのためなら、手紙くらい書いてやる!
……書いてやるとも!
それからも、俺は何度も何度も書き直した。
いつの間にか夜は深まり、部屋の外から聞こえていた物音も少なくなっていた。
机の周りには書き損じた紙が増えていく。
読み返して気に入らなければ破り捨て、また新しい紙へ向かう。
何度も同じことを繰り返しているうちに、どの言葉が正しいのかすら分からなくなってきた。
それでも手を止めるわけにはいかない。
明日の朝にはダル兄さんが出立してしまう。
今度こそと思って書いた文章も、読み返してみると何かが違う。
もう少し気持ちを込めた方がいいのか。
それとも、もっと簡単に書いた方がいいのか。
考えれば考えるほど分からなくなり、結局また最初から書き直す羽目になる。
まったく、どうしてこんなことになったんだ。
ダル兄さんに会えたのは嬉しかったし、エレオノーラ殿が正妻候補になっていると聞いた時には、それこそ飛び上がりたいほど喜んだのに。
その日のうちに、こんなにも手紙に苦しめられることになるとは思わなかったぞ。
……いや、まだ終わっていない。
ここで投げ出すわけにはいかないのだ。
俺はもう一度紙を広げ、眠気を追い払うように首を振った。
短くていい。
気持ちさえ伝わればいい。
ダル兄さんはそう言っていた。
ならば、余計なことを考えるのはやめよう。
俺がエレオノーラ殿に何を伝えたいのか。
それだけを考えればいいのだ。
結局、朝になるまで俺は手紙と格闘することになった。
何度も書いては破り捨て、そのたびに文章を考え直す。
ようやく納得できるものができた頃には、夜はすっかり明けていた。
……疲れた。
だが、何とか間に合ったぞ。
書き終えた手紙を改めて眺め、俺は少し首を傾げた。
うーむ。
少々短くなりすぎたかもしれない。
いや、かなり短いか?
だが、余計な言葉を加えると、またおかしなことになりそうだ。
これ以上考え直していたら、本当にダル兄さんの出立に間に合わなくなる。
よし。
これでいこう。
俺は完成した手紙を大切に持ち、兄のところへ向かった。
ちょうど出立しようとしていたダル兄さんを見つけ、そっと近づく。
「ダル兄さん」
「おお、ギル」
兄がこちらを向く。
俺は周囲を少し確かめてから、用意していた手紙を差し出した。
「お願いします」
ダル兄さんは差し出された手紙に目を向け、それから俺の顔を見た。
そして、にやりと笑う。
「ああ、任せておけ」
そう言って、手紙を受け取ってくれた。
よかった。
これで何とか間に合った。
俺は思わず肩の力を抜いた。
ふう、やれやれだ。
ギリギリだったが、どうにか渡すことができたな。
あとはダル兄さんがエレオノーラ殿へ届けてくれるのを待つだけだ。
手紙も少々短くなりすぎたかもしれんが、こちらの気持ちは伝わるだろう。
情熱は分からんけど。
……まあ、気持ちが伝わればいいって言ってたしな。
うむ。
きっと大丈夫だろう。
俺はそう自分に言い聞かせながら、ダル兄さんを見送った。
◇
帝都へ戻ったダルメシアンは、とある夜会に姿を見せていた。
多くの貴族たちが言葉を交わす中、ダルメシアンはエレオノーラ・アバルディアを見つけると、そちらへ歩み寄った。
二人は短く言葉を交わした後、周囲から少し離れたところで向かい合った。
ダルメシアンは懐から一通の手紙を取り出す。
「エレオノーラ殿、これを」
差し出された手紙を見て、エレオノーラは少し不思議そうな顔をした。
「これは?」
「ギルバートからだ」
その名前を聞くと、エレオノーラはダルメシアンへ目を向けた。
そして、差し出された手紙をそっと受け取った。
封を開き、中の紙を広げる。
その視線が、書かれた文字をゆっくりと追っていった。
しばらくすると、エレオノーラの肩が小さく震え始めた。
彼女は一度、手紙から顔を上げた。
その口元がわずかに動く。
それから再び紙へ視線を落とし、最後まで読み終えると、手紙を持った手をダルメシアンの方へ向けた。
ダルメシアンが差し出された紙を覗き込む。
エレオノーラはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
「お気持ちは充分に伝わりました」
そう告げると、彼女は手紙をそっと手元へ戻した。
そして軽く会釈し、手紙を手にしたまま、その場を去っていった。
ダルメシアンはしばらくその後ろ姿を見送っていた。
先ほど見せられた手紙には、確かにこう書かれていた。
『エレオノーラ、好きだ、俺の嫁になってくれ!
ギルバート・マバール』
たったそれだけだった。
ダルメシアンは小さく苦笑した。
「まったく、あいつらしいな」
本日もありがとうございました。
次回は、明日5時となります。




