第二百九十九話 仕事のない守護者
翌朝、父上はマバール城へ向けて出立した。
シルディア城の門へ続く道には、まだ朝の冷たさが残っていた。陽はすでに昇っているのに、石壁の影に入ると少し肌寒い。馬が足を踏み替える音に混じって、革具の擦れる音や、車輪がゆっくり動き始める時の重い軋みが聞こえてくる。
父上の馬車は、いかにも偉い貴族が乗りそうな立派なものだった。手入れの行き届いた車体には装飾が施されているし、窓まわりも上等だ。だが、浮ついた感じはしない。太い車輪も足まわりも頑丈そうで、長い道を進むために必要な部分はきっちり作られている。
豪華だが実用的。いかにも父上の馬車だな。
俺は門のそばに立ち、馬車が護衛の騎士たちと共に動き出すのを見送った。昨夜までは父上が同じ城にいるのが当たり前だったのに、いざ離れていく姿を見ると、急にこの城が広くなるような気がする。
いや、広さは変わらないんだけどな。
俺に残されたのは、このシルディア城を守るという仕事だ。父上には、攻めるなとまで念を押された。つまり敵が来るまでは、ひたすら守っていればいい。分かりやすい命令である。
……で、具体的に何をすればいいんだ?
馬車が城を出て、その姿が見えなくなるまで眺めてから、俺は隣に立つザイン殿へ顔を向けた。
「さて、俺は何をすれば?」
ザイン殿はこちらを見ると、落ち着いた様子で軽く頭を下げた。
「いえ、ギルバート殿はこの城の守護者。細かい事はお任せください」
「そう言われましても、父上から城を任された以上、俺も手伝います」
俺だけ何もしないでいるのは、さすがに申し訳ない。城には多くの騎士や兵がいて、朝からそれぞれの仕事をしている。そんな中で俺一人だけ遊んでいたら、何のために残ったのか分からなくなるじゃないか。
だがザイン殿は、少しも困った様子を見せなかった。
「いえいえ、こちらは人手も足りておりますので」
「そうなのですか」
「ええ。どうぞ、細かい事はお気になさらず」
そう言って穏やかに微笑まれると、それ以上は押しにくい。俺が無理に仕事を奪ったところで、現場の人間を困らせるだけかもしれないしな。任せてくれと言っている相手に、いやいや俺がやると食い下がるのも変な話だ。
それなら、俺にしかできない事を……。
うーん。あるのか、そんなもの?
「では、とりあえず城を見廻ってきます」
ザイン殿にそう告げると、俺は城壁の方へ足を向けた。
守護者だもんな。見廻りは大事だよな、たぶん。
城壁の上へ出ると、朝の風が頬を撫でた。下にいる時より少し強く、石の上を吹き抜けていく。見下ろせば、さっきまで俺が立っていたあたりに人影が動き、城の中ではいつも通り仕事が続いている。
見張りに立っていた兵が俺の姿に気づき、背筋を伸ばした。こちらから近づくと、今度はさらに姿勢を正す。
「お疲れ。何か手伝う事はないか?」
「はっ! 大丈夫です!」
「そうか。何かあれば言ってくれ」
「ありがとうございます!」
返事に妙な勢いがある。別に怒りに来たわけじゃないんだが。俺が離れてからも、その兵はきっちり前を向いていた。
別の場所にも行ってみた。見張塔へ上がれば、周囲の景色がさらに広がる。風をまともに受けるので少し目を細めながら、そこにいた騎士へ同じことを尋ねた。
「問題ありません。こちらはお任せください」
「そうか。ご苦労」
……うむ。
その次の場所でも似たようなものだった。声をかければ丁寧に応じてくれるし、見張りを怠けている者も見当たらない。立つ位置を変えたり、遠くへ目を向けたり、皆それぞれにやることがあるらしい。
それで俺が近づくと、仕事の手を止めてまで応対してくれる。
もしかして、俺が来る方が邪魔なんじゃないか?
少しだけ胸に刺さるものがあったが、よく考えれば当たり前かもしれない。この城の騎士や兵たちは、俺がいない間もずっと働いていたのだ。昨日今日ここに来た俺に、手伝ってもらわなければできない仕事など、そうそうあるはずがない。
むしろ俺が口を出さなくても、きちんと城が動いている。これは喜ぶべきことだろう。守るために残った城の中が、仕事を取り合わなければならないほど混乱していたら、それこそ問題だ。
……なるほど。仕事がないのは、良いことなんだな。
そう納得してみたものの、足は止まらなかった。
何もしないまま部屋へ戻るのもなぁ。
城壁を下りながら、ふと思いついた。そうだ、厩舎があるじゃないか。
俺たちが帰ってきた時には、乗っていた馬も一緒に戻ってきている。馬が増えれば餌も水も必要だし、世話をする人間の仕事も増える。城壁の上と違って、あそこなら少しくらい手が足りないかもしれない。
ようやく良いところを思いついたぞ。
厩舎へ近づくと、藁と馬の匂いが鼻に届いた。中では馬が鼻を鳴らし、蹄が床を叩く音がする。馬の脇を行き来している者もいて、なるほど、ここは朝から忙しそうだ。
「何か手伝う事はないか?」
声をかけると、こちらを向いた者が手を止めた。
「大丈夫です。どうぞお任せください」
「いや、俺たちの馬も増えただろう。忙しくないか?」
「問題ありません」
「……そうか」
どうも、本当に困ってはいないらしい。周りを見ても、皆それぞれ動いているが、俺が入らなければ回らないようには見えない。ここでいつまでも粘れば、さっきの城壁と同じだ。
俺は礼を言って厩舎から出た。
……そうなの?
いや、まぁ、納得はできる。馬なんて普段から出入りしているんだから、俺たちが戻ったくらいで急にどうにもならなくなるわけではないのだろう。それに父上がマバール城へ出立したばかりじゃないか。護衛の騎士が乗る馬も含めれば、今朝は相当な数が城を離れたはずだ。
もしかすると、帰ってきた時より今の方が馬は少ないかもしれない。
うん。人手が足りていてもおかしくない。たぶん。
さて、ほかに忙しそうなところは……。
歩きながら考える。まず炊事場。城にいる大勢の食事を作るのだから、そりゃあ忙しいだろう。だが俺が行って何をする? 料理を手伝うにしても、一度に何人分も作る仕事の手順など分からない。慣れない俺がそこへ割り込んだら、かえって邪魔になりそうだ。
やめとこう。
なら洗濯場か。洗濯も大事な仕事だ。汚れた衣服を放っておくわけにはいかないし、人が多ければ洗うものだって増える。しかし、守護者が急に洗濯を手伝いに来ても、向こうが困るんじゃないだろうか。
そもそも俺、何のために守護者になったんだっけ?
あとは掃除か。これならやろうと思えばできるだろう。少なくとも、何もできずに突っ立っているだけにはならない。
……いや、やめよう。守護者の仕事でもなさそうだし、あんまり面白くもなさそうだ。
そこまで考えて、俺は足を止めた。
……シルディア橋に行こ。
正確には城の中じゃないが、大事な場所であることに変わりはない。城を守るなら、橋の様子を見ておくのも悪くないだろう。それに、あっちの方が面白そうだ。
決まれば早い。近くにいた者に橋へ行くことを告げ、城の外へ向かった。
馬で行こうかとも思ったが、そんなに遠いわけじゃない。歩けばいいか。さっき仕事を断られたばかりなのに、また厩舎へ顔を出すのもちょっと気まずいしな。
外へ出ると、陽射しが気持ちよかった。城壁の陰ではひんやりしていた風も、明るい道に出ればずいぶん柔らかく感じる。歩くたびに靴の下で小石が鳴り、遠くから人の話し声が聞こえてくる。
うーん、いい天気だなぁ。
仕事を探していたはずなのに、いつの間にか散歩のようになっている。まあ、見廻りだって歩かなければできないし、歩くのが気持ちいいからといって仕事をしていないことにはならないだろう。
そういうことにしておこう。
だが橋に近づくにつれて、道を行く人の数が増えてきた。荷を背負った者とすれ違い、車輪の音が近づいてくるたびに少し脇へ寄る。荷車を押す者もいれば、荷物を積んだ馬車もいる。皆が同じ速さで進めるわけではないから、速く歩く者はゆっくり進む荷車を避けるようにして先へ行く。
相変わらず人通りが多いな。
それでも、以前見た時とは少し様子が違っていた。
大きな荷物をいくつも抱えた人々が、何人かまとまって歩いている。男が荷車を押し、そのそばを女や子どもらしい者が歩く。別の一団には、年の離れた者たちが混じっていた。皆が家族なのかまでは分からないが、商人が荷を運んでいるのとは、どうも様子が違う。
……避難しているんだろうか?
戦の最中だ。住んでいた場所を離れたくなる者がいてもおかしくはない。もっとも、俺には何を理由にここを通っているのかまでは分からない。大きな荷物を持っているというだけで、勝手に決めつけるのもよくないだろう。
それにしても、橋の向こうはマバール領だ。
移住してくるつもりなら、俺としては大歓迎なんだけどな。
領地は広がったし、使える土地だってまだある。せっかく土地があっても、そこに暮らして働く人間がいなければどうしようもない。増えた土地を眺めているだけでは、腹は膨れないのだ。
もちろん、この人たちが全員移住するとも、畑を耕すとも限らない。それでも、人が増えるなら食べ物を作る人だって増えてくれるかもしれない。荷車を押している人々を眺めながら、そんなことを考えた。
領地が広がったなら、そこで生きていく人間も必要だ。畑で働く人が増えれば収穫も増えるだろうし、食べ物が増えるのは誰にとっても悪い話じゃない。
何せ魔法では食料は出せないし、貴族も騎士も腹は減るからな。
次の更新は、20時となります。




