第三百四話 怪しい兄の帰還
それからも、シルディア城では特に何もない平穏な日々が続いていた。
少なくとも、俺の周りでは。
城の守備も落ち着いているし、こちらがわざわざ手を出さなければならないような問題も起きていない。こういう日々が続くのは実にありがたい。面倒事というのは、ないに越したことはないのだ。
もっとも、俺がそう思っているからといって、世の中まで大人しくしてくれるわけではない。
それを思い知らされたのは、父上がシルディア城へ帰還した時だった。
しかも、一人ではない。
ダル兄さんを伴っていたのだ。
……怪しい。
これは怪しいぞ。
父上が帰還すること自体は別におかしくない。だが、ダル兄さんまで一緒となれば話は違う。
ダル兄さんは帝都へ戻らなければならないはずだ。それなのに、わざわざ父上と一緒にシルディア城へ立ち寄ったのである。
なぜだ?
俺に会いたかったから?
いや、もちろんそういう理由なら嬉しい。俺だって久しぶりにダル兄さんに会えるのは嬉しいのだ。
だが、どうにもタイミングが怪しすぎる。
やっぱり何かあったな。
どうやら平穏だったのはシルディア城だけだったらしい。
「父上、お帰りなさい。兄上、お久しぶりです」
そんな疑惑は顔に出さず、俺は二人へ礼儀正しく挨拶した。
貴族というのは、こういう時こそ落ち着いていなければならない。何しろ俺はマバール家の三男なのだ。父上や兄上に対して失礼な態度を取るわけにはいかない。
だからこそ、背筋を伸ばして挨拶しながら、父上の顔をじっと見つめる。
「うむ、ご苦労だったな、ギルバート」
いつもの父上だ。
大きな身体に、重々しい声。こちらを見下ろす目にも、普段と変わらぬ威圧感がある。
だが、俺は騙されないぞ。
その目だ。
その目をよく見るんだ。
じっと見つめていると、父上の視線がほんのわずかに横へ動いた。
今!
今、チラッと泳いだ!
見逃さなかったぞ!
やはり何かあるな。俺の勘は間違っていなかったらしい。
父上、何を隠しているのですか?
そう問い詰めようと口を開きかけた、その時だった。
「デカくなったな! ギルバート!」
「うわっ!」
横から伸びてきた大きな手が、俺の頭をがっしりと捕まえた。
そのまま遠慮なく髪を撫で回される。
いや、撫でるというより揉みくちゃにされていると言った方が正しいかもしれない。
ちょっと待って!
今、父上の視線が怪しかったんだって!
俺は父上を見なければならないのに、ダル兄さんのゴツい手が容赦なく頭の上を動き回るものだから、まともに顔を上げることすらできない。
髪がぐちゃぐちゃになる。
「後は任すぞ」
そんな声が聞こえた。
慌てて顔を上げようとした時には、父上はもうザイン殿と一緒に歩き始めていた。
あっ!
父上!
まだ聞きたいことが!
しかし、俺の頭は相変わらずダル兄さんの手の下にある。
父上の背中が遠ざかっていくのを、俺はどうすることもできずに見送るしかなかった。
あーあー。
逃げられた。
「ダル兄さん!」
抗議の意味を込めて呼びかける。
ところが、当のダル兄さんは俺と会えたのが嬉しいのか、実に楽しそうな顔をしているではないか。
「本当にデカくなったなぁ!」
そう言うなり、今度は俺の両肩をバンバン叩き始めた。
痛い!
いや、嬉しいのは分かるけど痛いから!
そんな力で叩いたら縮んでしまうだろうが!
もっとも、ダル兄さんにしてみれば大した力ではないのかもしれない。
何しろこの人、父上に似て実にゴツいのだ。
身体は大きいし、肩幅も広い。腕なんか俺のものと並べたら笑ってしまいそうになるほど太い。
しかも顔までゴツゴツしている。
顎に蓄えた髭も実によく似合っていて、何というか、全身から男臭さが漂っているような人なのだ。
カッコいいんだけどな。
マバール家の嫡男という、ある意味では血統書付きの貴種である。
そのくせ、ひ弱さなど微塵も感じられない。むしろ野性的な迫力すらあるのだから面白い。
今のようなきちんとした格好も似合っているが、毛皮だけを身にまとっていても違和感がなさそうだ。
いや、そっちの方が似合うんじゃないか?
……さすがにそれは失礼か。
だが、久しぶりに会ってみても、ダル兄さんはやっぱりダル兄さんだった。
頭を撫で回したかと思えば、次は両肩。その次は両腕を確かめるように掴み、今度は背中まで叩いてくる。
どうやら俺がどれだけ成長したのか、身体中で確かめなければ気が済まないらしい。
いやいや、成長したのは間違いないんだから、もう少し優しく扱ってくれませんかね。
「ダル兄さん、痛いです」
とうとう我慢できなくなって抗議すると、兄は大きな口を開けて笑った。
「おお、すまん、すまん!」
バンッ!
……また肩を叩かれた。
謝るなら手も止めてくれませんかね?
しかも、その直後にダル兄さんの両腕がすっと伸びてきた。
何だ?
と思った瞬間、俺は反射的に身体を横へ躱した。
ダル兄さんの手が空を掴む。
あっぶねえ!
この人、今、俺を抱き上げようとしたな!
間違いない。
あの腕の動きはそういう動きだった。
人前で高い高いなんてやめてくれ!
俺だってもうそんな歳じゃないんだから!
こちらが身を躱したのを見て、ダル兄さんは少し残念そうに苦笑した。
もっとも、本人は普通に苦笑したつもりなのだろうが、そのゴツい顔でやられると妙な迫力がある。
さすがは父上から長年、国境最前線にあるヴォス要塞を任されていた人だ。
戦場でこんな顔を見せられたら、相手はどう思うんだろう。
俺だったらちょっと嫌だな。
それにしても、こうして並ぶと、俺たち三兄弟はずいぶん違う。
マバール家の三兄弟をそれぞれ言葉で形容するなら、どうなるだろう?
まず、ダル兄さん。
これは質実剛健だな。
余計な飾り気がなく、頑丈で、堂々としている。いかにも武門の家の嫡男という感じだ。
次にアル兄さん。
こちらは才色兼備だろうか。
見た目も整っているし、頭も切れる。ダル兄さんとは違った意味で、実に貴族らしい兄だ。
さて、最後に俺。
……なんだろう?
疾風怒濤?
一気呵成?
うーむ、どちらも悪くない。
何というか、勢いがあって実に頼もしい感じがするではないか。
いや、待てよ。
俺はそんなに無茶ばかりしているわけではないぞ。
ちゃんと考えてから行動しているし、必要だからやっているだけだ。
それなのに、周囲からは猪突猛進なんて言われていそうな気がする。
嫌だなぁ。
どうせなら一騎当千とか天下無双とか言われていないかな?
その方がずっとカッコいいじゃないか。
まあ、自分で言い始めたら少々恥ずかしいが。
「色々話を聞きたい。酒でも飲みながら話そう」
俺が三兄弟の評価について考えている間に、ダル兄さんはすっかり満足したらしい。
今度は大きな手を俺の背中へ添え、そのまま歩き出そうとする。
いや、押す力が強いって!
そんなに押さなくても自分で歩けますから!
「分かりました。俺もダル兄さんに色々聞きたいことがありますから」
そう答えると、兄は満足そうに頷いた。
実際、聞きたいことは山ほどある。
帝都の様子も気になるし、新しい皇帝の話だって聞いてみたい。
だが、何より重要なのは別のことだ。
俺の結婚について、何か話が進んでいるんじゃないか?
父上とダル兄さんの怪しい様子を見ていると、どうにもそんな気がしてならない。
まあ、焦る必要はない。
せっかく久しぶりに会えたのだ。まずは兄弟の会話を楽しむことにしよう。
俺たちは並んで廊下を進み、城の一室へと入った。
扉が閉まると、廊下を行き交う足音も遠くなった。
部屋には腰を落ち着けて話せるだけの広さがあり、俺たちは向かい合って椅子に座った。
ようやく落ち着いて話ができる。
そう思った途端、ダル兄さんがこちらを見て口を開いた。
「色々と暴れているようだな」
……ん?
いきなりそれですか?
一瞬、怒られるのかと思った。
さすがに俺も、これまでの行動について何も言われないとは思っていない。
だが、何かと事情があったのだ。
好き好んで面倒事を起こしているわけではないし、必要があったから動いただけである。
だから、怒られるにしても少しくらい事情は聞いてもらいたい。
そう考えて身構えたのだが、ダル兄さんは俺の予想に反して豪快に笑った。
「頼もしい限りだ!」
……あれ?
怒ってないの?
「そこまで暴れていません」
俺がそう答えると、ダル兄さんはますます愉快そうに笑った。
いや、本当だって。
俺は大して暴れていない。
ちゃんと理由があって暴れただけだ。
そもそも、理由もなく暴れていたらただの危険人物ではないか。
俺はそんな人間じゃないぞ。
「セバスチャンはどうだ? 元気か?」
不意に出てきた名前に、俺は少し驚いた。
セバスチャン?
ダル兄さんの口から、あのくそジジイの名前が出てくるとは思わなかった。
「セバスチャンをご存知なのですか?」
「有名だからな」
ダル兄さんは何でもないことのように答える。
まあ、考えてみれば不思議なことでもないのかもしれない。
セバスチャンは実戦経験が豊富な騎士だし、父上からも高く評価されている。ダル兄さんがその名前を知っていてもおかしくはない。
しかし、兄の話はそれだけではなかった。
「実は俺の騎士団に入るよう勧誘した」
「そうだったのですか?」
これは驚いた。
あのくそジジイ、ダル兄さんからも誘われていたのか。
いや、セバスチャンの腕を考えれば納得できる話ではある。
下級騎士とはいえ、あの男の経験と実力は本物だ。戦場では実に頼りになるし、俺自身、何度助けられたか分からない。
普段はあんな調子なのに、こういうところだけは本当に優秀なんだよなぁ。
「まあ、断られたがな。柄じゃないと」
そう言って兄は肩を揺らした。
……ああ。
いかにもあいつが言いそうなことだ。
騎士団へ入ることが嫌だったというより、自分には似合わないと思ったのかもしれない。
もっとも、俺にはセバスチャンがどう考えて断ったのかまでは分からない。
今度、機会があれば聞いてみてもいいかもしれないな。
「ところで、どうやって口説いた?」
ダル兄さんが興味深そうに身を乗り出した。
口説いた?
あのくそジジイを?
いや、やめてくれ。
気色悪い。
よりによってセバスチャンを口説くだなんて、そんなことを考えた覚えはないぞ。
だが、言われてみれば、どうやって俺の筆頭騎士になったのかという話なのだろう。
確か、あの時は……。
「お前を俺の筆頭騎士にしてやる、いや、命じる、だったかな? そう命じました」
記憶を辿りながら答える。
細かい言い回しは多少違ったかもしれないが、だいたいこんな感じだったはずだ。
別に難しい話ではない。
俺の筆頭騎士になってもらいたかったから、そう命じただけなのだ。
ところが、ダル兄さんはしばらく俺の顔を見つめたかと思うと、
「そうか、そう命じたか!」
そう言って爆笑した。
椅子の背に身体を預け、大きな肩を揺らして笑っている。
……何がそんなに面白いんだろう?
俺はごく普通のことをしたつもりなのだが。
命令というものは、命じなければ命令にならないだろう。
変に遠回しなことを言うより、はっきり命じた方が分かりやすい。
少なくとも、俺はそう思う。
「まあ、何よりだ。あの男は役に立つからな」
ようやく笑いを収めたダル兄さんが、そう言って頷いた。
「ええ、まあ、役には立ちます。少々下品で俺の品性が疑われることがありますが」
まったく困ったものである。
俺のような上品な人間と、あのくそジジイでは、そもそも品性というものが違う。
俺はいつだって礼儀正しく振る舞おうと心がけているのだ。
それなのに、セバスチャンといると、どうにもあいつの調子に巻き込まれてしまう。
仕方なく俺が合わせてやっているだけなんだけどなぁ。
ここは重要だぞ。
決して俺がセバスチャン並みに下品なわけではない。
俺があいつに合わせてやっているのだ。
「ん? そうか?」
ダル兄さんが首を傾げた。
……なぜ?
何かおかしなことでも言いましたかね?
俺は上品だろう?
少なくとも、自分ではそう思っている。
だが、ダル兄さんは不思議そうにこちらを見ているだけだった。
うーむ。
何だか納得がいかない。
もっとも、ここで俺の品性について議論しても仕方がない。そんなことより、せっかく帝都へ行ってきた兄が目の前にいるのだ。
聞くべきことは他にいくらでもある。
「それよりもダル兄さん、帝都はどんな感じです? 新しい皇帝は? 皇帝城は大きいんですか? 何か美味い料理はありましたか?」
気になっていたことを一気に尋ねると、ダル兄さんは目を丸くした。
そして、呆れたように苦笑する。
「そう一度に聞くな」
「すみません。色々と気になるものですから」
実際、帝都については話を聞くだけでも興味が湧く。
王都なら俺も知っているが、帝都となると話は別だ。
新しい皇帝のいる場所でもあるし、王国とは文化も違う。
それに、どんな美味いものがあるのかも気になるではないか。
食い物は重要だぞ。
「さすがに帝都はデカい。王都よりさらにデカいな」
「そんなにですか?」
「ああ。それに、やはり目新しいものが多い」
ダル兄さんは思い返すように少し目を細め、それからゆっくりと話し始めた。
「行き交う人々の肌の色や髪の色も、少し違って見える。それに服装だな。我らよりゆったりとした服を好むそうだ」
「ゆったりとした服ですか」
俺は頭の中で帝都の街並みを想像してみる。
王都よりさらに大きな街。
そこを、色々な髪や肌の色をした人々が、こちらとは違う服装で行き交っている。
なかなか面白そうだ。
こういう話を聞くと、もう一度くらい実際に見てみたくなる。前は半分襲撃だったからゆっくり出来なかったしな。
「まあ、あちらは正礼をする際に両膝をつくからな。それも関係しているのかもな」
「なるほど」
両膝をつくのか。
そういえば、国が違えば礼儀作法も違うものだ。
服装もそうした習慣に合わせて変わるのかもしれない。
もちろん、本当にそれが理由なのかは分からないが、ダル兄さんの話を聞いていると、見知らぬ皇帝城の様子が少しずつ頭の中に浮かんでくる。
それからも俺は、思いつくままに色々なことを尋ねた。
ダル兄さんは俺の取り留めのない質問にも嫌な顔一つせず、ときには笑いながら、ときには少し考え込みながら答えてくれた。
俺が何か尋ねるたび、兄は大きな手を動かして話してくれる。
戦場ではあんなに迫力のある人なのに、こうして俺と話している時は実に楽しそうだ。
俺も自然と笑っていた。
久しぶりに会った兄と、こうしてのんびり話をする。
考えてみれば、こんな時間もずいぶん久しぶりかもしれない。
父上の怪しい視線のことも、少しの間だけ頭から離れていた。
だが、いつまでも他愛のない話ばかりしているわけにはいかない。
俺には、最初から聞こうと思っていたことがあるのだ。
話が一段落し、ダル兄さんが笑いながら杯へ手を伸ばしたところで、俺は背筋を伸ばした。
さて。
そろそろ本題といこうか。
「ところで、俺の正妻候補は見つかりましたか?」
その瞬間だった。
先ほどまで楽しそうに響いていたダル兄さんの笑い声が、ぴたりと止まった。
兄は杯へ伸ばしていた手を止め、そのままゆっくりと俺を見る。
俺も黙ってその顔を見返した。
……やっぱりな。
どうやら、俺の勘は当たっていたらしい。
ダル兄さんはしばらく何も言わなかったが、やがて小さく息を吐き、苦笑した。
「ふう……やはり気づいていたか?」
本日の更新は、5時、12時、20時となります。
本日もよろしくお願いします。




