第二百九十話 泥だらけの刺客
エラム城へ向かう馬の足取りは、先ほどまでとは打って変わってのんびりしたものだった。
城には白旗が掲げられている。
城門は……まぁ、ちょっとばかり酷い有様だが、そこは後で何とかすればいい。少なくとも、今すぐ攻撃を受ける心配はなさそうだ。
背後からは、まだ歓声が聞こえてくる。
振り返ってみると、エディオン家の軍勢もこちらへ向かってきているらしい。
遠くて細かい様子までは分からないが、あちらも随分と賑やかそうだ。
やれやれ。
終わってみれば、ほとんど全てが上手くいったな。
エラム城から騎士たちを城外へ誘い出すことが出来た。
その騎士たちをエディオン家が上手く迎え撃ち、俺たちが後方から押し込んだ。
いや、エディオン家というより、バカルカの働きが大きかったんだろうな。
あの大男は、見た目に似合わず……いや、見た目どおりかもしれんが、なかなか見事な指揮をしてくれた。
オルドたちだって負けてはいない。
エラム家の騎士たちが城へ戻ろうとするのを妨げ、前方へ追い立ててくれた。左右へ逃げようとする敵にも、上手く対応していたように思う。
おかげで俺は、最後にまとめて攻撃するだけで済んだ。
まぁ、その最後の攻撃が少々派手になってしまったんだが。
……あれは水蒸気爆発もしたと思うんだよなぁ。
思わずそんなことを考えてしまい、俺は小さく首を振った。
もう終わったことだ。
いつまでも考えていても仕方ない。
それより、今回の一番の功労者は誰だろう。
バカルカか?
オルドたちか?
いや、違うな。
俺は前を進む男の背中を見た。
セバスチャンだ。
こいつがいなければ、そもそも奇襲が成功していたかどうかも怪しい。
俺たちは高台を降りてから、ずいぶん長い間、地形や木々に隠れながら進んできた。
あの時、俺にはほとんど敵の姿が見えていなかった。どこまで近づけばいいのかも分からず、ただセバスチャンを信じてついて行っただけだ。
だが、実際に飛び出してみれば、俺たちはエラム城と敵軍のほとんど中間にいた。
それも城寄りの、実に都合のいい場所だ。
俺が先導していたら、どうなっていただろう。
……うん。
考えない方がいいな。
たぶん、途中で痺れを切らして馬を走らせていただろうし、そうなれば早々に敵に気づかれていたかもしれん。
それだけではない。
敵を押し込んだ後、セバスチャンが合図を出したタイミングも見事だった。
あれが早すぎれば、まだ十分に押し込めていない敵に逃げられていたかもしれない。
遅すぎれば、エディオン家が離脱するのに手間取り、包囲を突破される可能性だってあった。
その辺りを、こいつはきちんと判断していた。
しかも、戦闘の最中にだ。
……やっぱり大した奴だな。
俺は改めてセバスチャンの背中を眺めた。
一番派手だったのは、間違いなく俺だろう。
それは認める。
大地を溶かしてしまったんだから、嫌でも目立つ。
だが、一番の武功を挙げたのは誰かと聞かれれば、俺は迷わずセバスチャンの名前を挙げるだろう。
この男がいたからこそ、俺たちは予定どおりに戦えたのだ。
そう考えると、何となくむずむずしてきた。
俺は少しだけ馬を進め、前を行くセバスチャンの背中へ声をかける。
「ありがとうよ」
周囲にはまだ歓声が響いている。
自分でも、ずいぶん小さな声だったと思う。
聞こえなかったなら、それでもいい。
そう思ったのだが、セバスチャンは振り返った。
こいつ、聞こえてやがった。
「なに、気色悪い事言っとるんです」
しかも、にやにや笑いながらそんなことを言ってくる。
……おい。
普通、こういう時はもう少し嬉しそうにするもんじゃないのか?
「なんでもない! なんでもな!」
思わず言い返すと、セバスチャンはますます楽しそうな顔になった。
まったく。
可愛げのないくそジジイだ。
まぁ、こいつが可愛かったら、それはそれで気色悪いけどな。
俺は苦笑しながら、再び前を向いた。
エラム城はもう随分と近い。
城壁に掲げられた白い布が、風に揺れているのがよく見えた。
あとは城へ行き、降伏した連中と話をすればいい。
……面倒だな。
まぁ、そこまで俺が全部やる必要もあるまい。
バカルカもいるし、セバスチャンだっている。
そんなことを考えていると、視界の端で何かが動いた。
ん?
川沿いの草むらだ。
背の高い草が、妙な具合に揺れている。
なんだ?
デカい魚でもいるのか?
迷宮から水が溢れているという話だし、この辺りには妙な生き物がいてもおかしくない。
もしかしたら魔物かもしれん。
そう思い、何となくそちらを眺めていた。
すると、また草が動いた。
今度は先ほどより大きい。
……魚じゃないな。
動物か?
俺が首を傾げた、その時だった。
ガバッと草むらの中から何かが立ち上がった。
いや、何かじゃない。
人だ。
全身泥だらけの男が、草の間から立ち上がっていた。
顔まで泥に汚れている。
その男がこちらを向いた。
一瞬、目が合う。
……こいつ!
見覚えがある。
いや、顔を知っているわけじゃない。
だが、あの目。
あの冷たい目つき。
どこかで見た。
そうだ。
あいつらか!
考えるより先に、俺は馬から飛び降りていた。
「全員、下がれ!」
怒鳴り声が響く。
その声が終わるより早く、周囲の草むらが次々と揺れ始めた。
泥だらけの人間が、あちこちから立ち上がってくる。
おいおい。
何人いるんだ?
どいつもこいつも酷い有様だ。
頭から足先まで泥にまみれ、背中に草をつけている奴までいる。
こいつら、まさかずっと泥の中に潜んでいたのか?
……すごいな。
気合いと根性だけは褒めてやってもいい。
「若様!」
セバスチャンの声がした。
見ると、こちらへ近づこうとしている。
「下がれ! あいつらだ、ジノに抱きつき爆発した奴らだ!」
俺は怒鳴り返した。
以前、あいつらに襲われた時の光景が頭をよぎる。
黒い布で顔を隠し、武器も持たずに襲いかかってきた男たち。
そして、ジノに抱きついて爆発した奴。
今回の連中は泥だらけだが、目つきがよく似ている。
狂気と決意が混じったような、妙に冷たい瞳だ。
何より、武器を持っていない。
俺に向かって走ってくるのに、攻撃しようとする様子もない。
代わりに、両腕を広げている。
……うん。
やっぱりそうだよな。
抱きついて爆発するつもりなんだろ?
だから、馬から降りたんだ。
こいつらの爆発に、馬まで巻き込むのはかわいそうだからな。
俺は馬を離し、泥男たちへ身体を向けた。
セバスチャンが近づき、俺の馬を下げてくれる。
ありがとよ。
……って、お前も下がれよ!
こいつ、俺の馬を心配している場合じゃないだろうに。
俺はもう一度、周囲へ視線を向けた。
騎士たちが距離を取っている。
よし。
そのまま下がっていろ。
こいつらの相手は俺がする。
防御魔法をしっかり展開し、肉体強化魔法も併用する。
前回の爆発がどの程度だったかは知っている。少なくとも、俺の防御魔法を破れるとは思えない。
問題は、周囲の騎士たちだ。
あいつらまで巻き込まれたら面倒なことになる。
そう考えていると、最初の一人が飛びついてきた。
左脚だ。
泥だらけの男が、俺の脚にしがみつく。
……うわ。
気持ち悪い。
「若様!」
後ろから声が聞こえた。
大丈夫だから、そんなに騒ぐな。
俺はその場から動かず、近づいてくる泥男たちを見た。
「どうした? 遠慮するな、全員まとめて来いよ」
せっかくだ。
一人ずつ爆発されるより、まとめて来てもらった方が手間も省ける。
俺の言葉に従ったわけではないだろうが、泥男たちは次々と飛びついてきた。
右脚に一人。
左腕にも一人。
右腕、腰、背中。
おいおい。
ずいぶん熱烈な歓迎だな。
どいつもこいつも、必死になって俺にしがみついている。
しかも全身泥だらけだから、抱きつかれるたびに服が汚れていく。
……気色悪い。
首筋にも誰かの腕が回ってきた。
重い。
いや、肉体強化魔法を使っているから重さ自体は大したことないんだが、とにかく鬱陶しい。
そんな中、正面から一人の男が飛びかかってきた。
両腕を広げ、俺の顔を目掛けて突っ込んでくる。
「それはやめろ!」
思わず右腕を振り上げた。
鈍い音とともに、男の身体が吹き飛ぶ。
ちなみに、右腕には別の泥男が抱きついたままだ。
それごと腕を振ったのだが、肉体強化魔法を使っていればこれくらいは簡単に出来る。
まったく。
いくらなんでも、泥だらけの男に正面から顔へ抱きつかれるのは嫌だぞ。
顔だけは勘弁してくれ。
……いや、顔以外だって嫌なんだけどさ。
その後も、泥男たちは次々と抱きついてきた。
手足には何人もぶら下がっている。
胴体など、最初にしがみついた男の上から、さらに別の男が抱きついていた。
おいおい。
親亀子亀じゃないんだから。
こんなに重なってどうするんだ?
俺の身体を掴めない奴まで、先に抱きついた男にしがみついている。
これでは外から俺が見えるかどうかも怪しい。
……丸い泥団子みたいになってるんじゃないか?
そう思うと少しおかしくなった。
いや、笑っている場合じゃないんだが。
しかし、こいつらもよくやるもんだな。
自分たちが爆発するつもりで、こんなに必死になって抱きついてくるんだから。
何を考えているのかは知らん。
そもそも、話が通じるのかどうかも怪しい。
俺は泥男たちを振り払うこともなく、その場でじっとしていた。
しばらくすると、ようやく新しく抱きつこうとする者がいなくなった。
……ん?
終わりか?
周囲を見ようにも、あちこちに人間がぶら下がっているせいで見通しが悪い。
どうやら満員らしい。
まぁ、これ以上抱きつく場所なんかないだろう。
「どうした? これで全員か?」
俺は胸元にしがみついている男へ尋ねた。
そいつは俺の服を掴んだまま顔を上げ、じっと睨んでくる。
なかなか強い視線だ。
だが、何も答えない。
……どうやら全員らしい。
知らんけど。
それにしても暑い。
身体中に男たちが密着しているのだから当然だろう。
しかも泥が服に染み込んできて、何とも言えない不快感がある。
早く何とかしてほしい。
「遠慮するな、とっとと爆発しろ。暑いし気持ち悪い」
そう言ってみた。
すると、胸元の男が妙な動きをした。
俺に抱きついたまま、片手を懐へ動かしている。
何だ?
何か取り出すつもりか?
見ていると、男は細長い筒のようなものを取り出した。
それを自分の身体へ向ける。
……ん?
筒から液体が出た。
男がそれを自分に被っている。
何だ、それ?
俺は思わず尋ねようとした。
「ん? なんだ? それ……」
そこまでだった。
突然、胸元で爆発が起こった。
轟音が響き、身体へ衝撃が伝わる。
おおっ!
続いて、右腕の辺りでも爆発した。
さらに腰、脚、背中。
次々と爆発が起こる。
最初の男に合わせたのか、それとも誘爆したのか。
そんなことを考える間にも、周囲で爆発が続いていた。
さすがにうるさいな、これは。
全身を包む防御魔法へ次々と衝撃が加わる。
肉体強化魔法も維持したまま、俺はその場に立ち続けた。
爆発のたびに身体が揺れ、足元にも振動が伝わってくる。
だが、防御魔法が破られる気配はない。
うむ。
やっぱり大丈夫だな。
それにしても、いつまで続くんだ?
こいつら、何人いたんだよ。
爆発の音が重なり、周囲に泥が飛び散る。
顔の近くを何かが掠めた。
続いて、口元に嫌な感触が広がった。
……ん?
ちょっと待て。
まさか。
やがて、最後の爆発が終わった。
耳の奥に音が残っているが、周囲は急に静かになった。
俺はゆっくりと口を動かした。
……じゃり。
嫌な感触がした。
「くそ! 口の中に泥が入った!」
思わず怒鳴った。
慌てて唾と一緒に泥を吐き出す。
何だよ、これ!
あれだけ顔に抱きつかれないよう注意していたのに、結局泥が入るのかよ!
俺は何度も唾を吐き、舌に残ったざらつきを何とかしようとした。
だが、なかなか取れない。
しかも、変な味までする。
「うげっ、マズい」
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