第二百九十一話 爆発より面倒なもの
口の中に残った泥を何度か吐き出してから、俺は改めて周囲を見回した。
……酷いな。
俺の周りだけ、さっきまでとはまるで違う場所になっている。
湿った地面には泥が飛び散り、その上に赤黒いものが点々と散っていた。草にも木の幹にもこびりついている。
泥男たちの姿は、もうどこにもない。
あれだけ俺の手足や胴体に何重にも抱きついていたというのに、まともな形で残っている奴は一人も見当たらなかった。
全員、自分で消し飛んだらしい。
……掃除が楽でいいな。
死体を一人ずつ片づける必要はなさそうだ。
いや、飛び散ったものをどうするのかは知らんけど。
そこまで俺の仕事じゃないだろう。
たぶん。
そんなことより、口の中が気持ち悪い。
舌で歯の裏を探ると、まだ微かにじゃりっとする。
うげぇ。
水が欲しい。
すぐ近くに川がある。
さっき泥男たちが潜んでいた辺りを流れている水だ。
あれで口を濯げば早いんだが……。
俺は川へ目を向けた。
流れている。
見たところ、それほど汚くもない。
迷宮から溢れてきた水が流れ込んでいるんだから、水そのものは悪くないのかもしれない。
でもなぁ。
川だぞ。
上流で誰が何をしているか分からん。
馬だっている。
人だっている。
おしっことか、うんことか混じっているかもしれない。
そう考えた瞬間、口を濯ぐ気が一気に失せた。
俺なら多少変な水を口に入れたところで、そう簡単にどうにかなるとは思えない。貴族の身体は頑丈だ。
それでも嫌なものは嫌だ。
病気になるかどうかとは別の問題だ。
仕方ない。
水が手に入るまで我慢するか。
また泥を吐き出そうとしたところで、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「若様!」
「ギルバート様!」
振り返る。
セバスチャンを先頭に、オルドたちがこちらへ駆け寄ってきていた。
さっきまできちんと距離を取っていた連中が、一斉に近づいてくる。
よしよし。
ちゃんと命令を聞いて下がっていたな。
えらいぞ。
俺がそう思っているのに、近づいてくる連中の顔は妙に硬い。
そんな顔をするなよ。
俺は普通に立ってるだろ。
「若様、身体の方は――」
セバスチャンが何か言いかける。
「大丈夫だって」
軽く手を振った。
その手から泥が飛び、セバスチャンが僅かに顔を逸らした。
……避けたな。
まぁいい。
俺はそのまま周囲を見た。
オルドも他の騎士たちも俺を見ている。
爆発した場所と俺を何度も見比べている奴までいた。
だから大丈夫だって。
そんな中、一人だけ明らかに顔色の悪い奴がいる。
「ジノ」
名前を呼ぶ。
ジノは俺の近くまで来ていたが、妙に青い顔をしていた。
……お前、さっきから顔色悪いぞ。
ああ。
そうか。
こいつは前にやられているんだったな。
泥だらけじゃなかったが、抱きつかれて、そのまま爆発された。
俺はジノへ近づく。
ジノは俺を見たまま、わずかに口を開いた。
何か言おうとしているらしい。
その前に、俺は泥だらけの手で頬を撫でてやった。
ぺたり、と泥がつく。
ジノが何とも言えない顔になった。
よし。
ついでだ。
俺は指先を滑らせ、そのままこっそりジノの口の中へ指を入れた。
「んっ……!」
ジノが身体を引く。
ふはは。
お前も味わえ。
俺だけ泥を食わされるのは不公平だろう。
俺が満足して手を引くと、ジノは口元を押さえながら、さらに微妙な顔になった。
だろ?
マズいだろ?
ようやく分かったか。
だが、ジノは文句を言わなかった。
代わりに俺の身体を上から下まで確認するように見て、それから口を開く。
「お怪我は?」
……そっちかよ。
俺は軽くジノの頭を叩いた。
「アホか。俺の防御魔法があの程度で破れる訳ないだろうが」
確かに、うるさかった。
衝撃だってあった。
一人や二人じゃない。
何人もの泥男が身体中に張りついた状態で、次々と爆発したのだ。
足元まで揺れたし、身体も何度か押された。
だが、それだけだ。
防御魔法は破られていない。
肉体強化魔法も併用していたから、衝撃そのものにも十分耐えられた。
俺は泥のついた服を軽く払おうとして、やめた。
払ったところでどうにもならん。
もう全身泥だらけだ。
「ジノ」
「はい」
「お前、前の時、防御魔法を展開し損なったな」
前にこいつが爆発を食らった時のことを思い返す。
抱きつかれ、その直後に爆発した。
あの時は怪我も酷かった。
俺が治癒魔法を使うことになったくらいだ。
ジノは少しだけ視線を落とした。
「はい。抱きつかれて、訳が分からない内に吹き飛ばされました」
やっぱりか。
俺は顎に手を当てかけ、泥だらけなのを思い出して途中で止めた。
面倒な相手だな。
爆発そのものなら、対処のしようはある。
少なくとも、起こると分かっていれば防御魔法を展開出来る。
だが、問題はそこじゃない。
こいつら、魔力を持っていない。
前に襲ってきた連中もそうだった。
そして、今回の奴らも、少なくとも騎士のような魔力反応を持った連中ではなかった。
だから厄介なんだ。
魔力を持った奴なら、感知魔法で反応を拾える。
だが、平民に紛れ込まれたら分からない。
今回みたいに全身泥だらけで草むらから出てくれば、さすがに怪しい。
前回だって、顔を隠した妙な格好で襲ってきたから警戒出来た。
だが。
街中なら?
普通の服を着ていたら?
周囲にいる平民と同じ格好で近づいてきたら?
区別がつかん。
俺は城の方へ視線を向けた。
今は戦場だから、知らない奴が近づいてくれば警戒する。
だが、城下ではそうもいかない。
商人もいる。
職人もいる。
使用人だっている。
いちいち近づいてくる平民全員を敵だと思っていたら、何も出来なくなる。
しかも。
……嫌な想像だな。
男ならまだ警戒するかもしれない。
だが、女だったら?
子どもだったら?
少なくとも、俺は警戒が緩むと思う。
小さな子どもが普通に近づいてきて、突然抱きついた瞬間に爆発する。
……最悪だな。
俺は眉間に力が入るのを感じた。
自分なら何とか出来る。
常に防御魔法を展開しておくことだって、やろうと思えば出来る。
だが、それでも面倒だ。
一日中、毎日、ずっと警戒しながら防御魔法を維持するなんて、考えただけで嫌になる。
まして普通の騎士なら、もっと難しい。
俺は先ほどの爆発を思い返した。
一発だけならどうだろう。
何発も続けて食らえば?
きちんと防御魔法を展開していれば耐えられる奴もいるだろう。
だが、ジノみたいに突然抱きつかれ、何が起きるか分からないまま爆発されたら危ない。
……重装甲の全身鎧でも着せるか?
俺は近くの騎士を見る。
戦場ならともかく、城下を歩くたびに全身鎧。
飯を食いに行くにも全身鎧。
買い物をするにも全身鎧。
……嫌だな。
暑そうだし。
何より面倒だ。
そもそも、鎧だけでどこまで防げるかも分からん。
なら、近づかれる前に止めるしかないか。
関所。
国境。
街道。
入ってくる人間そのものを管理する。
……出来るか?
今だって関所はある。
通行証を確認する場所もある。
だが、あれで全員の素性を完全に確かめられているわけじゃない。
なら、もっと厳しくする?
一種の手形を発行して、誰がどこから来たのか確認する。
出入りする奴を記録する。
怪しい奴を止める。
……いやいや。
簡単に言うな、俺。
絶対に偽造する奴が出るだろ。
平民一人一人の顔と名前を、関所の兵が全部覚えられるわけでもない。
それでも、何もしないよりはマシか?
前世でいうところの、テロリスト対策みたいなもんだな。
俺は小さく息を吐いた。
さっきまで全部上手くいっていたのに。
エラム家は降伏した。
こちらの作戦も成功した。
大きな損害も出さずに済んだ。
これで終わったと思ったのに。
最後の最後で、面倒なものを見つけてしまった。
国境管理。
検問。
手荷物検査。
身元確認。
頭の中に並べてみる。
……そんなの出来るか?
一つ関所を厳しくすれば済む話でもない。
別の道から入られたらどうする。
荷物の中に何か隠されていたら?
偽の手形を持っていたら?
領内にいる平民を使われたら?
考え始めると、次から次へと嫌なことが浮かんでくる。
俺は泥だらけの自分の身体を見下ろした。
さっきの爆発なら、もう終わった。
耳が少しうるさかった。
身体に衝撃も受けた。
口の中には泥まで入った。
それでも、爆発した瞬間に終わった。
こっちの問題は違う。
考えれば考えるほど仕事が増える。
しかも、俺一人が強ければ解決する話じゃない。
なんだよ、それ。
俺は空を仰いだ。
「なんか爆発よりこっちの方が効くな……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして、もう一度大きく息を吐いた。
「あー、めんどくさ」
本日はここまでとなります。
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次回更新は明日、5時となります。




