第二百九十五話 馬の餌でした
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翌朝、俺たちはエラム城を出立した。
朝の空気はまだひんやりとしていて、城門を抜けると頬に当たる風が少し冷たかった。空には薄い雲が広がっているが、雨が降りそうな様子はない。街道の先には朝日を浴びた草地が続き、遠くには低い木立が見えていた。
俺たちの目的地はシルディア城だ。
降伏したエラム家当主、バルボアを連行し、父上たちへ引き渡す。それが今回の仕事の締めくくりになる。
バルボアは馬車の中だ。俺が魔力を封印しているうえに、周囲を騎士に囲まれているのだから、逃げ出すのは難しいだろう。
バカルカはエラム城に残った。
城を攻略したからといって、誰も管理しなくてよいわけではない。エラム家の兵や使用人もいるし、城そのものを維持しなくてはならない。エディオン家の筆頭騎士であるバカルカが残るのは当然の判断だった。
代わりに、バルボアを乗せた馬車には御者兼世話役として二人の兵が同行している。どちらも魔力を持たない平民だが、馬車の世話を任せるなら問題はないだろう。
もっとも、道中で何かあれば俺たちが対処すればいい。
俺は手綱を軽く握り直し、前方に延びる街道へ視線を向けた。
「ふう……」
自然とため息が漏れる。
別に疲れているわけじゃない。
いや、多少は疲れているかもしれんが、それよりも問題なのは別のことだ。
今朝も米が出なかった。
せっかくエラム城を攻略したというのに、結局、米を一度も食べられなかったのである。
どういうことだ。
米があると聞いたからには、少しくらい期待するじゃないか。炊いた米に肉を乗せてもいいし、汁気のある料理と一緒に食べてもいい。別に贅沢な料理を求めているわけじゃない。白い飯が一杯あれば、それだけで十分だったんだ。
なのに出てこない。
昨夜の食事にも、今朝の朝食にも。
まさか、セバスチャンの奴、適当なことを言ったんじゃないだろうな?
もしそうなら重大な問題だ。
主君に嘘をつくなど、明確な裏切り行為ではないか。これは筆頭騎士の解任も検討せねばなるまい。
いや、俺は寛大な主君だからな。
米を食べさせてくれれば許してやらんこともない。
そんなことを考えながら、隣を進むセバスチャンへちらりと視線を向けた。
当の本人は実に平然と馬を進めている。
くそっ、俺がどれほど米を楽しみにしていたかも知らずに。
……いや、仕方ないんだけど。
ちゃんと言えないもんな。
「はぁ……」
もう一度ため息を吐き、鞍の上で少し姿勢を変える。
それにしても、こいつは元気だな。
俺を乗せた馬は、朝から妙に調子がよかった。
エラム城に滞在していた間、十分に休養できたのだろう。歩き方に疲れがなく、軽く手綱を動かすだけで素直に進んでくれる。
というか、なんだか弾むように歩いてないか?
背中の動きがいつもより軽い気がする。
「馬、妙に元気だなぁ」
何気なく呟くと、少し後ろを進んでいた馬車の御者がこちらへ顔を向けた。
「餌がいいみたいですよ」
「ほう、そうなのか?」
「ええ。ここの餌は馬がよく食べるそうです」
なるほど。
馬の餌か。
それは少し興味がある。
俺の馬は普段からよく働いてくれている。肉体強化魔法を使うこともあるが、だからといって普段の世話を適当にしてよいわけではない。
餌で調子がよくなるなら、マバール城でも試してみる価値はありそうだ。
「どんな餌だ?」
「なんでも、小麦の出来損ないみたいなのを与えとるそうです」
「…………小麦の出来損ない?」
なんだそれ。
出来損ないを食わせて調子がよくなるのか?
俺が首を傾げると、御者の男は何でもないことのように続けた。
「ええ。なんでも、米とかいうらしいですね」
「…………」
…………米?
今、米って言った?
俺は笑顔で話す男の顔をじっと見つめた。
男は不思議そうにこちらを見返してくる。
小麦の出来損ない。
米。
馬の餌。
頭の中で、その三つの言葉がぐるぐると回り始めた。
おいおいおい。
ちょっと待て。
俺があれほど食いたかった米を、こいつは毎日たっぷり食っていたというのか?
ゆっくりと視線を前へ戻す。
目の前には、俺を乗せて元気よく歩く馬の後頭部があった。
……お前、米食ったの?
俺が一粒も食べられなかった米を?
しかも、なんだか妙に元気だよな、お前。
そんなに美味かったのか?
俺はしばらく馬の後頭部を眺めた。
……腹を裂いたら米が出てくるかな?
ふと、そんな物騒な考えが頭をよぎる。
いや、待て待て。
何を考えているんだ俺は。
馬の腹を裂いたところで、炊き立ての米が出てくるわけじゃないだろう。
そもそも、大事な馬をそんな理由で殺してどうする。
危ないところだった。
俺が頭の中で馬への理不尽な怒りを収めていると、御者の男が何かを見つけたらしい。
「ああ、あれですね」
「あれ?」
男が前方を指差した。
街道の脇には川が流れており、その岸辺に青々とした草が生えている。
俺はそちらへ目を凝らした。
……草?
「青いぞ?」
「ええ?」
「いや、あれが米なのか?」
「そうみたいですよ」
いやいや。
米というか、稲だろ?
稲って黄金色じゃなかったか?
少なくとも俺の知っている田圃は、収穫時期になれば黄金色に輝いていたはずだ。
目の前の草は、どう見ても青い。
というか緑色だ。
普通の雑草にしか見えないんだが。
「ほっとけば小麦みたいに色づくみたいですよ」
「ふーん……」
俺は平静を装って頷いた。
そうなのか。
まあ、考えてみれば稲だって最初から黄金色というわけじゃない。田植え直後の稲なんて青々としているし、成長する途中も緑色だったはずだ。
……あれ?
だとすると、今はまだ実が熟していないのか?
それにしても、なんだかおかしいぞ。
あれは畑なのか?
川沿いに草が生えているだけに見える。
田圃というには、あまりにも雑然としていた。
少し近づいたところで、俺はさりげなく馬を川沿いへ寄せた。
いや、正確には馬の方が勝手にそちらへ寄っていった。
お前、そんなに好きなのか。
手綱を少し引いて速度を落とし、川岸に生えている草を観察する。
「これか……」
確かに、穂のようなものがある。
よく見ると、その先には小さな粒がついていた。
だが、俺の知っている稲とはずいぶん印象が違う。
粒が小さい。
いや、まだ青いからなのかもしれないが、それにしても頼りない感じがする。
穂の形も、俺がなんとなく記憶している稲穂とは違って見えた。
そもそも、俺は稲に詳しいわけじゃない。
前世で田圃を見たことはあるし、米なんていくらでも食べた。だが、実際に稲を育てた経験などない。
田植えも稲刈りも、やったことがあっただろうか。
……ないな。
少なくとも、覚えていない。
食べる専門だったからなぁ。
「これは人は食わんのか?」
御者の男へ尋ねると、男は少し考えるように首を傾げた。
「貧しい者は食べるそうですよ。色づいてからみたいですが」
「そ、そうか……」
食えるのか。
よかった。
とりあえず、人間が食べられるものではあるらしい。
しかし、貧しい者が食べるもの、か。
小麦より劣った穀物だと思われているのだろうか。
まあ、この世界の米が俺の知っている米と同じだとは限らんからな。
見た目だって違うし、味も違うかもしれない。
それより、気になることがある。
俺はもう一度、川岸を眺めた。
草が入り混じり、土の見えている場所もあれば、背の低い植物が密集している場所もある。
水を張った田圃なんてものは見当たらない。
というか、これ、勝手に生えてるんじゃないか?
野生種ってやつか?
それとも、こういう育て方をする品種なのか?
分からん。
「人が食うのは、きちんと畑に植えるのか?」
「さあ?」
御者の男は困ったように首を傾げた。
うむ。
知らんか。
考えてみれば、この男もエディオン家の人間だ。エラム領の農作物について詳しく知らなくても不思議じゃない。
まして、あまり価値がないと思われている穀物ならなおさらだろう。
「そうか、分かった」
俺はそれ以上尋ねるのをやめ、もう一度稲らしき植物へ目を向けた。
うーん。
米。
本当に米なのか?
名前が同じだけの別物という可能性もある。
だが、穂についている粒を見ていると、なんとなく期待してしまう。
俺の知っている米は、長い時間をかけて品種改良されてきたものだったはずだ。
粒が大きく、美味しく、収穫しやすいように。
具体的にどうやったのかなんて、もちろん知らん。
そんな専門知識は持っていない。
俺が知っているのは、精米されて売られている米くらいだ。
炊飯器に入れて水を加えれば、美味しい飯になってくれる便利なやつである。
……炊飯器、懐かしいな。
いや、それは今どうでもいい。
重要なのは米だ。
この草が本当に稲なら、何とかして持ち帰りたい。
しかも馬の餌になるなら、仮に俺が食べて美味しくなかったとしても無駄にはならないだろう。
そう考えたところで、いいことを思いついた。
「なぁ、お前」
「はい?」
「バルボアを届けたら、エラム城へ戻るよな?」
「ええ、馬車を持ち帰りますので」
よし。
それなら話は早い。
「戻ったら、人が食う米を送ってくれ」
「米ですか?」
「ああ。実の方と、この小麦の出来損ないみたいなの、両方ともだ。できれば穂がついたままのものも欲しい」
男は俺の言葉を聞いて、川岸へ視線を向けた。
「これを、でございますか?」
「そうだ。馬の餌になるなら、マバールでも育ててみたい」
もちろん、俺も食うけどな。
その部分は黙っておく。
別に隠すほどのことでもないが、貴族の若様が馬の餌を食べたがっているなんて話になったら、色々と面倒そうだ。
俺はあくまでも、馬のために新しい餌を試そうとしているのである。
うむ。
実に立派な主君ではないか。
「分かりました。誰かそちらに行く者に託しておきます」
「頼んだぞ」
「はい」
男は快く引き受けてくれた。
よし!
これで米が手に入る。
いや、まだ手に入ったわけじゃないが、少なくとも手に入れるための道筋はできた。
帰ったあと、ちゃんと送ってくれるだろう。
何しろ、俺はマバール家の三男坊である。
それなりの立場はあるのだ。
こんなところで役に立つとは思わなかったが。
俺は馬を街道へ戻しながら、頭の中であれこれ考え始めた。
まずは食べてみよう。
美味かったら、そのまま栽培すればいい。
いや、栽培できるかどうかは分からんが、少なくともエラム領では育っているのだ。マバール領でも何とかなる可能性はあるだろう。
気候が違えば難しいかもしれない。
水の問題もある。
……そもそも、あれは田圃で育てるものなのか?
うーむ。
分からんことだらけだ。
まあ、農作物については農民の方が詳しいだろう。
俺が無理に全部やろうとする必要はない。
品種改良の方法なんて知らんが、育てるうちに何か分かるかもしれないし、そういうのは詳しい者に任せればいい。
不味かったとしても、馬の餌にはなる。
ならば試して損はあるまい。
そのうち、大きく実った稲穂が一面に広がるかもしれない。
風が吹けば黄金色の穂が揺れ、見渡す限りの田圃が波打つのだ。
うん。
いいじゃないか。
実にいい。
そこから収穫した米を炊いて、炊き立ての飯を腹いっぱい食う。
肉を焼いてもいいし、魚だって合うだろう。
待ち遠しいな。
牛丼や寿司も出来るだろうか?
分からんな。
余計なことを考えるのはやめよう。
まずは米だ。
米さえ手に入れば、あとは何とかなる。
多分。
小さな一歩かもしれないが、これは未来を変える大きな一歩になるかもしれん。
いずれはマバール領にも黄金色に輝く田圃が広がる。
……はずだ。
夢が広がるなぁ。
俺は上機嫌になって馬の首筋を軽く撫でた。
お前のおかげで米を見つけられたわけだからな。
先ほど腹を裂こうかと考えたことは忘れてやろう。
いや、実際には何もしていないんだけど。
そんなことを考えている間にも、一行は街道を進んでいった。
川沿いの草地が遠ざかり、やがて稲らしき植物も見えなくなった。
俺は何度か後ろを振り返ったが、もう見えない。
残念だが、ここで引き返すわけにもいかない。
バルボアを連れて帰るという仕事があるのだから。
まったく。
米を食うのも一苦労だな。
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